第参話「日常の中で」(後)
そして、放課後となった。
「それじゃ明日ねー」
そう言ってケイコはトオルと共に教室を後にする。
……うきうきしちゃって、まぁ。
幼馴染と二人きりで帰る姿には、私も憧れる気持ちがないわけでもないけれどね。
相変わらず転ぶ人や、物をなくす人は続出したけれど、この二点以外に特に気になる話は聞くこともなく一日を終えることが出来た。
その二点にしても、私以外には誰も気にしてはいないから、大多数の人の中では、今日も世はこともなしだ。
日常とは。
私がこの眼を身に宿してから十数年の間、何度も考えてきた命題だ。
答えは未だ分からない、そして自分がどこに立っているのかも。
三、四歳の頃だと聞いている、私がこうなったのは。
自分にはそれ以降の記憶しかない為、気付いた時にはこうだったという認識を持っている。
意味は異なるが、両親も同じことを口にしていた。
少し目を離した内に、こうなっていたと。
医者にも罹ったが原因は不明、治しようもない。
更に成長し、自分と周囲との間に横たわる大きな差異を認識するようになり、ようやく自分の見ている者が他者には見えないのだと知った。
その時には充分、気味悪がられる存在になっていたけれど、家族には愛されていたから辛くはなかった。
異世界について口を噤むようになっても、それは長々と続いて、今も少し残っている。
卒業したらどこへ行こうかしら。
二年生になってからは、そのことを考えるようになった。
地元近くで進学するつもりはなかった。
色々あったけれど、不思議と地元が嫌いにはなれない。
やがては、戻ってくるのだろうとも思う。
しかし、しばらくは別の所に行きたいとも思う。
此処は、私の立つ場所ではないのだ。
どこに立っているのかわからなくても、此処が違うということだけはわかる。
私も荷物をまとめて、教室を後にする。
すれ違いざまに、黒板を丁寧に消している委員長と挨拶を交わした。
「委員長、また明日」
「ええ、さようなら」
地に足ついていたなら──彼女の言葉が思い起こされる。
どこかには立っているのだと思っている、それがどこかは分からないけれど。
でも、もしかしたら……。
そう私に思わせるには充分な言葉だった。
教室を後にし、ひとまず部室棟──本校舎とは別に存在する、その名の通り部室のみがある棟で、渡り三階の廊下の先にある──を目指して廊下を歩いていると、前方にお目当ての生徒の後ろ姿が見えた。
実は彼を追って教室を出たのだ。
小走りで駆け寄って、背後から呼び止める。
「真砂くん!」
「ん?」
振り返り彼は、眼鏡の奥の鋭い目つきで私をねめる。
どうやらまだ少し、彼との距離が遠かった為に、人物判別に数秒の時を要ししたようで、その内にちゃんと彼が私を見ることが出来るように、もう少し間を詰める。
「あぁ、えっと、柳田さんか」
彼とはあまり接点はないのだが、視力の悪さからくる人相の悪さに反して、気さくな人だということは知っている。
そして文芸部の副部長であるということも。
「何か用? 次の分はまだ配置しないよ、来週くらいかな」
「あらそうなの。そろそろペンネームを教えてもらっても?」
「何度言われてもノーだよ」
もうっ。
不満が顔に出ていたのか、彼は苦笑しながら「それだけかい」と訊ねてきた。
用がなければ呼び止めてはいけないのかしら、と聞き返そうとも思ったが、なんだかそれは、少女漫画みたいな光景のように思えて恥ずかしいからやめた。
「ううん? 実はちょっと、顧問の先生を教えて欲しくて」
「それなら長老だよ。わかるかな」
そう呼ばれる教師のことは知っていた。
なるほど、あの人が……。
ぽいかもしれないわ、とても文芸部らしい風貌をしているもの。
確か今の校長先生よりもずっと昔からいる、いやどの教師よりも昔からいる、最古参な為に長老というあだ名が付いていると聞く。
