第九十八話 世界女王は、今度こそ彼を撃ち抜いた
第四本の開始を告げる電子音が、静かな競技フィールドに響いた。
星野ミカは中央通路へ向かって走り出しながら、画面の端に表示されたスコアを一度だけ確認した。二対一。自分があと一本取れば、この一対一は終わる。三年前から幾度となく挑み、世界大会の優勝よりも手に入れたいと思っていた勝利が、あと一度の撃破で現実になる。
だからといって、ここで興奮に任せて飛び込むつもりはなかった。
相手はNoNameだ。
これまで何度も、勝てると思った瞬間に負けてきた。射撃速度で上回り、耐久値でも優位に立ち、あと一発で倒せるところまで追い込んでも、最後には彼の選んだ場所へ誘導されていた。自分が撃ちたいと思った場所に、すでに彼の答えが置かれていたことさえある。
しかし今のミカは、もうその経験を恐れていない。
自分が三年間で何を積み重ねてきたのか、ちゃんと知っているからだ。
「NoNameさん。今度は最初から行きます」
通信へ声を送ると、すぐに穏やかな返事があった。
「見えています。私も、そのつもりです」
中央通路の向こうからNoNameが姿を現した。
彼は先ほどまでの三本とは違い、遮蔽物の外側を大きく回ろうとはしなかった。中央に並ぶ資材コンテナの間を最短距離で進み、ミカの射線へ自分から入ってくる。
当然、そのまま撃たせてくれるはずはない。
ミカは初弾を放った。
NoNameはコンテナの陰へ半歩だけ身体を引き、弾丸をかわした。しかし続けてミカが撃った二発目は、彼が反撃のために身体を戻した瞬間を捉えた。
命中表示。
NoNameの耐久がわずかに減る。
直後、彼の反撃がミカの右側を抜けた。
外れた。
だがミカは、その弾道を見てすぐに気づいた。
NoNameは自分を直接狙っていない。
右側へ移動しようとした場合に通過する場所へ、あらかじめ攻撃を置いている。
ミカが右へ動けば、次の攻撃を受ける。左へ移動すればコンテナの角が邪魔になり、こちらからの射線を失う。正面へ進めばNoNameとの距離が縮まり、彼の得意な読み合いへ入ってしまう。
ほんの一発で、三つの進路の意味を変えていた。
「相変わらずですね」
「何がでしょう」
「撃たなくても、私を動かせるところです」
ミカは右にも左にも動かず、中央で足を止めた。
NoNameの反応は早かった。右へ置いていた照準を戻し、今度はミカ本人を狙ってくる。
それを待っていた。
ミカは彼が構え直す瞬間に射撃を再開した。
互いの攻撃が交差する。
NoNameの一発がミカへ当たり、同時にミカの弾丸も彼を捉えた。ほぼ同じ量の耐久が削れ、双方が遮蔽物へ身を隠す。
最初の接触は、ほとんど互角だった。
だが、その結果にミカは少しだけ満足していた。
NoNameの用意した選択肢を、選ばなかったからだ。
右へ逃げることも、左へ逃げることも、前へ出て彼へ近づくこともできた。そのどれにもNoNameの意図が含まれていると気づき、自分が一番撃ちやすい場所へ残った。
結果として被弾した。
けれど、同時に撃ち返せた。
以前の自分なら、被弾した理由ばかり考えていただろう。どうすれば完全に避けられたか、NoNameの狙いをどう読み違えたか。そうやって彼の考え方へ追いつこうとしていた。
今は違う。
自分にも当てられるなら、それでいい。
すべてを避ける必要などない。
「ミカ」
NoNameが呼んだ。
「はい」
「今の位置、しばらく使うつもりですか?」
ミカは口元を緩めた。
相手がどこにいるかは分かっている。中央通路の左側、低いコンテナの裏。そこからなら自分を狙えるが、こちらも同じように狙える。
「どうしてですか?」
「私からだと、少し撃ちにくいので」
「では、移動してください」
「そうします」
NoNameが動く。
ミカも移動した。
互いに相手を見失わない距離を保ちながら、コンテナの周囲を回り込む。NoNameが左へ進めばミカも角度を変え、ミカが射線を作ればNoNameはその外へ逃げる。二人の位置関係は少しずつ変わっていくが、どちらも決定的な隙を見せなかった。
やがてNoNameが、中央から左倉庫へ続く入口の前で足を止めた。
ミカも追撃を中断する。
そこは第一本でNoNameが自分に倒された場所に近い。
