第17話 夜・黙り込む瞬間とボトル子
部屋に戻ったら、もう真っ暗。窓の外は紺色の空。
「疲れた……今日は精神的にきつかった……」
脚が震えてる。筋肉が、限界を訴えてる。
炭鉱施設の静けさ。巨大な機械の残骸。誰もいない空間。命を繋いでいた場所が、今は何もない。
さっきまで、ここには、ゴォォォという地鳴りみたいな音と、男たちの怒鳴り声と、汗の匂いが満ちていた——気がする。視えたんだから、あった。なのに今は、錆が陽に灼ける、かすかな匂いだけ。にぎやかだった場所の沈黙は、もともと静かな場所より、ずっと、重い。
「なんか、寂しかった……」
シャワーを浴びる。
「あー……でも鉄の匂いが取れない気がする……」
どんなにゴシゴシ洗っても、鉄の匂いが体に染み付いた感じ。石炭の粉も。爪の間が真っ黒。
「炭鉱で働いてた人、毎日これだったんだ……しかも共同浴場は海水だったって……しょっぱいお風呂……」
「痛っ!また!なんで毎日!もう日課!ルーティンワーク!」
でももう諦めた。これが私の日常。
シャワーから出て、タオルで髪を拭きながら、タッチパネルで夕食注文。今日は自分へのご褒美に寿司。
画面を見た瞬間、視線が止まる。
メニューが、増えてる。
しかも、高カロリー・高タンパク質のメニューが並んでる。今日の疲労を知ってるみたいに。
「やっぱりお寿司!このトロ、口でとろける~!最高!」
一貫ずつ味わう。でも、なんだか味が薄く感じる。味覚がおかしくなった?
「美味しいんだけど……なんか……」
箸を置く。
椅子に、ゆっくり沈み込む。
「寂しい」
急に込み上げてくる感情。胸がギュッとなる。
「誰かと食べたい……」
ミカと一緒に回転寿司行った時のこと思い出す。ミカ、いつもサーモン5皿食べてた。「ユイはマグロ派?私はサーモン派!」とか言って。笑いながら食べた。美味しかった。楽しかった。
今は一人。誰とも話せない。誰とも笑えない。
残高34,850円。数字は減ってる。でも全然嬉しくない。
食事を終えて、PCにデータ取り込んで、記憶の紡績開始。
「今日は貯炭場、竪坑跡、捲座、ドルシックナー、換気施設……」
処理が終わって画面を見た瞬間――
「うわあああ!すごい!」
超精密な炭鉱施設の3Dモデル。
「ベルトコンベアの支柱!細部まで!」
「第二竪坑の捲座跡!鉄骨の一本一本!」
「第四竪坑の捲座!煉瓦の質感!」
「換気施設の重厚感!」
マウスで視点を動かすと、本当にあの場所にいるみたい。風が吹いてきそう。鉄の匂いがしてきそう。
そして、ドルシックナー。
「目玉だ……本当に目玉みたい……見つめられてる……」
放射状の仕切りが完璧に再現されてる。空から見た角度も、地上から見た角度も、全部。
「芸術作品みたい……いや、これは歴史的遺産だ……」
でも、そのリアルさが逆に寂しい。
「とんでもないものができた。誰かに見せたい……」
「これが日本の近代化を支えた場所……教科書に載せたいレベル……論文書けるレベル……」
誰かに「すごいね」って言ってほしい。でも、ここには誰もいない。
「ミカに見せたい……LINEしたい……インスタに上げたい……『#軍艦島 #フォトグラメトリ #3Dモデル #すごくない?』って……」
スマホを手に取る。画面をつける。
『圏外』
「あー……」
急に寂しさが込み上げてくる。胸がギュッと締め付けられる。目頭が熱くなる。
PCの電源を落として、部屋の隅で体育座り。青いシャツのフードを深く被る。膝を抱える。
天井の監視カメラの赤いランプを、無言で見つめる。
「……」
誰か見てるのかな。見てるなら、話しかけてよ。「頑張ってるね」って言ってよ。
「……」
返事はない。当たり前だけど。このランプは、ただの機械。
監視カメラの赤いランプ。目みたい。ドルシックナーの目と同じ。
見つめてくる。何も言わずに。
どれくらい経っただろう。10分?30分?分からない。
その時。
部屋の空調音が、突然止まった。
ヴーーーン、という音が、消える。
静寂。
完全な静寂。
世界の音が、全て消えた。
息を止める。
心臓の音だけが聞こえる。ドクン、ドクン。
喉が渇く。緊張で。一拍。二拍。三拍。
そして――
ヴーーーン。空調が、再開される。でも、少し違う。音が、少し濁ってる。
ヴーーー…ン。ヴーーー…ン。