実におあつらえ向きだ。
確か名前は「初富先生ね」
「そうそう。そんな名前だ」
彼の物言いに呆れて、ついぷっと失笑する。
「顧問でしょ?」
「長老は長老だからねぇ」
彼もまた照れ笑いを浮かべながら、そんな哲学的な言葉を返す。
しかしすぐに、怪訝な表情を浮かべて首を傾げた。
「でも、なんで?」
と彼がもっとも疑問を口にした。
さてどうしたものか。
まぁ名前がわかればいいし、適当に誤魔化せばいいのだけれど。
その肝心な嘘が思い浮かばない。
「まぁ、ちょっとね」
だから結局、そんな風に言って微笑んで濁すしかなかった。
そして彼は「ふぅん」と、わからないけどわかったと頷くのだった。
真砂くんが、ぐいぐいとしつこく聞くような人でなくてよかったわ。
薄島くんあたりだったら、答えるまで聞かれそうだわ。
って勝手なイメージだけど。
「部室にいるだろうから、ついてきなよ」
「わかったわ。ありがと」
「いえいえ」
しばらく二人で並び歩きながら、話をする。
「真砂くんは将来作家になるの?」
「えっ。……いや、そういうことは考えたこともないな。趣味がいい」
「どうして?」
「趣味なら好き勝手出来るだろう。内容も、結末も。未完は嫌だが、それも自由だ。自分だけで決められる」
「プロだと確かに、そういう自由はないかもしれないわね」
「書きたくないものを書かされることも、あるかもしれないし」
「最近流行りのこんな感じで、とか?」
「そうそう。実際どうかはわからないけれど、作品の方向性やらなにやらに、編集という他人が口を出してくるというのも嫌だな。誤字脱字誤用、矛盾点の指摘ならありがたいことだけどね。それなら部でもやっている」
「へぇ。どうりで読んでいて、誤字がほとんどないわけね」
「何重にもチェックする形になるからね」
「そう言えば、表紙のイラストは誰が描いているの? 筆で描いたみたいで素敵だわ」
「あれは今の部長。次代は二年と一年に描けるのがいるから、そっちに任せるかな。まぁ、なくてもいいんだけど。負担にもなるし」
「でも見栄えが違うわ」
「そうなんだよねぇ」
とこんな具合に当たり障りのない会話をしていると、あっという間に部室に着いたのだった。
部室棟は現在、運動部の為のロッカールームとしての側面が強い。
我が校では部活動に関しては文化系よりも体育系が結果を出しているし、人員もまるで違うからだ。
また吹奏楽部や理科部、それから美術部書道部などは、それぞれ授業でも使われる専門の教室がある為に部室を必要としない。
そんな中、大昔から続いていてワープロなどの置き場に困る文芸部と、囲碁将棋部だけが、ここでの部室を持つことを許されていた。
残りは──同好会などもそうだけど──空き教室でだ。
「さ、入って」
「失礼しまーす……」
普段入ることのない教室に入る時って、どうしてこうも緊張するのだろう。
室内はおよそ普通の教室の半分と言ったところだろうか。
真ん中に長机が設置され、その上にはノートパソコンがずらっと並んでいる。
ここに座って黙々とタイプする姿を思い浮かべるとなんだかよくわからないけれど、じわじわと笑いがこみあげてきそうだった。
ある種の非現実さを感じると言うか……シュールとでも言うのかしら、こういうのを。
その奥にパイプ椅子に座るご老人の姿が見受けられた。
ピンと背筋を伸ばして腕を組んだ姿に加えて、背後の窓から入る逆光が、彼をますます長老然とさせているのだった。
年齢の割に髪も多いし。
祖父に似ていると思った、ちょっとだけ。
「どーも。長老は相変わらずお早いですね」
「授業がないと暇でな。そちらのお嬢ちゃんは?」
真砂くんの一歩後ろに立っていた私を、長老は物珍しそうな目で眺めながら「これか?」と小指を立てる。
彼女か、という意味の問いかけ。
