第八十五話 師匠だからじゃなく、あなたに勝ちたい
スコアは一対一。
試合開始から、二分を少し過ぎたところだった。
NoNameは逃げるレナを追いながら、さきほど自分が倒された場面を頭の中でもう一度なぞっていた。
レナが踏み込む。自分が反撃を選ぶ。そこで彼女が止まり、ユイが合わせた。
仕組みだけを見れば単純だった。
一度見た以上、同じ形をもう一度通させるつもりはない。
ただし、それはレナも同じだろう。
「師匠、さっきから絶対なんか考えてる!」
前方を走りながら、レナが振り返る。
「考えていますよ」
「やっぱり!」
「勝ちたいので」
「そういうの、まだ慣れないんだけど!」
レナは笑いながら角を曲がった。
その瞬間、足音が消える。
NoNameは角へ飛び込まなかった。
速度だけを落とし、壁際で止まる。
レナは逃げ続けていない。
おそらく角の先で待っている。
以前のレナなら、そのまま距離を取ってから再び勢いをつけていた。だが今の彼女は、自分から止まることを覚えている。
そして、さきほど一度それでNoNameを倒した。
ならば、もう一度同じものを見せる理由もある。
同じに見せて、違うことをするために。
「……来ない」
壁の向こうから、小さな声が聞こえた。
「聞こえていますよ」
「うわっ」
レナが思わず顔を出した。
NoNameはそこへ攻撃しなかった。
目が合う。
「なんで撃たないの!?」
「今のは、あまり面白くないので」
「試合中に面白さ優先し始めた!?」
「勝つことも優先しています」
「どっちなの!」
「両方です」
自分で言ってから、NoNameは少しだけ笑った。
以前なら、そんな答えは選ばなかった。
勝つために必要か。
相手のためになるか。
そのどちらでもなく、単純に自分が面白いと思うかどうかを、試合中の判断へ混ぜている。
レナもそれを感じたのか、壁から半身を出したまま妙な顔をした。
「……師匠、今日ほんと変」
「そうかもしれません」
「でも」
レナは一度引っ込み、今度は堂々と角から出てきた。
「そっちの方がいい」
NoNameの視線がわずかに動く。
「そうですか?」
「うん。だって今まで、私らが勝っても負けても、師匠って最後には嬉しそうだったじゃん」
レナは距離を測りながら、ゆっくり前へ出てくる。
「こっちは本気で悔しいのに、『いいですね』とか言われるし。褒められて嬉しいけど、なんかずるいなって思ってた」
「……ずるい、ですか」
「師匠だけ勝負の外にいるみたいだったから」
その言葉に、NoNameは答えなかった。
否定できなかったからだ。
勝っても、相手が何かを掴めば嬉しかった。
負けても、相手が自分を越えたなら、それでいいと思っていた。
それは嘘ではない。
けれど確かに、自分だけ別の場所に立っていたのかもしれない。
「でも今日は」
レナが構える。
「負けたら悔しいんでしょ?」
「はい」
「じゃあ、遠慮しなくていいね」
「今まで遠慮していたんですか?」
「ちょっとは!」
「それは困りますね」
「だからもうしない!」
レナが踏み込んだ。
速い。
けれど、さきほどとは違う。
最初から止まることも、止まらないことも決めていない。
NoNameの反応を見て、その場で選ぶつもりだ。
ならばこちらも、先に答えを決める必要はない。
NoNameは初撃をかわしながら前へ入った。
レナが止まる。
NoNameも止まる。
先ほどと同じ、互いに動かない一瞬が生まれた。
だが今度は、その静止を破ったのはNoNameだった。
さらに半歩だけ踏み込む。
「近っ!」
レナが反射的に下がった。
その後退を見て、NoNameは追う。
レナは逃げながら反撃しようとしたが、その手が伸びるよりわずかに早く、NoNameの攻撃が届いた。
撃破判定。
表示が変わる。
二対一。
「……あーっ!」
倒されたレナの声が通信へ響いた。
NoNameはスコアを確認してから、ほんの少し息を吐いた。
「取り返しました」
「嬉しそう!」
「はい。少し」
「少しじゃないでしょ!」
「かなり、かもしれません」
「認めるの早くなってる!」
レナの抗議を聞きながら、NoNameは自分の頬が緩んでいることを自覚していた。
