第1話 朝・目覚めと絶望のメニュー
意識が浮上する。
静寂。あまりにも深い静寂が、耳を圧迫している。いや——遠くで、何かが規則的に鳴っている。ざあん、ざあん。低くて、大きくて、果てのない音。
重い。何もかもが重い。瞼、体、頭。
「ん……なにこれ……」
最初に気づいたのは、匂いだった。
木の匂い。新しい木の、甘くて少し青臭い匂い。ホームセンターの木材コーナーみたいな。おじいちゃんちの古い柱とは違う、削りたての、生まれたばかりの木の香り。
——うちの匂いじゃない。
重い瞼を必死にこじ開けると、視界に飛び込んできたのは、見知らぬ天井だった。
「……!」
心臓が跳ねる。
白木の梁が等間隔に走る、明るい色の天井。継ぎ目の金具がきらりと光って、隅には細いライン照明が淡く灯っている。新築の、モデルハウスみたいな天井。
「私の部屋じゃない……!」
ガバッと起き上がる。瞬間、全身の血が逆流して、ぐらりと世界が揺れた。
いつも見慣れたアイドルのポスターも、友達とお揃いで買ったふわふわのぬいぐるみも、どこにもない。あるのは、几帳面にビスの頭が並んだ合板の壁。木の床。木の匂い。何もかもが新品で、何もかもが知らないものだった。
「ちょっとまって、どこここ!?」
慌てて立ち上がろうとして、バランスを崩してベッドから転げ落ちた。
「痛っ!」
床まで木だ。打ち付けたお尻をさすりながら、変なところで感心してしまう。じゃなくて。
必死で、昨日の記憶の糸をたぐる。
えーっと、確か昨日は……ミカとコンビニに寄って……そうだ、期間限定のチョコミントアイス。ミント感が強めでマジ神だって二人で盛り上がって——
そういえば、その帰り道に、ミカが言ったんだ。「ユイは将来どうするの?」って。私は「べつに、なんも」って答えた。いつも通り。
だって、ない。将来の夢も、これって特技も、本気になれる何かも。部活だって幽霊部員だし、勉強も中の下。ミカは絵が上手くて美大目指してる。私は——ただ、隣でリアクションしてるだけ。「すごいね」「やばいね」って。
空っぽなんだよね、私。自分でも、わりと知ってる。
それから?
「思い出せない……は?」
思考がそこで、ぷつりと途切れている。映画のフィルムが焼き切れたみたいに。
背筋に、冷蔵庫の氷を直接当てられたような冷たい汗が流れた。緊張と不安がせり上がってきて、無意識に右手の指が左耳の後ろをかいていた。幼い頃、お祖母様の不思議な話を聞くたびに出た、私の癖。
『ユイ。視えるもんを、こわがらんでええ。こわいのは、視えとるのに、見んふりすることや』
お祖母様の声が、耳の奥で蘇る。死んだお祖母様は、不思議な人だった。古いものや、誰もいない場所に向かって、よく独りごとを言っていた。そして、口癖みたいに、こう言うのだ。——『古いもんには、ぜんぶ、誰かの "名残" が宿っとる』。
子どもの頃は、ただの怖い話だと思ってた。今は、ちょっと違う。私にも、受け継がれてしまったから。あの、厄介な "視える" 体質が。
「とりあえずスマホ!」
私の世界との唯一の繋がり!夏用の制服のポケットを探ると、ひやりと冷たい、慣れ親しんだ感触があった。
「あった!」
神様、ありがとう。祈るような気持ちで画面をつける。
目に飛び込んできたのは、絶望的な二文字だった。
『圏外』
「は?」
窓。窓だ。外を見れば何か分かる。
部屋の奥に一枚だけある大きな窓に飛びついて、カーテンを引き開けて——私は、固まった。
最初に見えたのは、空き地だった。雑草とひび割れた地面の、だだっ広いグラウンドみたいな空間。そこまではいい。
その向こうで、都市が死んでいた。
灰色の、巨大な建物の群れ。窓という窓は黒く落ち窪んで、壁は剥がれ、折れた鉄骨が骨みたいに突き出してる。左手にはひときわ大きな、要塞みたいな建物が朝の光を背負って黒くそびえていた。何階建て?八?九?数えきれないほど並んだ窓が、ぜんぶ、空っぽだった。
人の気配が、ゼロ。
「……なに、これ」
声が、かすれた。
