第九十七話 私は、あなたの敗北を待っていたわけじゃない
黒瀬レナが勝った。
三本先取の一対一で、NoNameを三対二で破った。偶然でも、手加減された結果でもない。世界トップクラスの反応速度と近距離技術を持つレナが、これまで積み重ねてきた経験をすべて使い、最後の一撃を自分で選んで勝ち取った。
その結果を、星野ミカは最初から最後まで見ていた。
嬉しかった。
同じCrownlessの仲間として、レナがNoNameに勝ったことは素直に誇らしい。いつも前へ出たがっていた彼女が、止まることも、下がることも、相手を待つことさえ覚えた。その変化を間近で見てきたミカには、今回の勝利がどれほど大きなものなのか分かっている。
だからこそ、悔しかった。
三年前、世界大会で優勝するよりもずっと前から追いかけていた相手。世界女王という肩書きを手に入れても、自分にはまだ勝てない人がいると公言した相手。
そのNoNameに、レナが先に勝った。
自分より先に出会ったわけでも、自分より長く戦っていたわけでもない。そんなことは勝敗と関係ないと分かっているのに、胸の奥にはどうしようもなく小さな棘が残った。
ミカは、その感情を否定しなかった。
レナを祝福する気持ちも本物で、先を越された悔しさも本物なのだから、どちらかを間違いにする必要はない。
ただ、それを次の試合へ持ち込むつもりはなかった。
「NoNameさん。少し休憩を挟みませんか」
対戦ルームを切り替えようとしていたNoNameが、ミカの方へ視線を向ける。
「私は大丈夫ですよ」
「そうではありません。ECHO、ユイ、レナと続けて戦ったでしょう。三人とも最終本まで進んでいますし、集中力の消耗も小さくないはずです」
「ミカも三試合、ずっと観戦していましたよね」
「観戦と実戦では違います」
ミカがそう返すと、NoNameは少し考えてから素直に頷いた。
「確かにそうですね。では、少し休みましょう」
あまりに簡単に了承されたので、今度はミカの方が拍子抜けした。
「……意外です」
「何がでしょう」
「今のNoNameさんなら、すぐ戦いたいと言うかと思いました」
「言いたいですよ」
NoNameは穏やかな口調のまま答えた。
「ですが、休んだ方が勝ちやすくなるなら休みます。ミカに負けたくありませんので」
ミカは返事を忘れた。
以前なら、NoNameは休憩の重要性を説明しただろう。集中力が落ちた状態で戦っても適切な判断ができず、練習の質が低下する。そうした合理的な理由を述べて、全員へ休むよう勧めたはずだ。
今の彼は違う。
自分が勝つために、休む。
それを何のためらいもなく言えるようになっている。
「……分かりました。では、十分だけ」
「はい。十分後にお願いします」
NoNameが一度席を離れると、待っていたようにレナがミカへ近づいてきた。
「ミカ、大丈夫?」
「何がですか?」
「いや、さっきから結構怖い顔してたから」
「普通ですよ」
「それ、私が勝ったのが悔しいんでしょ?」
ミカは一瞬だけ口を閉じた。
レナのこういうところは、本当に困る。遠慮というものを知らないわけではないのに、肝心なところでは驚くほど真っ直ぐ踏み込んでくる。
「……悔しいですよ」
否定しなかったミカを見て、レナが少し驚いた。
「認めるんだ」
「認めます。でも、レナさんの勝利を喜んでいないわけではありません。そこは勘違いしないでください」
「してないよ」
レナはいつものように笑った。
「ミカが悔しいってことは、私がちゃんと勝ったってことでしょ。だったら嬉しい」
「随分余裕ですね」
「そりゃあね。師匠に勝ったばっかりだし!」
胸を張るレナに、ミカも思わず笑ってしまった。
その隣では、ユイが先ほどの試合記録を整理している。ECHOも映像を見直していたが、ミカたちの会話を聞いて顔を上げた。
「ミカ」
「はい?」
「レナと同じ勝ち方はできません」
「分かっています」
「ミカには、ミカの勝ち方があります」
簡潔な言葉だった。
けれど、その通りだった。
