笑いという誇り2
その夜、事務所の照明は最小限に落とされていた。
窓際のデスクに二人が並び、ノートパソコンの画面だけが青白い光を放っている。
時計は午前1時を少し回ったところ。
公園の監視カメラ映像は、IRモードで緑がかった夜景を映し出していた。
ベンチ、花壇、昨夜の血痕がうっすら残る地面――すべて静止したままだった。
健一はコーヒーのマグを握りしめ、目を細めて画面を見つめている。
高木はヘッドホンを片耳に当て、キーボードに指を置いたまま微動だにしない。
突然、映像の端に人影が現れた。
高木の声が低く響く。
「来たな。」
健一の背筋がピンと伸びた。
黒いジャケット、キャップ。
昼間の映像と同じシルエット。
男はゆっくりと公園に入り、江口が倒れていた場所――花壇のすぐ横――に立ち止まった。
周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、ポケットから小さな線香立てとライターを取り出した。「まさか…もう来るなんて。」
健一がつぶやく。
いずれは来ると予想はしていたが、こんなに早く現れるとは思っていなかった。
高木は即座に録画ボタンを押し、録音も開始。
ズームを最大まで寄せ、男の顔を捉えようとする。
画面に映った男の顔は、30代半ばくらい。
瘦せ型で、頰がこけ、目元に深い影がある。
キャップのつばの下から覗く表情は、意外なほど穏やかだった。
いや、穏やかを通り越して、どこか諦めたような、疲れたような顔。
男は線香に火をつけ、地面に立てた。
煙が細く立ち上る。
そして、両手を合わせ、静かに目を閉じた。
ヘッドホンから、かすれた声が流れてくる。
「あんな奴でも…死んだなら仏様だよな。」
男の声は低く、震えていた。
念仏を唱え始める。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……
ゆっくり、繰り返し。
「せめて、その口を二度と聞かずに成仏してくれ。」
最後にそう呟き、男は深く頭を下げた。
線香の煙が風に揺れ、男の顔を一瞬隠す。
それから、静かに立ち上がり、来た道を戻って行った。
足音すらほとんど聞こえない、静かな後ろ姿。
映像が再び静止した公園に戻る。
線香だけが、ぽつんと燃え続けていた。
健一は息を吐き、ヘッドホンを外した。
「…殺した奴が線香あげに来るって、どういうことだ?」
高木もヘッドホンを外し、ゆっくり首を振った。
「仇討ちじゃない。 恨みで殺したわけじゃない……少なくとも、本人はそう思ってるみたいだ。」
健一は怪訝な顔で言った。
「でも、傘を刺したのはあいつだろ? あれはただの『見せしめ』じゃなかったのか?。」
高木は目を閉じて天井を見上げて返した。
「分からない。 でも、あの言葉……『その口を二度と聞かずに』って。 江口の『口』が何か問題だったんだろうな。」
二人はしばらく黙っていた。
画面に映る線香の火が、弱々しく揺れている。
健一が立ち上がり、スマホを取り出した。
「現行犯じゃないし、俺たちに逮捕権限はない。 ここは見送るしかない……けど、刑事課にはすぐ連絡しとかないとな。」
高木は頷き、録画ファイルを圧縮しながらメールの準備を始めた。
数十分後、事務所のインターホンが鳴った。
深夜にもかかわらず、刑事課の担当刑事が駆けつけてきた。
40代半ばの刑事は事務所に入るなり言った。
「映像と音声、確認させてくれ。」
高木がノートパソコンを差し出す。
刑事はヘッドホンを当て、映像を何度も巻き戻しては再生した。
男の顔がズームで映るたび、眉を寄せる。
「……確かに、昨夜の男だ。 体格、服装、全部一致する。」
最後に、男の呟きを聞いた刑事は深く息を吐いた。
「ありがとう。これで大分絞れる。 非公式で頼んだ甲斐があったよ。」
健一が小さく頭を下げた。
