第肆話「夢路を駆る」(前)
ふと気付くと、独りで教室にいた。
しんと静まり返る中、蛍光灯のジジジという電気の音がやけに耳につく。
ぼんやりとした目を擦りながら、私はまるで迷子のように辺りを見回す。
窓の外には闇黒が広がっていた。
硝子がしっとりと濡れていることに気付く。
途端に耳に届くのは、さめざめと降る雨音だった。
どれほどの時間、私は眠っていたのだろう。
……いつ眠ったのだろう。
ぽっかりと記憶が抜け落ちていた。
「起こしてくれればいいのに」
ケイコとか逆井先生とか、誰でもいいけど。
酷い話だわ。
それとも私は、病的な眠り方でもしていたのだろうか。
……まぁ、その文句は明日にするとして。
家族も心配してるだろうし、急がないと。
ケータイを取り出そうと思って、スカートのポケットに手を入れてみるも、そこにはあるはずのものがなかった。
「やだっ、落とした!?」
だとしたら最悪だ。
なんて日なの!
まず私は自分の周囲の床の上を目で探り、それから鞄の中をひっくり返した。
そして教室内を端から端まで歩いて回った。
けれども、ケータイはどこにもなかった。
他に心当たりといえば、移動教室の時とか、お手洗いにでも行った時だけど……。
「仕方ない、探しますか」
女子高生としてはケータイは必需品だし、決して安いものでもないのだから、学校内でなくしたのだということも明らかであるし、探さないわけにはいかない。
ひっくり返した鞄の中身をささっと片づけて、それから机の中に他に持って帰らなくてはならないものがあるかどうかを確認する。
ケータイをここにいれた可能性もあるし。
とりあえず、あるものを全部ひっぱり出すと、覚えのない紙が一枚現れた。
「……んぅ?」
それはルーズリーフのようで、綺麗に折りたたまれて、手のひらサイズに縮こまっていた。
ケイコがいれたのかしら。
首を傾げながら広げていくと、その紙の中心に、ただ一言だけ「見てはダメ」とあった。
なんのこっちゃ、パンナコッタ。
見てはダメって何を?
この一文のことならば、見なければ確かめようがないのだから、矛盾しているわ。
超能力者ならともかく。
誰かのイタズラね。
そう決めて私は、元の通りに紙を折りたたんで無造作にポケットにつっこんだのだった。
教室を出る。
廊下の蛍光灯が、チカチカと点滅している。
そのせいか、とても薄暗い。
そろそろ替え時なのかしらね。
もっとも、先生か業者さんにでもやってもらうことで、私たちには関係ないことだ。
まずはお手洗いかしら、近いし。
ほんの十数歩で辿りつく。
お手洗いの入り口に差しかかると、パッと目の前が明るくなり、私は思わず目を細めた。
人を感知すると電気がつくようになっているのだ。
暗がりから急に光が差したから、びっくりしてしまった。
目をしばたかせながら、個室を一つずつ確かめていく。
一番奥、三番目の個室だけが閉まっていた。
わざわざノックして聞くのもなんだし、聞かれる方もびっくりしてしまうだろうし、と思い踵を返して出て行こうとすると、
──ギィ
と軋むような音がした。
ドキっとし振り返るも、誰かが出てくる気配はない。
私は戦々恐々とした心持ちで近づき、三番目を覗き込んだ。
「……ほ」
誰もいない。
それに何もなかった。
立て付けが悪かった、錆で扉が中途半端に閉まっていたのだろう。
そしてタイミング良く、今度は開いたのだ。
まったく人騒がせな話である。
自身の小心に苦笑しながら、私は女子トイレを後にしたのだった。
ケータイ……そう、携帯電話を探さなければならないのだから。
うっかり忘れてしまいそうになった。
次いで探索に向かうのは、家庭科室だ。
今日は調理実習があり、そういえば、ごたごたと忙しかった。
その最中でなくしてしまったのかもしれない。
その可能性は充分にあると思えた。
しかし残念なことに、鍵が閉まっていた。
家庭科室の隣は準備室となっていて、教師がいるはずなのだが、そちらも鍵が閉まっていて入ることすらできなかった。
当然、ノックにも反応はない。
そこでようやく、私はある可能性に思い至った。
既にこの学校には誰もいないのではないか、と。
「最悪だわ……」
そんな時間になるまで、私は眠っていたのかと思うと、ちょっとショックね。
そういえば、ケータイがないから時間の確認もしていなかったわ。
今何時なのかしら。
きょろきょろと周囲を探してみるけれど、時刻の確認が出来そうなものは何一つない。
教室内か、そうでなければ、校門付近、校庭あたりだろうか、あるとすれば。
「……帰りますか」
こうなったら明日来て、落し物箱とかでも探すかするしかない。
まったくの無駄足だったわけだ。
寝ぼけすぎでしょう、私。
下駄箱へと向かって階段を下りている途中で、私はふと足を止めた。
特になにってわけじゃないんだけれど、足が動かなくなったのだ。
どうしてだろうと思考を巡らせると、私自身の足音に混じって、もう一つ音がしていたからだということに、行き当たった。
音? どんな?
