欲望の代償6
ホワイトステートの店舗に戻ると、午後の陽が窓から斜めに差し込み、ピンクの壁を淡く染めていた。
美穂は白井洋子と並んでドアを開け、店内を見回した。デスクは3つ。
鈴木真由は自分の席でスマホをスクロールしている。
だが、山口彩花の姿がない。
「彩花ちゃんは?」
美穂が小さく尋ねると、白井は軽く肩をすくめた。
「さっきから社長室に呼ばれてたみたい。すぐ戻るよ」
言葉の端に、微かな翳りがあった。
数分後、奥の扉――「社長室」と小さなプレートが掛かった部屋――が静かに開いた。
山口彩花が出てきた。
髪が少し乱れ、前髪が額に張り付いている。
化粧も、アイラインがわずかに滲み、リップが薄くなっていた。
頰が上気していて、息が浅い。
山口は誰とも目を合わせず、足早にトイレへ向かった。
ドアが閉まる音が、静かな店内に響く。
美穂はデスクに座りながら、青いリボンのカメラがその一連の動きを捉えているのを確認した。
高木には、後で詳細をまとめて送る。
トイレから戻ってきた山口は、鏡で髪を直し、化粧を素早く整えていた。
数分後には、いつもの「疲れた笑顔」を貼り付けてデスクに戻る。
誰も何も言わない。
まるで、それが日常の一部であるかのように。
午後の来客は4人。
全員女性。
1人目:OL風。スーツ姿で、肩がこわばっている。
2人目・3人目:水商売風。派手なネイルと香水の匂いが店内に残る。二人とも20代後半くらい。
4人目:主婦風。30代半ば、シンプルなワンピースに小さなバッグ。
大場佳代が全員を笑顔で迎え、すぐに隣の別室――相談室と書かれた小さな部屋――へ案内した。
ドアが閉まると、声はほとんど聞こえない。
時折、くぐもった笑い声が漏れるだけ。
美穂は自分のデスクで、書類を整理するふりをしながら耳を澄ませた。
だが、何も掴めない。
白井洋子がそっと近づき、小声で言った。
「美穂、今日はもう終わりそうだから早めに帰っていいよ。 お疲れさま。」
美穂は小さく頷いた。
「……うん、ありがとう……」
17時を少し回った頃、来客がすべて去り、店内は再び静かになった。
宇都宮は社長室から出てこない。
大場は明るく「今日もお疲れさま〜!」と声をかけ、スタッフたちを順番に帰らせる。
山口彩花は、最後にトイレへ行ってから帰った。
髪と化粧は完璧に戻っていたが、歩き方が少しぎこちない。
美穂は制服のまま店舗を出た。
夕暮れの街を歩きながら、スマホを取り出し、高木に今日の終了の連絡をした。
「スタッフの山口彩花が社長室から出てきた時、髪と化粧が乱れてた。 白井の警告の意味、もしかしたら……」
高木は今日の映像を確認しながら言った。
「映像確認中。山口の様子、異常。妊娠の線も含めて、社長室の監視が必要かもな。」
――社長室。
――山口の崩れた化粧。
――21人の妊娠。
すべてが、ゆっくりと繋がり始めていた。
ホワイトステートの「明るさ」は、ただの薄い膜。
その下に、何かが深く沈んでいる。
美穂は息を吐き、制服の袖を直した。
美穂の勤務は3週間目に突入した。
毎朝8時ちょうどに店舗ドアを開け、制服の襟を直し、青いリボンを結び直す。
朝礼の掛け声5回。
宇都宮の優しい挨拶。
来客は毎日数人、いつも女性。
大場が別室に案内し、ドアが閉まる。
終わると、スタッフたちは疲れた笑顔でデスクに戻る。
山口彩花の髪と化粧が崩れる日は減ったが、代わりに鈴木真由の目が時折赤く腫れているようになった。それでも、何も掴めていない。
来客の相談内容は聞こえない。
社長室の扉はいつも閉まっている。
スタッフ同士の会話は、表面的な雑談だけ。
白井洋子の警告以来、彼女は美穂にだけ優しく微笑むようになったが、それ以上の言葉は発しない。