レナと同じように近距離で勝とうとしても意味がない。ECHOのようにNoNameの欲を読み切る必要も、ユイのように大量の選択肢を作る必要もない。
ミカには、ミカが三年間積み重ねてきたものがある。
「ありがとうございます、ECHO」
「私はNoNameが勝つ可能性も高いと思っています」
「……そこは黙っていてもらえませんか」
「事実です」
レナが吹き出し、ユイも小さく笑った。
ミカは苦笑しながら対戦設定を開く。
最後の一対一。
相手は、自分が世界一になるまで追いかけ続けた男。
今度こそ、他の誰かの勝ち方を借りるつもりはなかった。
◇
十分後。
NoNameが戻ってくると、ミカはすでに対戦ルームの準備を終えていた。
選んだマップは、中央に広い通路があり、その左右に倉庫と高架通路が配置された競技用フィールドだった。
左右の倉庫を使えば射線を切りながら移動できるが、中央を通れば最短距離で相手へ接近できる。高架通路は見晴らしがよい反面、一度位置を知られると逃げ道が限られる。
射撃技術、索敵、位置取り、移動の判断。
FPSの基本的な技術が、どれも勝敗へ直結する構造だった。
「このマップにしたんですね」
NoNameが言う。
「嫌ですか?」
「いいえ。ミカが選びそうな場所だと思いました」
「そうでしょうね」
ミカは装備を確認しながら答えた。
「一番慣れた場所ではありません。ただ、今の私がどれくらい戦えるかを確かめるには、ちょうどいいと思いました」
「私に勝つためですか?」
「もちろんです」
ミカは顔を上げる。
「NoNameさん。私は今日、レナさんに続いて勝ちたいわけではありません」
「はい」
「三年前の借りを返したいわけでも、世界女王だった頃の自分を証明したいわけでもありません」
少しだけ言葉を切り、まっすぐにNoNameを見る。
「今のあなたに、今の私が勝ちたいんです」
NoNameは黙って聞いていた。
以前なら、この言葉の意味を掘り下げただろう。なぜ勝ちたいのか、その気持ちが判断にどう影響するのか、本人がどこまで自覚しているのか。
けれど今日は、そうしなかった。
「分かりました」
NoNameは静かに笑う。
「では、私も今のミカに勝ちます」
その返答だけで十分だった。
ミカの口元にも、自然と笑みが浮かぶ。
「お願いします」
「こちらこそ」
待機時間が終わる。
三本先取。
観戦者はユイ、レナ、ECHOの三人。
最後の一対一が始まった。
◇
開始直後、ミカは中央へ出なかった。
NoNameも無理には前進せず、左側の倉庫へ移動する。
ミカが選んだのは、右側の高架通路だった。中央を広く見渡せる位置だが、ここへ上がったことが知られれば、NoNameは当然その射線を警戒する。
構わなかった。
むしろ、警戒してほしかった。
ミカは高架から中央通路の入口を確認し、一発だけ撃った。
NoNameの姿はない。
弾は通路の壁を叩き、射撃音と着弾表示が相手へ位置を知らせる。
「そこですか」
NoNameの声が通信に入った。
「はい」
「随分分かりやすいですね」
「そうでしょうか」
「高架の右側。そこからだと中央を押さえられますが、私が倉庫の内側へ入れば射線は切れます」
「その通りです」
「では、そうします」
NoNameは左倉庫の内部へ進んだ。
高架の射線から完全に外れる位置だった。
そこまでは、ミカも予想している。
左倉庫から中央へ戻る経路は二つ。奥の通路を通れば安全だが遠回りになり、手前の出口なら短時間で中央を横切れる代わりに高架から狙われる。
NoNameならどうするか。
以前のミカは、そこから考え始めていた。
自分が彼だったらどちらを選ぶか。
NoNameならどちらを選ぶか。
彼が自分の射線をどう評価しているか。
その計算を始めると、いつも最後にはNoNameの方が一手先へ行っていた。
今回は違う。
ミカは彼の答えを当てようとしなかった。
代わりに、高架から下りた。
NoNameがどちらの出口を選んでも、最終的には中央を横切る必要がある。ならば、その途中へ自分から移動すればいい。
