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女装探偵  作者: 相澤 沁
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90/100

笑いという誇り2

その夜、事務所の照明は最小限に落とされていた。

窓際のデスクに二人が並び、ノートパソコンの画面だけが青白い光を放っている。

時計は午前1時を少し回ったところ。

公園の監視カメラ映像は、IRモードで緑がかった夜景を映し出していた。

ベンチ、花壇、昨夜の血痕がうっすら残る地面――すべて静止したままだった。

健一はコーヒーのマグを握りしめ、目を細めて画面を見つめている。

高木はヘッドホンを片耳に当て、キーボードに指を置いたまま微動だにしない。

突然、映像の端に人影が現れた。

高木の声が低く響く。

「来たな。」

健一の背筋がピンと伸びた。

黒いジャケット、キャップ。

昼間の映像と同じシルエット。

男はゆっくりと公園に入り、江口が倒れていた場所――花壇のすぐ横――に立ち止まった。

周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、ポケットから小さな線香立てとライターを取り出した。「まさか…もう来るなんて。」

健一がつぶやく。

いずれは来ると予想はしていたが、こんなに早く現れるとは思っていなかった。

高木は即座に録画ボタンを押し、録音も開始。

ズームを最大まで寄せ、男の顔を捉えようとする。

画面に映った男の顔は、30代半ばくらい。

瘦せ型で、頰がこけ、目元に深い影がある。

キャップのつばの下から覗く表情は、意外なほど穏やかだった。

いや、穏やかを通り越して、どこか諦めたような、疲れたような顔。

男は線香に火をつけ、地面に立てた。

煙が細く立ち上る。

そして、両手を合わせ、静かに目を閉じた。

ヘッドホンから、かすれた声が流れてくる。

「あんな奴でも…死んだなら仏様だよな。」

男の声は低く、震えていた。

念仏を唱え始める。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……

ゆっくり、繰り返し。

「せめて、その口を二度と聞かずに成仏してくれ。」

最後にそう呟き、男は深く頭を下げた。

線香の煙が風に揺れ、男の顔を一瞬隠す。

それから、静かに立ち上がり、来た道を戻って行った。

足音すらほとんど聞こえない、静かな後ろ姿。

映像が再び静止した公園に戻る。

線香だけが、ぽつんと燃え続けていた。

健一は息を吐き、ヘッドホンを外した。

「…殺した奴が線香あげに来るって、どういうことだ?」

高木もヘッドホンを外し、ゆっくり首を振った。

「仇討ちじゃない。 恨みで殺したわけじゃない……少なくとも、本人はそう思ってるみたいだ。」

健一は怪訝な顔で言った。

「でも、傘を刺したのはあいつだろ? あれはただの『見せしめ』じゃなかったのか?。」

高木は目を閉じて天井を見上げて返した。

「分からない。 でも、あの言葉……『その口を二度と聞かずに』って。 江口の『口』が何か問題だったんだろうな。」

二人はしばらく黙っていた。

画面に映る線香の火が、弱々しく揺れている。

健一が立ち上がり、スマホを取り出した。

「現行犯じゃないし、俺たちに逮捕権限はない。 ここは見送るしかない……けど、刑事課にはすぐ連絡しとかないとな。」

高木は頷き、録画ファイルを圧縮しながらメールの準備を始めた。

数十分後、事務所のインターホンが鳴った。

深夜にもかかわらず、刑事課の担当刑事が駆けつけてきた。

40代半ばの刑事は事務所に入るなり言った。

「映像と音声、確認させてくれ。」

高木がノートパソコンを差し出す。

刑事はヘッドホンを当て、映像を何度も巻き戻しては再生した。

男の顔がズームで映るたび、眉を寄せる。

「……確かに、昨夜の男だ。 体格、服装、全部一致する。」

最後に、男の呟きを聞いた刑事は深く息を吐いた。

「ありがとう。これで大分絞れる。 非公式で頼んだ甲斐があったよ。」

健一が小さく頭を下げた。

刑事は画面から目を離さずに言った。

「顔がはっきり映ってるんで、照会かけやすいな。 線香の件も含めて動機の線が少し見えてきた。 江口の『口』……ネットで何を喋り散らしてたか、改めて洗ってもらえないか?」

