# 第七十四話 師匠にも、帰れなかった場所がある
巨大スクリーンの最下部に表示された《ORIGINATOR》という名前を見たまま、NoNameはしばらく動かなかった。
レナたちが彼のそんな顔を見るのは、初めてだった。
強敵を前にしても、知らない戦術を見せられても、NoNameはたいてい少し楽しそうに「わかりません」と言う。CROWNEDに未知の四人目であるVOIDが加わった時でさえ、興味を隠さなかった。
けれど今は違う。
表情そのものは大きく変わっていないのに、目だけがスクリーンから離れない。
「師匠」
レナが呼ぶと、NoNameはようやく視線を戻した。
「はい」
「知ってるって、誰?」
いつものレナなら、もっと勢いよく問い詰めただろう。しかし今回は声が低い。NoNameの様子を見て、無意識に踏み込み方を変えていた。
ユイも端末から目を上げる。
「大会側の登録情報を確認しましたが、《ZERO》は通常参加チームとして存在していません。準決勝終了後に決勝枠へ直接登録されていて、選手名も非公開。代表者名だけが《ORIGINATOR》です」
「そんなこと、ルール上あり得るんですか」
ミカの問いに、ユイは首を横へ振った。
「少なくとも公開されている大会規約にはありません。ただし、システム上は正式な決勝進出チームとして処理されています。運営側の不正入力なら、ここまで即座に対戦表へ反映されるとは考えにくいです」
ECHOはスクリーンではなくNoNameを見ていた。
「NoName。あなたは、その名前を知っていると言いました」
「はい」
「対戦したことがありますか」
NoNameはすぐに答えなかった。
数秒の沈黙。
それだけなのに、四人とも妙な緊張を感じた。
「あります」
ようやく返ってきた答えに、レナが一歩前へ出る。
「勝った?」
「いいえ」
今度は即答だった。
レナが止まる。
ミカも、ユイも、ECHOも何も言わない。
NoNameが自分の敗北を隠す性格ではないことは知っている。それでも、彼が過去の対戦相手についてここまではっきり「勝っていない」と口にしたことはなかった。
ユイが慎重に尋ねた。
「負けた、という意味ですか」
「それも少し違います」
「では?」
NoNameは再びスクリーンを見た。
「最後まで、勝負になりませんでした」
レナの眉が寄る。
「師匠が?」
「はい」
「一回も?」
「正式な対戦として数えるなら、三回です」
「三回やって、全部?」
「はい」
レナは信じられないという顔でNoNameを見た。
彼女たちは何度もNoNameへ挑み、一度も個人として勝てなかった。四人になったCrownlessでようやく、チームとして彼のいる側へ勝ったばかりだ。
そのNoNameが。
三度挑んで、勝負にすらならなかった相手。
「どういう人なんですか」
ミカが訊いた。
NoNameは少し考えてから答える。
「説明が難しいです」
「強すぎる、ということではなく?」
「強いです。ただ、それだけなら説明できます」
NoNameは言葉を選ぶように続けた。
「私が何を見ても、次に使えなかった人です」
ユイの表情が変わった。
「……読めなかった?」
「少し違います。読めるんです。その瞬間は」
「その瞬間は?」
「次には、もう別の人になっていました」
ECHOが静かに息を吸う。
VOIDとも違う。
VOIDは自分を消そうとしていたが、やがて自分で選ぶことを覚えた。CrownlessもMONARCHも、選択によって変わる。
けれどNoNameが今説明している相手は、それよりさらに先にいるように聞こえた。
「毎回、選び直す?」
ECHOが尋ねると、NoNameは頷いた。
「はい。ただし、自分を失わずに」
ユイが端末を閉じた。
「NoNameさんが相手の傾向を読んでも、その傾向そのものを次の瞬間には捨てることができる。しかも、本人の軸は残っている……そういう理解で合っていますか」
「近いと思います」
「それは」
ユイは途中で言葉を止めた。
かなり厄介だ。
NoNameの強さは、相手が何を得意とし、何に逃げ、何を選びやすいかを見るところにある。相手自身が意識していない選択の癖まで拾い、それを利用して次の道を狭めていく。
だが、癖を捨てても本人が崩れない相手なら。
「師匠にとって、一番相性悪いじゃん」
レナの言葉に、NoNameは少し困ったように笑った。
「そうですね」
「笑うところ?」
「昔よりは、少し面白いと思えるので」
その一言を聞いて、ミカはNoNameを見つめた。
「昔は、面白くなかったんですか」
そこで初めて。
NoNameの表情から、わずかな笑みが消えた。
◇
