第15話 朝・炭鉱の心臓部とSDカードの悲劇
五日目の朝。重い瞼をこじ開けて、LAUNDRYボックスに手を伸ばす。
頭がぼんやりしてる。思考が鈍い。昨夜の疲れが、まだ抜けてない。昨日までの疲労が、身体に染み込んでる。
今日はどんな拷問衣装が待ってるのやら。でも、蓋を開けた瞬間、意外と……
「お!普通だ!めっちゃ普通!」
青いシャツとベージュのスカート。昨日の黒ジャケの反省?それとも単なる気まぐれ?どっちにしろ、今日は普通の服装。神様、ありがとう。
袖を通すと、生地が柔らかくて、ふわっと軽い。腕を上げても、しゃがんでも、全然窮屈じゃない。動きやすい。これなら一日中歩き回っても大丈夫そう。
「うん、いい感じ!やっと人間らしい服装!」
タッチパネルをポチッと押して、クロワッサン注文。ウィーン、という小さなモーター音と共に壁の一部がスライドし、焼きたてのクロワッサンが乗ったトレーが出てきた。
バターの香ばしい匂いが、部屋に広がる。温かい匂い。幸せな匂い。
でも、朝食のタイミングが完璧すぎる。私が起きたタイミングで、ちょうど焼き上がってる。いつも。毎日。
「2回目のクロワッサン!やっぱり最高~!」
サクサクの生地から、じゅわっとバターが溶け出す。
「パン屋さんの前通る時の匂いって、なんであんなに幸せな気持ちになるんだろ」
この温かさと、部屋の冷たさ。その差が、妙に心を揺さぶる。
クロワッサンをかじりながら、PCを開いて今日の撮影対象を確認する。画面に浮かび上がった文字を見て、思わず息を呑んだ。
【Day5:炭鉱関連施設(貯炭場のベルトコンベア跡・第二竪坑捲座跡・第四竪坑跡・ドルシックナー・換気施設)】
「うわ、ついに来た……炭鉱施設」
心臓がドキドキする。今までは「生活」の場所を撮ってきた。でも今日は違う。これは「労働」の場所。人々が命を削って働いた、この島の心臓部。
島の心臓。今日は、島の心臓に踏み込む。
急いで『軍艦島解説資料』を開く。膨大な文字と、セピア色の古い写真。目を皿のようにして読み進める。
「竪坑……地底への垂直の穴……」
クロワッサンを飲み込んで、画面に顔を近づける。
「最深部は1000m以上!?ちょっと待って、それって……」
指折り計算する。
「スカイツリーが634m……だから、スカイツリー1.5個分!?それを逆さまに!地面に突き刺したら!?」
「怖すぎでしょ!!」
想像しただけで、足がすくむ。真っ暗な地底。1000m先。そこまで、毎日、何百人もの人が降りていった。
資料をさらに読む。目が釘付けになる。
「第二竪坑は636m、第四竪坑は370m……」
「ケージって書いてある。エレベーターみたいなもの?でも地下へ向かうエレベーターって……」
「『命の道』……」
その言葉が、ずしりと胸に響く。
「毎朝、ケージに乗って地下へ降りていく……真っ暗な穴の中へ……今日も無事に帰れますように、って祈りながら……」
私なら絶対無理。閉所恐怖症になる。いや、その前に怖くて乗れない。
「竪坑櫓がシンボル……島で一番高い構造物……」
写真を見る。空に向かって聳える巨大な鉄骨の塔。てっぺんに巨大な滑車。
「これが軍艦のマストに見えたから、軍艦島!」
「なるほど!そういうことか!だから軍艦島なんだ!船に見えたんだ!」
さらに読み進めると、驚愕の数字が並んでいる。
「84年間で1,570万トンの石炭……」
「1,570万トン……えっと、1トンが1,000kg……だから……」
暗算しようとして、あまりの桁数に頭が混乱する。
「想像できない量……とにかく、めちゃくちゃ多い」
「八幡製鉄所への燃料炭の供給……」
「八幡製鉄所!歴史の教科書に出てくるやつじゃん!日本の近代化!」
この小さな島が、日本の近代化を支えてた。教科書で習った歴史が、ここにあった。なんだか急に、この島が神聖な場所に思えてきた。
朝食を終えて、日焼け止めを塗る。顔、首、腕、足。もう完璧にマスター。でも昨日の日焼けがまだヒリヒリする。赤く腫れた腕を見て、小さく溜息。
「痛い……まだ赤いまま……」
カメラの準備。バッテリーをカチッと交換して、新しいSDカードを入れようとしたら――
「……あれ?」
スロットに差し込んでも、カチッという手応えがない。するりと抜ける。
「なんで!?昨日まで普通に使えてたじゃん!」
もう一回。するりと抜ける。もう一回。また抜ける。
「えっ、壊れた!?まさか!お願いだから壊れないで!」
焦ってガチャガチャやる。汗が額に滲む。時計を見る。1分経過。
「入れ!入ってよ!お願い!」
両手を合わせて天を仰ぐ。
「SDカードの神様!助けて!お願いします!私、ちゃんと撮影してますから!真面目にやってますから!」