刑事がファイルをUSBにコピーし、立ち上がった。

「謝礼の話は改めて。 今はこれで失礼する。」

ドアが閉まる音が響き、事務所に再び静けさが戻った。

健一は窓辺に立ち、公園の方を見下ろした。

線香の火はもう消えていた。

ただ、夜風に揺れる木の影だけが静かに動いている。

高木は椅子に座ったまま、画面を閉じて言った。

「まだ終わってない。 あの男の正体が分かったら、次は江口を殺した理由だ。 そして、傘の意味もな。」

健一は振り返り、高木と視線を合わせた。

「明日から本格的に江口のデジタル足跡を掘るか。 あの『口』を、二度と聞かせたくなかった理由を探そう。」


翌日の昼、事務所の電話が鳴った。

健一が受話器を取ると、昨夜の刑事の声だった。

少し疲れた、しかしどこか安堵したようなトーン。

「自首してきたよ。あの男。」

健一の目が一瞬見開かれた。

高木が隣で作業の手を止め、こちらを振り返る。

「須藤 忠司、38歳。 売れない芸人だってさ。 取り調べでも一切抵抗なく、嘘も言い訳もなし。 供述は現場の状況と完全に一致してる。 もう起訴は確実だ。」

健一は受話器を握ったまま、高木に視線を向けて呟いた。

「…何がどうなってるんだ?」

高木は静かに頷いて呟いた。

「あんな派手に傘を突き刺しておいて、線香あげて念仏唱えて仏様扱い。 その上、自首? 一体何を考えてるんだ。」

二人は言葉を失った。

猟奇殺人。

見せしめ。

恨み。

そんな単純な動機だと思っていた。

なのに、犯人が自ら祈りに来て、自首までする。

理解が追いつかない。

数週間後。

地裁の法廷。

傍聴席の最後列に、健一と高木は並んで座っていた。

二人とも、静かに被告席を見つめている。

須藤 忠司は、灰色の拘置所服を着て、背筋を伸ばして立っていた。

瘦せた体、こけた頰、目元に深い影。

あの夜の映像と同じ顔。

だが、今はどこか落ち着いているように見えた。

検察側の求刑は、懲役20年。

弁護側は特に反論せず、被告人も淡々と頷くだけ。

裁判官が最後の陳述を促すと、須藤はゆっくりと顔を上げた。

「刑は求刑通りを希望します。 控訴もしません。 ただ…一つだけ、本当の動機をお話させていただけますか?」

法廷に小さなざわめきが広がった。

誰もが「猟奇的な見せしめ殺人」だと信じて疑わなかった。

動機など、ただの狂気か、個人的な恨みだと。

裁判官は少し間を置いて、静かに頷いた。

「許可します。 述べてください。」

須藤は深く息を吸った。

そして、目を見開き、叫ぶように声を張り上げた。

涙が溢れ、頰を伝う。

「アイツは……江口は、笑うって事を蔑んだんだ!」

法廷が凍りついた。

「世の中はなぁ、アイツみたいに恵まれた奴ばっかりじゃねぇんだ! 生きてるだけで苦しくって、悲しくって、辛くって……それでも…生きてるしか出来なくて… でも、生きてれば、やっぱり苦しくって、悲しくって、辛くって… 毎日泣いてんだよ! 世の中には、そういう人が大勢いるんだよ!」