最初の試合では、倉庫から出てきたNoNameをミカが撃ち抜いた。二本目では逆に、同じ場所を利用されて敗れている。
二人とも、その記憶を持っている。
「また、ここですか」
ミカが尋ねると、NoNameは少し笑った。
「この辺り、使いやすいですから」
「あなたにとって?」
「お互いに、でしょうか」
そう答えてから、NoNameは倉庫へ入った。
ミカは追わなかった。
代わりに中央通路の右側へ回り込み、倉庫から出てくる二つの経路を確認する。手前側の出口から出ればすぐ撃てるが、NoNameもそれは承知しているはずだ。奥の出口から回り込まれれば対応が遅れるものの、そこへ到達するまでには足音が聞こえる。
待つことはできる。
しかし、待ち続ければNoNameの方が有利な場所を作ってしまう可能性もあった。
ミカは自分の位置を少し変えた。
その瞬間、倉庫の手前側からNoNameが姿を見せる。
速い。
ミカは反射的に銃口を向けたが、撃つより先にNoNameが引っ込んだ。
撃たない。
見えたからといって、すぐには撃たない。
その判断が終わるより早く、NoNameが今度は奥側の出口へ現れた。
ミカは身体をひねって照準を合わせる。
しかし一瞬遅い。
NoNameの攻撃が先に当たった。
「……っ!」
耐久が大きく削れる。
ミカも反撃したが、NoNameはすでに遮蔽物へ戻っていた。
今度は完全に読み負けた。
いや、正確には少し違う。
NoNameがどちらから出てくるかを当てようとしたわけではない。ただ、二つの出口へ対応するために照準を大きく動かさなければならない位置を取ってしまった。
その弱点を突かれた。
「今のは、かなり上手くいきました」
NoNameが言った。
「嬉しそうですね」
「はい。ミカから先に取れましたので」
ミカは画面を確認する。
残り耐久は少ない。
もう一度まともに攻撃を受ければ、ほぼ確実に倒される。
対してNoNameには、まだ余裕がある。
ここから無理に撃ち合えば、相手の方が有利だった。
「……そうですか」
ミカは短く息を吐いた。
「では、次は私が取ります」
NoNameの笑い声が聞こえた。
「そう簡単には取らせませんよ」
その言い方が、ミカには嬉しかった。
少し前までなら、彼はもっと静かに受け流していただろう。自分がどれほど不利なのかを説明し、そこからどう選び直すかを観察していたかもしれない。
今のNoNameは違う。
自分が有利になったことを喜び、その優位を最後まで維持して勝とうとしている。
そんな相手だからこそ、勝つ価値がある。
◇
観戦席では、月城ユイが珍しく言葉を失っていた。
ミカの残り耐久は三割を切り、NoNameはまだ半分近く残している。しかも位置関係もNoNameが有利で、倉庫内の遮蔽物を使えば、ミカの射線を切りながら一方的に攻撃することさえ可能だった。
「これ、師匠が取り返すんじゃない?」
レナが小さな声で言った。
「可能性は高いですね」
ユイは画面から目を離さず答えた。
「ただし、NoNameさんもそこは理解しているはずです。だからこそ、ここから無理をする必要がありません」
「じゃあ師匠が待ってれば、ミカが来るしかない?」
「基本的にはそうなります。ミカさんが射線を作り直すには、中央側へ動く必要がありますから」
レナは少し考えてから、腕を組んだ。
「でもミカ、行くと思う」
「根拠は?」
「ミカだから」
あまりにも簡単な答えだった。
しかしユイは否定しなかった。
ECHOも画面を見つめたまま頷く。
「私も、行くと思います」
「なぜですか?」
ユイが尋ねる。
「勝ちたいから」
その言葉に、ユイは小さく笑った。
「……そうですね」
今のCrownlessでは、それだけで十分な理由になることがある。
そして実際に、ミカは動き始めていた。
◇
ミカは中央通路へ戻った。
倉庫の出口を狙い続けるのではなく、あえてその正面から離れ、少し高くなった通路へ移動する。そこは身を隠せる遮蔽物が少ない代わりに、左右どちらへも射線を通しやすい。
NoNameが倉庫から出てきた。
ミカを見つけた瞬間、彼はすぐに攻撃してきた。
ミカは身体をずらして避ける。
しかし、完全には避けられない。