足音を完全に消すことはできない。
NoNameがこちらの移動に気づく可能性も高い。
それでもミカは進んだ。
中央に近い資材置き場で身を低くし、倉庫の手前側から出てくる相手を狙える位置へ入る。
数秒後。
NoNameが姿を見せた。
ミカは撃たない。
NoNameが一歩進む。
まだ撃たない。
その動きがわずかに変わったのを、ミカは見逃さなかった。
彼は自分が撃ってこないことを不自然に思っている。
当然だ。
この距離なら、世界トップクラスの射撃技術を持つミカは十分に当てられる。撃たない理由があるとすれば、もっと高い命中率を狙っているか、別の場所へ誘導しようとしているか。
NoNameはその二つを警戒するはずだった。
そして、実際に足を止めた。
ミカはそこへ初弾を置く。
命中。
NoNameの耐久が削れた。
彼は即座に遮蔽物へ逃げ込もうとするが、ミカは追撃を急がない。NoNameが退避しようとした場所へ先回りするのではなく、別の出口へ射線を移して待つ。
NoNameの方が一瞬早くその意図を察した。
「……なるほど」
彼は引き返した。
ミカも動く。
距離を詰めるのではない。
相手が安全に動ける場所を、少しずつ減らしていく。
高架から撃った一発は、最初から命中させるためのものではなかった。自分が高架を使っていると見せ、NoNameへ倉庫の中を選ばせるためのものだった。
そして今。
NoNameは、自分が高架に残っていると思っていた場所ではなく、ミカ自身が移動して作った射線の中にいる。
ミカは次の一発を撃った。
NoNameが避ける。
その回避先へ、さらに一発。
今度は掠める。
NoNameも反撃した。
ミカは遮蔽物の後ろへ身を引くが、わずかに遅れ、耐久を削られる。反撃の速さだけなら、やはり尋常ではない。
しかし、その攻撃でNoNameが身体を向けた方向は分かった。
ミカは遮蔽物の反対側から踏み込み、相手の視界へ入るより先に照準を置いた。
「NoNameさん」
「はい」
「私は、あなたがどちらへ逃げるかを当てなくてもいいんです」
NoNameの視線が動く。
「……そうですね」
「どこへ逃げても、撃てる場所にいればいいので」
ミカは引き金を引いた。
最後の一撃は、NoNameが反撃へ移るよりわずかに早く届いた。
撃破判定。
第一本、星野ミカ。
一対零。
試合開始から、一分も経っていなかった。
◇
「……取りました」
勝利表示が出ても、ミカはすぐに喜びの声を上げなかった。
予想より早く決着した。
それは事実だ。
けれど、楽に勝てたわけではない。途中でNoNameが自分の位置を読み直すのがあと一瞬早ければ、最後の攻撃まで届かなかっただろう。
勝ったのは自分。
ただし、わずかな差だった。
「ミカ」
NoNameが呼ぶ。
「はい」
「負けました」
「見ています」
「最初の高架からの一発で、私を倉庫へ入れましたね」
「そうですね」
「そこから先は、私がどちらへ動くかを当てるのではなく、どちらでも対応できる場所を先に取りに行った」
ミカは少しだけ笑った。
「もう分析を始めるんですか?」
「負けましたから」
「いつものように、私へ説明するためではなく?」
「はい」
NoNameは敗北画面を閉じた。
「次は、同じことをさせたくありませんので」
その言葉に、ミカの胸が少し熱くなった。
彼は今、自分を褒めようとしているのではない。
勝ち方を解説し、何が優れていたのかを教えようとしているわけでもない。
負けた理由を調べている。
次に勝つために。
三年前、自分へ繰り返し求めてきたことを、今は彼自身がしている。
「NoNameさん」
「はい」
「嬉しいです」
「私に勝ったことが、ですか?」
「それもあります」
ミカは少し考えてから続けた。
「あなたが私に負けたことを、そんなに嫌がってくれるのが嬉しいです」
NoNameがわずかに目を見開いた。
「……嫌がっているように見えますか?」
「はい。かなり」
以前なら、この言葉に彼はどんな顔をしただろう。
困ったように笑って、自分の負けよりミカの成長を喜んだかもしれない。
