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第14話 両親が仕事についていくと言う


 叩きつけるような雨だった。

 雷鳴が閃くたびに、夜道をゆく孤独な旅人の姿が青白く浮かび上がった。

 深くかぶったフードと全身を包むマントからは絶えず水が滴り、ぬかるんだ道を歩んできたブーツはひどく汚れていた。

 激しい雨はその足跡を残さぬよう、すべてを塗りつぶしていった。


 ◯


 道の終わり、行く手を阻むような鬱蒼とした森の前で、旅人は立ち止まった。


 そして、ささやき声のように言葉を唱えた。


<<……開けゴマ>>


 空間に裂け目が走り、森だったものが歪み始めた。

 やがてそれは扉の形を取り、旅人の前に開かれる。

 旅人は、躊躇なく、その扉に飛び込んだ。


 踏み込んだ瞬間、空気が変わった。

 鼻腔をくすぐったのは、激しい嵐の湿った臭いではなく、胸がすくようなお日様の匂いだった。


 旅人は、それを確かめるように、胸の奥まで深く吸い込んだ。


「止まれ」


 背後で、弓の弦が鳴った。


 振り返った先には、すでに矢をつがえた男が鋭い眼光を向けていた。

 長い耳を持つ、美しい顔貌の男だった。


 旅人はさらに別の気配を感じて、首だけで振り返った。


「お前は今、エルフの領域に踏み入っているぞ、人間」


「どこで合言葉を聞いた? 興味本位で立ち寄るべき場所ではないぞ」

 