耐久がさらに減った。
あと一発。
もう、次の攻撃を受ける余裕はない。
「危険ですね」
NoNameが言う。
「そうですね」
「そこからだと、遮蔽物まで少し遠いですよ」
「分かっています」
「それでも、その位置を選びますか?」
ミカは頷いた。
「はい。ここなら、あなたが左右どちらから出てきても撃てます」
「……なるほど」
「ただし、隠れる場所がありません」
「そうですね」
「だから、次は外せません」
NoNameは答えなかった。
その代わり、倉庫の左側へ移動する。
ミカも照準を合わせる。
しかし、まだ撃たない。
NoNameの身体が遮蔽物から少しだけ出る。
撃たない。
すぐ引っ込む。
数秒後、反対側から姿が見える。
ミカは照準を移すが、やはり撃たなかった。
NoNameはまた遮蔽物へ戻る。
互いに、相手が何を待っているのかを探っていた。
「ミカ」
「はい」
「撃たないんですね」
「まだ、当てられると思っていないので」
「見えているのに?」
「見えたことと、当てられることは違います」
ミカは淡々と答えた。
今までは、相手が見えれば撃っていた。
いや、正確には撃てると判断した瞬間、ほとんど迷わず引き金を引いていた。
世界大会でも、その判断の速さが彼女の武器だった。
しかしNoNameとの対戦では、その速さを利用されることがある。
見えたから撃つ。
撃ったら反撃される。
その繰り返しで、何度も負けてきた。
だから今回は、自分が本当に当てられると思った時だけ撃つ。
早く撃つためではない。
確実に撃つためだ。
NoNameが右側から姿を見せる。
ミカは銃口を向ける。
撃たない。
すぐに左側。
今度も追う。
撃たない。
NoNameが少しだけ足を止めた。
「……困りましたね」
「どうしてですか?」
「ミカが撃ってくれないので」
ミカは思わず笑った。
「撃ってほしいんですか?」
「できれば」
「では、出てきてください」
「それは難しいお願いですね」
「勝ちたいので」
NoNameが小さく笑う。
その声を聞いた瞬間、ミカは不思議な感覚を覚えた。
今の会話。
三年前なら、立場が逆だったかもしれない。
NoNameが撃たせる場所を決め、自分がそこへ飛び込んでいた。
撃つべきか、撃たないべきか。
どこへ動くべきか。
自分が迷っている間に、彼が先に正解を見つけていた。
けれど今は。
NoNameが、こちらに撃ってほしいと言っている。
自分が撃たないことで、相手の予定を少しだけ崩せている。
それは彼より上手く盤面を読めたからではない。
ただ、自分が一番大切にしてきた射撃の判断を、自分で選んでいるからだ。
ミカは深く息を吸った。
そして、少しだけ前へ出た。
◇
NoNameは、ミカの動きを見ていた。
遮蔽物の少ない中央高所。
耐久はあと一発分しか残っていない。
こちらにはまだ余裕がある。
まともに撃ち合えば、おそらく勝てる。
だが、ミカは撃ってこない。
NoNameが一瞬だけ姿を見せても、反射的には撃たない。照準だけを合わせ、確実に命中させられる機会を待っている。
それは合理的だった。
ただし、そのまま待ち続けても、ミカが有利になるわけではない。
彼女には遮蔽物がほとんどない。
NoNameがゆっくりと位置を変えれば、いずれ一方的に撃てる角度を作れる。
ならば、こちらも急ぐ必要はなかった。
NoNameは倉庫内を移動し、奥の出口へ向かった。
そこからなら、ミカが構えている方向とは別の角度で射線を作れる。
足音を聞かれても構わない。
ミカがこちらへ対応しようとすれば、その移動を見て撃てばいい。
そう考えた。
しかし、出口へ近づいたところで違和感を覚えた。
ミカの足音が、思っていた位置から聞こえない。
「……?」
NoNameは一度止まり、音を確認する。
正面。
先ほどより近い。
しかも、移動速度が速い。
ミカが中央高所から下りていた。
遮蔽物の少ない場所を捨て、今度は倉庫へ近づいている。
「……そう来ますか」
NoNameはすぐに進路を変えた。
ミカがこちらへ近づくなら、遠距離で撃つための位置取りを維持する意味は薄くなる。
相手が倉庫へ入る前に、こちらから撃てる場所へ出る。
その方が勝ちやすい。