今は違う。
「そうですね」
NoNameは素直に認めた。
「次は取り返したいです」
ミカは笑った。
「では、取り返せるか試してください」
「はい」
第二本の開始表示が現れた。
◇
二本目で最初に動いたのはNoNameだった。
中央へ向かい、ミカに居場所を知らせるように一度だけ射撃する。それから左倉庫へ入り、前の試合とほとんど同じ経路を選んだ。
ミカはすぐに違和感を覚えた。
同じ道。
同じタイミング。
撃った場所まで、ほとんど変わらない。
再現している。
NoNameは、さきほど自分が倒された状況をわざと作っていた。
「……誘っていますね」
「そう見えますか?」
「はい」
「では、来ませんか?」
ミカはすぐには答えなかった。
前の試合と同じ位置へ入れば、NoNameも当然対策を用意している。こちらの攻撃を待って反撃するつもりかもしれないし、別の経路へ出て背後を取るつもりかもしれない。
しかし、NoNameが何を準備しているかを考え続けると、彼の得意な場所へ引き込まれる。
それも、三年間で十分に経験している。
「行きます」
ミカは言った。
「ただし、同じ場所には行きません」
「そうでしょうね」
「それも読んでいます?」
「半分くらいは」
「残りは?」
「外れたら困ります」
NoNameが少し笑った。
その返答に、ミカも笑みを返す。
「では、困らせてみます」
ミカは高架を使わず、中央の資材置き場へ直接向かった。NoNameが左倉庫から出るなら、こちらも正面で迎え撃つ。
しかし彼は、出てこなかった。
数秒待つ。
さらに待つ。
音がしない。
ミカは位置を変えようとして、ふと足を止めた。
自分が先に動くのを待っている。
そう思った瞬間、NoNameの狙いが少しだけ見えた。
彼は前の試合を再現しているのではない。
前の試合を覚えている自分へ、同じ場面を見せている。
ミカは短く息を吐き、倉庫の出口へ一発撃った。
NoNameは出ない。
もう一発。
やはり姿は見えない。
ここで待ち続ければ、時間だけが過ぎていく。自分から倉庫へ踏み込めば、狭い通路で待ち構えられる可能性がある。
ならば、別の場所を取ればいい。
ミカは右側へ移動した。
その瞬間、NoNameが左倉庫から姿を現した。
「……!」
ミカはすぐに振り返る。
しかし彼は撃たない。
こちらの位置を確認しながら中央へ進み、ミカがいた資材置き場へ入った。
そこは、第一本でミカがNoNameを倒した場所だった。
「使わせてもらいます」
NoNameが言う。
「私の場所を?」
「はい。さきほど、かなり撃ちやすそうでしたので」
ミカは思わず笑った。
「勝手に使わないでください」
「許可が必要ですか?」
「必要ありません。でも、腹は立ちます」
「それならよかったです」
「よかった?」
「少しは私の方を見てもらえそうなので」
その言葉と同時に、NoNameが撃った。
ミカは回避する。
最初の一発は外れたが、次の一発はミカが使おうとしていた遮蔽物の出口を塞いだ。
移動方向を変える。
すると、さらに別の射線ができている。
今度はNoNameが、自分の移動先を制限している。
しかし、第一本の真似ではない。
ミカはすぐに理解した。
NoNameは自分が動きやすい場所を奪っているのではなく、自分が撃ちやすい場所を残している。
こちらが勝つために必要な射線。
反撃するなら使いたい角度。
そこだけを、意図的に残している。
ミカが攻撃する。
NoNameが回避する。
再び撃つ。
避けられる。
三度目の射撃に入った瞬間、NoNameは一歩だけ踏み込んだ。
それまでの回避とは違った。
ミカは射撃を中断できない。
撃った直後のわずかな硬直へ、NoNameが反撃を合わせた。
命中。
さらに距離を詰める。
ミカも後退しながら撃ち返したが、NoNameはすでに最初の射線から外れている。
「……そういうことですか」
ミカが呟く。
「分かりましたか?」
「私が撃ちたい場所を、ずっと残していたんですね」
「はい」
「撃たせるために」