イライラと焦りが頂点に達した、その時だった。
「……まさか」
恐る恐る、カードをひっくり返してみる。逆向きに差し込む。
カチッ。
「……あ」
正しい向きで差し込むと、あっさりスッと収まった。
「うそでしょ……裏表逆だっただけ……」
誰も見てないのに、顔が一瞬で真っ赤に燃える。両手で顔を覆う。
「SDカードって裏表あったんだ……知らなかった……というか気づかなかった……」
「USBと同じ失敗じゃん!USBも最初は裏表分からなくて、3回くらい挿し直すやつ!学習しろ私!!」
恥ずかしすぎて消えたい。床に穴があったら入りたい。いや、この島は海に囲まれてるから、海に飛び込みたい。
「こんな初歩的なミスで5分もロスとか……私、大丈夫?本当に30日でできるの?」
しばらく両手で顔を覆ったまま固まってた。深呼吸。落ち着け、私。気を取り直す。
「……誰も見てない。よね?」
ふと、部屋の隅の天井を見上げる。赤いランプが点滅してる監視カメラ。
「……見られてる。絶対見られてる。どこかで誰かが笑ってる。恥ずかしい……」
でも、もう仕方ない。カメラをバッグに入れて、ドローンも確認して、出発。
「よし!炭鉱施設、行くぞ!島の心臓に会いに行く!」
階段を下りながら、まだ恥ずかしさが残ってて、独り言が止まらない。
「SDカードの向き、間違えただけ……普通のミス……初心者なら誰でもやるミス……よくあること……ていうか、向き分かりづらいのが悪い……そう、私は悪くない……」
自分に言い聞かせる。でも、やっぱり恥ずかしい。
外に出た瞬間――
空が、曇ってる。
灰色の雲が、島の上に低く垂れ込めてる。島全体が、深呼吸を忘れたまま固まってるみたい。
寝不足の頭と、曇り空が重なる。思考が、まだ鈍い。
階段を下りる。一段一段、慎重に。
瓦礫が、道を塞いでる。
崩れた階段。剥き出しの鉄骨。倒れたコンクリートの塊。
一歩進むたびに、足元を確かめなきゃいけない。つまずいたら、怪我する。
炭鉱施設エリアに足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。まるで別世界。
「うわ……なにこの雰囲気……」
鉄の匂い。錆びた、古い、重たい鉄の匂いが、鼻の奥に突き刺さる。生活エリアにはなかった、工業的な、無機質な匂い。地面は黒い粉で覆われてて、一歩踏み出すたびに、ジャリ、ジャリと音がする。
「靴が真っ黒になる!せっかくの新しいスニーカーなのに!」
足元を見て、ハッとする。
「あ、でも待って……これが『黒ダイヤ』の粉?」
しゃがみ込んで、地面の黒い粉をじっと見つめる。キラキラと光を反射する、細かい粒。
「本物の石炭……」
恐る恐る、指で触ってみる。ザラザラした感触。指に黒い粉がべったりとつく。
「うわ、取れない!」
手を払うけど、なかなか取れない。黒い粉が指の間に入り込んで、爪の間に詰まって。
「あー、もう!これ、後で洗っても取れなさそう!」
まず、貯炭場のベルトコンベア跡へ。資料によれば、選炭された製品炭がここに蓄えられ、船に積み込まれて出荷されていた場所。
「ここから全国へ……日本を支えた石炭が……」
今はただの広い空地。でも、支柱だけが何本も立ち並んでいる。錆びた鉄骨の支柱。かつてベルトコンベアを支えていた骨組み。
「すごい……60年前のインフラが、まだ形を保ってる……」
支柱の一本に手を触れた瞬間――
来た。また来た。あの感覚。お祖母様から受け継いだ厄介な体質。場所に残る記憶を、光や音として感じる『共感覚的記憶』。
視界の端を、鈍い灰色の光が流れていく。ゴォォォ、という低い音。ベルトコンベアが石炭を運ぶ音。黒い塊が、延々と、途切れることなく流れていく映像が、頭の中に浮かぶ。
そして、その灰色の光を包むように、深い紺色の光。労働の色。汗の色。誇りの色。
「ここで、たくさんの人が働いてた……」
次に、第二竪坑の捲座跡へ。巨大なコンクリートの基礎だけが残ってる。
「ここが636mの深さまで……」
穴を覗き込む。真っ暗。底なし沼みたいに、吸い込まれそうで怖い。
近づくにつれて、空気がひんやりしてくる。地面から吹き上げる湿気。
肌が、寒気を感じる。背筋が、ゾクッとする。
「竪坑櫓はもうないんだ……」
資料に書いてあった。閉山後、朽ちて倒れた。島で一番高かった構造物。軍艦島のシンボル。それが今はもう、ない。
「でも、ここから毎日何百人もの人が地下へ……」
しゃがんで、コンクリートの縁に手を置く。ザラザラした感触。ひんやりと冷たい。
「朝、ケージに乗って降りていく時、どんな気持ちだったんだろう」
「『今日も無事に帰れますように』って祈ってたのかな」