NoNameは出口の手前で構え、ミカが姿を見せるのを待った。
数秒後。
足音が止まる。
近い。
しかし見えない。
NoNameは視線を動かした。
正面の通路。
右側の低い壁。
左側の資材置き場。
どこからでも来られる。
ただし、どの場所から来ても、最初の一歩は撃てる。
そう判断した瞬間。
ミカが、正面から姿を現した。
NoNameは撃った。
命中するはずだった。
ミカは、銃口が向いた瞬間に身体を沈めていた。
弾丸が頭上を抜ける。
彼女はそのまま止まらず、横へ身体を流しながら撃ち返した。
命中。
NoNameの耐久が大きく削れる。
「……!」
NoNameは即座に遮蔽物へ下がった。
危なかった。
あのままもう一発受ければ、自分も倒されていた。
ミカが射線を通しやすい高所から下りた理由が、ここでようやく分かった。
彼女は隠れたかったのではない。
NoNameに近づいて、自分が確実に撃てる距離を作りたかったのだ。
しかも、その距離でNoNameに先に撃たせた。
自分が回避する方向を決めてから、相手の攻撃へ入った。
NoNameは少しだけ笑った。
「……上手いですね」
思わず口から出た。
しかし、返事はなかった。
ミカはもう次の位置へ移動している。
こちらの称賛を聞くよりも、次の一発を当てることへ集中しているのだろう。
NoNameもすぐに意識を切り替えた。
まだ負けていない。
自分の耐久は残っている。
ミカの耐久は、さらに少ない。
次の一撃を当てれば勝てる。
それなら。
自分が取る。
◇
残り耐久は、互いに危険域。
わずかにNoNameが有利。
ミカはその表示を見ながら、先ほどの攻防を思い返していた。
今のNoNameは、確実に自分を倒しに来ている。
防御を優先して時間を使うこともできるはずだ。こちらの耐久が少ない以上、急ぐ必要はない。
それでも彼は、自分から攻撃しようとしている。
勝ちたいから。
今度こそ負けたくないから。
その気持ちが、以前よりはっきりと動きに出ていた。
だからこそ、ミカにも分かる。
次にNoNameが何をしたいのか。
彼は、この一本を取り返したい。
二対二へ戻し、最後の一本まで戦いたい。
そして、できれば自分が先に撃って決めたい。
ミカは、そのすべてを理解した上で構えた。
NoNameが倉庫の右側から姿を見せる。
すぐに引っ込む。
今度は左側。
ミカは照準だけを追う。
撃たない。
NoNameがもう一度右側へ。
ミカも右へ向ける。
その瞬間。
NoNameが左側へ回った。
速い。
今までの動きとは明らかに違う。
右へ出ると見せたあと、すぐ左側から本命の攻撃を通す。
ミカが照準を戻すには時間がかかる。
おそらくNoNameは、そこを狙っていた。
普通なら、間に合わない。
だが。
ミカは、銃口を右側へ完全には向けていなかった。
NoNameの姿を目で追いながら、照準だけは倉庫の中央寄りへ残していた。
どちらの出口から出てきても、最小限の移動で合わせられる位置。
相手がどちらへ出るかを当てたのではない。
どちらへ出ても、自分が撃てるようにしていた。
NoNameが左側から飛び出す。
その瞬間、二人の視線が重なった。
NoNameはミカを見つけた。
ミカもNoNameを見つけた。
ただし。
ミカの照準は、すでにそこにあった。
「――!」
NoNameが引き金を引く。
ミカも、ほとんど同時に撃った。
攻撃が交差する。
一瞬だけ、画面が揺れた。
ミカの耐久は残りわずか。
NoNameも同じ。
次の瞬間。
撃破表示が現れた。
ミカは息を止めた。
画面の中央に、見慣れない文字が表示されている。
勝者。
星野ミカ。
三対一。
試合終了。
NoNameの画面は、先に暗くなっていた。
◇
静かだった。
観戦席からも、対戦者の通信からも、すぐには声が出なかった。
ミカは何度も結果を見直した。
三対一。
星野ミカ。
勝者。
何かの間違いではないかと考えたわけではない。
最後の一撃は、確かに自分が先だった。
照準を合わせる位置も、引き金を引くタイミングも、全部自分で決めた。
NoNameに教わった答えを再現したのではない。
偶然当たったわけでもない。
自分が三年間磨いてきた技術で、確かに勝った。
それなのに。
実感だけが、なかなか追いつかなかった。