大会運営から正式な説明が届いたのは、その数分後だった。
控室の大型モニターに大会責任者が映し出される。明らかに困惑している様子からして、彼らも完全に事情を把握しているわけではないらしい。
『まず、Crownlessの皆さんには混乱を招いてしまったことをお詫びします。ただ、《ZERO》の決勝参加そのものは大会規定違反ではありません』
「公開規約にはありませんでした」
ユイが即座に指摘する。
『はい。これは創設時規約にのみ存在する特別条項です。現行大会では一度も使用されたことがなく、私自身も実際に発動されるとは考えていませんでした』
「どんな条項?」
レナが訊く。
責任者は一度資料へ目を落とした。
『大会創設者が、自ら定めた条件を満たしたチームが現れた場合、一度だけ最終挑戦権を行使できる――というものです』
控室が静かになった。
ミカがスクリーンを見る。
「創設者?」
『はい。《ORIGINATOR》はプレイヤーネームではありません。この大会システムそのものを設計した人物に付与されている管理者識別名です』
ユイの目が鋭くなる。
「つまり、その人物が《ZERO》を登録した」
『システム上はそう記録されています』
「条件とは何ですか」
『……そこが問題です』
責任者は明らかに言いにくそうだった。
『条項には一文しかありません』
画面に古い規約文が表示される。
短い。
本当に、一行だけ。
《一人の王を倒すのではなく、王座そのものを必要としないチームが現れた時、原点は再び盤上へ戻る》
誰もすぐには口を開けなかった。
レナが最初に眉をひそめる。
「意味わかんない」
「おそらく」
ユイは文面を見たまま答えた。
「MONARCHに勝ったから、ではありません」
「え?」
「世界一のQUEENさんを倒さずに、世界一のチームへ勝ったことです」
ミカの表情が変わる。
最後の場面。
QUEENを撃たなかった。
個人的には倒したかった相手を倒すことより、Crownlessの一点を選んだ。
世界女王の座を取り返さなかった。
そもそも、その座を勝利条件にしなかった。
ECHOも理解した。
「王を倒さず、王座を必要としなかった」
「はい」
ユイは頷く。
「それが、この条項の条件だった可能性があります」
レナがNoNameを見る。
「師匠、知ってた?」
「いいえ」
「本当に?」
「はい」
NoNameは古い条文を見つめていた。
「でも、この文章を書く人には心当たりがあります」
大会責任者が画面越しに驚く。
『NoName選手。もし差し支えなければ、《ORIGINATOR》との関係を教えていただけますか』
四人も同じ答えを待った。
NoNameは長く黙った。
そして。
「昔」
一度、言葉を止める。
「私が、戻れなかったチームの人です」
レナが完全に表情を変えた。
ユイも。
ミカも。
ECHOだけは、以前NoNameが初めてCrownlessへ「ただいま」と言った場面を思い出していた。
NoNameはずっと、誰かが戻るための場所を作る側だった。
失敗しても帰ってこられる場所。
役割がなくても存在できる場所。
けれど、本人だけは長い間「戻る側」になれなかった。
その理由を、四人は完全には知らない。
「師匠」
レナの声が少し低くなる。
「戻れなかったって、何」
NoNameは大会責任者の画面を見たあと、静かに言った。
「この話は、試合の前にした方がよさそうですね」
◇
大会側との通信を終えたあと、五人はそのまま控室に残った。
外では決勝進出のニュースが流れ続けている。世界一のMONARCHを破ったCrownless。突然現れた謎の決勝相手ZERO。ネット上ではすでに様々な憶測が飛び交っていた。
けれど今、四人が気にしているのはそこではない。
NoNameはテーブルの向こう側に座り、しばらく何も言わなかった。
レナが急かさない。
ユイも情報を補完しようとしない。
ミカも質問を重ねない。
ECHOはただ待つ。
かつてNoNameが自分たちにしてくれたように。
そのことに気づいたのか、NoNameがほんの少し笑った。
「皆さん、何も聞かないんですね」
「話すなら聞く」
レナが答えた。
「話したくないなら、今は聞かない」
NoNameがレナを見る。
「成長しましたね」
「師匠」
「はい」
「今それ言うと殴る」
「試合前なので、やめてください」
少しだけ空気が緩む。
NoNameはそのまま視線を落とし、昔のことを話し始めた。
「私にも、昔チームがありました」
四人は黙って聞く。
「今のように、人を見ることばかりしていたわけではありません。当時は、自分が一番正しいと思っていました」
レナが思わず口を挟む。