声が震え、嗚咽が混じる。

だが、止まらない。

「でもなぁ、そんな人達でもなぁ! 笑ってる間だけは全部忘れていられるんだよ! だから俺は、皆に笑って欲しくて……芸人やってきたんだ! それを……アイツは……」

須藤の拳が、拘束された手錠の中で握りしめられる。

「『たかが笑わすだけ』『そんなつまんない事』って蔑んだんだ! 俺の、俺たちの……唯一の救いを、踏みにじったんだ! だから俺は……アイツの口を壊したんだ!」

静寂が、法廷を包んだ。

誰も動かない。

検察官でさえ、目を逸らさず須藤を見つめている。

傍聴席の健一は、息を詰めていた。

高木の指が、膝の上で固く握られていた。

須藤は涙を拭いもせず、声を落として付け加えた。

「以上が……本当の動機です。 言わせていただけて、嬉しかったです。 ありがとうございました。」

それっきり、須藤は口を閉ざした。

俯き、肩を落とし、ただ静かに立っている。

裁判官が小さく咳払いをして、判決の日程を告げた。

法廷は徐々に動き始めたが、二人はしばらく席を立てなかった。

外へ出ると、昼下がりの陽射しが眩しかった。

健一は深く息を吐き、空を見上げた。

「……笑いを、壊されたから…口を壊したってのか。」

高木は静かに頷いた。

「猟奇じゃなかった。 狂気でもなかった。 ただ……絶望が、形を変えただけだ。」

公園の方角へ、ゆっくりと二人は並んで歩き始めた。

健一は小さな声で呟いた。

「あの線香も、念仏も……最後まで、笑いって事を信じて誇りに思ってた証拠だったのかもな。」

高木は答えず、ただ前を向いて歩く。

二人はマンションの影に入り、事務所の扉を開けた。

静かな部屋に、いつもの日常が戻ってくる。

でも、心のどこかに、あの叫びが刻まれていた。

笑うことの、尊さと脆さ。


事務所に戻った二人は、いつものように照明を落としたまま窓辺に立っていた。

外はもう夕暮れ近くで、公園の木々が長い影を伸ばしている。

事件の余韻が、まだ空気に重く残っていた。

健一は、窓ガラスに額を軽く押しつけた。

冷たい感触が、熱くなった頰を少しだけ冷ます。

視線はぼんやりと外に向いているのに、頭の中では別の光景が浮かんでいた。

――由香ちゃんの、無邪気な笑顔。

コスプレイベントで、目を輝かせて駆け寄ってくる姿。

仁さんの、過保護だけど優しい笑み。

由香の成長を、呆れながらも温かく見守る目。

佐々木さんの、ハルク店長のどこか照れくさそうに笑う顔。

あの笑顔たちが、須藤の叫びと重なる。

「笑ってる間だけは全部忘れていられるんだよ!」

あの言葉が、胸の奥に刺さっていた。

健一は小さく息を吐き、隣に立つ高木に視線を移した。

「……俺、須藤の気持ち、分かっちまうんだ。」

健一は低く、かすれた声で続けた。

「由香ちゃんや仁さん、佐々木さんの笑顔を思い出すと……あいつが、須藤が、どれだけ必死だったか分かるんだ。 笑いが、どれだけ救いだったか。 それを、江口が『たかが』って踏みにじった瞬間……あいつの中の何かが壊れたんだろうな。」

高木は静かに顔を上げ、健一を見て言った。

「……こんな形じゃなくてさ。 もっと普通に出会えたとしたら……須藤とは楽しい話ができたかもしれないな。」

声は穏やかだったが、痛みが混じっていた。

「くだらないネタで笑い合って、『お前、それウケるわ』って軽口叩き合って……そんな風に。」

健一は小さく頷いて、言葉を続けた。

「こんなにも後味の悪い解決……初めてだ。」

その瞬間、健一の目尻から一粒だけ涙が零れた。

頰を伝い、顎の先で止まる。

健一はそれを拭おうともせず、ただ静かに立っていた。

高木は何も言わず、ただ、ゆっくりと頷いた。

その仕草は、健一の涙を言葉以上に受け止めているようだった。

二人はしばらく、無言で窓の外を見つめ続けた。

公園のベンチに、誰かが座っている。

夕陽が、木々の隙間から柔らかく差し込み、淡いオレンジの光が事務所の床に細く伸びていた。

笑いのために殺した男。

その男を、理解してしまった自分たち。

そして、その理解がもたらす静かな痛み。

Guardeanの日常は、また明日から続く。

でも、この事件は、きっと二人の胸に小さな消えない棘のように残るだろう。

健一はようやく涙を指で拭い、深く息を吸った。

「……コーヒー、淹れるか。」

高木は小さく笑って、頷いた。

「ああ。 今日は濃いめにするか。」

二人はゆっくりとデスクの方へ歩き始めた。

背後で、夕陽が静かに沈んでいく。

公園の影が、長く、深く伸びていた。

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