「……勝った」
小さく呟く。
誰に向けた言葉でもなかった。
「私が……」
もう一度、結果を見る。
そこに表示された名前は変わらない。
「……NoNameさんに、勝った」
声が震えた。
その瞬間。
「ミカ!」
レナの声が響いた。
「勝った! 本当に勝ったじゃん!」
ほとんど飛びつくような勢いで近づいてきたレナに、ミカは反射的に身を引こうとした。しかし、それより早く肩を掴まれる。
「すごい! 最後の何!? あれ絶対師匠が先に撃つと思ったのに!」
「……レナさん」
「三対一だよ! 私より一本少ないんだけど!」
「それは、対戦内容が違いますから」
「分かってるけど!」
レナは興奮したまま笑っていた。
ユイもゆっくり立ち上がり、ミカの方へ歩いてくる。
「おめでとうございます、ミカさん」
その声は落ち着いていたが、表情はいつもより明らかに柔らかかった。
「最後の一撃、見事でした。NoNameさんがどちらから出るかを決め打ちせず、両方へ対応できる位置に照準を残していましたね」
「……はい」
「最初から考えていたんですか?」
「途中からです」
ミカはまだ少し震える声で答えた。
「NoNameさんが、私に先に撃たせようとしているのは分かりました。だから、撃てる時まで待とうと思って……」
説明しようとして、言葉が止まる。
自分が何を考えていたのかは覚えている。
けれど今は、きちんと整理して話せる自信がなかった。
するとECHOが、静かにミカの隣へ来た。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「今、嬉しいですか?」
ミカは一度目を閉じた。
そうしてようやく、自分の中にある感情を確かめる。
嬉しい。
間違いなく。
世界大会で優勝した時とは違う。
正式世界ランキングの頂点に立った時とも違う。
もっと個人的で、もっと小さな、誰に説明する必要もない喜びだった。
「……はい」
ミカは笑った。
「とても、嬉しいです」
ECHOも頷く。
「私も嬉しいです」
「ありがとうございます」
「でも、少し悔しいです」
ミカは思わず笑ってしまった。
「そうでしょうね」
「次は私も勝ちます」
「私も、次は勝ちたいです」
その言葉を口にした瞬間、ミカはようやく気づいた。
勝った。
三年間追いかけてきた人に、初めて一対一で勝った。
けれど。
これで終わりにしたいとは、少しも思っていない。
むしろ今まで以上に。
もう一度戦いたくなっている。
その時だった。
「ミカ」
NoNameの声が聞こえた。
全員が振り向く。
彼はまだ、自分の敗北画面を見ていた。
表情は普段と大きく変わらない。
しかしミカには、以前より少しだけ分かるようになっていた。
彼は。
かなり悔しがっている。
「……はい」
ミカが答える。
NoNameはゆっくりと顔を上げた。
「負けました」
静かな声だった。
いつも通りの丁寧な口調。
ただし、そこには以前のような穏やかな満足感がなかった。
「三対一です。最後の一撃も、ミカの方が早かったですね」
「……はい」
「私も、あそこは取れると思っていました」
NoNameは自分の手を見た。
「撃つ場所も、出るタイミングも、悪くなかったと思います。それでも」
一度、言葉を切る。
「負けました」
ミカは黙って聞いていた。
NoNameの口元が、少しだけ歪む。
笑おうとしているわけではない。
ただ、どうしても悔しさを隠しきれないようだった。
「……悔しいですね」
その言葉を聞いた瞬間。
ミカの胸が、強く締めつけられた。
三年前から、ずっと聞きたかった言葉だった。
勝ったことを褒められたかったのではない。
強くなったと認めてもらいたかっただけでもない。
この人が、自分に負けたことを本気で悔しがる。
その姿を見たかった。
世界女王になっても、まだ勝てないと公言したあの日から。
ずっと。
「NoNameさん」
「はい」
「……私、勝ちました」
「そうですね」
「手加減、していませんよね?」
自分でも、聞く必要のないことだと思った。
けれど、確認せずにはいられなかった。
NoNameは少しだけ目を細める。
「していません」
即答だった。
「最後まで勝つつもりでした」