さきほどの一点とは違う。
誰かの成長を確認できた満足感ではない。
単純に、自分が勝ったことが嬉しい。
その感情は思っていたよりもずっと分かりやすかった。
しかし、喜んでいられたのは数秒だけだった。
別の場所で撃破音が響く。
スコア表示が再び変わった。
二対二。
『取りました』
ミカの声だった。
続いてQUEENが通信へ入る。
『……今のは私の負けね』
『はい』
『ちょっとは嬉しそうにしたら?』
『とても嬉しいですよ』
『顔に出なさすぎなのよ』
『あなたに言われたくありません』
ミカの返答はいつも通り穏やかだったが、NoNameには分かった。
声が少しだけ弾んでいる。
しかも、彼女が倒したのはQUEENだ。
世界ランキング一位。
かつてミカから女王の座を奪った相手。
本来なら、それだけで大きな意味を持つ一点だった。
ところがミカは勝利を確認すると、すぐに盤面を見渡した。
そしてNoNameを見つけた。
「NoNameさん」
「はい」
「次、そちらへ行きます」
NoNameが瞬きをする。
「QUEENとの続きをしなくていいんですか?」
「今はいいです」
『私はよくないんだけど?』
QUEENの声が割り込む。
ミカは無視した。
「今、NoNameさんと戦いたくなりました」
「私と?」
「はい」
ミカはすでに移動を始めている。
NoNameも自然に彼女の進路を読む。
合理的には、避けてもいい。
現在の盤面ではORIGINATORがユイと競り合い、VOIDとECHOも互いに一点を狙っている。NoNameがミカを引きつければ、QUEENが自由になる。
勝敗だけを考えるなら悪くない形だ。
しかしミカの言葉を聞いた瞬間、NoNameの中で別の答えが出ていた。
「分かりました」
『ちょっとNoName、私を無視しないでくれる?』
「QUEEN」
『何よ』
「ミカを借ります」
『……あなたまでそういう言い方するようになったの?』
「嫌でしたか?」
『後で覚えてなさい』
通信が切れる。
NoNameが少し首を傾げているうちに、ミカが正面へ姿を現した。
レナのように勢いよく飛び込んではこない。
一定の距離を保ったまま、こちらが何を見るかを慎重に探っている。
「NoNameさん」
「はい」
「一つだけ、先に言っておきたいことがあります」
「何でしょう」
ミカは武器を構えたまま、わずかに視線を細めた。
「私は、師匠に勝ちたいわけではありません」
NoNameは少しだけ黙った。
ミカが続ける。
「以前なら、そうだったかもしれません。あなたに認めてもらいたいとか、成長したところを見せたいとか、そういう気持ちがかなり強かったと思います」
それは今も消えてはいないのだろう。
けれど、それだけではない。
「今日は違います」
ミカの銃口が、真っ直ぐNoNameへ向く。
「NoNameさんだから、勝ちたいです」
「……私だから?」
「はい」
ミカはほんの少しだけ笑った。
「あなたが私たちに勝ちたいと思ってくれたので、私もあなたに勝ちたいです」
その言葉は、NoNameの予想より深く入ってきた。
師匠と弟子だからではない。
世界女王と、その上にいる謎のプレイヤーだからでもない。
ただ一人の対戦相手として。
勝ちたいと思われている。
NoNameは、それをどう受け取ればいいのか一瞬分からなかった。
嬉しい。
それは分かる。
けれど同時に、妙に胸の奥が落ち着かない。
「……困りましたね」
「嫌ですか?」
「いいえ」
NoNameは首を横に振った。
「むしろ、かなり嬉しいです」
ミカの表情が一瞬だけ崩れた。
「そういうことを、その顔で普通に言うのは反則だと思います」
「すみません」
「謝るところでもありません」
ミカは息を整えた。
いつもの彼女へ戻る。
「それでは、始めましょう」
「はい」
「教えないでくださいね」
「今日は教えません」
「手加減も」
「しません」
NoNameは少しだけ間を置いた。
「私も、ミカに勝ちたいので」
今度こそ、ミカの動きが止まった。
ほんの一瞬だけ。
「……それは」
「はい?」
「後で文句を言います」
「なぜですか?」
「今は説明しません」
言葉と同時に、ミカが撃った。
NoNameは横へ飛ぶ。