反射的に窓を開けようとして——開かなかった。真新しいサッシの内側に、真新しい鉄格子が、几帳面に溶接されている。触れると、ひんやり冷たくて、絶望的に硬い。
「新品の……檻」
「誰かー!助けてー!」
私の声は、ガラスと格子に跳ね返されて、新築の木の壁に、むなしく吸い込まれた。
振り返る。私のいる部屋は、新築の木の匂いがする。窓の外は、世界が終わってる。
ガラス一枚。たった一枚のガラスの内側だけが、新品だった。
——怖い。この部屋、綺麗すぎて怖い。
パニックになりそうな頭を必死に押さえつけ、もう一度、部屋の中を冷静に観察する。
狭いユニットバス。電気ポットと小さな流し台だけの簡易キッチン。
ユニットバスのドアの横に、ラミネート加工された説明書が貼ってあった。
『循環式トイレ 取扱説明』
『初期投入洗浄水400Lにより、約2,500回のご利用が可能です』
「に、二千五百回……」
スマホの電卓は圏外でも使える。仮にひと月いるとして、30日で割ると——
「1日83回!?どんな想定!?私の膀胱に何を期待してるの!?」
そして、部屋の隅に不釣り合いなほどハイスペックな作業机と、体にフィットする黒いゲーミングチェア。
なんでこんな場所に?
机の上には、黒くてゴツいプロ仕様っぽいカメラが3台。『SONY α7R V』って書いてある。写真部でもないし、機械とか全然わかんないんだけど。
それに、プロペラのついた灰色の機械が2つ。……ドローンだ。
そして、青く光るPC。
恐る恐るゲーミングチェアに腰を下ろすと、その座り心地の良さに少しだけ現実逃避してしまいそうになる。
モニターに、無機質な文字が浮かび上がっていた。
『起動してください』
震える指でマウスをクリックすると、画面が切り替わる。
『ようこそ、No.6。端島(通称:軍艦島)へ』
「軍艦島……No.6って何? 私……6番目?」
番号で管理って、何。私、囚人なの!?
ていうか——六番目。
その言葉が、喉に小骨みたいに引っかかった。私が六番なら、一番から五番までが、いたってことだ。私の前に、五人。この、同じ部屋に。
その人たちは、どこに行ったんだろう。ちゃんと、帰れたんだろうか。
妙に丁寧な歓迎メッセージが、逆に不気味だ。私がここに来ることを最初から予定していたみたいに。——ううん。私みたいなのを、もう何人も、ここに座らせてきたみたいに。
軍艦島……聞いたことある。社会の授業で習った。世界遺産になった、廃墟の島。長崎の沖合にある、かつて炭鉱で栄えた場所。
って、なんで私がそんなところに!?
画面が自動的にスクロールして、次々と情報が表示される。
『端島——通称「軍艦島」。
長崎県の沖合約4kmに浮かぶ、周囲わずか1.2kmの小さな島』
小さな島。
『明治23年、三菱社が買収し、本格的な海底炭鉱として採掘開始』
『最盛期の昭和30年代には、世界最高の人口密度——東京の約9倍——5,300人近くが暮らした』
「東京の9倍!?こんな小さい島に!?」
息を呑む。
『日本最古の鉄筋コンクリート造アパート、国内初の海底水道、国内初の屋上庭園……数々の「日本初」が詰まった、超近未来都市』
そして——
『昭和49年、閉山。全島民が一斉退去し、一瞬にして無人島に』
画面に映し出される、操業時のセピア色の写真。
高層アパートがひしめき、路地に人があふれ、笑顔の子供たちが走り回っている。活気に満ちた、確かにここで人々が生きていた証。
でも、その写真が切り替わって——
同じ場所の、現在の写真。
廃墟。静寂。誰もいない。
ゾクッと背筋が凍った。
「50年前まで、5,000人以上が住んでた……それが今は……」
画面が再び切り替わる。
『あなたは本日より30日間、この島に滞在していただきます』
『解放条件:この島の全建造物を、それなりにフォトグラメトリでデジタル化すること』
「ふぉと……ぐら……めとり?」
なにそれ。新しい加工アプリ?インスタの新しいフィルターか何か?「映え」ってこと?廃墟をエモく撮れってこと!?