「そうです」
NoNameが構え直した。
「ミカが撃ちたい場所なら、ミカは見逃しませんから」
ミカの胸が跳ねた。
悔しい。
けれど、同時に嬉しい。
この男は今、自分のもっとも得意な技術を利用して勝とうとしている。
ミカが世界の頂点に立つまで磨き続けてきた射撃の精度を、弱点として扱っているのだ。
普通なら、それは侮辱に近い。
だが相手がNoNameなら違う。
彼は、ミカがどれほど高い確率で命中させられるか知っている。だからこそ、撃ちたくなる場所をわざと残し、そこへ向けられる銃口の動きを利用した。
ミカは構えた。
「それなら、撃たなければいいんですね」
「そういう選択もあります」
「でも、撃ちます」
NoNameの目がわずかに動く。
ミカは前へ出た。
射撃をやめるのではない。
むしろ自分から距離を詰め、これ以上避けにくい場所を作る。
NoNameも応じた。
互いの射線が交差する。
一発、二発と命中が重なり、双方の耐久が急激に減っていく。ミカは最後の一撃を狙ったが、NoNameはその直前、射撃姿勢を崩しながら半歩だけ内側へ入った。
ミカの弾が外れる。
NoNameの反撃は、外れなかった。
撃破判定。
第二本、NoName。
一対一。
ミカは結果を確認してから、大きく息を吐いた。
「……取られました」
「はい」
「嬉しいですか?」
「かなり」
「そうでしょうね」
NoNameは笑っていた。
以前よりずっと分かりやすい笑顔だった。
「ミカ」
「はい」
「やはり、難しいですね」
「何がですか?」
「あなたに勝つことです」
ミカは、返事に困った。
NoNameは普段から穏やかな人だったが、自分の能力を過剰に褒めることはない。必要以上に相手を持ち上げることもしない。
だから、その言葉は素直に嬉しかった。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ」
「ただ、次は私が取ります」
「私もそうしたいですね」
お互いに譲るつもりはない。
それだけ確認して、第三本へ進んだ。
◇
三本目は、ミカが最初から中央へ出た。
NoNameも同じだった。
最初の二本で、互いの位置取りをある程度把握している。どの遮蔽物を使えば射線を切れるか、どの経路から先回りできるか、どの角度なら撃ち合いになりやすいか。
すでに両者の頭には入っていた。
だから今度は、余計な遠回りをしない。
中央で向き合う。
「NoNameさん」
「はい」
「一つ、聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「私を最後に残した理由です」
NoNameが少しだけ首を傾げた。
「先ほど答えましたよね」
「最後に戦いたかったから、と」
「はい」
「それが理由なのは分かっています。でも、なぜ私を最後にしたかったのかまでは聞いていません」
ミカは自分でも、この質問が少しずるいと思った。
試合中。
しかも互いに一点を取っている状況。
何よりNoNameは、こういう質問をされると真面目に考える。
けれど、聞きたかった。
どうしても。
NoNameはすぐには答えなかった。
数秒、考える。
その間も、二人は少しずつ位置を変えていた。互いの射線を外しながら、いつでも撃てる距離を維持している。
「……そうですね」
やがてNoNameが口を開いた。
「一番、長く一緒に戦ってきたからでしょうか」
ミカの指が止まりそうになった。
「私と?」
「はい」
「ユイさんやレナさん、ECHOもいますよ」
「もちろんです」
「Crownlessの全員と、今ではずっと一緒にいます」
「そうですね」
NoNameは少し笑った。
「でも、一番最初に私を見つけたのはミカでしたから」
ミカは思わず息を止めた。
三年前。
古いタクティカルFPSの高難度任務。
何度も失敗し、撤退しようとしていた自分へ、まだ顔も本名も知らないプレイヤーが勝てると言った。
あの時のNoNameは、ほとんど何も話さなかった。
