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第2話 昼・歩いて三十分の世界

朝食を終えて、そろそろ外に出なきゃと思った。でも正直、めっちゃ怖い。だって午前中まで固く閉ざされてたドアが、いつの間にか開いてるんだもん。誰が開けたの?いつ?音もしなかったのに。


誰かが、私を見てる。


「……考えるのやめとこ。余計怖くなるだけだし」


深呼吸して、ドアノブに手をかける。今度はするりと回った。


ひんやりとしたコンクリートの廊下を抜けると、むわっと生温い空気が押し寄せてきた。


「うげぇ」


階段を下りる自分の足音だけが、やたら大きく響いて恥ずかしい。途中で朽ちた電信柱の残骸につまずいて、危うく転びそうになる。


「わっ!危ない!」


心臓がバクバクする。落ち着け、私。外に出た瞬間——


「あっつ!なにこれ、湿度エグすぎ!」


真夏の太陽が容赦なく肌を焼く。濃い潮の香りと、焼けたコンクリートの匂いでむせそう。そして何より、この静けさがヤバい。


音がしない、んじゃない。音を、ぜんぶ吸い取られてる感じ。五千人が暮らした島だって資料は言うけど、その五千人ぶんの声が、いっぺんに消えた後の、その分だけ濃い静けさ。耳が、ない音を探して、きぃん、と鳴る。


東京じゃ考えられない。


電車の音も、車のクラクションも、コンビニの自動ドアの音も、何もない。


足元を見て、ぎょっとした。玄関先の地面に、黒いタイルみたいなパネルが敷き詰められてる。隅に小さく『歩行可』のステッカー。


「踏んでいい床……?——あ、これ太陽光パネルだ!床が発電してる!ハイテク!でもなんで!?」


聞こえるのは風と波と、自分の心臓の音だけ。


ドクドク、ドクドク。


この島で唯一動いてる心臓が、私の胸の中で叫んでる。


「静かすぎて逆に怖いんですけど……」


誰もいない。本当に、誰も。


ミカだったら、こんな状況でも「ユイ、大丈夫?」って声かけてくれるのに。


今日の指令は『島内踏査』。撮影はしなくていいらしい。


「踏査?偵察しろってこと?——言われなくてもするけど!?逃げ道、探すけど!?」


運営の指示だからやるんじゃない。私の意志でやるの。そこ重要。


まずは海沿いだ。船。船があれば帰れる。ボートでも、イカダでも、浮き輪でもいい。


堤防沿いに東へ歩く。すぐに、海に突き出した錆びた構造物が見えてきた。鉄骨が昆虫の足みたいに絡み合った、桟橋らしきもの。


「船着場!船は——」


ない。一隻も。ロープの切れ端すら、ない。


「ですよねー!」


知ってた。知ってたけど叫びたかった。スマホを出す。圏外。タクシーアプリも、配車アプリも、世界のすべてが圏外。


「徒歩のルート検索すらできない島って何!?」


気を取り直して、南へ。崩れた建物の谷間を抜けていく。どの建物も、窓が黒い口を開けてこっちを見てる。怖い。怖いから、早足になる。


島の南側に出ると、ひときわ古そうな、黒くて四角い巨大なアパートが見えた。壁一面が歴戦の傷だらけで、それでもどっしり建ってる。


「何あれ……強そう……」


ラスボスの風格。関わらないでおこう。今日のところは。


南端には、ひび割れたプールの跡。水色のペンキの剥がれた25メートルプール。子どもの歓声の幻聴が聞こえそうで、聞こえないのが、寂しい。


それから私は、島で一番高そうな場所を目指した。灯台の建つ、岩山の上。高いところから見れば、何か分かるかもしれない。


「はあ……はあ……何この階段……無限……?」


汗だくで登り切って、顔を上げた瞬間——


「————陸だ!!」


見えた。海の向こうに、緑の山並み。家らしき白い点々。陸地。文明。人類。


「近い!めっちゃ近いじゃん!あれ何キロ?4キロ?5キロ?泳げ——」


足元の海を見て、言葉が止まった。


濃紺の海面に、白い筋が何本も走ってる。流れてる。目で見て分かるくらい、海が、流れてる。岩に当たって砕ける波の音が、ここまで響いてくる。


「……無理だ」


学校のプールで25メートル泳ぐのに必死な私が、あの海を4キロ。無理。物理的に、無理。


陸は見えるのに、届かない。それって、見えないより、ずっと残酷じゃない?


帰り道、島の中央で、崩れかけた小さな祠を見つけた。鳥居の残骸。神社の跡だ。


手を合わせる。


「帰れますように。……あと、できれば無事に」


北へ戻る道で、その建物の前を通った。


九階建ての、巨大な要塞みたいなアパート。見上げると、首が痛くなる高さ。数えきれない窓が、ぜんぶ空っぽで、ぜんぶこっちを見下ろしてる。


「……でっか……」


昼間なのに、建物の足元だけ、空気が冷たい気がした。


「これ、絶対、夜に見ちゃいけないやつだ」


足早に通り過ぎる。グラウンドに出ると、囲いの壁に、大きなモザイクタイルの絵が二面、残っているのに気づいた。色とりどりのタイル。この島で、ここだけ色が死んでない。誰が作ったんだろう。


わが家(仮)の72号棟が見えた時、ちょっとだけ、ほっとしてしまった自分が悔しい。


スマホの万歩計を見る。


「……一周、30分」


私の世界は、歩いて30分になった。

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