欲望の代償9
事務所の空気は、凍りついたように重かった。
午後の陽が傾き始め、窓辺の埃が淡く舞う中、盗聴器から流れてきた音声は、誰もが予想していたとは言え最悪のものだった。
最初は、宇都宮の低い笑い声。
次に、ドアの閉まる音。
そして、鈴木真由の小さな震える声。
「社長……今日は、もう……」
その言葉は途中で途切れ、代わりに布ずれの音、息遣い、くぐもった泣き声。
宇都宮の吐息が混じり、湿った音が続き……
鈴木の「やめて……」という掠れた声が、断続的に拾われた。
美穂の顔が、ゆっくりと歪んだ。
拳が膝の上で白くなるほど握りしめられ、唇が震える。
高木も、モニターを睨む目が赤く充血していた。
普段のクールな表情はどこにもなく、怒りが静かに燃え上がっている。
白井は音声を聞いた瞬間、両手で口を覆った。
目を見開き、涙が一気に溢れ出す。
「真由……真由……!」
白井はソファから崩れ落ち、床に膝をついた。
美穂の足元にすがりつき、声を上げて泣き叫ぶ。
「本当に……本当に、早く終わらせて……!お願い……助けて……!」
白井の指が、美穂の制服の裾を強く掴む。
涙が床にぽたぽたと落ちる。
高木は深く息を吸い、怒りを抑え込むように目を閉じた。
数秒の沈黙の後、冷静な声で言った。
「今のレイプ現場の音声、全て録音した。 時間、場所、声紋……すべて一致。 これで、宇都宮の脅迫と強制性交の証拠は確立できる。 もう逃げられない。」
美穂は白井の肩を抱き、ゆっくりと立ち上がらせた。
白井の顔を両手で包み、目をまっすぐ見て言った。
「真由ちゃんには本当に申し訳ない。 でも……これで、宇都宮の悪事は全て押さえられる。 社長室に保存されてるレイプ現場の録画も、警察が押収すれば証拠として使える。 大丈夫。 もう、誰も犠牲になんてさせない。」
美穂の声は力強く、揺るぎなかった。
白井は涙で濡れた目で美穂を見つめ、ゆっくり頷いた。
高木はすでにPCの前に座り、ファイルを暗号化しながら転送準備をしていた。
佐々木蔵之介――国際弁護士であり、Guardeanのブレイン――へのセキュア回線を開く。
「佐々木さんに、レイプ現場の録音データと白井さんの証言を転送する。 この段階で立件可能か判断を仰ごう。」
転送ボタンを押す。
画面に「送信完了」の文字が浮かぶ。
高木は椅子を回し、白井と美穂に向き直った。
「佐々木さんからは、すぐに返信が来るはずだ。 白井さん、今夜はここにいて。 由香ちゃんの部屋の隣の810号室を保護場所として使おう。 安全を確保しよう。」
白井は涙を拭い、弱々しく頷いた。
美穂は白井の手を握ったまま、窓の外を見た。
郊外の街は、いつも通り穏やかだ。
だが、もうすぐこの街の闇が、剥がれ落ちる。
事務所の時計が、静かに時を刻む。
事務所の固定電話が、静かに着信音を鳴らした。
高木がすぐに受話器を取る。
画面に表示されたのは、佐々木蔵之介――Justice Brew Caféの店長であり、国際弁護士であり、Guardeanの絶対的なブレイン。
「高木君。 データは受け取りました。 今、ビデオ通話に切り替えます。」
高木は即座にPCの画面を切り替え、セキュアなビデオ通話アプリを起動した。
モニターに、佐々木の顔が映し出される。
62歳とは思えないガッシリとした体躯。
背景は自社ビルの3階――佐々木の住居兼執務室。
壁には法律書とインターポールの記念盾が並び、机の上にはコーヒーカップと分厚いファイルが置かれている。
佐々木は眼鏡を外し、画面越しにまっすぐ高木と美穂、そして隣で肩を震わせている白井を見据えた。「まず、白井さん。……よく耐えました。 今は辛いでしょうが、ここにいる全員が貴方の味方です。 ご安心ください。」
