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第参話「日常の中で」(前)

 つまらないミスをするようになった。

 例えば、英語の小テストで終止符や疑問符を書き忘れてしまったり、科学のレポートの提出日を勘違いしてしまったり、夕飯の支度を手伝っている時に塩と砂糖を間違えてしまったり……。

 大事には至らないが普段の私を知る人ならば、少し驚く程度の些末なミスだ。

 母にこう言われた。

「珍しいですね~? もしかして、恋の病かしら? うふふ、年ごろねぇ」

 また、高校入学時から友人関係にあるケイコには

「最近どったの、ナチノちゃん。──ハッ!? 誰か好きな人でも出来たとか!?」

 と言われた。

 ……なんなの、この二人は。

 まずは体の不調を疑うべきではないかしら。

 そう、二年生時からの男友達でケイコの幼馴染でもある、トオルのように。

「熱でもあんのか?」

 って。

 少々ぶっきらぼうだったけれど。

 また、科学教師であり担任でもある逆井先生は

「あァー? お前、誰かに盗られたンなら、素直にそう言っていいンだぞ」

 などと仰った。

 失礼な話だ。

 私はそんなにもイジメられそうな顔をしているのだろうか。

 委員長にも、気に掛けるような言葉をよく投げかけられている。

 あの子の場合は、誰にもそうだけれど、嬉しく思う。

 ともあれ、どの理由でもなく、人に言えるような理由でもない。

 ここ二週間そんな具合で、流石に周囲の目も心配そうな色に変わってきているから、そろそろ立ち直らなくてはならないのだが……。

「……はあ」

 やっぱりどうにも、本調子になりきれないのであった。

 溜息も増えっぱなしだ。

 自身でも、こんなにも彼女のことを引き摺るとは思ってもみなかったことで、心底驚いている。

 私は喪失感に弱いタイプのようだ。

 むしろ強いとさえ今まで思っていた。

 それは単に、何かを失ったことがなかったというだけのことだったのか。

「……まぁ、時間よね」

 己が心の持ちようの問題だし、誰かに頼ることも出来ないのだから、寄る辺はそれしかない。

 孤独感。

 それもまた、溜息の理由なのかもしれなかった。



   *   *   *



 ある日の朝のことである。

 雨が降っていた。

 梅雨前線が北上中だとのこと。

「お元気?」

 いつの間にやら登校してきていたケイコに、とんとんと肩を叩かれて、そんな挨拶を投げかけられた。

 彼女の席は私の一つ後ろだ。

「ええ、お陰さまで」

 今ではすっかり、元通りと言ってもいいくらいには気持ちが回復している。

 ミスも、ここ数日はほとんどしていない。

 散漫だった注意力は改善され、集中力も取り戻していた。

「そっか。うん、それならよかった」

 私の返事に納得するかのように彼女が頷く度、彼女のポニーテールの先が、ゆらゆらと揺れる。

 ついそれを目で追っていると、ケイコは破顔してもう一度「よかった」と呟いた。

 なんだか気恥ずかしい思いが、ふつふつと沸いて視線を逸らすと、後ろの方の扉をくぐって、委員長が現れるのが見えた。

 彼女の席は入ってすぐ、つまり廊下側の一列目の一番後ろだ。

 腰かける彼女と目があう。

 挨拶代わりに微笑んでみると、彼女はすっくと立ち上がって、こちらへとやって来た。

「おはようございます。柳田さんは、今日は元気そうですね?」

「ええ、お陰さまで」

 さっきと寸分違わぬ返事だけれど、委員長が微かに嬉しそうに口元を緩めたのを、私は見逃さない。

 けれど彼女は、すぐに咳払い一つして眼鏡の位置を直し、その余韻を消し去る。

 ちなみに彼女の髪型は三つ編みではない。ボブカットだ。

「わたしも元気だよー」

 脇からケイコが主張する。

