第八十四話 負けたら、やっぱり悔しいですね
試合開始から一分四十七秒。
スコアは、まだ零対零だった。
けれど、盤面はその数字ほど静かではない。
遮蔽物の向こうで黒瀬レナがわずかに重心を落としたのを見て、NoNameは自分も構えを変えた。いつもなら、その小さな変化から彼女が次に選ぶ動きをいくつも拾い上げる。右へ踏み込む確率、フェイントを挟む可能性、仲間からの援護を待つ時間。そうしたものを積み重ねれば、レナが動く前から彼女の選択肢を減らすことは難しくない。
もちろん、今だって見えている。
ただし今日は、それを彼女へ教えるために使うつもりはなかった。
「師匠」
レナが笑った。
「ほんとに、そこから退かないんだね」
「はい」
「私の間合いだよ?」
「知っています」
「それで来る?」
いつもなら、そこで何かを問い返していたかもしれない。
どうして前へ出るのか。
何を見ているのか。
もし一歩止まったら何が変わるのか。
けれどNoNameは何も尋ねず、自分から一歩踏み込んだ。
「来ます」
「っ、そうこなくちゃ!」
レナが迎え撃つ。
互いの距離が一瞬で消えた。
先に動いたのはレナだった。正面から入ってくるNoNameへ迷わず攻撃を重ね、逃げ道を作らせない。NoNameは初撃を外へ流し、次を半歩だけ下がって避けたが、それは離脱のためではない。すぐに前足へ重心を戻し、レナの攻撃が切れるより早く差し返した。
レナの目が見開かれる。
「うわ、本当に殴り合う気じゃん!」
「今日は、そのつもりです」
NoNameの返答に、少し離れた位置から盤面を見ていた月城ユイが息を呑んだ。
これまでなら、NoNameがレナのもっとも得意な距離へ自分から入ることなど、ほとんどなかった。そこへ入る必要があれば別だ。しかし、わざわざ不利な場所を選び、そこで勝負することに意味を求める人ではなかった。
意味はもう聞いている。
やってみたかったから。
勝てるか試したかったから。
ただ、それだけだ。
ユイは一度だけ視線を伏せ、それから通信を開いた。
「レナさん。そのまま続けてください」
「了解!」
「ミカさんは左へ。ECHOさんはそのままVOIDさんを見ていてください」
星野ミカがすぐに動きながら尋ねた。
「NoNameさんを囲みますか?」
「いいえ」
ユイは首を振った。
以前の自分なら、盤面上もっとも価値の高い相手へ戦力を集中させていたかもしれない。NoNameを落とせるなら、そのための正解を組み立て、全員をそこへ動かそうとしただろう。
だが、それでは今までと変わらない。
「レナさんが戦いたがっていますから、あそこはレナさんに任せます」
一拍置いて、ユイは続けた。
「私たちは、私たちが取りたいところを取りにいきます」
ミカが小さく笑った。
「はい」
それだけで十分だった。
Crownlessの四人が同時に動く。
ECHOはVOIDを追っていた。だが、相手が退いたから追うのではない。自分がそこへ行きたいから前へ出る。VOIDもそれを感じ取ったのか、ただ距離を取るのをやめ、進路を変えて真正面からECHOを迎えた。
「来る」
「行きます」
「知ってる」
必要な言葉だけを交わし、二人はぶつかる。
一方でミカは、NoNameたちの側面へ回り込もうとしていたORIGINATORの進路を遮った。
ORIGINATORが足を止める。
「そっちは俺か」
「はい。今は、あなたと戦いたいので」
「いい顔するようになったじゃねえか」
「誰のおかげだと思っています?」
「俺じゃねえことだけは分かる」
答えながら、ORIGINATORは楽しそうに笑った。
そのさらに奥では、QUEENがユイを見ていた。
「ミカじゃなくて、あなた?」
「不満ですか?」
「少し。でも今はいいわ」
QUEENは肩をすくめながらも、その視線はすでに完全にユイへ向いている。
誰もNoNameの指示を待っていなかった。
そしてNoNameも、それを止めなかった。
自分が組んだ四人を、一つの完成された形として動かそうとはしない。
ORIGINATORにはORIGINATORが戦いたい相手がいて、QUEENにはQUEENの意思があり、VOIDにも自分の選択がある。それぞれが勝つために考え、自分で動いている。
NoNameは一瞬だけ、その盤面を見た。
昔の自分なら、きっと口を出していた。
ORIGINATORをどこへ置けばもっと効率がいい。
QUEENにはどの位置を取らせるべきか。
VOIDを何秒遅らせれば相手の形が崩れるか。
それらは、今も分かる。
けれど。
「師匠!」
レナの声が飛んだ。
NoNameはすぐに視線を戻した。
ほんの一瞬。
盤面全体を見た、その一瞬だった。
レナが踏み込んでいる。
NoNameは反応できた。初撃を避け、そのまま返そうとする。しかしレナは追わなかった。以前の彼女なら、そのまま勢いに任せて二撃目、三撃目まで重ねていたところで、そこで止まった。