必要なことだけを伝え、必要な場所へ人を動かし、最終的には本当に勝ってしまった。
ミカが何者なのかと尋ねた時も、ただの通りすがりだと答えただけだった。
そんな男を、ミカは追いかけた。
悔しかったから。
負けたくなかったから。
もっと強くなりたかったから。
そして、いつの間にか。
NoNameと一緒にゲームをする時間そのものが、何よりも大切になっていた。
「……覚えていたんですね」
ミカが言う。
「もちろんです」
「私が最初だったこと」
「忘れる理由がありませんよ」
NoNameの返答は、いつも通りだった。
特別なことを言ったつもりなどないのだろう。
しかしミカは、今の言葉を簡単には受け流せなかった。
胸の奥に、温かいものが広がる。
同時に、少しだけ腹が立った。
そんな大事なことを、どうして今まで言ってくれなかったのか。
もっと早く聞いていたら、どれだけ嬉しかっただろう。
けれど。
今は試合中だ。
そしてNoNameは、今の自分に勝つためにここへいる。
「NoNameさん」
「はい」
「ありがとうございます」
ミカは銃口を上げた。
「でも、今の話で手加減はしませんから」
「してもらうつもりもありません」
「安心しました」
ミカが撃つ。
NoNameは横へかわし、すぐに反撃した。
互いに初撃を外す。
次の瞬間、NoNameが左へ動いた。
ミカは追わない。
代わりに、彼が次に通る位置へ照準を合わせた。
NoNameが遮蔽物の陰へ入る。
数秒後、反対側から姿を現した。
ミカは撃つ。
NoNameが避ける。
しかし今度は、その回避先まで追って撃った。
命中。
NoNameの耐久が削れる。
その直後、NoNameも反撃する。
こちらも命中。
互いの耐久表示が、ほぼ同じ量だけ減った。
ミカは笑った。
「やっぱり、すごいですね」
「何がでしょう」
「今のを当ててくるところです」
「ミカも当てましたよ」
「私の方が先に撃ったので」
「そうですね」
「だから次も先に撃ちます」
ミカは前へ出た。
NoNameも迎え撃つ。
今回のミカは、相手を迷わせるための移動をほとんど使わなかった。
右へ出るなら右。
前へ出るなら前。
自分が有利な射線を作れた瞬間、迷わず攻撃する。
NoNameの観察力は高い。
相手の判断や癖を読むことに関して、ミカは今でも誰より優れていると思っている。
だが、そこへ対抗するために自分まで同じことをしようとすれば、かえってNoNameの得意な場所へ入ってしまう。
ならば。
ミカは、自分が世界一になった理由を使う。
照準を合わせる速さ。
相手が動く方向を捉え続ける精度。
遮蔽物の隙間へ姿が見えた瞬間、迷わず撃ち抜く技術。
それらだけなら、NoNameに劣っているとは思っていない。
NoNameが右へ動く。
ミカは照準を追う。
NoNameが急停止する。
以前なら、その瞬間に照準がわずかに流れた。
今は違う。
ミカも止める。
NoNameが再び動く。
それに合わせて撃つ。
命中。
「……なるほど」
NoNameの声が少し変わった。
ミカはその反応を聞いて、さらに前へ出る。
追い込む。
NoNameが遮蔽物へ逃げる。
ミカは追いかけながら、次に姿を見せる可能性がある二か所を確認した。
左。
右。
どちらも撃てる。
ただし同時には見られない。
NoNameはそこを利用するはずだった。
ミカは左へ照準を置く。
NoNameが右から出れば、一瞬遅れる。
そう分かっている。
それでも左を見た。
そして。
NoNameは、右から出た。
反撃が来る。
ミカは避けきれない。
耐久が削れる。
しかし。
ミカは、その一撃を受けることまで覚悟していた。
「……!」
NoNameが気づいた時には、もう遅かった。
ミカは右へ照準を戻していた。
彼が撃った瞬間、そこへ自分の身体を向けている。
撃たれたのは事実だ。
けれど、その一撃を撃つためにNoNameが姿を晒したことも事実だった。
互いに危険域。
あと一発。
ミカは迷わなかった。
引き金を引く。
NoNameも反撃する。
しかし、先に命中したのはミカだった。