「師匠が?」
「はい」
「想像つかない」
「私も、あまり思い出したくありません」
珍しい冗談のように聞こえたが、声には少し苦さがあった。
「誰がどこへ行けば勝てるか。誰が何を捨てれば効率がいいか。全部、私が決めました。実際、勝てました」
ユイの顔が少し硬くなる。
昔の自分に似ている。
「でも、ある時。その人に言われました」
NoNameの視線が遠くなる。
「『お前は勝つために、人を盤上から消すのが上手すぎる』と」
ECHOの指先がわずかに動いた。
役割へ人を押し込み、その役割しか見なくなる。
昔の自分が恐れていたことと同じだ。
「怒りましたか」
ミカが訊く。
「かなり」
「意外です」
「若かったので」
レナが小さく笑いそうになり、しかし我慢した。
「それで?」
「次の試合で証明しようとしました。私の方が正しいと」
「勝った?」
「試合には」
NoNameは一拍置く。
「勝ちました」
レナが眉を寄せる。
「じゃあ」
「その後、チームが解散しました」
誰も言葉を続けられない。
「勝ったのに?」
ようやくレナが訊く。
「はい。私以外の全員が、もう一緒にはやりたくないと言いました」
NoNameの声は淡々としていた。
だからこそ重かった。
「私は、勝てば戻ってくると思っていました。正しいことが証明できれば、皆さんも納得すると思っていました」
「戻らなかった」
ECHOが小さく言う。
「はい」
「ORIGINATORも?」
「最後に残った人です」
「その人が、大会を作った?」
「おそらく」
NoNameは古い規約文が表示された端末を見る。
「その後、会っていません」
ユイが確認する。
「一度も?」
「正式には。ただ、匿名の対戦で三度だけ」
「気づいたんですか」
「三回目に」
「相手も?」
「おそらく、最初から」
レナが呆れた顔をする。
「師匠だけ気づかなかったの?」
「はい」
「そこだけちょっと安心した」
「何にでしょう」
「師匠も人間なんだなって」
NoNameが困ったように笑う。
それから、少しだけ声を落とした。
「三度とも、私は昔と同じことをしようとしました。相手を読んで、選択を狭めて、勝とうとした。でも、通用しなかった」
「その人が毎回変わったから」
ミカの言葉に、NoNameは頷く。
「最後に、一つだけ言われました」
「何を?」
NoNameはしばらく口を開かなかった。
言葉そのものを、今でも覚えている。
そんな沈黙だった。
「『人を見ているつもりで、まだ答えを探している』」
ユイが息を止める。
「それが、今のNoNameさんの原点ですか」
「たぶん」
珍しく曖昧な答えだった。
「私は、そのあと人に答えを押しつけないようになりました。でも」
NoNameは四人を見る。
「それでも私は、自分だけは戻りませんでした」
Crownlessへ「ただいま」と言った、あの日まで。
ずっと。
「怖かったんですか」
ECHOが尋ねる。
NoNameは少し考える。
「そうだったのかもしれません」
失敗して。
誰かを傷つけて。
勝って。
それでも全員を失った。
もう一度誰かの中へ入れば、また同じことをするかもしれない。
だから、外から見る。
教える。
問いを置く。
帰る場所を作る。
けれど、自分は帰らない。
四人はそれぞれ別の形で、その事実を受け取った。
レナが最初に口を開いた。
「じゃあ」
「はい」
「その人、師匠にとって昔の仲間?」
「はい」
「師匠?」
「違います」
「ライバル?」
「それも少し違います」
レナは考え込んでから、結局一番簡単な言葉を選んだ。
「帰れなかった場所?」
NoNameが止まる。
しばらくして。
「……そうですね」
その答えを聞いた瞬間、レナは立ち上がった。
「じゃあ勝とう」
ユイが見る。
「黒瀬さん」
「何」
「少し説明が足りません」
「足りてるよ」
レナはNoNameを見る。
「師匠が昔戻れなかった場所が、今さら決勝に出てきた。なら、今の師匠見せればいい」
「私は出場しません」
「知ってる」
即答。
「私たちが出る」
ミカも静かに頷いた。
「NoNameさんの代わりに、ではありません」
ECHOも続ける。
「NoNameの過去を解決するため、でもありません」
ユイが最後に言う。
「私たちの決勝です。そのうえで、相手がNoNameさんの過去を知っているなら、今の私たちを見せます」
NoNameは四人を見た。
何か言おうとして、やめる。
少しだけ笑う。
「皆さん」
レナが警戒する。
「何」
「強くなりましたね」
四人。
一瞬。
黙る。
レナが先に顔を逸らした。
「今それ言うの、ずるい」
「なぜでしょう」
「知らない」
◇
決勝開始十五分前。