「それはなによりですわ」

 言いながら彼女は、私の隣の席に座った。

 その椅子の本来の持ち主は、教室の後ろの隅で四人ほどの男子の塊を作って、げらげらと笑っている。

 こうして委員長、ケイコ、私の三人で朝のホームルームが始まるまでの間、お喋りに興じることは珍しくなかった。

 私にとって、最も親しい女友達は、彼女らだと言っていい。

 もっとも、二人がどう思っているかはわからないけれど。

 委員長に対しては、そのほかにも微かな同族意識を寄せている。

 友人が少ない族として。

 私と比べるまでもなく、彼女は人付き合いが上手い。

 彼女を嫌う者など、このクラスにはいないだろう。

 しかし一方で、委員長を特別に仲の良い友人に挙げる者は、多くないだろう。

 彼女はなんて言うか、どのグループにも属せるけれど、その実、どのグループにも属していない。

 そんな人のように、私には見えてしかたがないのだ。

 ……失礼なことかしらね。私とはベクトルが違うもの。

「一限目ってなんだったっけ」

 ケイコの問いに委員長が即座に答える。

「英語ですわ」

「うへぇ……やだなぁ」

「ケイコは本当に、英語が出来ないものね」

 いつも赤点ギリギリだ。

 他には、世界史あたりが危険域だろうか。

 委員長はその見た目、称号に反さず、どの教科もトップ水準を保っている。

 特に数学は常に一位だ。

 それに関して私は、下から数えた方が早く赤点の経験もあるので、素直に羨ましいものだ。

「今日当たるかなぁ?」

「気まぐれな方ですからね。賢明に、今からでも、和訳しておいた方が良いのでは?」

 委員長の進言にケイコは不満そうに口を尖らせながらも、英語の教科書を取り出した。

 それから私たちに、その手伝いを懇願する。

 委員長は少し嫌そうな表情を浮かべたけれど、それでも「仕方ないですわね」の言葉と共にケイコのノートを覗きこめるように、椅子の位置を直した。

 彼女一人いれば足るのだろうけれど、一応私も自身のノートを取り出して、いつでも口を挟めるようにしておく。

 そうこうしていると、トオルが心底眠そうな顔でやって来て、適当な座席に腰かけた。

 彼は大概ケイコと一緒に来るのだが、こういう日もある。

 見るからに寝坊して置いていかれたのだろう。

「よぉ」

「ええ、おはよう」

 ケイコと委員長も、それぞれに挨拶を返す。

「俺にも教えてくれよ、委員長。当たる気するんだよな」

「嫌よ」

 即答だった。

 仲が悪いわけではない、ということを彼女の名誉の為に付け加えておく。

「私は鹿渡さんを教えてるのだから、柳田さんに頼みなさいな」

「そうか。じゃあ頼むわ、ヤナギ」

 彼は私のことを、苗字を短縮して呼ぶ。

 彼だけがそう呼ぶ。

 また、彼は誰にもそんな呼び方をするのだ。

 委員長とケイコだけは、私が二人を呼ぶのと同じように呼ぶけれど。

「ええ、いいわよ」

 そう答えると、彼は私の席の前の席に移動し、こちらへと向き直った。

 私は教科書を彼が見やすいようにひっくり返して置き、和訳の書きこまれたノートは胸で抱える。

「見せてくれりゃあ、それでいいんだが」

「だーめ。少しは自分で考えなきゃ」

「ハァ……しゃーねえな」

 眠たげな眼を擦って、彼は教科書へと顔を寄せる。

 それから朝のホームルームが始まるまでに、およそ七割がたは教えることが出来た。

 ただ時折ゾッとするような気配を感じた……ような気がしたのは、なんだったのだろう。

 本当に風邪でもひいたかしら?


 我がクラスの英語の授業を受け持つ、八街先生は、特段ドジなわけではない。

 勤続三十年で、流石にベテランの風格もあって、一見してとても厳しそうなのだが、放課後に特別授業などを設けてくれているなど、熱心な先生であり、そしてやはり厳しい女教師なのである。