撃破判定。
第三本。
星野ミカ。
二対一。
ミカが、マッチポイントへ到達した。
◇
「……取りました」
ミカは自分の画面を見た。
二対一。
あと一本取れば、勝ち。
三年間追いかけてきた相手に、今の自分が勝てる。
その可能性が、もう手の届くところまで来ていた。
観戦席ではレナが思わず立ち上がっていた。
「ミカ、すごっ! 今の完全に撃ち勝ったじゃん!」
ユイも頷く。
「NoNameさんが先に攻撃を当てた時点で、ミカさんが不利だと思いました。でも最後の一発は、NoNameさんが反撃する位置まで含めて捉えていましたね」
「はい」
ミカは短く答える。
ECHOは少し考えてから言った。
「今のミカ、NoNameが何をしたいか考えていなかった」
ミカが振り向く。
「そうですね」
「自分が何をしたいかだけ」
「はい」
ミカはNoNameを見る。
「私は、あなたを撃ちたいんです」
NoNameが静かに目を細めた。
「それは、かなり物騒ですね」
「ゲームの話ですよ」
「知っています」
NoNameは少し笑った。
その笑顔を見て、ミカも笑いそうになる。
しかし彼は、すぐに自分の敗北表示へ視線を戻した。
「……二対一ですか」
「はい」
「あと一本取られたら、私の負けですね」
「そうです」
「困りました」
言葉自体はいつも通りだった。
けれどミカには分かった。
NoNameは、かなり悔しがっている。
レナに負けたばかりだ。
ECHOとユイには勝ったものの、どちらも三対二の接戦だった。
そして今、ミカにも先に二本を取られた。
以前のNoNameなら、ここで相手の成長を喜んだかもしれない。
自分の予想を超えたことを、嬉しい出来事として受け取っただろう。
それは今も変わっていない。
だが、その前に。
彼自身が負けたくないと思っている。
「ミカ」
「はい」
「今の最後の一撃ですが」
NoNameは少しだけ考えた。
「私の方が先に撃ったんですよね」
「はい」
「当てたのも私が先でした」
「そうですね」
「それでも負けました」
「はい」
ミカは、自分でも驚くほど穏やかな気持ちで頷いた。
「だからです」
「だから?」
「私は、あなたに撃たれない方法だけを考えるのをやめました」
NoNameが黙る。
ミカは続けた。
「三年前からずっと、あなたは私より先に盤面を読んでいました。私がどこへ行けば有利か、どこで撃てば勝てるか。そういうことを、あなたの方がいつも先に見つけていました」
昔は、それが悔しかった。
だから自分も同じようになろうとした。
NoNameが見ているものを見て、NoNameと同じように考えれば、いつか追いつけると思った。
実際、それで強くなった。
だが世界の頂点に立った今でも、自分はNoNameではない。
「私はあなたほど、盤面全体を読むのが上手くないと思います」
「……そんなことは」
「最後まで聞いてください」
ミカが静かに遮ると、NoNameは口を閉じた。
「でも、撃つことなら負けたくありません。あなたがどこから出てきても、私が先に見つけて、先に当てられると思っています」
NoNameは何も言わない。
「だから今度は、自分の得意なことを捨てません。あなたがどれだけ盤面を上手く作っても、最後に私の射線へ入ってきたら、そこで勝ちます」
自信があった。
根拠もある。
そのために何年も練習してきたのだから。
「……そうですか」
NoNameはゆっくり頷いた。
「では、私は」
少し考える。
「その射線へ入らずに勝つ方法を考えないといけませんね」
ミカが笑った。
「そうしてください」
「難しそうです」
「難しくしてください」
そう返すと、NoNameも笑った。
ただし、今度の笑みには少し違うものが混じっていた。
負けたくない。
その感情が、以前よりはっきりと表情に出ている。
「ミカ」
「はい」
「もう一つ、聞いてもいいですか?」
「何でしょう」
「今日、私がミカを最後に選んだことですが」
ミカの心臓が少し跳ねた。
「……はい」
「今は、少し後悔しています」
