第12話 巣
地下迷宮の空気は、今日も冷たい。
湿った石の匂いが肺に入る。
足音が静かな通路に反響する。
地上よりひんやりしているはずなのに、長く歩いていると嫌な汗だけが肌に残る。
俺は地図板を確認した。
「今日はこの通路だな」
ロロが頷く。
「昨日は左。一昨日は右」
迷宮の通路は枝のように分かれている。
しかも、奥へ進むほど分岐が増える。
正直、嫌な構造だ。
だが、埋めるしかない。
「よし、行くか」
俺が歩き出そうとした、その時だった。
「待って」
クレーネが言った。
弓を持ったまま、通路の奥を見ている。
耳がぴくりと動き、全身の力がわずかに抜けた。構えるというより、狙うために静かになった感じだ。
「どうした?」
「……音」
耳を澄ませている。
「四体」
「もう分かるのか?」
「足音」
通路の奥から土色の影が飛び出した。
グラベルウルフ。
だが、俺は剣を抜かない。
クレーネが一歩前に出る。
「土矢生成Ⅰ 解放」
クレーネは土の矢を四本生成し、それを指の間に器用に挟んで弓を番えた。
いつの間に準備したのか分からない。気づいた時にはもう、弦が引き絞られていた。
弦が鳴り、矢が風を切り裂いて飛んでいく。
まだ魔物は通路の奥。
影が見えた程度の距離だ。
だが、矢は正確に目を撃ち抜いた。
魔物が転がる。
二体目が飛び出す。
矢が空中でそれを貫いた。
三体目。
四体目。
すべて数秒だった。
いや、数秒もかかっていない気がする。
放たれた矢を目で追うより先に、魔物が崩れていた。
静寂が戻る。
「……」
ロロがぽかんと口を開けている。
「まだ見えてなかったのに……」
クレーネは当然のように言った。
「音」
それだけだった。
俺は苦笑する。
「やっぱり化け物だな」
クレーネは霞のように消えていく死体を見て言った。
「魔物肉、落ちなかった。残念」
「ほんと頼もしいよ」
◇
探索は続く。
通路。
分岐。
また通路。
迷宮は同じ景色の連続だった。
石壁も、天井の高さも、湿った空気も似たり寄ったりで、意識していないと自分がどこを歩いているのか曖昧になってくる。
「また三つか……」
俺は額の汗を拭った。
ロロが地図板を見た。
「この辺り、分岐が多すぎる」
線が増えていく。
だが、全体像はまだ見えない。
地図を埋めているはずなのに、埋まるたびに迷宮の大きさだけが際立つ。
クレーネが壁に触れた。
「ここ」
「ん?」
「傷」
石壁に深い爪跡が残っている。
さらに床。
削れた跡。
何度も通った形跡。
それだけじゃない。
鼻をつくほどではないが、どこか乾いた殻の匂いのようなものが微かに混じっていた。
「魔物か?」
「巣」
クレーネは通路の奥を指した。
「奥、いる」
俺は剣を握る。
「何体ぐらいだ?」
クレーネは少し考えた。
「……多い」
その一言で十分だった。
通路を進む。
数歩で空間が開けた。
広場だ。
そこにいたのは――
「なんだあれ」
「バシリスクビートルじゃな」
ルシアが答える。
黒い甲殻が、ぬらりと鈍く光っている。
六本脚の虫型魔物。
小型犬程度の大きさのものが十体以上。
床に張り付くようにして止まっている。
そして、その奥。
「……卵。ここは巣か」
地面には、濁った白い塊が無数に転がっていた。
卵が、わずかに脈打っている。
ひとつやふたつじゃない。視界に入るだけでもぞっとする数だ。
正直、数えるのも億劫になるほどの量だった。
不意に誰かが俺の袖を掴んだ。
ロロだ。
「ロ、ロシュ様……ここ、ダメ……」
顔面は蒼白。
足がすくんで、目には涙まで浮かべている。
唇までわずかに震えていた。
そういえばロロは、視界に入れるのも無理なくらい虫が苦手だったな。
一時撤退――その考えが頭をよぎった、その瞬間だった。
甲殻が擦れる音。
魔物が一斉に、俺たちへ向かって動き出した。
「ひぃやあああああああああ!!!?」
「来るぞ!」
黒い群れが襲いかかる。
床を這う音が、まるで黒い波そのものだった。
「踏震Ⅰ、解放!!」