NoNameの手がわずかに遅れる。
「……なるほど」
「それ、前に師匠が教えたやつじゃないからね!」
レナは笑いながら、止まった状態から横へ踏み込んだ。
NoNameの反撃が空を切る。
さらに、その瞬間。
「今です」
ユイの声が飛んだ。
遠距離から一発だけ、援護が入る。
NoNameはそれも視界に捉えたが、避ければレナへ背を向ける。レナを警戒すればユイの一撃が通る。
そしてNoNameは、避けるより先に理解した。
これはユイが決めた形ではない。
レナが自分で止まり、その選択を見たユイが合わせた。
先に用意された正解ではない。
互いが自分で選んだ結果が、偶然ではなく信頼によって噛み合った。
「――取った!」
レナの攻撃が入った。
直後、ユイの援護も重なる。
撃破判定。
表示されたスコアが変わった。
一対零。
Crownlessが、先制した。
ほんの数秒、観戦席まで静まり返った。
倒されたNoNameの視界に、スコア表示だけが残る。
その文字を見ながら、NoNameはしばらく何も言わなかった。
レナも、最初は勝った喜びのまま笑っていた。しかし相手がNoNameだと思い出したのか、少しずつ表情が変わっていく。
「……師匠?」
「はい」
「もしかして、今のわざと?」
「いいえ」
即答だった。
レナが瞬きをする。
「ほんとに?」
「本当に負けました」
NoNameは静かに答えてから、もう一度、一対零という表示を見た。
胸の奥に、妙な感覚が残っていた。
レナが止まったことは嬉しい。
ユイがそれを信じて合わせたことも嬉しい。
二人が自分の知らない形で連携したことも、素直にすごいと思う。
以前なら、そこで満足できた。
自分の知らないものを見せてもらえた。それだけで、十分だったはずだ。
けれど今日は。
「……困りましたね」
NoNameが呟く。
レナが警戒したように眉を寄せた。
「何が?」
「嬉しいんですが」
NoNameは少しだけ考えてから、自分の中にあるものを、そのまま言葉にした。
「それ以上に、悔しいです」
レナが固まった。
少し離れたところにいるミカまで、ORIGINATORとの間合いを保ったまま振り返った。
「……NoNameさんが」
ユイも思わず口を止める。
ECHOだけはVOIDから目を離さなかったが、通信越しに短く言った。
「重要です」
「何が?」
VOIDが尋ねる。
「NoNameが、負けて悔しがってる」
「……それは、確かに珍しい」
撃破後の復帰地点へ戻ったNoNameは、自分の手を一度だけ握って開いた。
嫌な感情ではない。
負けたことそのものは、当然嬉しくない。
もっとできたはずだとも思う。
あの瞬間、盤面全体へ意識を広げず、レナだけを見ていれば違ったかもしれない。あるいはレナが止まる可能性をもっと高く見積もっていれば、ユイの援護まで含めて対応できた可能性もある。
理由はいくらでも考えられる。
けれど、それを相手へ伝える気にはならなかった。
自分が負けた理由を説明するより先に、もう一度戦いたかった。
「師匠」
「はい」
「その顔、ずるくない?」
「顔ですか?」
「なんで負けたのにちょっと楽しそうなの」
言われてから、NoNameは初めて自分が笑っていることに気づいた。
「……そう見えますか?」
「見える!」
「では、多分楽しいんでしょうね」
「自分で分かってないの!?」
レナの声が大きくなる。
その横で、ミカが小さく息を吐いた。
「レナさん」
「なに?」
「今だけは、少し羨ましいです」
「えっ」
「最初にNoNameさんから一点を取ったのは、レナさんなので」
「……ミカ、それ今言う?」
「はい」
穏やかな口調のまま、ミカの目だけがまったく笑っていない。
QUEENがそれを見逃すはずもなかった。
「あなた、やっぱり嫉妬してるじゃない」
「試合中ですよ、QUEEN」
「否定しないのね」
「今はあなたを倒すことを優先します」
「私、ユイと戦ってたはずなんだけど?」
「予定変更です」
ミカがORIGINATORから離れ、QUEENの方へ進路を変えた。
「ちょっと待て。俺は放置か?」
ORIGINATORが呆れた声を出す。
そこへユイが入れ替わるように前へ出た。
「では、私が相手をします」
「お前ら自由だな」
「あなた方に言われたくありません」
「違いねえ」
盤面が再び動き出した。
だが、今度はNoNameも復帰している。
スコアは一対零。
まだ一ポイントしか動いていない。
それでも、試合開始前とはまるで違って見えた。
NoNameは味方の位置を確認する。
ORIGINATORはユイと向き合い、QUEENはミカを迎え撃とうとしている。VOIDとECHOは、相変わらず互いだけを見ている。
誰に何をさせるべきかは分かる。
けれど、NoNameはそれを言わなかった。
