欲望の代償4
美穂はテーブルの上に置かれた書類を、ゆっくりと手に取った。
雇用契約書と称する薄い紙束。
内容はシンプルで、給与・勤務時間・守秘義務の項目が並んでいるだけ。
細かい条項はほとんどない。
逆にそれが不自然だった。
ペンを握り、偽の生年月日と住所――810号室――を丁寧に書き込んでいく。
字は少し震えたふりをした。
おどおどした演技は、まだ崩さない。
宇都宮は腕を組んで、満足げに美穂を見下ろしていた。
「美穂ちゃん、お金がないなんて今の内だけだよ。 ここで働いてれば、君だってCLAVATAの服くらい、普段着にできるくらい稼げるからな」
宇都宮は豪快に笑った。声が部屋に響く。
ガッシリした体躯が揺れるたび、スーツの生地が上質な光を放つ。
「ほら、見て! このブランド。 着てると気分が違うんだ。 女の子は特にね。 キラキラした毎日が、手の届くところに来るよ!」
美穂はペンを止めて、顔を少し上げた。
目を伏せたまま、小さく呟く。
「……本当ですか……?」
「本当も本当さ。うちのスタッフはみんな、そうなってるんだから。」
宇都宮は立ち上がり、部屋の隅に置いてあった大きな紙袋を取り出した。
中から、丁寧に折り畳まれた制服が出てくる。
ピンクのブラウス、白いスカート、襟のリボン――チラシの写真と同じデザイン。
生地は明らかに上質で、CLAVATAのタグが縫い付けられている。
「サイズは……どれくらいかな?」
美穂は慌てたふりで答えた。
「えっと……S……です……」
宇都宮は袋の中からSサイズのものを選び、テーブルの上に広げた。
折り目がぴしっと決まっていて、アイロンがけが完璧だ。
大場が目を丸くして、くすくす笑い出した。
「社長が自分で制服を出すなんて初めてですよ〜。 よほど美穂ちゃんが気に入っちゃったみたいですね!」
宇都宮は照れたように肩をすくめた。
「仕方ないだろ。 こんな可愛い子、滅多に来ないんだからな!」
美穂は制服に指を触れ、布の感触を確かめた。
確かに本物だ。
隠しカメラがそのタグをしっかり捉えているはず。
高木は今頃、ブランドの正規ルートを追っているだろう。
宇都宮は椅子に戻り、にこやかに続けた。
「今日はこれで十分だ。 ホワイトステートの店舗に行って、スタッフに挨拶だけして帰っていいよ。 美穂ちゃんのデスクは今日中に用意しておくから。」
大場が明るく付け加えた。
「店舗はここから歩いて5分くらいのビルなの。 道順は簡単だから安心して!」
宇都宮は最後に優しいがどこか重みのある声で言った。
「明日は8:30出社だ。 遅刻しないで頼むよ。 期待してるからな、美穂ちゃん!」
美穂は書類に最後のサインを入れ、ゆっくり立ち上がった。
制服の入った紙袋を両手で抱える。
「……ありがとうございます……。 明日、よろしくお願いします……」
大場がドアまで見送りに立ち、肩を軽く叩いた。
「がんばってね! 美穂ちゃんみたいな子が入ってくれて、ほんと嬉しい!。」
会議室のドアが閉まる。
廊下に出た瞬間、美穂の表情が一変した。
背筋が伸び、目は鋭くなる。
エレベーターに乗り込みながら、カバンの内ポケットに手を入れ、録音・録画のステータスを確認。
すべて正常。
高木に短いメッセージを送る。
「採用決定。制服支給。CLAVATA本物。明日8:30出社。店舗挨拶後、帰宅。データ確認頼む。」
返信はすぐに来た。
「了解。こっちは店舗の場所特定中。」
美穂はエレベーターの鏡に映る自分を見た。
制服の紙袋を抱えた、金に困った女の子。
だが、その瞳はもう佐藤健一のものだった。
――明日から、本当の潜入が始まる。
外に出ると、午後の陽がまだ暖かかった。
郊外の街並みはいつも通り穏やかだ。
だが、その奥に潜む「ホワイトステート」の影は、確実に濃くなっていた。
美穂は紙袋をしっかりと抱え、マンションへ向かって歩き出した。
青いリボンが、風に軽く揺れる。
美穂は貸し会議室のビルを出て、指定された方向へ歩き始めた。