今時見るとは思わなかった。
「クラスメイトの……」
「柳田ナチノです」
両者共に冷めた反応だったからか、途端に彼はつまらなそうな表情へと変わる。
見た目に反してお茶らけた性格のようだ。
昔は見た目通りだったのかしら。
「入部希望なら用紙は職員室にあるんだが」
「いえ、所用があるそうですよ。個人的に」
「ほうかい。それで?」
目線に促されて、私は要件を簡単に告げる。
「二十年前の、部員の名簿が見たいんです」
先生の白い眉毛が僅かにあがった。
怪訝そうな瞳に気圧される。
教師という職種の人が持つ、この手の目つきは苦手だ。
人の内面を見ようとして、それをまるで隠さない。
どこか責めるようでもあり、悪いことをしていなくても、なんだか悪いような気になってくる。
どんなに良い先生でも、こういう威嚇をしてくる。
私がまだまだ子供だということの証明だと言う人もいるかもしれないけれど、子供の頃から頻繁にこの視線を浴びていれば、否応なく嫌になるものでしょう。
「その……親戚に、所属していたと言う人がいて、それで……」
胃の痛みを堪えながら、なんとかそう続けると、ようやくふいと長老はその視線を外し、顎を手でさすりながら考え込んだ。
今回はまるで悪いことをしていないわけではない。
こうして嘘を吐いている。
それが余計に、胃をキリキリと締め上げているのだ。
「さて、どこに仕舞ったかな……。今思い出すから、しばし待っていなさい」
「はあ……」
「まぁ、座っていたら?」
真砂くんに勧められるまま、私は彼の差し出した椅子に腰を下ろした。
そして彼はその対面へと座り、ノートパソコンを開いた。
部活開始というわけね。
さて、そうなると手持無沙汰になってしまうのが私だ。
辺りをきょろきょろと見回すくらいしか、やることがない。
流石に文芸部と言うだけあって、結構色んなところに本が置いてある。
少々乱雑な気がしなくもないが、まぁ、部室とはそういうものなのでしょう。
「……少し出てくるよ」
「いってらっしゃーい」
置き場を思い出してくれたらしく、長老先生は部室から出ていく。
それと入れ替わるようにして、女子生徒が一人扉をくぐった。
その人は見知らぬ顔の私を認めると「新入部員?」という当然の疑問を発した。
「クラスメイトの柳田さんです。こちらは部長の墨名サオリコさん」
「はじめまして、柳田ナチノです。長老先生に私事がありまして、お邪魔させていただいています」
部長であり、そして三年生でもあるということなので、一旦腰をあげてから一礼をする。
「これはご丁寧にどうも。まぁ、適当に座ってて」
座りなおした私の隣の席に、墨名さんは腰を掛けた。
そこが彼女の定位置なのだろう。
と思いきや、そうではなかった。
彼女はノートパソコンを少しばかり脇にのけてから、鞄の中から一枚の紙と鉛筆を取り出すと、私に向かって「なんでもいいから、書いてくれない?」と言うのだ。
戸惑いを隠せず、真砂くんへとヘルプの視線を送ると、彼は苦笑いをしながら、
「名前でもなんでもいいよ。部長の悪癖なだけだから」
とだけ。
言葉の意味はわからないが、墨名先輩の表情を見るに書かなければ帰して貰えなさそうだった。
私は鉛筆を受け取り、真っ白な紙面の中央に自分の名前を記す。
なんだか映画を思い出すわ、あの有名なアニメの。
名前を奪われるやつ。
「なるほどなるほど」
しばらくそうやって、眺めていた部長さんだったけれど、やがて満足げな表情を浮かべて、またぞろ鞄の中から取り出したバインダーに、その紙を挟んでから仕舞い込んだ。
ちらりと覗けたそれには、私の他にも、名前や一文やらが直筆で書かれた紙が挟み込まれていた。
なんとなく、悪癖の正体が見えた気がした。
それに気付いらしい墨名さんの方からも、思った通りの言葉があった。
「私、文字フェチなのよ」
