欲望の代償3
翌日の午前10時ちょうど、プリペイド携帯が短く震えた。
画面に表示されたのは、昨日と同じ番号。
美穂は事務所のソファに座ったまま、通話ボタンを押した。
「はい、美穂です……」
ホワイトステートの番号、大場だった。
「美穂ちゃん! おはよう♪ 大場佳代です! 昨日はありがとうね〜」
声のトーンは昨日と寸分違わず、甘く明るい。
まるで親友に電話をかけるようなノリだ。
「今日の15時から、面接できるかな? 場所はチラシに書いてある最寄りの喫茶店じゃなくて、うちの事務所の近くの貸し会議室にするね。 社長も来るけど、おじさんで顔がちょっと怖いだけだから全然大丈夫だよ! 笑顔が素敵な美穂ちゃん、絶対気に入られると思う♪」
美穂はわざと声を小さく、ためらいがちに返した。
「……は、はい……わかりました。15時ですね……」
大場は変わらない明るさで応答する。
「うん! じゃあ時間厳守でお願いね〜。制服も用意してるから、楽しみにしてて! バイバーイ♪」
電話が切れると、美穂は携帯を机に置き、ゆっくりと息を吐いた。
「顔が怖いだけの社長、ね。 典型的な安心誘導だね。」
高木は隣のPCで通話録音を再生しながら、静かに頷いた。
「場所は貸し会議室。 痕跡を残さないための工夫だな。 ……美穂ちゃん、準備は?」
健一は立ち上がり、クローゼットからいつもの潜入セットを取り出した。
ロングヘアのウィッグ、青いリボン隠しカメラ、控えめなメイク道具、そして、借金に困った女の子らしい地味めの私服。
「いつでもOK。 15時までには現地に着いて、周囲の様子も見ておく。」
正午近く、事務所の固定電話が鳴った。
美穂が受話器を取る。
声はすでに「俺」のトーンに戻っていた。
「はい、Guardeanです。……仁さん?」
「健一君か。……由香の住んでるマンションからまた飛び降りがあったって聞いたんだが。」
仁の声はいつもより低く、抑揚が少ない。
過保護の親父が本気で心配している証拠だ。
「由香に何かあってからじゃ遅い。……今すぐ警護を頼みたい。」
美穂は健一の声で静かに、しかしきっぱりと言った。
「仁さん、安心してください。 もう調査は入ってます。 由香ちゃんは巻き込んでないし、これ以上近づかせないようにしてます。 実は今日の午後から、俺が美穂として潜入調査に入ります。」
一瞬の沈黙の後、仁が息を吐く音が聞こえた。
健一は更に続けた。
「それと一つ、頼みがあります。 最上階の810号室を偽装住所として大至急借りてください。 面接の時に住所を聞かれる可能性が高いから。」
仁は頷きながら答えた。
「810号室……由香の隣の部屋か。……わかった。それくらいお安い御用だ。すぐに手配する。」
美穂は受話器を置いて、高木の方を向いた。
「仁さん、過保護全開だった。」
高木は小さく笑った。
13時過ぎ、事務所のドアがノックされた。
ドアを開けると、そこに立っていたのは片桐仁だった。
スーツ姿で、手に小さな封筒を持っている。
「健一君。……810号室の鍵だ。」
仁は封筒を差し出しながら、事務所の中をちらりと見て、由香の姿がないのを確認した。
「810号室、今日から美穂ちゃん名義で借りた。 家具は最小限だけど、住居としては使えるはずだ。」
美穂は封筒を受け取り、中の鍵を確かめた。
「助かります、仁さん。」
仁は少し照れたように頭を掻き、声を低くした。
「潜入か…気を付けてくれ。」
仁はもう一度、事務所を振り返ってから、静かに出て行った。
足音が階段を下りていく。
美穂は鍵をポケットにしまい、高木に視線を移した。
「14時半に出る。 810号室の鍵は俺が持ってく。 面接の様子は隠しカメラで全部録画する。」
高木はモニターの前で、すでにバックアップシステムを起動させていた。
「了解。 行ってらっしゃい」
美穂はウィッグをかぶり、青いリボンを丁寧に結んだ。
鏡の中の自分は、昨日より少しだけ疲れた顔の、借金に追われる女の子に見えた。
事務所のドアを閉めると、外はまだ明るい午後の陽射しだった。
14:50。
貸し会議室の建物は、郊外のオフィス街の端っこにひっそりと建っていた。
古びた外観とは裏腹に、内部は清潔で蛍光灯の白い光が廊下を均等に照らしている。
美穂はエレベーターを降り、指定された304号室の前に立った。
青いリボンの隠しカメラはすでに起動済み。
カバンの中に仕込んだ小型盗聴器も、微かな振動で作動している。
映像と音声は、今頃悠斗のPCにリアルタイムで流れ込んでいるはずだ。