俺はその場で地面を強く踏み込んだ。
地面が揺れ、前方に衝撃が走る。
数体が大きく体勢を崩した。
その隙をついて剣を振る。
だが――
甲殻が刃を弾いた。
硬い音がして、手に鈍い衝撃が返ってくる。
「くそっ、硬てぇ!」
クレーネの矢が飛ぶ。
だが、これも甲殻に弾かれる。
「通らない!」
その時、ルシアが叫んだ。
「腹じゃ!」
俺は再び踏震を叩き込んだ。
衝撃波が伝わり、ひるんだ何体かの魔物に蹴りを入れる。
転がったその腹へ、剣を突き刺した。
柔らかい。
今までの手応えとまるで違う。
刃が沈み、黒い脚がびくりと跳ねた。
「今!」
飛びかかる瞬間、腹を晒したバシリスクビートル。
その隙を逃さず、クレーネの矢が放たれる。
先ほどとは違い、腹に矢が刺さった魔物は痙攣し、そのまま倒れた。
「なるほど……」
俺は息を吐いた。
「弱点さえ分かれば、やれない相手じゃないな」
そう言いながらも、楽観はできなかった。
甲殻を弾くたびに時間を食う。
弱点を晒させる手間もいる。
少数ならともかく、群れで来られると面倒どころの話じゃない。
だが、その時だった。
クレーネが言う。
「まずい」
「何が?」
彼女は通路の奥を見ている。
そして言った。
「多すぎる」
その瞬間。
奥の通路から音がした。
カサカサカサカサカサ。
甲殻が擦れる音。
耳障りで、ぞわりと皮膚を逆撫でする音だ。
黒い影が現れる。
一体。
二体。
三体。
……十。
……二十。
まだ止まらない。
通路の奥に、次の黒が見える。
さらにその奥でも、まだ何かが蠢いていた。
ロロの震えた声が絶叫を上げる。
「ひ、ひぃぃぃやぁぁあああ!?」
クレーネが言う。
「巣」
さらに音。
別の通路。
さらに別の通路。
黒い影が増えていく。
ルシアが呟いた。
「なるほどの。ここらは奴らの巣じゃったか」
俺は周囲を見た。
広場。
通路は四つ。
そして――魔物の群れ。
「……やばい数だ」
クレーネが聞く。
「逃げる?」
俺は一瞬考え、剣を握る。
視認できる数だけでも三十以上。
しかも、まだ増え続けている。
ここで踏ん張っても押し潰されるだけだ。
卵まである。つまり、まだどこから増えるかも分からない。
「当然だ。撤退するぞ!!」
ルシアが叫ぶ。
「どっちじゃ!?」
俺は通路を指した。
「来た道だ!」
魔物が一斉に動いた。
黒い群れが襲いかかる。
「走れえぇぇぇ!」
俺たちは通路へ飛び込んだ。
後ろで甲殻の擦れる音が迫る。
クレーネが振り向きざまに矢を放つ。
だが、甲殻に弾かれ、足止めにすらなっていない。
硬い上に、数が多い。最悪だ。
バシリスクビートルたちの進軍は止まらない。
音が追ってくる。
カサカサカサカサ。
迷宮の奥から。
巣の奥から。
まだまだ出てくる。
俺は歯を食いしばった。
「くそ……」
この迷宮。
思ったより――ずっと危険だ。
俺たちは全力で通路を駆け抜けた。
背後から迫る甲殻の音を聞きながら。
耳障りな音が、だんだんと近づいてくる。
逃げているのに、距離が離れている気がしない。
あの数だ。追いつかれたら終わる。
その時だった――
ロロが急に立ち止まり、バシリスクビートルの群れと向き合った。
「ば、ばか!? 立ち止まるな――!」
そう叫ぼうとして、俺は言葉を飲み込んだ。
ロロの顔を見た瞬間、背筋に寒気が走ったからだ。
俺は、この顔を知っている。
幼い頃。
ゴブリンの群れに襲われた時、ロロが奴らを撲殺した――あの時の顔だ。
怒り。
いや、違う。
もっと原始的で、もっと危険な何か。
「……」
ロロの肩が震えている。
怯えているんじゃない。
嫌悪と恐怖が、そのまま怒りに変わっていく震えだ。
そして、低い声で呟いた。
「……私の前で」
バシリスクビートルの群れが迫る。
甲殻の擦れる音が迷宮に響く。
ロロはゆっくり顔を上げた。
その目は、完全に据わっていた。
次の瞬間――
「私の目の前で、その醜い姿を晒すんじゃねぇぇぇ!!」
ロロの怒号が迷宮に轟いた。