刑事は画面から目を離さずに言った。
「顔がはっきり映ってるんで、照会かけやすいな。 線香の件も含めて動機の線が少し見えてきた。 江口の『口』……ネットで何を喋り散らしてたか、改めて洗ってもらえないか?」
刑事がファイルをUSBにコピーし、立ち上がった。
「謝礼の話は改めて。 今はこれで失礼する。」
ドアが閉まる音が響き、事務所に再び静けさが戻った。
健一は窓辺に立ち、公園の方を見下ろした。
線香の火はもう消えていた。
ただ、夜風に揺れる木の影だけが静かに動いている。
高木は椅子に座ったまま、画面を閉じて言った。
「まだ終わってない。 あの男の正体が分かったら、次は江口を殺した理由だ。 そして、傘の意味もな。」
健一は振り返り、高木と視線を合わせた。
「明日から本格的に江口のデジタル足跡を掘るか。 あの『口』を、二度と聞かせたくなかった理由を探そう。」
翌日の昼、事務所の電話が鳴った。
健一が受話器を取ると、昨夜の刑事の声だった。
少し疲れた、しかしどこか安堵したようなトーン。
「自首してきたよ。あの男。」
健一の目が一瞬見開かれた。
高木が隣で作業の手を止め、こちらを振り返る。
「須藤 忠司、38歳。 売れない芸人だってさ。 取り調べでも一切抵抗なく、嘘も言い訳もなし。 供述は現場の状況と完全に一致してる。 もう起訴は確実だ。」
健一は受話器を握ったまま、高木に視線を向けて呟いた。
「…何がどうなってるんだ?」
高木は静かに頷いて呟いた。
「あんな派手に傘を突き刺しておいて、線香あげて念仏唱えて仏様扱い。 その上、自首? 一体何を考えてるんだ。」
二人は言葉を失った。
猟奇殺人。
見せしめ。
恨み。
そんな単純な動機だと思っていた。
なのに、犯人が自ら祈りに来て、自首までする。
理解が追いつかない。
数週間後。
地裁の法廷。
傍聴席の最後列に、健一と高木は並んで座っていた。
二人とも、静かに被告席を見つめている。
須藤 忠司は、灰色の拘置所服を着て、背筋を伸ばして立っていた。
瘦せた体、こけた頰、目元に深い影。
あの夜の映像と同じ顔。
だが、今はどこか落ち着いているように見えた。
検察側の求刑は、懲役20年。
弁護側は特に反論せず、被告人も淡々と頷くだけ。
裁判官が最後の陳述を促すと、須藤はゆっくりと顔を上げた。
「刑は求刑通りを希望します。 控訴もしません。 ただ…一つだけ、本当の動機をお話させていただけますか?」
法廷に小さなざわめきが広がった。
誰もが「猟奇的な見せしめ殺人」だと信じて疑わなかった。
動機など、ただの狂気か、個人的な恨みだと。
裁判官は少し間を置いて、静かに頷いた。
「許可します。 述べてください。」
須藤は深く息を吸った。
そして、目を見開き、叫ぶように声を張り上げた。
涙が溢れ、頰を伝う。
「アイツは……江口は、笑うって事を蔑んだんだ!」
法廷が凍りついた。
「世の中はなぁ、アイツみたいに恵まれた奴ばっかりじゃねぇんだ! 生きてるだけで苦しくって、悲しくって、辛くって……それでも…生きてるしか出来なくて… でも、生きてれば、やっぱり苦しくって、悲しくって、辛くって… 毎日泣いてんだよ! 世の中には、そういう人が大勢いるんだよ!」
声が震え、嗚咽が混じる。
だが、止まらない。
「でもなぁ、そんな人達でもなぁ! 笑ってる間だけは全部忘れていられるんだよ! だから俺は、皆に笑って欲しくて……芸人やってきたんだ! それを……アイツは……」
須藤の拳が、拘束された手錠の中で握りしめられる。
「『たかが笑わすだけ』『そんなつまんない事』って蔑んだんだ! 俺の、俺たちの……唯一の救いを、踏みにじったんだ! だから俺は……アイツの口を壊したんだ!」
静寂が、法廷を包んだ。
誰も動かない。
検察官でさえ、目を逸らさず須藤を見つめている。
傍聴席の健一は、息を詰めていた。