そしてその収集家でもあると。
「お陰で僕らは、毎度直筆で書かなければならない部分があるんだよ」
「いいでしょう、味があって」
言われて思い出す、確かに冊子の最後のところに、漫画週刊誌でもあるように、あるテーマに対して一言を書くというコーナーがあったことを。
この人が考案したのね。
「あれ、私は結構好きですよ」
「ほんと!? 嬉しいわぁ。ほら真砂くん、分かる人には分かるのよ」
「はいはい。社交辞令を真に受けないで下さいよ」
だって一言の方が面白い人も……とは絶対に言えないわね。
「それで柳田さん? 物は相談なんだけど」
どこか期待に満ちた目で、墨名さんはそう切り出してきた。
「なんでしょう」
「うちに入らない?」
どうやら、私の字は彼女に気に入られたらしい。
「あなたの字にね、なんていうかキュンときちゃって、線が細くて、でも堂々としていて」
と言葉巧みに褒めてくださるのは、悪い気はしないのだが、残念なことに私は文才というものを持ち合わせてはいない。
と思う。
「ごめんなさい、小説とかは書いたことがなくて」
「詩でもいいわよ? 相田みつをみたいな」
「いえ、でも……」
私の手を取り、是非にと迫る彼女を窘めたのは真砂くんだった。
「部長、あまり困らせないでくださいよ、貴重な読者でもあるんですから」
「むぅ……。確かに、私が嫌で本も取らなくなったら嫌ね」
「別にそんなことはありませんけど……ごめんなさい、部活はちょっと」
「わかったわ、諦めましょう。でも代わりと言ってはなんだけど」
そう言いつつ墨名さんは、更に紙を取り出して私に、もっと色々書いてちょうだいと頼むのだった。
長老先生が戻ってくるまで、それは続いた。
その間に、他の部員の人たちもやってきて、まるで動物園のパンダにでもなったような気分だった。
小櫃川アユミとは何者だったのか。
本名はなんで、どんな生徒であったのか。
私はその片鱗でもいいから掴みたくて、この日文芸部を訪れた。
しかしその結果はハズレだった。
「すまんなぁ」
どこからか戻ってきた先生は、私に一言そう告げる。
理由を聞くと彼は、手に持っていた名簿表と一つの冊子をそれぞれ開き、あるページを提示する。
名簿表には私が求めていた年代の、在籍者の名前が書いてあった。
しかし、一か所だけ、不自然に消えている名前があった。
それはさながら経年劣化の所為であるような、掠れ取れてしまったかのような跡で、しかし他の名前はまるで無傷なのが不思議だ。
その空白の名前の隣には、小櫃川アユミと、筆名が記録されていた。
もう一つは、どうやら文芸部だけの卒業アルバムらしい。
何枚かの写真と、その下に日付やどういう状況での写真であるかの説明文が添えられている。
その中に彼女の姿を見る、けれど、あちらこちらの本名が入っていたであろう箇所は掠れて読めなかった。
でも彼女が、とても楽しそうな日々を過ごしていたことだけ分かった。
「先生も名前は……?」
「記憶力には自信があったんだが、やはり寄る年波には勝てぬようだ」
「……そうですか」
歳の所為などでは、ないのだろう。
そんな確信がある。
「他にも探してみるが、また別の日でいいね?」
「はい、よろしくお願いします」
この時先生はそう言ってくれたけれど、彼女の名前が見つかることは遂になかった。
先生が覚えていないなんて、ありえない。
だって彼女は、彼女の話が本当ならば、行方不明ということになっているはずなのだから。
忘れたくても忘れられないはずだ。
そして、彼女が最後に告白してくれた、五人の被害者も、同様にいなかった。
我が校の歴史上では、いや世間的にも、ただの一件として、行方不明事件は発生していないのだった。
だがそれは、彼女が嘘を吐いていたというわけでは決してないのだ。
-とっぴんぱらりのぷう-