ついに《ZERO》の選手登録が公開された。
四人。
最初に表示された名前を見て、ユイが眉を寄せる。
《FIRST》
二人目。
《SECOND》
三人目。
《THIRD》
そして四人目。
《ORIGINATOR》
ランキング。
全員。
なし。
戦績。
なし。
所属履歴。
なし。
それだけなら、謎のチームで終わる。
だが、NoNameは四人の名前を見た瞬間、静かに立ち上がった。
「……全員ですか」
ミカが振り返る。
「知っているんですか」
「はい」
NoNameの声が、わずかに低かった。
「昔のチームです」
レナが固まる。
「全員?」
「はい」
「解散したんじゃ」
「しました」
「じゃあ何で」
その答えは。
控室のスピーカーから流れた。
『NoName』
知らない声。
だがNoNameだけが、すぐに顔を上げた。
大会通信。
ZERO側。
映像は出ない。
声だけ。
『久しぶりだな』
NoNameはしばらく黙ったあと、静かに答えた。
「お久しぶりです」
『相変わらず、他人行儀だ』
「そうでしょうか」
『そういうところも変わってない』
レナがNoNameの横へ一歩寄る。
ミカも。
ユイも。
ECHOも。
通信の向こうで、小さな笑い声がした。
『でも』
一拍。
『帰れるようにはなったらしいな』
NoNameの表情が止まる。
ZERO側は、知っている。
今のCrownlessを。
NoNameが初めて「ただいま」と言ったことまで知っているのかもしれない。
『決勝では、お前を倒すつもりはない』
レナの眉が上がる。
『そもそも、お前は出ないだろう』
「はい」
『だから』
声が少しだけ柔らかくなる。
『お前が帰った場所が、本当に帰る場所なのか見せてもらう』
四人の表情が変わった。
NoNameが口を開く前に。
レナが通信へ一歩近づく。
「見れば?」
NoName。
「黒瀬レナさん」
「いいじゃん」
レナは止まらない。
「師匠が帰った場所がどこか知りたいなら、試合すればわかる」
通信の向こう。
少し。
沈黙。
『君が、黒瀬レナか』
「そうだけど」
『なるほど。聞いていた通りだ』
「誰から」
『本人以外から』
「師匠、何言われてんの」
「私にもわかりません」
ミカも一歩前へ出る。
「一つ、訂正していただけますか」
『何を?』
「NoNameさんが帰った場所を、あなたたちに認定していただく必要はありません」
ユイも続けた。
「本人が帰ると決めた場所です」
ECHOが最後に、静かに言う。
「私たちも、NoNameを返すつもりはありません」
「ECHOさん」
「はい」
「少し意味が違いませんか」
「重要なので」
通信の向こうで。
今度は。
はっきり。
笑い声。
聞こえた。
『いいチームに入ったな、NoName』
NoNameは四人を見る。
そして。
少し。
本当に少しだけ。
嬉しそうに笑った。
「はい」
一言。
「そう思います」
レナ。
固まる。
ミカ。
目を逸らす。
ユイ。
口元を隠す。
ECHO。
瞬き。
通信の向こう。
ORIGINATOR。
数秒。
何も言わない。
それから。
『……そうか』
短い。
でも。
どこか。
安心したような声。
『なら、決勝で会おう』
通信。
切れる。
静かになった控室で、NoNameは四人へ向き直った。
「皆さん」
レナが即座に遮る。
「さっきのもう一回」
「何がですか」
「いいチームって」
「私は『そう思います』と」
「意味同じ!」
ミカが少し笑いながら端末を持ち上げる。
「黒瀬さん。決勝前です」
「でも」
「あと十五分です」
ユイも立ち上がる。
「相手はNoNameさんが三度勝負にならなかった人たちを含む、旧チーム全員。過去情報もほぼありません」
ECHOも立つ。
「そして、私たちは四人です」
レナは一度だけNoNameを見たあと、笑った。
「じゃ、行こう」
ミカ。
「はい」
ユイ。
「決勝です」
ECHO。
「勝ちます」
四人が控室を出ていく。
NoNameは最後に一人、少しだけ残った。
昔。
勝った。
そして。
全部。
失った。
帰れなかった場所。
その全員が。
今。
決勝の反対側にいる。
けれど。
あの頃とは違う。
NoNameは扉の向こうから聞こえたレナの声に振り返る。
「師匠! 置いてくよ!」
「今行きます」
自然に。
そう答えた。
待っている人がいる。
戻る場所がある。
だから。
昔の場所へ向かうことも。
もう。
怖くなかった。
決勝。
CROWNLESS。
対。
ZERO。
これは。
NoNameの過去を取り戻すための試合ではない。
今の四人が。
昔の四人と。
それぞれの現在を賭けて戦う。
最後の試合だった。