代わりに通信を開く。
「ORIGINATOR」
「あ?」
「右側、少し借りてもいいですか?」
命令ではなかった。
ORIGINATORが一瞬だけ黙り、それから笑う。
「理由は?」
「そこからだと、私がレナを狙いやすいので」
「また行くのかよ」
「はい」
「勝つために?」
NoNameは少し考えた。
勝つためだけなら、別の選択肢もある。
もっと安全な場所。
もっと効率のいい相手。
もっと高い確率で一点を取り返せる動き。
それでも、今いちばんやりたいことは決まっていた。
「さっき負けたので、もう一度やりたいです」
ORIGINATORが声を上げて笑った。
「そういうのを聞きたかったんだよ」
彼はユイから距離を取りながら、右側の経路を空ける。
「好きに使え。俺は俺で取る」
「ありがとうございます」
「礼はいらねえ。あと今度は負けんな」
「努力します」
「そこは勝つって言え」
NoNameはわずかに目を細めた。
「では、勝ちます」
通信を聞いていたQUEENが鼻で笑う。
「随分まともな競技者みたいなことを言うようになったじゃない」
「今日は競技者のつもりですから」
「なら、こっちに指示はいらないわよ」
「はい。最初からそのつもりです」
「結構」
QUEENは満足そうに答え、ミカの進路へ自分から踏み込んだ。
NoNameも走る。
再びレナのいる方へ。
レナはそれに気づくと、一瞬だけ驚き、すぐに口元を吊り上げた。
「また私!?」
「はい」
「次は逃げても知らないよ!」
「追います」
「うわ、師匠がそういうこと言うようになった!」
レナは笑いながら迎え撃つ。
ただし、さっきと同じ動きはしない。
NoNameも同じだった。
一度負けた。
だから変える。
けれど、相手に正解を教えるためではない。
自分が勝つために考える。
レナの最初の踏み込みを見て、NoNameは今度は下がらなかった。半歩だけ横へずらし、攻撃が伸び切る前に内側へ入る。
レナが反応する。
「そこ!」
止まる。
さっきと同じ選択。
しかしNoNameは、今度はその停止を待っていた。
反撃しない。
レナが止まった瞬間、自分も止まった。
「え」
一瞬だけ、互いに何もしない時間が生まれる。
レナの目が揺れる。
先に止まるという選択を覚えた彼女に対し、その選択を読んだから攻撃するのではなく、同じ場所で待った。
次にどうするか。
それを決める時間を、互いに持った。
レナが先に笑う。
「……それ、ずるい」
「何がですか?」
「私が次どうするか、楽しみにしてる顔」
「はい。楽しみです」
「でも今日は教えないんでしょ?」
「教えません」
「じゃあ――」
レナが再び前へ出る。
「勝手にやる!」
「私もそうします」
二人が同時に動いた。
その瞬間、別方向で大きな撃破音が響く。
表示が変わった。
一対一。
誰が取ったのか確認するより先に、通信へ声が入った。
『取った』
ECHOだった。
その直後、VOIDの声も聞こえる。
『次は取る』
『うん。私も次を取る』
互いにそれだけ言い、再び戦闘へ戻っていく。
NoNameは一瞬だけ、そのやり取りを聞いて笑った。
自分の知らないところで、仲間も相手も、それぞれ勝ちたがっている。
誰も答えを待っていない。
誰も教えてもらおうとしていない。
だからこそ、自分も好きに勝ちにいける。
レナの攻撃が頬のすぐ横を抜ける。
NoNameはそれを紙一重でかわし、今度は自分から追った。
「師匠、速っ!」
「さっき負けましたから」
「根に持ってる!?」
「少し」
「認めた!」
レナが笑いながら逃げ、その背をNoNameが追う。
追いながら、NoNameは思った。
悔しい。
だから取り返したい。
勝ちたい。
もう一度、この人たちと戦いたい。
どれも今までなら、自分の中にあっても、わざわざ拾おうとしなかった感情だった。
けれど今は、それを捨てる理由がない。
レナが振り返る。
その先ではミカとQUEENがぶつかり、ユイとORIGINATORが互いの読みを外し合い、ECHOとVOIDが二度目の勝負へ入っている。
誰もNoNameを待っていない。
それが、不思議なほど嬉しかった。
そして同時に。
この四人には負けたくないと、本気で思った。
「レナ」
「なに、師匠!」
「次は、私が取ります」
レナは一瞬だけ目を丸くしたあと、これまでで一番楽しそうに笑った。
「やってみて!」
試合はまだ、二分を少し過ぎたばかりだった。
スコアは一対一。
けれどNoNameにとっては、もう十分だった。
今日この試合に、自分から参加した意味を初めてはっきり理解していた。
誰かを育てるためではない。
答えを渡すためでもない。
ただ、この人たちに勝ちたい。
そしてもし負けたなら。
――もう一度、挑みたい。
その感情を知ってしまったNoNameは、もう以前と同じ場所には戻れなかった。