 三人のエルフは旅人を包囲し、強い警戒心を露わにした。


 だが、旅人はその反応を予期していたかのように、静かにフードの縁に指をかけ、ゆっくりと下ろした。


 そこにいたのは、どこにでもいるような、どこか愛嬌のある、以前より少しだけ青さが抜けた少年だった。


<<あんれまぁ、マヤさんどごのレオンでねぇの?>>


 訛りの強い、本場のエルフ語だ。

 皆が目を丸くし、懐かしさに頬を緩めた。

 突きつけられていた矢が下ろされ、張り詰めていた空気は一瞬で緩んだ。


<<前ど雰囲気ちがってっから、誰だがど思ったっちゃあ!>>

<<マヤさんがら、冒険者さなったって聞いてたげんど?>>


 レオンは頬をかくようにして、わずかに目を伏せた。


<<ちょっと、確認したいことがあって……帰ってきたっちゃ>>


<<んだら、またすぐ旅立つのがい?>>


 その問いに、レオンはひと呼吸置いて口を開いた。


<<分かりません>>


 エルフたちは互いに顔を見合わせ、首を傾げ、眉をわずかに寄せて、無言の視線を交わした。


<<んだがぁ。まあ、ゆっくり考えだらいいっちゃ>>


 そして、ひとりがふと思い出したように肩をすくめた。


<<おっと、さぼってだらマヤさんに叱られっからな。私は仕事さ戻っから、マヤさんどバルトロメウスさんに宜しく言っといでけろ>>


 レオンは、彼らと手を振って別れ、重い足取りで実家への道を辿った。


 ◯


 水玉模様の手ぬぐいで髪をまとめたエルフ――マヤは、洗いたての清潔な暖簾を両手に抱えて店先に出た。


 木製の暖簾掛けに、端から順番に布の輪を通し、最後の一箇所を掛け終えると、左右のバランスを見ながら後ろへ下がった。


「よし」


 深い紺色の布に白抜きされた『お食事処なごみ』の文字。

 彼方に見える山々を吹き抜けてきたような涼やかな風が、その裾をふわりと揺らした。


「ただいま……」


 不意に聞こえたその声に、マヤは振り返った。

 そこには「土産話を期待してて」と言い残して旅立った息子が立っていた。

 バツの悪さを隠すように小石を蹴りながら、上目遣いで「まあ、その、予定より早く帰ったよ」と口笛でも吹きそうな顔で気まずさをやり過ごしていた。


 マヤはくすりと笑う。


「おかえり」


 マヤは今かけたばかりの暖簾を下ろして、『臨時休業』の札を下げた。


「いいの?」


 引き戸を引いて「中に入りなさい」と促すように、顎先で店の奥をひょいと指してみせた。


 店の中に入り、レオンが腰を下ろす。木の椅子がいつもと同じように軋んだ。

 落ち着かない手つきで膝を撫でる。


「お爺は?」


「田んぼ見てくるって」

「そっか……」


 レオンの浮ついた態度を見て、マヤは何かを察したようだった。

 だけど、それを問おうとはしない。


 ――これは母親より父親の出番かしらね――


 そうとなれば、やるべきことは一つだった。


「お腹、空いてない? 何か食べる?」


 レオンは小さくうなずいた。

 マヤはやわらかく笑って、カウンターの向こうへ入った。


「何食べたい?」


「なんでも。あ……カツ丼以外で」


 エプロンをつけるマヤの手が止まった。


「あんなに好きだったのに」

「好きだけど……」

「そう?」


 ほどなくして、包丁の音が規則正しく響き始めた。


   ・


   ・


   ・


 湯気の立ち上るサバの味噌煮定食を、レオンは黙々と食べた。

 甘辛い味噌の味も、脂ののった身の柔らかさも、白いご飯のやけどしそうな熱さも、外の世界にはなかったものだ。

 鼻から抜ける湯気の香りに、自分がいかに遠い場所で奮闘していたのかを突きつけられた。

 レオンはしみじみと味わった。


 そのとき、ガラリと引き戸が開いた。


 長い白髪を紐で縛り、まくり上げた袖から丸太のような腕を出した老雄が、乾いた外気とともに店に入ってきた。

バルトロメウス――かつて勇者と呼ばれた男だ。


「おいマヤ、臨時休業ってどうした。体調でも悪いのか?」


 鋭い眼光を店内に走らせる。

 その鷹のような視線が、苦笑するマヤに向かい、そして食べ物で頬を膨らませたレオンにぶつかった。


「ありゃ! レオン、もう帰ったのか?」


 レオンは口の中のものを飲み込んでから、ようやく顔を上げた。


「お爺」


 彼が状況を理解するより先に、マヤに背中を押されてレオンと同じテーブルに座らせられた。

 やがてサバの味噌煮定食がお盆に乗って運ばれてきた。

 バルトロメウスは小骨を取りながら尋ねた。


「冒険はどうだった?」


「大したことなかった」


「冒険者ギルドには入ったんだろう?」


「うん、Eランクになった」


「そうか。頑張ったな。どっか、いいギルドは見つかったか?」


 レオンの箸が止まり、彼は固い声色で言った。