初撃は外れた。
しかし、そこはミカが逃げ道として残した方向だった。
二発目が来る。
NoNameは遮蔽物へ入る直前で進路を変え、逆に距離を詰めた。
ミカもすぐに対応する。
互いに、相手が何を得意とするか知り尽くしている。
NoNameはミカがどこを見ているか分かる。
ミカも、NoNameが自分の視線や癖を読んでいることを知っている。
だからこそ、単純な読み合いにはならなかった。
ミカは自分の癖を消そうとしない。
むしろ見せる。
NoNameがそれを材料にすることまで含めて、次の選択を変える。
「なるほど」
「何も教えないんですよね?」
「感想です」
「なら、構いません」
ミカの攻撃が遮蔽物を削る。
NoNameはその隙に位置を変えようとした。
しかし、足を踏み出した瞬間。
「そっちは行かせません」
ユイの声がした。
遠方から援護が飛んでくる。
NoNameは回避を強制された。
その先へ、ミカがいる。
今度は逆だった。
先ほどレナとユイがNoNameを落とした形に似ている。
だが、完全には同じではない。
ユイはNoNameを倒すために援護したのではない。
ORIGINATORと戦いながら、たまたま見えた一瞬へ一発を置いただけだった。
『ユイ、お前よそ見してんじゃねえよ』
『見えるものを見ただけです』
『じゃあ俺も好きにやるぞ』
『どうぞ』
直後、ORIGINATORがユイへ強引に踏み込む。
ユイはそちらへ意識を戻した。
もう援護は来ない。
だからこそ、NoNameは笑った。
誰も自分のためだけに動いていない。
それなのに、それぞれが自分の勝負をした結果として盤面が繋がっていく。
面白い。
本当に、面白い。
「NoNameさん」
正面からミカが来る。
「今、笑いましたね」
「はい」
「余裕ですか?」
「いいえ」
NoNameは彼女の攻撃を紙一重で避ける。
「楽しいだけです」
「私もです」
ミカが珍しく、はっきり笑った。
その瞬間だった。
NoNameはミカの次の一歩を読んだ。
右へ行く。
そう判断して先回りする。
しかし、ミカは左へ行った。
NoNameの目がわずかに見開かれる。
読まれた。
ミカは、自分が右へ行くとNoNameが読むことを分かった上で、最後の瞬間に変えた。
それも、かつてNoNameから教えられたからではない。
何度も戦い、何度も負け、そのたびにNoNameが何を見ているのかを考え続けた結果だった。
「捕まえました」
ミカの照準がNoNameへ重なる。
この距離では避けきれない。
NoNameは反射的に撃ち返す。
二つの攻撃がほぼ同時に届いた。
撃破表示が二つ。
相討ち。
スコアは三対三になった。
復帰待ちの画面で、NoNameとミカの通信だけが短く繋がる。
「……惜しかったです」
NoNameが言うと、ミカは少し不満そうに返した。
「勝ったと思いました」
「私もです」
「次は相討ちでは終わりません」
「はい」
NoNameは自然に笑っていた。
「私も、次は勝ちます」
少しの沈黙。
やがてミカも笑う。
「では、競争ですね」
「そうですね」
師匠と弟子ではない。
教える側と教わる側でもない。
互いに次は自分が勝つと言い合える。
その関係を、NoNameはまだ何と呼べばいいのか知らなかった。
ただ、一つだけ分かる。
この試合が終わってほしくない。
そんなことを思ったのは、いつ以来だっただろう。
復帰までのカウントが減っていく。
残り三秒。
二秒。
一秒。
そして盤面へ戻る直前、全員の通信へECHOの声が入った。
『次の一点、私が取る』
すぐにVOIDが返す。
『それは私が取る』
ORIGINATORが笑い、QUEENが呆れ、レナまで「じゃあ私も!」と割り込んでくる。
ユイは「全員で同じ一点を取りには行かないでください」と冷静に注意したが、声には明らかに笑いが混じっていた。
NoNameはそのやり取りを聞きながら、復帰地点へ降り立った。
三対三。
次の一点が、初めて試合の均衡を大きく動かす。
そしてNoNameは、誰より先に前へ走り出した。
今度は誰かに呼ばれたからではない。
教えるためでもない。
ただ自分が、その一点を欲しかった。