深呼吸を一つ。
美穂は軽くノックした。中から、聞き覚えのある明るい声が返ってきた。
「はーい、どうぞ〜!」
ドアが開くと、そこに立っていたのは電話の声そのものの女性――大場佳代。
予想以上に可愛らしい。
20代後半くらい、肩までのボブヘアに柔らかな笑顔。
着ているのは、チラシと同じCLAVATAの制服。
ピンクのブラウスに白いスカート、襟元に控えめなリボン。
完璧に「親しみやすいお姉さん」像を体現していた。
大場は美穂の顔を見るなり、目を輝かせた。
「わあ……! 美穂ちゃん!? 想像よりずっと可愛い! 電話の声だけでも可愛いと思ってたけど、実物はもう最強だよ〜! 絶対いいスタッフになれるって! ねえ、入って入って!」
美穂はわざと肩をすくめ、おどおどしながら頭を下げた。
「……あ、ありがとうございます……」
大場に手を引かれるようにして中に入る。
部屋は狭めの会議室。
長テーブルに椅子が4脚。
窓はブラインドで閉められ、外の光はほとんど入っていない。
空気は少し埃っぽく、しかし清潔だった。
テーブルの奥に、社長と呼ばれる男が座っていた。
50代半ばくらい。
ガッシリとした体躯に、肩幅の広いCLAVATAのフルオーダースーツ。
濃紺の生地が照明を吸い込むように光っている。
顔は確かに迫力があるが、笑うと意外に柔らかい印象になった。
美穂が入るなり、社長は椅子から立ち上がり、名刺入れを取り出した。
「初めまして。ホワイトステート代表の宇都宮淳です。 今日はお越しいただき、ありがとうございます」
丁寧に頭を下げ、名刺を両手で差し出す。
美穂は慌てたふりで受け取り、視線を少し伏せながらお辞儀を返した。
「……佐藤美穂です……よろしくお願いします……」
大場がくすくす笑いながら、宇都宮に言った。
「美穂ちゃん、緊張してるんだからオジサンは座っててください〜。怖がらせちゃダメですよ」
宇都宮は大げさに両手を上げて笑った。
「すまんすまん! つい興奮しちゃってな。 座る座る!」
再び椅子に腰を下ろす仕草がおどけていて、どこか親しみやすい。
だが、美穂の目は冷静だった。
宇都宮のスーツのステッチ、袖口のボタン、すべてが本物のCLAVATAの高級品。
安物ではない。
大場が美穂を隣の椅子に座らせ、自分も向かいに座った。
テーブルにはミネラルウォーターのペットボトルが3本。
誰も飲んでいない。
「じゃあ、まずはリラックスしてね。美穂ちゃん、最近どんな趣味あるの? 好きな食べ物とか、休みの日は何してる?」
大場は自然に会話を振ってきた。
美穂は設定した通りの「困ってる女の子」を演じながら答えた。
「……えっと、最近は……お金がなくて、外食とか全然できなくて……。インスタとか見てると、みんなキラキラしてて、羨ましくて……」
大場は優しく頷きながら、相槌を打つ。
「わかるよ〜。 私も昔はそうだったもん。 でも大丈夫、ここに来てくれたら、きっと変わるよ。」
10分ほど、そんな他愛のない話が続いた。
美穂の「最近の困った事」を中心に、大場が巧みに聞き出し、共感を示す。
宇都宮は黙って聞いていたが、時折優しく微笑むだけ。
やがて、宇都宮がゆっくり立ち上がった。
「美穂ちゃん。いやあ、ずいぶん素敵な女性だな!」
声は穏やかだが、どこか重みがある。
「正直、こんなにぴったりの子が来てくれるなんて思ってなかったよ。 大場のお手柄だ。 この子は誰が何と言おうと採用だ!」
宇都宮はにこやかに笑い、両手を広げた。
「日給3万、日払い可。 制服も貸与するし、仕事は簡単だよ。 女性のお客様の相談に乗って、ちょっとお手伝いするだけ。 美穂ちゃんみたいな可愛い子が笑顔で対応してくれれば、お客様も安心するだろうしね。」
大場が手を叩いて喜んだ。
「でしょ〜! 美穂ちゃん、絶対に向いてるよ!」
美穂は目を伏せ、指を膝の上で絡ませながら、小さく呟いた。
「……本当に……いいんですか……?」
宇都宮が優しく頷く。
「もちろん。今日からでも始められるよ。どうだい?」
部屋に、短い沈黙が落ちた。
美穂の青いリボンが、わずかに光を反射した。
隠しカメラは、すべてを捉え続けている。
高木のPCの前では、映像が静かに流れていた。
――今、核心に触れた。
美穂はゆっくりと顔を上げ、ためらいがちに微笑んだ。
「……わかりました……。よろしくお願いします……」
宇都宮の笑顔が、わずかに深くなった。
「よし、決まりだ。じゃあ、早速手続きを……」
会議室の空気が、ゆっくりと変わり始めた。