「どこもいいところなんてなかった」


 バルトロメウスは少しだけ眉を上げた。


「レオン……俺の若い頃はな、どんな場所でもまずは三年の辛抱だと言われたもんだ。そこまでやって初めて、自分に合うかどうかがわかるんだぞ。

今のお前はまだ、入り口の扉を叩いただけのようなもの。結論を出すのは早いんじゃないか」


 レオンは椅子を勢いよく鳴らして立ち上がると、手に持っていた箸を卓へ叩きつけた。乾いた音が響いた。


「三年なんてそんなの……! こんな冒険者ギルドは嫌だ! お爺の時代とは違うんだ!」


「おいおい」


 バルトロメウスは箸を置き、レオンを見つめた。


 やがて、口元をにやりと歪めた。


「さては、何かやらかしたな?」


「俺は悪くない……あいつらが勝手に……」


「いいから話してみろ。爺ちゃん、怒らないから」


 そこへマヤが、芋煮の入った鍋と、ビールの入ったジョッキを二つ、テーブルに置いた。

 甘じょっぱい香りが店の中に漂う。

 続けて、レオンの前には小さなプリンが置かれた。


「お婆にも、旅の話を聞かせてちょうだい」


 マヤはそう言って、初めて卓についた。


 レオンはしばらく黙っていたが、やがて観念したように口を開く。


「脱獄した。聖都の地下牢から」


「やったのか!」

「あらまあ」


 バルトロメウスとマヤは顔を見合わせ、それからジョッキを軽く打ち合わせた。

 レオンは咎めるように二人を見た。


「俺、お尋ね者なんだけど」


 すると、マヤがこともなげに言った。


「バルトなんて、若い頃は七つの国で指名手配されていたのよ」

「それくらいじゃ、まだまだだな」


 バルトロメウスは胸を張り、ジョッキをあおった。


「えぇ……」


 それから、話は日が暮れるまで続いた。

 レオンが冒険の失敗を語るたびに、バルトロメウスは声を上げて笑い、マヤは呆れたように眉を寄せるが、最後にはいつも一緒に笑っていた。


「へえ、外の世界も様変わりしたんだなあ」とバルトロメウスが感心する。


「いいわね、生牡蠣」とマヤがジョッキを傾ける。


 二人の喜ぶ顔を見て、レオンは苦労が報われる気がした。


「でさ、たまたま入った串焼き屋が友達の店でさ――」


 ◯


『お風呂に入っちゃいなさい』


 レオンとバルトロメウスは食堂に併設された温泉に向かった。

 泉質は、硫黄の香る塩化物泉。

 無色透明で、優しい肌当たりと湯上り後も続く温かさが特徴だ。


 湯気の向こうで、二人の肩が並んだ。


「エルフの里に住む利点はこの温泉だね」


 レオンは肩に湯をかけ、「ほぉ」と息を吐いて空を見上げた。

 里で見る星は、手を伸ばせば掴めそうな距離にあった。


「聖都でさ、魔王って言われたんだ」


 頭の上のタオルを取ろうとしていたバルトロメウスが固まった。


「笑っちゃうよね。魔王を殺した勇者バルトロメウスに育てられた俺が、魔王の生まれ変わりで第二の魔王なんだって」


 レオンの声色は明るかったが、それは強がりだとバルトロメウスには分かっていた。

 彼は岩の縁にもたれかかって、しれっと言う。


「半分当たりで、半分外れだな」


 レオンが高速で振り向いた。


「え? どれが? 当たりって?」


 バルトロメウスは、空中を見つめたまま言った。


「お前が魔王の生まれ変わりなのは本当だ」


 視界がぐらりと揺れたが、次のバルトロメウスの言葉にレオンは怪訝な顔をした。


「だが、第二の魔王じゃない」


「どういうこと?」


「魔王の生まれ変わりはな、すでに俺が999回殺した。レオン、お前は千番目の魔王なんだ」


 レオンは思わず立ち上がり、バルトロメウスに叫んだ。


「そんなの、今まで一度も……ちゃんと説明してよ!」

「まあ、まず座れ」

「――っ」


 レオンは渋々腰を下ろした。

 鼻のところまで湯に浸かり、恨めしそうにバルトロメウスを睨む。


 バルトロメウスは「ちぃと長くなるが、のぼせるなよ」といって、思い出というには血なまぐさい過去を語り始める。


「あれは66年前だった。俺がまだ、現役バリバリだった頃だなあ」


 ***


 ――66年前――


 人類に仇なす魔物の王、魔王を討伐すべく、剣を携えた若きバルトロメウスと、エルフで弓の名手であるマヤは長き旅の末、魔王の城へと辿り着いた。


 城は高く、空は低く、風には鉄の匂いが混じっていた。

 そこで二人は戦った。

 戦って、戦って、戦い尽くした。


 魔物の叫び声が壁に染みつき、床が血に沈んだころ、壮絶な戦いに幕が下りた。

 バルトロメウスの剣が、魔王の胸を貫いた。


 魔王は死の間際にあざ笑う。


「我が滅びようとも、第二第三の闇が現れ、人類を逃れ得ぬ絶望の縁へと繋ぎ止めるだろう」


 この忌まわしい予言は、バルトロメウスによって聖都へと持ち帰られた。