昨日までの私なら、絶対に知る必要のなかった言葉。それが今、私の生き延びる鍵になってる。人生って、こんなに急に変わるものなんだ。
『期限は30日。頑張ってください』
その文字と共に、画面の右上に、赤いデジタル数字が冷たく時を刻み始めた。
【残り日数:29日 23時間 52分】
「え」
数字が減った。
【残り日数:29日 23時間 51分】
「え、ガチじゃん!ちょっとまって!フォトグラメトリってなに!?それなりってなに!?アバウトすぎでしょ!」
画面に向かって叫ぶ。返事なし。
デスクトップには、『フォトグラメトリ入門』といったPDFファイルと並んで、『軍艦島フォトグラメトリ撮影順リスト』『軍艦島解説資料』というファイルがあった。
そして、デスクトップの隅、ネットワークのアイコンに、小さな×印がついてるのに気づいた。
「×印……?回線はあるのに、閉じてるってこと?なにそれ、焦らし?」
「PDFかよ……動画で説明してよ、令和だよ!?」
わけがわからないまま、『撮影順リスト』を開く。
【Day1:島内踏査(撮影機材は不要です)】
「踏査……? 下見しろってこと? ご丁寧に『機材は不要です』って……私が初日に働くと思ってないでしょ、この運営」
とにかく、お腹が空いた。緊張と混乱で、エネルギーを使い果たしたみたい。
壁に埋め込まれた、SF映画みたいなタッチパネルに気づき、触れてみる。
『本日の食事メニュー』
【朝食】
トーストセット(500円)
和食セット(600円)
カップ麺(200円)
「え、選べるの?監禁生活なのに妙に親切……」
下には『月額予算:45,000円』『残高:45,000円』と表示されている。
「予算制なの!?しかも月額って……本気で30日間いさせる気じゃん!」
1日平均1,500円か……。高校生のお小遣いよりは多いけど、3食賄うには計画性が必要そうだ。コンビニで新作スイーツとか買い漁ってたら、一瞬で溶ける金額じゃん。
とりあえず少しでも安いトーストセットを注文すると、ウィーン、という小さなモーター音と共に壁の一部がスライドし、温かい食事が乗ったトレーが出てきた。
「すごい……けど、気味が悪い……ハイテクすぎて逆に怖い!」
焼きたてのトーストの香ばしい匂いが、この非現実的な状況とのギャップを際立たせる。こんな状況なのに、バターがじゅわっと溶けていくトーストはちゃんと美味しいのが、なんだか腹立たしい。
トーストをかじりながら、PCで『軍艦島解説資料』を開く。膨大な文字と、セピア色の古い写真。その中から「ちどり荘」の項目を探し出した。
『ちどり荘 築年不詳
使用目的:教員住宅
構造:RC造2階建て
戸数:6戸
間取:2DK(4.5畳+3畳+ダイニング+内便所)』
「なになに……島の北端に建つ、小学校の先生のためのアパート……2DKだけどメゾネットタイプで、かなり狭い……?」
読み進めるうちに、私は少しだけ親近感を覚えた。
2階建ての鉄筋コンクリート造で、間取りは4.5畳と3畳の部屋にダイニングキッチン。
「うわ、私の部屋より狭いかも。家族で住むのは大変だったろうな……」
でも、と、私の目は一つの記述に釘付けになった。
『窓が北側を向き、堤防越しに中ノ島や高島が見える眺望は抜群で、北端に建つこの建物の特権だったに違いない』
狭くても、不自由でも、そこには特別な景色があったんだ。
それに、閉山時に番号がついていなかった唯一の住居棟、っていうのも、なんだか特別感があっていい。忘れられたアパート、みたいな。
「ちょっとだけ、見てみたくなったかも」
ただの建物じゃない。
先生たちが、家族と、どんな景色を見て、どんな毎日を送っていたんだろう。少しだけ、知りたくなった。
私も今、わけのわからない場所に閉じ込められてる。でも、ちどり荘の先生たちは、この小さな島で、家族と、子供たちと、確かに生きていたんだ。
世界最高の人口密度。5,300人が暮らした島。
それが今は——私一人。
5,300人の賑わいの記憶と、たった一人の私。この対比が、胸を締め付ける。
でも、記憶は残ってる。建物に、路地に、この島のすべてに。
「よし」
小さく呟いて、立ち上がる。
怖い。分からないことだらけ。でも、立ち止まってたら、何も変わらない。
震える手で、カメラを手に取った。
今日から私は、記憶の狩人だ。