そう、言うなれば、裸足のようで、冷たさのある音だった。
ひた、ひた、ひた、って。
そのまま凍りついた時間の中で、私はじっと耳を澄ませる。
神経の全てが耳にあった。
しかし何も聞こえない。
何一つ、音がない。
外から車の走る音くらい聞こえてもいいような気がするが、それすらもないし、さっきまでは聞こえていたはずの雨音もまるで聞こえなくなった。
それに比例するかのように、自身の内なる音はぐんぐん大きくなっていく。
動悸が激しく、しっとりと汗が表皮から染み出してきている。
……勘違いよ。
何を怖がっているのかしら。
頭を振って、また一段、足を下ろす。
その瞬間、全身が総毛だったのだ。
ひた──って、まるで私の足に合わせるように、小さいけれど確かな音が染み込んでいった。
私はもう動けないなんて思えなかった。
嫌な感じを全身で感じ取っていた。
それは私が、今までに培ってきた、奇妙な経験がもたらす勘だ。
階段を飛び降りる勢いで駆ける。
音がついてくる。
ひた、ひた、ひた、と全く同じ間隔でついてくる。
しかし決して離れない。
それどころか、どんどん私についてきているのだった。
二段飛ばして、階段を降り切る。
下駄箱まで行くにはこの廊下を真っ直ぐ行って、一度は曲がらなくてはならない。
だがそこを曲がりきれさえすれば、きっと大丈夫。
そんな確信があった。
走る走る走る。
角が見えた。
音は後ろに、もう手を伸ばせば私の肩を掴めるくらいの位置についている。
角を曲が「いったぁ……!」りきれずに転んだ。
滑ったのではない、躓いたのではない。
足を掴まれた!?
腕や膝の痛みをこらえながら、私はその足首を掴んで離さないナニモノかの正体を見ようとして“見てはダメ”という、あの紙切れの一文が、私の首をギリギリで抑え込んだ。
足首から太ももを這い上がってくるナニカの感触、べたべたとした無数の感触に震えて、ぎゅっと目を瞑ると、その気配は綺麗すっかりとなくなり、不思議に思いながら目を開けると、そこは自分の部屋の布団の上で、私は仰向けになっていたのだった。
「もしかして……夢……?」
飛び起きて、自分の身の回りをよく確かめる。
着ている物は制服ではなく浴衣で、ぐっしょりと汗で濡れている。
下着まで濡れていてとても気持ち悪い。
すぐにでもシャワーでも浴びたい気分。
恐々と足首を見ると、白く濁ったこの眼で見ると、そこにはくっきりと手跡があったけれど、それは先日の転倒日和の際に付けられたものだ。
他には何もない。
太もも辺りもまさぐられた気がするけど、大丈夫のようだ。
私はほっとした気持ちで布団から出る。
壁時計を見ると、登校の支度をしなくてはならない時間だった。
シャワーをするなら急いだ方がいいだろう。
ただの夢。
しかし足首を掴まれた薄気味悪さは、当分の間拭えないだろうと、私は確信していた。