 バルトロメウスはすぐにでも魔王を探し出し、人類一丸となって討伐すべしと進言したが、疲弊した人々はこれまでの苦労を無かったことにして、束の間の休息を望んだ。

 勇者の焦燥は受け入れられず、両者の道は決定的に分かたれた。


 一方で、魔王の血を浴びたバルトロメウスは、魔王の気配を感じ取る能力を得ていた。


 彼はその魔王の転生体を見分ける力を使い、マヤと各地を旅しながら『魔王狩り』を始める。


 ――まだ俺の使命は終わっちゃいない――


 それから50年もの歳月が経った。

 一日たりとも、バルトロメウスが剣を置く日はなかった。


 その日は酒場だった。


 髪はすっかり白くなり、顔には深いシワが刻まれたころ、バルトロメウスが突如として叫び、剣を壁に突き立てた。


「死ね、魔王ッ!」


 剣の先にゴキブリが一匹、壁に縫い付けられていた。

 バルトロメウスはゴキブリごと剣を抜き取ると、それを地面に叩きつけ、何度も踏み潰した。


「思い知ったか!」


 賑やかだった店内がしんと静まった。

 客たちは顔を見合わせ、やがてひそひそと囁き合った。


『頭のおかしいジジイだ』


 フードで耳を隠したマヤは小さく息を吐いた。


「お代はここに」


 それだけ言って、バルトロメウスの腕を引いた。


 宿に戻る途中、街灯の下でバルトロメウスがぽつりと漏らした。


「すまん……」


 マヤは静かに微笑んだ。


「いいのよ。あなたが今も魔王と戦っているなんて、誰も知らないもの。でも、私は知ってる」


 バルトロメウスはしばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。


「あのちっぽけな虫を見ただろう? 魔王の力は確実に弱まっている。儂の勘では、次で完全に倒すことができるはずだ」


「そう……やっとなのね」


 少しの間を置いて、マヤは尋ねた。


「そのあと、あなたはどうするの?」

「その、あと……」


 バルトロメウスは答えられなかった。

 故郷に思い入れはなく、家族もいなかった。


 戦士が戦場を失うと、その先にあるのは――。


 マヤは静かに言った。


「あなたさえよければ、私の故郷に来ない?」


 バルトロメウスが顔を上げる。


「俺が……エルフの里に?」


「ええ。きっと歓迎してくれる」


「人間は拒まれるんじゃないのか」


「じゃあ、私と結婚すれば?」


 バルトロメウスは目を見開いた。


「結婚……?」


「私とじゃ嫌かしら?」


「そんなことはない」


 即座にそう言ってから、彼は言葉を失った。

 やがてうつむいて、自分の手を見る。傷だらけの手だった。


「俺は今まで、魔王を殺すことしか考えてこなかった」


 声はかすれていた。


「君との暮らしなんて、想像できない」


「バルト……」


 彼はマヤから逃れるように歩き出した。


 夜の町へ遠ざかっていくその背を、マヤは見送ることしかできなかった。


   ・


   ・


   ・


 橋の欄干に肘を預け、バルトロメウスは川を見つめていた。

 水は絶え間なく流れ、月の光を細かく砕いている。


 そのとき、不意に彼の表情が変わった。橋の下から魔王の気配を感じた。


「もう来たか」


 彼はこれまで何度もしてきたように、剣を抜いた。

 橋を下り、草を踏み、泥を蹴って、気配のする方へ進んでいった。


 そして。


「こ、こいつが最後の魔王……!?」



 ――翌朝――



「バルト! こんな時間までどこに……」


 宿で待っていたマヤの言葉が止まる。

 バルトロメウスの太い腕の中に、小さな赤ん坊が収まっていた。

 指をしゃぶりながら、可愛らしい寝息を立てている。


「その子、どうしたの?」


 バルトロメウスは一晩中その子を前にして剣を構えていたが、どんな理由を並べても振り下ろすことはできなかった。


 そして夜明けまでかかって、ようやく出た答えがひとつ。


「拾った」


 それだけだった。


 マヤは赤ん坊を見てからバルトロメウスを見、そして静かに戸を開ける。


「……中に入りなさい」


 バルトロメウスは何も言わず、うなずいた。



 昔話が終わると、湯船の中でバルトロメウスが顔を洗い、何でもないことのように言った。


「そいつがレオン、お前だった」


「川で拾ったの?」


「そうだ」


「前に、俺は木の股から生まれたって言ってなかった?」


「……」


「……?」


「……信じてたのか?」


「ハ?」


「いや、なんかすまん。冗談だ、冗談」


 レオンは湯の中で拳を握った。


「マヤは知ってるの? ……俺が魔王の生まれ変わりだって」


「さあなあ。言ったことはないなあ」


「なんで……」


 湯気の向こうで、バルトロメウスが目を細める。


「言う必要があるか?」