「『家族が待ってる。子供が待ってる』って思いながら、真っ暗な穴に降りていったのかな」
胸がギュッとなる。
「私なら怖くて無理……閉所恐怖症になりそう……というか、絶対なる」
誰もいないのに、誰かが見ているような気配。
振り返る。
誰もいない。
でも、何か、ある。何かが、視線を送ってくる。
島の心臓が、私を見てる。
第二竪坑の捲座跡。鉄骨の土台だけが残ってる。巨大な機械があった場所。人の命を上げ下げしていた、ワイヤーロープの巻き上げ機。
「単胴式巻上機……なんか強そうな名前……ロボットの必殺技みたい……」
これは必殺技なんかじゃない。これは、命綱だった。
次に、第四竪坑跡へ。こっちは施設が残ってる。
「おお!捲座!本物だ!」
煉瓦張りのコンクリート建物。思ったより大きい。重厚感がある。窓という窓は黒い口を開けて、じっとこっちを見てる。
「ワイヤーロープの巻き上げ機があった場所……」
「人の命を上げ下げしてた場所……」
中を覗く。薄暗い。巨大な機械の台座が残ってる。鉄骨の跡。ボルトの穴。
「ここに機械があって、毎日動いてた……」
目を閉じると、ゴォォォ、という音が聞こえる気がする。ワイヤーが唸る音。ケージが昇降する音。
そして、ドルシックナーへ。
選炭施設エリア。機械室より開けた、吹きっさらしの広場。風が吹くと、黒い砂塵がザァッ!と舞い上がる。
「うわっ!」
咄嗟に目を手で覆う。でも間に合わない。
「目に入った!口の中も!じゃりじゃり!」
目をこする。痛い。口の中もじゃりじゃり。唾を吐く。
「うえぇ、気持ち悪い……これがボタ?石炭のカス?黒ダイヤのカスでも、ただの砂!目に入ると痛いのは一緒!」
水で口をゆすぎたいけど、持ってない。
「水筒持ってくればよかった……」
そして、目の前に、それはあった。
巨大な円形のコンクリート構造物。ドルシックナー。
「でっか……!なにこれ……!」
思わず、立ち尽くす。口がポカンと開く。
「古代ローマのコロッセオ?いや、もっと不気味……宇宙船の着陸場?UFOの発着場?」
海沿いに鎮座する、直径20mの巨大な円形。中は土砂や瓦礫で埋まってる。でも、放射状の仕切りが見える。何本も、中心から外側へ伸びてる。
「プールにしては浅いし……でも、なんでこんな形なの?」
近づいてみる。コンクリートの縁に手をかける。
「ざらざら……海風でボロボロ……」
表面がガサガサに風化してる。でも、60年前のものなのに、まだ形を保ってる。
「コンクリートって、こんなに強いんだ……」
一周してみる。結構大きい。歩くと時間がかかる。
「本当に直径20m……サッカーコートの半分くらい?いや、もっと?」
資料を思い出す。
「凝縮槽……泥水を濃くする装置……」
「選炭の時に出る泥水を、ここで処理してた……」
中を覗き込む。瓦礫だらけ。植物が生い茂ってる。
「ここに泥水が溜まってたのか……どうやって使ってたんだろう……回転してた?それとも静止してた?」
最後に、換気施設へ。
「主要扇風機室と補助扇風機室……」
二つの建物が並んでる。どちらもコンクリート造り。窓がなくて、ずんぐりしてて、要塞みたい。
「ここが坑内の空気を循環させてた……」
資料に書いてあった。『炭鉱施設のなかでも、常に稼働し続ける必要があった換気施設。採掘作業は休んだとしても、坑内の空気の循環を休むことは決して許されなかった。』
「休んじゃダメ……24時間365日、ずっと動いてた……」
「止まったら、地下の人たちが……」
想像するだけで、背筋が凍る。
建物に手を触れる。
「ありがとう。あなたたちが、命を守ってくれてた……」
午前中のロケハン終了。汗だく。喉がカラカラ。
「暑い……喉渇いた……水……」
部屋に戻る途中、足元の瓦礫につまずいて転びそうになる。
「わっ!」
なんとか踏みとどまる。心臓がバクバク。
「危ない……疲れてる……気をつけないと……」
部屋に戻って、冷蔵庫から麦茶をゴクゴク。
「あー生き返る!冷たい!美味しい!」
タッチパネルで昼食を注文。今日はカレーライス。ウィーン、という音と共に、熱々のカレーが出てくる。
「カレーだ!スパイスの香りがやばい!」
一口食べる。
食べながら、さっきの光景が頭から離れない。
「地下1000mで働くって、どんな感じなんだろう……」
「スマホの電波なんて絶対届かない……真っ暗で、暑くて、狭くて……」
「大変だったろうな……でも、誇りを持って働いてたんだ……」
カメラを構える。ファインダーを覗く。
息を吸う。ゆっくり吐く。
「炭鉱施設は複雑すぎ……全体像を掴むには……ドローン必須だな」
深呼吸を、もう一度。
「よし……今日も頑張ろう」
前へ。進む。恐怖があっても、前へ。