「……はい」
「途中までは、私の方が有利だと思っていました」
「そうでしょうね」
「だから、余計に悔しいです」
ミカは視線を下げた。
涙が出そうになっている。
泣くつもりなどなかった。
それなのに、目の奥が熱い。
NoNameは少し困ったように続けた。
「ミカ」
「……はい」
「おめでとうございます」
その言葉に、ミカは顔を上げた。
NoNameは笑っていた。
けれど、いつものように相手の成長を喜ぶ師匠の笑顔ではなかった。
負けたことが悔しい。
それでも相手が勝った事実は認める。
そういう、一人の競技者の顔だった。
「本当に、負けたくなかったです」
NoNameは言った。
「でも、ミカが勝ちました」
ミカは唇を噛んだ。
そして。
「……ありがとうございます」
ようやく答えた。
声が震えた。
レナが何か言いかけたが、ユイが静かにその肩へ手を置いた。
今は、二人の時間だった。
◇
しばらくして、NoNameが自分の対戦結果を閉じた。
ECHOに三対二で勝利。
ユイに三対二で勝利。
レナに二対三で敗北。
ミカに一対三で敗北。
四人との一対一は、二勝二敗という結果で終わった。
NoNameはその数字をしばらく見つめていた。
負けたことは悔しい。
しかも二度。
レナには最後の最後で読みを外され、ミカには有利な状況から撃ち負けた。
どちらも、自分の判断が完全に間違っていたわけではない。
最初から勝ち目のない戦い方をしたわけでも、相手へ合わせて手加減したわけでもなかった。
本気で考え、勝てると思った選択をして。
それでも負けた。
「……二勝二敗ですか」
NoNameが呟く。
ユイが頷いた。
「そうですね。全員、三本先取まで戦いました」
「簡単ではありませんでした」
「当然です。私たちも勝つために戦っていますから」
「そうですね」
NoNameは笑った。
その笑顔に、少しだけ苦さが混じる。
するとレナが、どこか心配そうに尋ねた。
「師匠、やっぱり落ち込んでる?」
「落ち込んでいる、というほどではありません」
「ほんと?」
「はい。ただ、かなり悔しいです」
「……そっか」
レナは少しだけ考えてから、いつものように笑った。
「じゃあ、また勝負しよう!」
「そうですね」
「私、次も勝つから!」
「今度は私が勝ちます」
「言ったね!?」
「はい」
そのやり取りへ、ミカも静かに加わった。
「私も、次は負けるつもりはありません」
「ミカまで!」
「当然でしょう。今日一度勝ったからといって、次も勝てる保証はありませんから」
NoNameがミカを見る。
「もう一度、戦ってくれますか?」
ミカは少しだけ驚いた。
そして、すぐに笑った。
「何度でも」
その返事に、NoNameも笑みを返す。
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい?」
「今度は、私の方から誘います」
NoNameが瞬きをした。
「そうですか?」
「はい」
ミカは自分の手を見た。
ほんの少し前まで、三年間追いかけてきた相手に勝つことが、何より大きな目標だった。
今、その目標は一度だけ達成された。
けれど終わりではない。
次も勝ちたい。
その次も。
そして、いつか自分が負けたら、また取り返したい。
そんな関係を続けていきたい。
「NoNameさん」
「はい」
「私、もうあなたの背中だけを追いかけるつもりはありません」
NoNameは黙って聞いていた。
「今日、初めて勝ちました。でも、これであなたを越えたとは思っていません」
「そうですか」
「はい」
ミカは笑った。
「だって、次は私が負けるかもしれませんから」
NoNameも少し笑う。
「できれば、そうなってほしいですね」
「……そういうことを普通に言えるようになったんですね」
「勝ちたいので」
「知っています」
ミカは嬉しそうに頷いた。
「私もです」
それだけで十分だった。
三年間の勝負が終わったわけではない。
初めて、一度だけ勝った。
そして次は、またどちらが勝つか分からない。
そのことが、何よりも嬉しかった。
◇
四人との一対一を終えたあと、NoNameはしばらく何もせずに座っていた。
ミカたちは対戦映像を見直し始めている。