白井は涙を拭い、小さく頷いた。
佐々木の声は低く、落ち着いているが、どこか温かみが滲んでいる。
佐々木はファイルをめくりながら、ゆっくりと話し始めた。
「転送されたデータをすべて確認しました。 まず、レイプ現場の音声ですが、声紋照合、時間スタンプ、宇都宮の声の特徴、すべて一致してます。 これは刑法177条の強制性交等罪の直接証拠として、極めて強力です。 加えて、脅迫の文言――『公開されたくなかったら、体を開け』という部分――が明確に録音されている。 これは刑法222条の脅迫罪、および刑法223条の強要罪が成立します。」
佐々木は画面をスクロールし、別のファイルを表示した。
「さらに、観葉植物の盗聴器から拾われた過去3日分の会話。 宇都宮と大場の性行為の音声は、もちろん証拠価値が低い――合意の可能性を否定できませんからね。 だが、会話の中で宇都宮が『あの録画、ちゃんと保存してあるぞ』『美穂もそろそろ……』と発言している部分が複数ある。 これは、録画機器の存在と、継続的な脅迫意図を示す間接証拠になります。」
佐々木は眼鏡をかけ直し、白井に視線を移した。
「白井さんの証言……これが決定的だ。『日給と思わせていたのは貸付金だった』という宇都宮の発言、明細の提示、レイプ後の脅迫の詳細、カメラの位置――すべてが一貫している。 これを基に、刑法246条の詐欺罪と、刑法176条の強制わいせつ罪、強制性交等罪、脅迫罪、強要罪の複合で立件可能です。 しかも、被害者が21人+山口彩花さん+鈴木真由さん+白井さん……少なくとも24人規模の組織的犯罪として扱えます。」
高木が静かに口を挟んだ。
「佐々木さん……立件は可能ですか? 今すぐ動けますか?」
佐々木は頷き、力強く言った。
「可能です。 証拠の質と量から見ても検察が起訴を躊躇するレベルではありません。 特に、レイプ現場のリアルタイム音声は、録画の存在を補強する『生の証拠』として極めて有効です。 大場佳代の関与も、共犯として立件できる可能性が高い――会話の中で『社長も好きですね』と応じ、行為に加担してますからね。」
佐々木はコーヒーを一口飲み、続けた。
「手順はこうしましょう。 今夜中に刑事課の担当者に連絡します。 すでに内密依頼を出している相手に、白井さんの保護と緊急聴取を依頼します。 明日は、朝イチで裁判所に逮捕状と家宅捜索差押許可状の請求を進めます。 私は顧問弁護士として検察に同行する形で立ち会います。 家宅捜索で社長室の四隅カメラと保存メディアを押収してもらいます。 そこに残る録画データが被害者全員の証拠になりますから。 宇都宮の口座凍結と資産保全も同時に申請。 貸付金の詐欺スキームが明らかになれば、被害者への返還も可能です。」
佐々木の目が、画面越しに鋭く光った。
「あとは時間の問題です。 宇都宮が逃亡の兆候を見せたら、即座に空港・港の監視を依頼します。 白井さん。 もう大丈夫です。」
白井は両手で顔を覆い、再び泣き出した。
今度の涙は、恐怖ではなく、解放の予感だった。
「ありがとうございます……本当に……ありがとう……」
美穂は白井の背中を撫でながら、佐々木に言った。
「佐々木さん……ありがとう。 こちらは、ここで待機します。いつでも動けるように。」
佐々木は小さく笑い、頷いた。
「明日には、すべて終わらせましょう。」
ビデオ通話が切れる。
事務所に、再び静寂が戻った。
高木はモニターを閉じ、白井に言った。
「今夜は810号室で休んで。」
白井は涙を拭い、弱々しく微笑んだ。
外では、夜が深まっていた。
郊外の古いマンションは、いつも通り灯りをともしている。
だが、明日――ホワイトステートの「キラキラ」は、完全に消える。