高木の指が、膝の上で固く握られていた。
須藤は涙を拭いもせず、声を落として付け加えた。
「以上が……本当の動機です。 言わせていただけて、嬉しかったです。 ありがとうございました。」
それっきり、須藤は口を閉ざした。
俯き、肩を落とし、ただ静かに立っている。
裁判官が小さく咳払いをして、判決の日程を告げた。
法廷は徐々に動き始めたが、二人はしばらく席を立てなかった。
外へ出ると、昼下がりの陽射しが眩しかった。
健一は深く息を吐き、空を見上げた。
「……笑いを、壊されたから…口を壊したってのか。」
高木は静かに頷いた。
「猟奇じゃなかった。 狂気でもなかった。 ただ……絶望が、形を変えただけだ。」
公園の方角へ、ゆっくりと二人は並んで歩き始めた。
健一は小さな声で呟いた。
「あの線香も、念仏も……最後まで、笑いって事を信じて誇りに思ってた証拠だったのかもな。」
高木は答えず、ただ前を向いて歩く。
二人はマンションの影に入り、事務所の扉を開けた。
静かな部屋に、いつもの日常が戻ってくる。
でも、心のどこかに、あの叫びが刻まれていた。
笑うことの、尊さと脆さ。
事務所に戻った二人は、いつものように照明を落としたまま窓辺に立っていた。
外はもう夕暮れ近くで、公園の木々が長い影を伸ばしている。
事件の余韻が、まだ空気に重く残っていた。
健一は、窓ガラスに額を軽く押しつけた。
冷たい感触が、熱くなった頰を少しだけ冷ます。
視線はぼんやりと外に向いているのに、頭の中では別の光景が浮かんでいた。
――由香ちゃんの、無邪気な笑顔。
コスプレイベントで、目を輝かせて駆け寄ってくる姿。
仁さんの、過保護だけど優しい笑み。
由香の成長を、呆れながらも温かく見守る目。
佐々木さんの、ハルク店長のどこか照れくさそうに笑う顔。
あの笑顔たちが、須藤の叫びと重なる。
「笑ってる間だけは全部忘れていられるんだよ!」
あの言葉が、胸の奥に刺さっていた。
健一は小さく息を吐き、隣に立つ高木に視線を移した。
「……俺、須藤の気持ち、分かっちまうんだ。」
健一は低く、かすれた声で続けた。
「由香ちゃんや仁さん、佐々木さんの笑顔を思い出すと……あいつが、須藤が、どれだけ必死だったか分かるんだ。 笑いが、どれだけ救いだったか。 それを、江口が『たかが』って踏みにじった瞬間……あいつの中の何かが壊れたんだろうな。」
高木は静かに顔を上げ、健一を見て言った。
「……こんな形じゃなくてさ。 もっと普通に出会えたとしたら……須藤とは楽しい話ができたかもしれないな。」
声は穏やかだったが、痛みが混じっていた。
「くだらないネタで笑い合って、『お前、それウケるわ』って軽口叩き合って……そんな風に。」
健一は小さく頷いて、言葉を続けた。
「こんなにも後味の悪い解決……初めてだ。」
その瞬間、健一の目尻から一粒だけ涙が零れた。
頰を伝い、顎の先で止まる。
健一はそれを拭おうともせず、ただ静かに立っていた。
高木は何も言わず、ただ、ゆっくりと頷いた。
その仕草は、健一の涙を言葉以上に受け止めているようだった。
二人はしばらく、無言で窓の外を見つめ続けた。
公園のベンチに、誰かが座っている。
夕陽が、木々の隙間から柔らかく差し込み、淡いオレンジの光が事務所の床に細く伸びていた。
笑いのために殺した男。
その男を、理解してしまった自分たち。
そして、その理解がもたらす静かな痛み。
Guardeanの日常は、また明日から続く。
でも、この事件は、きっと二人の胸に小さな消えない棘のように残るだろう。
健一はようやく涙を指で拭い、深く息を吸った。
「……コーヒー、淹れるか。」
高木は小さく笑って、頷いた。
「ああ。 今日は濃いめにするか。」
二人はゆっくりとデスクの方へ歩き始めた。
背後で、夕陽が静かに沈んでいく。
公園の影が、長く、深く伸びていた。