レナは自分の勝った場面を何度も確認し、ユイは敗れた最終本の選択肢を整理している。ECHOも自分がNoNameを読めた瞬間を探しているらしい。
普段なら、NoNameもそこへ加わっていただろう。
誰が何を見たのか。
どんな判断をしたのか。
何が勝敗を分けたのか。
互いに話し合うこと自体は嫌いではない。
むしろ今でも好きだ。
だが、今日は少し違った。
相手側の映像を見せてもらえば、負けた理由をもっと正確に理解できるかもしれない。
けれど。
今は、自分の中で考えたかった。
レナに負けたこと。
ミカに負けたこと。
そして、その二人へもう一度勝ちたいと思っていること。
それらを、誰かへ説明するための材料にしたくなかった。
「……負けましたね」
独り言のように呟く。
しかし、すぐ隣にいたECHOには聞こえていた。
「はい」
NoNameが顔を上げる。
「聞こえていましたか」
「聞こえました」
「少し恥ずかしいですね」
ECHOはしばらくNoNameを見てから、首を傾げた。
「でも、嬉しそうです」
「そう見えます?」
「はい」
NoNameは考えた。
悔しい。
確かに悔しい。
それなのに。
「……そうですね」
自然に笑みが浮かんだ。
「また戦いたいと思っています」
ECHOも頷いた。
「私もです」
「次は勝ちたいですか?」
「はい」
「私もです」
ECHOが少しだけ笑う。
「同じです」
NoNameは、その言葉を聞いて不思議な気持ちになった。
世界女王たちと自分。
少し前まで、同じ場所に立っているとは考えられなかった。
自分は教える側。
彼女たちは挑戦する側。
そういう関係だった。
けれど今は。
負けたら悔しくて、勝ったら嬉しい。
次も勝ちたい。
もう一度戦いたい。
それだけなら、何も違わない。
NoNameは一度深く息を吐き、自分の端末を開いた。
そこには、数日前に作られたばかりの公開競技者プロフィールがある。
NoName。
所属、Crownless。
正式ランキング未参加。
公式戦績、零戦零勝零敗。
今日の練習結果は、そこへ反映されていない。
あくまで非公開の一対一だからだ。
それでも、NoNameの中には確かなものが残っている。
二勝二敗。
今の自分は、あの四人へ簡単には勝てない。
そして数日後。
今度は公開エキシビションがある。
同じ四人と、再び戦う。
ただし次は、四対四。
NoNameの側にはORIGINATOR、QUEEN、VOIDがいる。
それぞれ自分の意思を持ち、自分の勝ちたい相手を選ぶ三人。
その三人と一緒に。
今度は、勝ちたい。
NoNameは通信画面を開いた。
ORIGINATORの名前を選ぶ。
少し迷ったあと、通話を開始した。
数秒で繋がった。
『おう。終わったか?』
「はい」
『どうだった?』
NoNameは一度、自分の対戦履歴を見た。
「二勝二敗でした」
短い沈黙。
『……は?』
「四人と一対一をして、二勝二敗です」
『いや、そこは聞こえた。お前が二回負けたってことか?』
「はい」
通信の向こうから、ORIGINATORが大きく笑う声が聞こえた。
『お前、そりゃ面白えじゃねえか!』
「私は、かなり悔しいんですが」
『知るか。相手が世界女王なんだから、負けたっておかしくねえだろ』
「そうですね」
『それで? わざわざ負けた報告か?』
NoNameは少し黙った。
違う。
報告だけなら、メッセージでもよかった。
今、直接話したかった理由は別にある。
「ORIGINATOR」
『何だ?』
「少し、お願いがあります」
通信の向こうが静かになった。
『……お前から?』
「はい」
『珍しいな。言ってみろ』
NoNameは自分の戦績を見る。
勝った二試合。
負けた二試合。
いずれも、今の自分が選んだ結果だった。
昔の自分なら、この情報を使って三人の配置を考えただろう。
誰をどこへ置くか。
誰が何をすれば勝てるか。
誰を囮にして、誰に最後の一点を取らせるか。
その答えを先に用意し、全員へ渡したはずだ。
けれど、今は。
そうしたくなかった。
「次の公開試合」
NoNameは静かに言った。
「私、一人では勝てないかもしれません」
ORIGINATORは何も言わない。
「今日、よく分かりました。あの四人は、私が思っていた以上に強くなっています」
