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第参話「日常の中で」(中)

 びたーん、と痛ましい音が間近に聞こえた。

 そりゃそうでしょう、私が発生源なのだもの。

 無様なことに私は大地に伏していた。

 正確には大地ではなく、教室の床にだ。

「だ、大丈夫!?」

 ケイコに手を引かれながら立ち上がって、スカートについた埃をささっと払う。

 さっきとは立場が逆になってしまった。

 そして委員長が床に散らばった教材を拾い上げ、心配する言葉と共に手渡してくれる。

「大丈夫よ。ありがとう」

 膝がじんじんと痛みを訴えていたけれど、血は出ていないから、なんてことはないでしょう。

 化学の授業が終わり、教室へと帰ってきた矢先のことだった。

 教室の後方の扉をくぐった途端に、足首の辺りを、誰かに掴まれてしまったのだ。

 ……いいえ、そんなことはありえない。

 けれど、そうとしか思えない感触だったのだ。

 彼の言った“ガッ”という言葉が、合点がいった。

 周囲に苦笑いを振りまきながら、私は自分の席に腰を掛ける。

 そうして、さも今ので上履きの靴紐が解けてしまったから結びなおしているかのように装いながら、気味の悪い余韻の残る足首に、指先でそっと触れてみれども、真っ白な靴下に阻まれてか、それが消えることはないのだった。

 次いで、眼帯を少しズラして視る。

 広がるのは、灰色の半透膜に覆われた世界。

 こうして下を向いてると、私の長い髪が暖簾の様に垂れ下がり顔を隠してくれるから、躊躇はあまりしなかったけれど、ほんの一瞬の出来事にしておくに越したことはない。

 やたら滅多に他人に見せるようなものではないのだから。

 それに一瞬で充分だった。

 灰色の靴下の上に、赤紫色をした手形がべったりと貼り付いていたのだ。

 日常の色彩なき世界では、非日常の極彩が映える。

「どしたの? 足、痛めた?」

 ケイコの声で、はっと我に返る。

 ささっと眼帯を定位置に戻してから、顔をあげた。

「え、ええ……ちょっと捻った、かも?」

「保健室行く?」

 ああ、そんな見るからに心配だって顔されると、心苦しいわ……。

「ううん、そこまでじゃないから」

 まだ少し心配そうな様子の彼女から逃げるように、私は「次の授業なんだっけ?」と無理矢理に話題を転換させると、それでひとまずは納得したのか、ケイコは足のことには触れずに「古文だよ」と答えてくれた。

 そして、ついでと言わんばかりに彼女は言う。

「現代語訳見せて」と。

「まさか忘れたの?」

 珍しい。

「ううん、最終確認」

「そういうことね。いいわよ、私もしたいし。むしろお願いっ、見せて?」

 私は古文があまり得意ではない。

 毎度平均を超えはするものの、彼女の方が良い点を取っていることが多い。

 だからこうして、最後のチェックをしていると、私の方の些細な間違えが浮かび上がってくる。

「──あぁ、ここの台詞は、こっちの人が喋ってるのね」

「うん、多分」

 古文の嫌なとこは、主語が多々省略されている点だと、私は思うのだ。

 今誰が喋っているのか、わからない時がある。

 と誰某は言った、で〆て欲しいものだ。

 と私が愚痴るとケイコは「まぁまぁ、慣れだよ慣れ」なんて、アドバイスとして適切かどうか、甚く疑問に生じる言葉を返すのだった。

 そんな彼女の足首にも、私のものと似た痕が残っていた。

 それは先程、私がワザと落とした消しゴムを拾い上げる瞬間に確かめたのだった。

 彼女もまた転んでいたことを思い出し、咄嗟に敢行してみたのだが、まるでスカートの中を覗こうとする不埒者のような働きであったと今更ながらに思い、僅かながらの羞恥を覚える。

 にしてもこの跡はいったい……。

 始業のベルが鳴り、私はちゃんと前を向いて授業を受ける態勢こそを取ってはいたものの、頭の中はさながらハズレの海栗のような有様であった。

 この見えざる痕跡には、何か意味があるのだろうか……。

 例えば霊に、足なり手なり、どこなりかを掴まれたら、後日その部位に痣が浮かび上がっていた、なんて話は典型的な怪談として語られる現象であるが、それは誰の目にも映る痕跡だ、今回とは合致しない。

 しかし現状でわかることは、一つとしてないのだ。

 よって保留せざるを得なかった。

 なんだか急に指名されるような気がして、私は一旦思考を切り替えて、現状を把握することに徹する。

 手元のノートには、黒板に書かれていることの内、半分ほどが綴られている。

 先生の言葉に耳を傾ける。

 どうやら和歌の解釈をしているようだ。

「では、次を……」

 先生の泳ぐ視線と目が合い、彼はニヤリと口角をあげた。

「じゃあ柳田さん、現代語訳をお願いします」

 ほらね。

 私はすくっと立ち上がって、予習済みのその文の訳を述べる。

 特に問題点はなかったようで、満足そうに彼は頷いて、文の構造説明を開始した。

 カツカツとチョークの削れる音を追って、ペンを握った手をせかせかと動かしていく。

 教室中の誰もが集中しきっている。

 教師の言葉と、僅かな雑音だけが飛び交っていた。

 ……あら?