さっきまでと違う機械が動いてるみたい。
気づきたくない。
この違和感に、気づきたくない。
ふと、机の隅の空のペットボトルが目に入る。さっき飲んだ麦茶のペットボトル。転がってる。
ふらりと立ち上がって、ペットボトルを手に取る。机の引き出しを開けて、油性ペンを探す。
「あった」
ペンのキャップを外して、ペットボトルに顔を描く。
まず、丸い目。点。左右に二つ。
次に、笑った口。へにょっと曲がった線。
「……」
もっと描き足す。髪の毛。長い髪。サラサラの髪。リボンも。大きなリボン。
「君は……ボトル田ボトル子……」
完成したボトル子を、じっと見つめる。ボトル子がにっこり笑ってる。無邪気に笑ってる。
「……変なことしてる。私、おかしくなってる?頭イカれた?」
でも、やめられない。やめたくない。
「ペットボトルも元は石油……地下資源……炭鉱の仲間?まあ、違うか。でも地下資源仲間ってことで……」
ボトル子を机の上に置く。にっこり笑った顔が、こっちを見てる。
「今日から私の友達……いいよね?」
「見て、ボトル子!これ私が作ったんだよ!」
完成した3Dモデルをボトル子に見せる。画面に顔を近づけて。
「第二竪坑の捲座!636mの深さの入り口!」
「第四竪坑の捲座!煉瓦、見て見て!」
「ドルシックナー!目玉みたいでしょ!」
ボトル子は笑ってる。ずっと笑ってる。
「炭鉱の人たちは『兄弟』って呼び合ってたんだって……資料に書いてあった……」
「危険な仕事だから、絆が強かったんだ……信頼し合わないと、生きて帰れなかったから……」
「いいなぁ、仲間……絆……」
「私にはボトル子がいるけどね!」
少しだけ、心が軽くなった。ボトル子が笑ってるだけで、なんだか安心する。
「ボトル子、明日も一緒にいてね……お願い……」
解説資料を開いて、読み返す。ボトル子を横に置いて。一緒に勉強してるみたいに。
「ねえボトル子、聞いて。炭鉱の人たちってすごいんだよ」
「地下1000mまで降りて、真っ暗な中で石炭を掘ってたんだ」
「暑くて、危なくて……ガス爆発とか、落盤とか……いつ死んでもおかしくない場所……」
「それでも、家族のために働いてた。日本のために働いてた。誇りを持って働いてたんだって」
「ねえボトル子……私には絶対できないよ、こんなの……」
ボトル子に話しかけながら読む。一人じゃない気がする。
「ガス爆発……一瞬で何人も亡くなる……」
「落盤……生き埋め……」
「でも、それでも、日本のエネルギーを支えてたんだ」
「ボトル子……本当に、頭が下がるよ……」
完成した3Dモデルをもう一度見る。貯炭場、竪坑跡、捲座、ドルシックナー、換気施設。全部。
「時間の化石だ……」
「炭鉱で働いた人たちの記憶が、ここに残ってる……」
「私が、残した……」
ボトル子に触れる。プラスチックの、ひんやりとした感触。
「ボトル子も見てくれてる?」
「見てくれてるよね……ありがとう……」
画面の右上。
進捗率のグラフ。
冷たい数字が、光ってる。
【残り日数:25日】
赤い数字。カウントダウン。
「でも、今日からは一人じゃない……よね、ボトル子?」
ボトル子を抱きしめる。ペットボトルの、硬くて冷たい感触。
「温かい……わけないか。ペットボトルだもん。プラスチックだもん」
自分で言って、笑えてきた。
「私、ペットボトル抱きしめてる……完全に変な人……病院案件……」
でも、それでいい。変な人でいい。おかしくてもいい。
「おやすみ、ボトル子」
ベッドに入る。ボトル子を枕元に置く。にっこり笑った顔が、こっちを見てる。
「明日も頑張ろうね……一緒に……」
暗闇の中、ボトル子の笑顔がぼんやり見える。月明かりに照らされて、白く光ってる。
少しだけ、心が温かい。
一人じゃない。ボトル子がいる。
そう思えるだけで、ちょっと楽になった。
静寂が、部屋を包む。長い静寂。外から、風の音。
でも、その音も、少し違う気がする。
目を閉じる。
明日も、頑張ろう。
寝る前に、明日の準備で機材を並べ直して、手が止まった。
「……あれ?」
三脚。置いた場所と向きが、なんか違う。
昨日の夜、窓側に脚を向けて畳んだはず。今は、ドアの方を向いてる。
「……私が動かした、よね?疲れてるし。うん」
疲れてる。それで決定。深く考えない。考えないったら、考えない。