『そうだろうな』
「なので」
NoNameは一度だけ息を吸った。
「皆さんの力を、貸してもらえませんか」
通信の向こうで、椅子が動くような音がした。
ORIGINATORはしばらく黙っていた。
そして。
『……お前』
「はい」
『今、何て言った?』
「力を貸してほしいと」
『勝つために?』
「はい」
NoNameは自分の胸の内を確かめた。
そこにあるのは、以前のような義務感ではない。
誰かの成長を証明するためでも、昔の失敗をやり直すためでもない。
自分が勝ちたい。
ただ、そのために。
自分一人では足りないと思っている。
「私、勝ちたいんです」
NoNameは言った。
「でも、今のCrownlessの四人には、一人では勝てないかもしれません」
少しだけ笑う。
「だから、三人と一緒に勝ちたいです」
通信の向こうで。
ORIGINATORが、静かに笑った。
『……なるほどな』
「難しいでしょうか」
『難しいに決まってんだろ』
「そうですよね」
『相手は大会優勝チームだぞ。しかも、今日お前を二回負かしたんだろ?』
「はい」
『そんな連中に勝ちたいって言ってるんだから、簡単なわけねえ』
NoNameは頷いた。
「それでも」
『ああ』
ORIGINATORの声が変わった。
からかうような調子ではない。
昔の仲間として。
そして今、同じチームで戦う一人の競技者として。
『俺も勝ちたい』
NoNameは静かに聞いていた。
『QUEENもVOIDも、勝つつもりで来てる。お前だけが勝ちたいわけじゃねえんだよ』
「……はい」
『だから、頼む必要なんかねえ』
ORIGINATORは笑った。
『一緒に勝とうぜ、NoName』
その言葉を聞いた瞬間。
NoNameは、不思議なほど胸が軽くなるのを感じた。
昔は。
自分が勝たせなければならないと思っていた。
自分が全員を動かし、誰が何をすれば勝てるかを決めなければならないと思っていた。
それができなくなった時。
チームはなくなった。
けれど今は。
自分が勝ちたいと言っただけで。
同じように勝ちたいと言ってくれる人がいる。
自分へ全部を任せるのではなく。
自分も一緒に勝とうと言ってくれる人がいる。
「……ありがとうございます」
NoNameは静かに答えた。
「では、次の練習は」
少しだけ言葉を選ぶ。
「私たち四人で、お願いします」
『おう』
ORIGINATORが笑う。
『ただし、言っとくぞ』
「何でしょう」
『俺はお前の指示待ちで動く気はねえからな』
「知っています」
『勝ちたい時は勝手に行く』
「はい」
『お前が邪魔なら、邪魔って言う』
「それは困りますね」
『困れ』
NoNameは思わず笑った。
「では、私も言います」
『何を?』
「私が勝ちたい時は、勝ちたいと言います」
少しの沈黙。
そしてORIGINATORの笑い声が、大きく響いた。
『いいじゃねえか。それでこそ面白い』
NoNameも笑った。
四人との一対一は終わった。
二勝二敗。
決して満足できる結果ではない。
それでも。
この結果がなければ、今の自分はこんな電話をかけなかったかもしれない。
昔の仲間へ。
勝つために力を貸してほしいと、自分から頼むことなど。
きっと、できなかった。
NoNameは通信を終え、もう一度公開イベントのページを開いた。
そこには今も、短い一文が残っている。
勝ちたいです。
数日前、自分で書いた言葉。
あの時は、ただ一人の競技者として勝ちたいと思っていた。
今は少しだけ違う。
自分が勝ちたい。
そして。
自分で選んだ三人と、一緒に勝ちたい。
その二つは、もう矛盾しない。
NoNameは画面を閉じた。
隣では、ミカたちがまだ対戦映像を見ている。
レナが自分の勝った場面を見せ、ユイが別の選択肢を指摘し、ECHOが思ったことをそのまま口にしていた。ミカは時折笑いながら、自分がNoNameを撃ち抜いた最後の場面を確認している。
四人とも、楽しそうだった。
そして数日後。
その四人は、またNoNameの敵になる。
NoNameは静かに笑った。
今度こそ。
勝ちたい。
その気持ちは、もう誰かに教えてもらう必要がなかった。
自分自身が、一番よく知っていた。