 ふと気づくと、消しゴムがなかった。

 ついさっきまで、机の上にあったのに。

 気付かぬ間に落としてしまったのだろうかと、椅子を引いて机の下を覗き込んでみるも、見当たらない。

 別にお気に入りというわけではないのだが、生憎と消しゴムは一つしか持っていない。

 書き損じても、斜線で打ち消せばいいことではあるけれど……。

 キョロキョロと辺りを見回しているのが気になったのだろう。

 ちょんちょん、と背を突く感触がする。ケイコがそっと囁いた。

「何か落としたの?」

「ええ。消しゴムが、見当たらなくて」

 答えると彼女もまた、自身の机の下を覗き込んでくれた。

「うーん……」

 けれどそこにもやはり、ないようだった。

 運悪く誰かの足元へと滑っていって、更に蹴り飛ばされてしまったのかもしれない。

 ともすれば、授業が終わってからでもないと見つからないだろう。

「私いくつか持ってるから、貸したげる」

 との有難い申し出を私は受けた。

 けれども、使うことなく返したいと思い、私はいつも以上に気を付けてノートを取って、なんとかその通り返すことが出来た。

 しかしながら、その後の捜索も甲斐なく、遂に私の消しゴムは見つかることがなかったのである。


 我が校には購買部がある。

 ……誇ることではないわね。高校ともなれば、どこにもあるだろうし。

 食堂の内部にある。そこに列が出来ていた。

 七人ほどが並んでいる。

 皆一様に、文具を買いに来ているようであった。

 見つからないものは仕方がないと諦めて、新品のものを買うことにした私も並んでいる。

 初めてのことだ。

 購買では文具のほかに、剣道着や柔道着、上履きの注文も出来るのだがどれも利用する機会はなかった。

 普段からこんなにも利用者がいるのかしら。

 つい先ほどまで最後尾だった私は、今では前から三番目。後ろには、まだ並ぶ人がいる。

 みんな文房具を無くしたようだった。それらしい会話が聞こえてる。

 さて、私の番ね。

「消しゴムを二つ」

「はいはい」

 代金と引き換えに受け取ったそれを、ポケットの中にいれる。

 すると──もぞりと、身動ぎするかのような感触が伝わった。

 何かしらと思いつつ手をつっこんで、今しがた仕舞い込んだ長方形の物体を取り出してみる。

 なんてことのない消しゴム……。

「──あっ!」

 いや違う!

 新品の証であるフィルムを突き破って、虫の脚のような、トゲと産毛の生えた脚が!

 四つの角から、飛び出してる!