その日、山口彩花が出社しなかった。
朝礼の時点で誰も触れず、午前中も午後も来客はゼロ。
17時を回り、閉店時間が近づいた頃、大場がデスクの中央に立って声を張った。
「みんな、聞いて〜!彩花ちゃんね、昨日で退職しちゃったんだ。 急だったから、皆に挨拶もできなくて……本当にごめんなさいって彩花ちゃんが謝ってたよ。」
大場の声はいつも通り明るい。
だが、笑顔の端がわずかに引きつっている。
鈴木真由が小さく息を吐き、白井洋子は視線を落とした。
美穂は目を伏せて、指を膝の上で絡ませた。
「……そう、なんですか……」
大場はすぐに手を叩いて明るく続ける。
「寂しいけど、仕方ないよね! 彩花ちゃんも新しい道に進むんだから、みんなで応援しようね♪ じゃあ今日はお疲れさま〜!」
スタッフたちは制服のまま、順番に帰っていく。
美穂も紙袋を抱えて店舗を出た。
その夜、22時47分。
刑事課から連絡が入った。
「22人目が出た。 山口彩花、24歳。 マンションの屋上から飛び降り。 検死結果……妊娠確認。 妊娠週数は約8週間だ。」
高木のPCの前で、美穂は静かに拳を握った。
「彩花ちゃんが…」
高木の声は低かった。
「妊娠時期がホワイトステートに入社した頃と一致する。 21人全員と同じパターンだ。 もう、これは偶然じゃない。」
美穂は立ち上がり、青いリボンを外しながら言った。
「社長室に盗聴器を仕掛ける。 あそこに何かある。」
高木は頷き、モニターに新しいウィンドウを開いた。
「小型の超高感度盗聴器を用意する。 バッテリー3ヶ月持続、音声のみだがリアルタイム送信可能。問題は、どうやって仕掛けるかだ。 美穂ちゃんが一人で社長室に入るチャンスが必要になるな。」
美穂は小さく息を吐いて言った。
「わかった。明日中にチャンスを作る」
翌朝、美穂はいつも通り8時に出社。
制服姿で明るく元気にドアを開けた。
「おはようございます〜!」
大場が笑顔で迎える。
「おはよー、美穂ちゃん! 今日も可愛いね♪」
朝礼を終え、来客がまだない午前中。
美穂はデスクで書類を整理するふりをしながら、タイミングを待った。
10時頃、大場がコーヒーを淹れに奥へ行った隙に、美穂は立ち上がった。
大場が戻ってきたところで、美穂はおずおずと近づき、声を低くした。
「……大場さん……あの、ちょっと相談が……」
大場は目を輝かせて振り返る。
「なあに? 美穂ちゃん、何でも言って♪」
美穂は頰を少し赤らめ、演技を重ねた。
「……スタッフの皆さん、すごく素敵で……。休みの日に、普通に会ってみたいんだけど……会社的に大丈夫ですか?友達みたいに、プライベートで……」
大場は一瞬目を丸くし、すぐに満面の笑みになった。
「もちろん大丈夫だよ〜! 仲間同士の親睦はどんどん深めて! むしろ嬉しい! 彩花ちゃんもきっと喜ぶと思うよ♪ 美穂ちゃんみたいな子がみんなと仲良くなってくれたら、ほんと最高だね!」
度を越した明るさ。
笑顔の奥に、何かがちらつく。
美穂は小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます……。じゃあ、白井さんとか真由さんとかに、連絡先聞いてみます……」
大場は手を叩いて喜んだ。
「いいねいいね! 私も混ぜてね〜」
美穂はデスクに戻り、心の中で呟いた。
――これで、スタッフたちとの接触が増える。
――社長室への道も、開けるかもしれない。
青いリボンが、静かに光を反射した。
隠しカメラは、すべてを記録し続けている。
Guardeanの戦いは、静かに、しかし確実に深みを増していた。
山口彩花の死が、22人目の犠牲として刻まれた今――
美穂は、もう後戻りできないところまで来ていた。