「あるよ。だって……魔王は人類の敵だし……」


 その言葉を、バルトロメウスが低い声で断ち切った。


「レオンはバルトとマヤの子だ」


 短く、揺るがない。


「それで十分だろ」


 レオンは唇を噛み、しばらく黙っていたが、やがて震える声で尋ねた。


「もし……もし俺が魔王になってしまったら、どうする?」


 バルトロメウスは一瞬きょとんとした後、腹の底から笑い出した。

 その大きな声が夜気に抜けていく。

 レオンは身をこわばらせて、振り絞るように言った。


「笑い事じゃない、真剣なんだよ……!」


「ははは! 悪い悪い。そんなこと気にする魔王がいるのかと思ったらな」


 バルトロメウスは目尻に浮かんだ涙を拭う。


「もしお前が将来、面倒くさいやつになっても、それはせいぜい反抗期だ」


「は、反抗期……?」


「爺ちゃんと婆ちゃんが全部受け止めてやるから、安心しとけ」


 バルトロメウスは湯の中から手を伸ばし、傷だらけの大きな手でレオンの頭を乱暴に撫でた。


「レオン、爺ちゃんはもう勇者じゃない」


 その声は思いのほか優しかった。


「勇者はただの幸せなジジイになっちまった。だから魔王のことなんぞ、どうでもいい」

「でも……」


 納得がいかないレオンに、バルトロメウスは左手の薬指にはめた指輪を掲げてみせた。


「これ知ってるか?」


「……結婚指輪だろ」


「お互いが左手の薬指にミスリルの指輪をはめて永遠の愛を誓う……エルフの慣習だ」


「知ってるよ、それぐらい」


「俺は知らなかった。初めてマヤに教えられた時、お前にもはめようとしたら『それは違う』と怒られた」


「当たり前だよ。それは夫婦でするもんだろ」


「当時の俺にとっては、それが自然なことだった。愛する妻と愛する息子に、永遠を誓うことがな」


「……」


「今もその気持ちは変わらない。それどころか、俺の中でもっと大きくなっちまった。マヤもきっと『私も同じだ』って言ってくれるはずだ」


「お……俺だって……」


 目の奥が熱くなる。

 レオンは湯の中にどぼんと頭まで沈めた。

 そして、目一杯の力を込めて叫んだ。


『あ◯◯◯○o。.+! ◯◯◯くれて○o。.゜*!』


 言葉は泡と一緒に消えたが、バルトロメウスには聞こえていたのかもしれない。

 その顔には満足げな笑みが浮かんでいたから。


 ◯


 レオンは温泉から上がると、少し小さくなったパジャマに身を包み、前まで使っていたベッドに腰を下ろした。


「部屋、きれいでしょ?」


 不意にドアの向こうからマヤが話しかけた。


「レオンがいなくても、毎日掃除してるからね」

「いいのに」


 マヤの後ろから、バルトロメウスも現れた。


「おー、レオン、もう寝るのか」

「うん、なんか眠たくなっちゃって」

「もっとお前の冒険を聞きたかったんだけどなぁ」


 それにマヤが反応した。


「私もよ。ダンジョンの話聞いてたら、久しぶりに血が滾っちゃった」

「だよなぁ、いいよなぁ、好きなところに行って、好きなものを食べて。昔はそういうことを一切してなかったよなぁ」

「新婚旅行もしてないしね」

「ああ、エルフの儀式だったっけ?」

「儀式じゃないわ。女性がずっと夢見てるものなんだから」


 どんどん盛り上がる二人に、レオンはあくびをした。


「ねえ、もう寝たいんだけど」

「おう、レオン。次の旅立ちはいつだ?」

「え? なんで?」

「俺たちも連れて行ってくれよ」

「ええ!?」

「いいわね。遅くなったけど新婚旅行よ」

「ちょっと待ってよ。親同伴で冒険者なんて、おかしいでしょ!」


 怒り出したレオンを、二人は楽しそうにはやし立てた。


「いいじゃん」

「いいじゃんいいじゃん」

「もお~っ! 出てって! 寝るからぁ!」


   ・


   ・


   ・


 翌朝は、まだ日も高くなかった。


 レオンはそっと寝床を抜け出し、手早く旅支度を整えた。

 もたもたしていては、両親が本気で旅についてきそうだったからだ。


 裏の勝手口に向かう途中で、バルトロメウスとマヤの寝室の前を通った。

 扉が少し開いていて、中からバルトロメウスのいびきが聞こえる。


 レオンは足音を忍ばせた。


 すると、不意にいびきが止まった。


 レオンは思わず立ち止まり、息を止めてじっと耳を澄ました。


 やがて、またいびきが聞こえてきた。


 レオンは小さく息を吐き、書き置きをひとつ残して外へ出た。


『お盆には帰ります』


 朝の空気は冷たかった。

 けれど、胸の奥にはまだ昨夜のぬくもりが残っていた。


 おわり。

最後までお読みくださりありがとうございました!

少しでも楽しんでもらえたら嬉しいです。

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