 ぎょっとする暇もなく、そいつは私の手のひらから、床の上へとぴょーんと跳んで、かさかさかさと、走り去っていってしまった。

 その様子を見ていた者は私の他にはいない。

 だからただ一人で、手の中に残るもう一個の消しゴムと、脱出していった消しゴムの軌跡とを見比べることしかできなかった。


 先程の衝撃は未だ覚めやらぬ。

 しばらくは脳裏にこびりついて離れないでしょう。

 教室に戻ると、よほど妙な顔をしていたのか、委員長に呼び止められた。

「消しゴム買えなかったんです?」

「いえ、ちゃんと買えたわ。ほら」

 変哲もないそれを、ポッケから取り出して彼女に提示する。

 これはどうやら本当になんともないようで、今も、ここに戻ってくるまでも、大人しいままだ。

 どれもがこうであると有難いのだけどと、切に願わずにはいられない。

「今日は無くす人が多いみたいだから、てっきり売り切れたのかと。でも良かったですわね」

「ええ、本当に。……不思議な日もあるものね」

「保健室もちょっとした行列だそうですわ」

 あぁ、転ぶ場所によっては怪我をしてもおかしくはないものね。

 と一人納得し、

「委員長も気を付けてね」

 茶化すように言葉を返す。

 すると彼女は「地に足ついていれば、転びはしませんわ」とシニカルに笑った。

 ドキリとした。

 それは調子に乗った歩き方をしていたケイコを、思い出して発した言葉なのだろう。

 しかし、現実ではない視界を持つ私は、果たして地に足ついているのだろうか。

 そんなことを何故か思ってしまった。


 四限目は先の時間とうって変わって、何もなかった。

 嵐の前の静けさ……であっては欲しくないものだけれど、そう望んでいるのは私だけなのでしょうね。

 知らないということは幸せだと、誰かが言っていたような気がする。

 無知は罪だとも言われていた気がする。

 結局は時と場合によるのよね。

 高校ともなれば給食はない所の方が、ほとんどだと思われる。

 我が校もそうで、昼食の調達は自分でしなくてはならない。

 主に二通りの手法がある。

 例えば私とケイコは母様の作ってくれたお弁当であり、委員長は食堂で買えるお弁当であり、トオルや薄島くんは日によって母親の手作り弁当であったりもするのだけれど、今日は食堂で食べるらしく二人仲良く教室を去っていった。

 お弁当組は更に二手に分かれる。

 教室で食べる者と、他所で食べる者だ。

 中庭等にはベンチが設置されており、天気の良い日はそこで食べるのも乙なものだ。

 ただそれだけに、競争率がとても高い。

 少しでも四時限目が早く終わったクラスがあれば、すぐに埋まってしまう。

 また部室で食べる者もいる、生徒会なんかは食べながら会議をするそうだ。

 だから私たちは、だいたい教室で食べている。

 ケイコと、お弁当を買って戻ってきた委員長と私で、適当な机を寄り合わせて食べるのが日課だ。

「なんか私も消しゴムなくなったんだよねー……」

 お弁当をつまみながら歓談に興じていると、ケイコは急に溜息をついてそう零す。

 どうやら買ったばかりのものをなくしてしまったようで、酷く落胆している。

「……ツイてないわねぇ」

 なくなった原因に凄い思い当たりがあるけれど、まさかそれを言えるはずもなく、心無い言葉で濁すしかなかった。

 その間、黙々と食べていた委員長だったが、お茶を飲むと共に一息を吐くと

「今日は購買の儲け時ですわね」

 とだけ。

 三人でくすりと笑った。

 ケイコが言う。

「あれよね、他人に角を使われると腹立つでしょ」

「まぁ、そうね」

 個人的な考えだけれど、そういうことする人とは関わりたくないわね。

 詰まったゲームを善意を盾に進める人に通じると思う。

 同意してあげると、ケイコは満足げに続けた。

「怒れる他人がいるって、素晴らしいことだと思う」

「自分を怒る気にはなれないから、です?」

 委員長が真意を問うと「そう!」と彼女は胸を張る。

 私は呆れ返って「いや怒りなさいよ、自分を」と言った。

「……うわーん! ナチノちゃんがいじめるー!」

 腕で目元を隠し、しくしくとあからさまな嘘泣きをする彼女を、委員長は冷ややかな目で見ていた。

 それと私の目が合う。

 口元に嘲笑の意が浮かび上がった気がする。

 この茶番はあまりウケなかったらしい。

 委員長は箸が転がっても楽しい年頃ではないようだ。

「まぁ、それはおいといて」

 泣く演技の次は見えない箱を脇に置く演技をする。

 彼女の切り替えの早さは見習いたいものである。

「放課後カラオケ行こー、二時間くらいで」

「この三人で?」

「私は用事がありますわ」

 そう答えて委員長は、卵焼きを口に入れた。

「んもぅ、付き合い悪いなぁ」

 唇をとんがらせたケイコにこう言うのは、実に忍びないのだけれど。

「……ごめんなさい。私も今日はちょっと図書室に用があって」

「えー、こないだもしばらくの間そう言ってて……」

 そしてしばらくは、調子が悪い私を気遣って放課後のお遊びはご無沙汰だったものね。

 彼女なりのお祝いのつもりだったのだろう、快気祝いというやつ。

 その気持ちは本当にありがたいと思うから代案を提示すると、

「明日行きましょうよ」

「うーん、まぁ、別に明日でもいいけど」

 渋々ながらも受け入れてくれた。

「委員長も、ね?」

 口の中に唐揚げを頬張っていた委員長がこくりと頷いた。

 それを受けて、私とケイコは見合わせて破顔する。

 付き合いの悪い彼女が、二度の誘いでノってくれたのはとても珍しかった。

 明日のカラオケが余計に楽しみになる。

 委員長、歌上手だし。

 昼休み終了の鐘が教室に響く。

 始業時間から十分前に鳴る第一次予鈴だ。

 五分前には第二次予鈴が鳴るようになっている。

 昼食時は最も生徒が移動する為、遅れぬようにそのような措置が取られているのだ。

 五限目に移動教室があるクラスもあるしね。

 幸いにも今日の私たちはこのままだから、次の予鈴が鳴るまで三人でお喋りを続けるけど。


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