 そんな彼女であったが一限目のチャイムが鳴ると同時に、教室へと足を踏み入れた瞬間に、転んだのだった。

 皆、突然の出来事に呆気にとられ、しばしの沈黙。

 その後に、爆笑の渦が巻き起こった。

 先生は顔を赤くしながらも、平静を装って教壇に立ち、毅然とした声で開くべき教科書のページ数を告げる。

 クラスメイトたちは、依然と肩を震わせていたが、怒らせるのも後味が悪いので、そのことに触れようとする者はいない。

 五分もすればそんな空気もなくなって、いつもの通りの授業風景へと至った。


「いやぁ、さっきは、ビックリしたねぇ」

 一歩分先を歩いていたケイコが、ふとこちらを振り返ったかと思えば、思い出し笑いを噛み殺したような顔でそう言った。

 次の授業は科学で、どうやら実験をするそうなので、実験室へと移動する途中である。

 彼女の言葉に頷くことで、私は同意を示した。

 一緒に廊下を歩く委員長は、眉を寄せて、窘める様にこう言う。

「貴女も……そうやって歩いていると転びますわよ?」

「平気だってぇー」

 ちょっとした反抗心か、彼女はそのまま後ろ歩きを続ける。

 止せばいいのに。

 私も一言声をかけようと、口を開いた瞬間──。

「んぎゃ!」

 ケイコの姿が視界から消え、同時に、少女らしからぬ悲鳴が響いた。

 言わんこっちゃない。

「……大丈夫?」

 転んだ際に、どうやら頭を打ったらしい、後頭部を両手で抱えて激しく悶絶していた。

 足を畳み込み、さながら胎児のような姿を取っている為に短めなスカートから、ちらちらと布の一端が見えてしまっている。

「だから、言ったんですわ」

 幸い周囲に男子の影はなかったけれど、委員長の冷たい視線があるから、とんとんかしら。

「いっ……たぁい……」

「ほら、手を貸して」

 しかし、いつ男共が通り掛かるか分からない。

 ケイコは差し伸べた手を取ると、よろよろと立ちあがった。

 依然と頭に手当てしている彼女に代わって、制服に着いた埃を叩き落としてあげる。

「うぅ……めんぼくないです……」

 涙声だ。

 よっぽど、強く打ったみたいね。

 敬語になっている。

「見せてごらんなさい」

 呆れをまるで隠さずに溜息を吐いた委員長は、ケイコの背後に回りこむと、そっと彼女の手をのけて患部をしばし見つめた後に、優しくそこに手を触れた。

「腫れは……ないようですわね。じきに、治まると思いますわ」

「……ありがと」

「痛いの痛いのとんでけー、ですわ」

「らしくなーい」

 彼女の軽口に委員長は少し気を悪くしたようで、むすっとした顔になって、ケイコの右耳をぎゅっと摘まんだ。

「さ、遅れますわよ」

 そしてそのまま、準備室に向かって歩き出す。

 ケイコはなにやら謝ったり痛がったりと忙しなく、廊下に置き去りになった教科書やノートのことなどすっかり忘れ果てているようで、仕方なく私がそれらを回収して行くことになるのだった。

「──っとと」

 小走りで二人の後を追いかけていると、何か足先に、とっかかりのような感触を覚え、私まで転びそうになってしまった。

 立ち止まり、私は目線を下へと落とす。

 当然、何もない。

 平坦な廊下だ。

 爪先が床を擦り上げる、その摩擦力に、進行力が勝てなかったのでしょう。

 あるいはそうね、ケイコや先生の“ころび”が伝染したのかもしれない。

 あくびのようにね。

 気付けば廊下には誰もいなかった。

 そして──キンコン、カンコーン。と、鐘の音が。

「あ、予鈴」

 急がなきゃ。


 私たちの担任は科学教師である。

 気張らない、でも、無気力なわけでもない。

 真面目ではないが、不真面目と言うほどでもなく、仕事はちゃんとしている。

 目つきが悪けりゃ口まで悪い。

 けれども、生徒からの人気は高い。

 なんというか彼は、生徒との距離感が絶妙なのだ。

 無関心でもなく、過干渉でもない。

 それが今時の生徒らにとっては、心地よいのかもしれない。

 凪のような人だと、私は密かに思っている。

「はい、じゃあ、実験開始」

 作業工程の解説を終えて、逆井先生が号令をかける。

 本日の実験は、酸化還元についてだ。

 四人で一班となり、進める。

 私とケイコがビーカー等を、トオルがバーナーを、薄島くんが材料をといった具合に。

 他班も同様に役割分担して各自机から離れていき、教室内は瞬く間に騒々しい有様へと変貌していく。

「──きゃあっ!」

 悲鳴とガラスの割れる音が、突如として響いた。

 どうやら誰かが転んでしまったらしい。

 そしてその衝撃で、ビーカーが派手に砕けてしまったようだ。

 先生がすぐさま箒とちり取りを持って、彼女の元へと駆け寄った。

 あまり話したことはないけれど、五十土さんと言ったかしらね。

「あー、お前らは続けてろ。お前も、新しいビーカー持ってきて、作業に戻りな」

「はい、すみません……」

「気にすンな。……あー、年に一度はあることだしよ」

 ぺこぺこと頭を下げる五十土さんを宥めて実験に戻らせた後、先生は慣れた手つきで箒を操り、みるみるうちにガラス片を回収していく。

「いやー、あまり他人事には思えないね」

 とケイコがのたまうので、

「貴女は自業自得だったでしょ」

 と訂正してあげたら、薄島くんが「ぷっ」と噴き出した。

「なになに、鹿渡もコケたん? だっせーの」

「いや、お前もコケてたろーが」

 すぐさま、トオルのツッコミが入る。

 ぱしんと後頭部をはたかれる様は、お笑い芸人のようで、タイミングがばっちしだった。

「あはは、薄島だっさーい」

「うるせー」

 後頭部を摩りながら、彼は口を尖らせて反論しだした。

「だからあれは、なんつーの? 重力が強かった、みたいな?」

 いえ、反論でもなんでもなかったわ。

 戯言みたいなものね。

「ほざいてろ。おら、実験するぞ」

「へーい。……いやでも、まじでなんか、引っかかったんだよ。……こう、ガッて」

 そう言いながら薄島くんは、何かを掴もうとする手の動きを披露する。

 ガッて、感じの。

「抽象的すぎてわからん」

 うん、同意見だわ。

 バッサリと切り捨てられて彼はがっくりと肩を落とし、ようやく作業へと戻っていってくれた。

 とは言え必要な物品を揃えたら、あとはほとんどすることはなく、観察に徹してメモを取るだけだ。

 さっきの騒動など、もはや誰も気にすることはなく時は過ぎていく──。

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