紙袋を抱えたまま、ゆっくりとした足取り。
隠しカメラは周囲の街並みを捉え続けている。
歩いて5分――大場が言った距離を、念のため時間を計りながら進む。
後ろから、小走りの足音が近づいてきた。
「美穂ちゃーん! 待って待って!」
振り返ると、大場佳代が息を弾ませながら手を振っていた。
制服のスカートが軽く揺れる。
「はあ……はあ……社長にさ、『新人さんをちゃんと案内して店舗でスタッフに紹介くらいしてやれ』って言われちゃって。 それで追いかけてきちゃった!」
大場は笑顔のまま、額の汗を拭う。
息が少し上がっているのに、声は相変わらず明るい。
美穂は慌てたふりで頭を下げた。
「……あ、ありがとうございます……。迷惑じゃなかったですか……?」
大場は笑顔を崩さずに明るく言った。
「全然! むしろ嬉しいよ。一緒に行こ♪」
二人は並んで歩き始めた。
大場は道中も、軽快に話しかけてくる。
「美穂ちゃん、制服似合うと思うな〜。 明日は家から着てきてね。 みんなで写真撮ろうよ!」
美穂は小さく頷くだけ。
心の中では、高木に送るべき情報を整理していた。
――大場は社長の指示で動いた。
店舗の場所を直接案内させる意図か、それとも監視か。
5分後、ビルの3階に「ホワイトステート」と書かれた小さなプレートが見えた。
エレベーターで上がると、ドアを開けた瞬間、明るい照明と柔らかなピンクの壁紙が目に飛び込んでくる。
オフィスというより、女子会スペースのような雰囲気。
デスクは4つ、観葉植物が置かれ、パソコンの画面が淡く光っている。
中にいた女性スタッフは3人。
いずれも20代後半から30代前半くらい。
制服は美穂と同じデザインだが、袖口が少しよれていたり、襟が微妙に曲がっていたりする。
笑顔を浮かべているものの、目の下に薄いクマがあり、頰がわずかにこけている。
疲れが、化粧で隠しきれていない。
大場がドアを大きく開けて、元気よく声を上げた。
「みんなー! 聞いて聞いて! 明日から新しい仲間が入るよー!」
3人が顔を上げ、視線をこちらに向ける。
「紹介するね。この子が佐藤美穂ちゃん! 可愛いでしょ? 社長も一目で採用だってさ!」
大場は両手を叩いて拍手を煽る。
3人は揃って拍手した。
だが、手の動きはどこか緩慢で、音も小さめ。
笑顔は作っているものの、目が笑っていない。
3人が小さく呟く。
「……よろしくね」「よろしく〜」「がんばって」
言葉はざっくばらん。
敬語は使わず、まるで同級生に話しかけるような調子だ。
だが、声に力がなく、どこか諦めのような響きが混じっている。
美穂は両手を前に揃え、おずおずとお辞儀した。
「……よろしくお願いします……」
大場がすかさずフォローするように、明るく言った。
「あ、ここでは雰囲気を柔らかくするために、敬語は使わないルールなんだよ! みんな友達みたいに話そうね。美穂ちゃんも、明日からは『美穂』でいいから!」
美穂は目を伏せて、ゆっくり頷いた。
「……うん……わかった……」
3人のスタッフは軽く手を振ったり、微笑んだりするが、誰も深く話しかけてこない。
デスクに戻る動きが、どこか機械的だ。
一人がため息のように息を吐き、もう一人が画面をスクロールし始める。
疲労が、部屋全体に薄く漂っている。
大場は満足げに手を叩いた。
「じゃあ今日はこれで! 美穂ちゃん、明日8:30ね。 遅刻厳禁だよ〜。 楽しみにしてるから!」
美穂は紙袋を抱え直し、丁寧に頭を下げて店舗を出た。
エレベーターに乗り込み、ドアが閉まった瞬間、表情を緩めた。
青いリボンのカメラが、スタッフ3人の顔をしっかり捉えていたはずだ。
美穂はエレベーターの壁にもたれ、深く息を吐いた。
――あの3人、笑顔の裏に何を抱えているのか。
明日から、俺は彼女たちの中に潜る。
外に出ると、夕方の風が頰を撫でた。
紙袋の中の制服が、わずかに重く感じる。
マンションへの帰り道、美穂はゆっくり歩いた。
キラキラした街の裏側で、何かが静かに蠢いている。