予想していなかった言葉だった。
「後悔、ですか?」
「はい」
NoNameは対戦結果を見ながら言った。
「ECHOと戦って、ユイと戦って、レナと戦って。そのあとでミカと戦えば、一番長く楽しめると思ったんですが」
ミカは黙って聞いていた。
「最後にしたせいで」
NoNameは少し困ったように笑った。
「これが終わったら、今日の一対一が全部終わってしまうんですよね」
ミカは。
何も言えなくなった。
NoNameは続ける。
「もう一度全員と戦いたいですが、公開試合も控えていますし、今日はここまでにした方がいいんでしょうね」
「……NoNameさん」
「はい」
「それが、私を最後に選んだ理由ですか?」
「理由の一つです」
「一つ?」
「はい」
NoNameはミカを見る。
「最後に戦うなら、ミカがいいと思ったので」
胸の奥が、痛いほど熱くなった。
嬉しい。
けれど、同時に腹が立つ。
こんなことを言われて、平静でいられると思っているのだろうか。
しかも本人には、特別なことを言った自覚がまるでない。
「……本当に」
ミカは深く息を吐いた。
「NoNameさんは、そういうところがありますね」
「そういうところ?」
「今は説明しません」
「そうですか」
「はい」
ミカは自分の頬が熱くなっていることに気づき、画面へ視線を戻した。
二対一。
あと一本。
このまま勝てば、NoNameとの一対一が終わる。
勝ちたい。
その気持ちは変わらない。
けれど今、もう一つ欲しいものが増えてしまった。
この人と、もう少し戦っていたい。
先ほどNoNameが言ったことと、まったく同じだった。
だからこそ。
ミカは一度目を閉じて、その感情を自分の中で整理した。
長く戦いたいなら、次の一本を落とせばいい。
そうすれば二対二。
最終本まで続けられる。
だが、それでは何のために三年間戦ってきたのか分からない。
自分が欲しいのは、負けて続く時間ではない。
互いに勝とうとして、それでも決着がつかず、もっと戦いたくなるような時間だ。
ならば、次も勝ちにいく。
それが一番いい。
「NoNameさん」
「はい」
「次で終わらせます」
ミカは静かに宣言した。
「私は、勝つためにここへ来たので」
NoNameの目が細くなる。
「そうですね」
「もう一本取られたら、あなたの負けです」
「はい」
「負けたくないですよね?」
NoNameは、少しだけ笑った。
「とても」
その一言だけで十分だった。
ミカは構える。
NoNameも同じように構えた。
観戦しているレナたちは、もう誰も喋らない。
三対二でNoNameに勝ったレナ。
三対二で敗れたECHO。
同じく三対二で敗れたユイ。
そして今。
二対一でリードしているミカ。
四人の中で、もっとも長くNoNameを追いかけてきた女王。
その彼女が。
あと一本で、勝つ。
第四本の開始表示が現れた。
ミカは、三年前の自分を思い出していた。
何者かも分からないプレイヤーに負け続け、悔しくて仕方がなかった頃。
世界一になっても、まだ一番強くないと宣言したあの日。
そして今。
自分を最後の相手に選び、負けたくないと言ってくれた男が、正面に立っている。
もう、彼の背中を追いかけているだけではない。
同じ場所に立っている。
互いに勝ちたいと思っている。
それなら。
遠慮する理由はなかった。
「NoNameさん」
「はい」
「私は、あなたが負けるのを待っていたわけではありません」
NoNameが少しだけ首を傾げた。
「では?」
ミカは笑った。
「私が、あなたに勝つ番を待っていたんです」
第四本。
開始。
ミカは、自分から中央へ走り出した。
NoNameも、まったく同じ瞬間に前へ出る。
二対一。
ミカのマッチポイント。
けれど、彼女には分かっていた。
ここからのNoNameは、今まで以上に厄介になる。
なぜなら彼は、もう自分の敗北を誰かの成長という言葉で受け入れるつもりがないからだ。
そして、それこそが。
三年間ずっと追いかけてきた星野ミカが、本当に戦ってみたかったNoNameだった。




