第弐話「図書室の怪」(後)
翌日の放課後も、図書室へ向かった。
また先輩に会える気がしたし、会いたかったのだ。
私はあまり“先輩”と呼ばれるものと関わったことがなく、新鮮さがあったのだろう。
実際、昨日はとても楽しくお喋り──図書室でお喋りというのもあれだけれど、声量はちゃんと気を付けていたつもりだし、昨日は私たちしかいなかったからいいでしょう──出来たし。
図書室の入り口側は全面ガラス張りになっている。
だから廊下からでも、一部本棚で影になって見えない座席もあるものの、中の様子がある程度窺える。
今日は図書委員が二人いた。
靴箱を見る限り彼女らだけのようで、共に同学年のようだ。
廊下ですれ違ったことくらいはあるだろうか、なんとなく、見覚えのある顔だった。
入室した私を確認すると、一人が「あっ」と何かに気付いたようなご様子。
この目立つ眼帯のことだ。同学年で私のことを知らない人はいないだろう。
その娘に耳打ちされたもう一人も、私を認識すると「あぁ、あの」とでも言いたげな表情を作る。
そんな二人を横目に、私は本棚と本棚の間を抜けて図書室の最も奥とも言える場所に侵入し、じっと品定めをする。
今日も文芸誌を読むつもりだ。
いや、昨日読めなかった“小櫃側アユミ”の作品を読むつもりだった。
彼女が入学したであろう年の冊子を取り出し目次を見ると、そこにはやはりその名があった。
文芸部目当てで学校を選んだのかもしれない。
とりあえず、そこから三冊ほど抜いて、昨日と同じ座席に腰かける。
図書委員のあの二人は、どこに行ったのだろう。
姿が見えなくなっている。
昨日の人と同様に、カウンター奥の小部屋にでもいるのだろうか。
まぁ、その方が有難いわね。
ちらちらと見られては、気になってしょうがないもの。
“小櫃川アユミ”の処女作──中学でも書いているのかもしれないが──は、怪奇小説と呼ばれるものだった。
それは日本において吸血鬼に襲われる物語で、滲み迫る恐怖の心理描写が卓越していると、素人読者なれど思う代物だった。
高校一年生でこれとは、思っても見なかったし、今ではラヴロマンスによく使われる吸血鬼を、抗いようのない恐怖の象徴として見るのは、西洋の古典をあまり読まない私にとっては、むしろ新鮮味に溢れていた。
強いて言えば、無理に難解な言い回しをしようとしているような文体が気になったか。
次に開いた作品でも、やはり恐怖を取り扱った作風で、昨日の彼女が言っていた「ホラー専門」という言葉が思い出される。
それを読んでいると左肩に、とん、と手を置かれた。
「きゃ……っ!」
心臓を吐き出しそうになりながら、振り返るとそこには、ばつの悪そうな顔をした“イタズラっ子”が立っていた。
まるで、気付かなかった。
この座席の背後に回り込むには、どうしても私の視界に入るはずだ。
本に集中している間に……でも……そんなことありえるかしら?
いくら集中しているからって、傍に人が近づいてきたら気付かない?
「ごめんごめん。ビックリさせすぎちゃった」
昨日もそうだった。
気付けば、前に座っていたのだった。
私は声が出ず、餌を求む金魚のように、ぱくぱくと口を開け閉じするばかりで、その内に彼女は机を回り込み、対面の席にすとんと腰を下ろした。
「なに読んでたの?」
そう言うや否や、手の中から冊子を取り上げられる。
彼女はやはり、イタズラのバレた子供のように誤魔化し笑いをするだろうか。
「……あぁ、そっか」
それとも果たして、何か言い訳を述べるだろうか。
先輩から、表情が消えた。
いや、むしろ、凍えそうな目を、向けられていた。
背筋にぞわりと悪寒が走る。
それは──彼女と出会ってたった二日なのだから当然なのだけど──初めての感覚だった。
「知っちゃったんだぁ」
低く呟く声に続くようにして、空間を引き裂く音が落ち、地響きを起こす。
「きゃぁっ!」つい悲鳴をあげてしまった。
雷だ。
空はまるっきり晴れていて雲一つないのに、それはとても近くで鳴ったように思えるほど、大きく激しい、塊のような音であった。
それは偶然なのか、必然なのか。
彼女はくすくすと笑っている。
秘め事のような笑い方もまた、艶めかしく感じられた。
「可愛いわね、柳田さんは。冗談よ、冗談」
かと思えば今度は、子供のような、いやイタズラっ子のような無邪気な笑顔を浮かべている。
ころころと変わる表情は、まるで秋の空のようだ。
「……本当の名前は、なんですか?」
ようやく絞り出したのは、そんな疑問だった。
「もう忘れたの? 小櫃川アユミよ」
確かにそう聞いたけれども……。
「同姓同名じゃダメかな?」
それは勿論、駄目ではない。
妥当な答えだと思う。
でも……、本当に?
そう思う気持ちが拭いきれない。
これは私がおかしいからなの?
普通じゃない経験があるから、変に勘ぐってしまうだけなの?
それにさっきの表情が……どうにも真に迫っていたものだから……。
ぐるぐると、頭蓋の内側を疑問符が這い回っている。
しかし、心は既に断定しているのだ。
神出鬼没。二十年前の名前。誰もいなくなる図書室。「文芸部だった」という言い回し。
……幾つもの違和感を覚えていた。だが脳の正常な部分が、それを受け入れてはくれない。
自分がおかしいだけのような気だってする。
質問に答えない私の目を、射る様に彼女が覗いていた。
笑みはなく、けれども先ほどのように冷たいわけでもなく、透明で、染み入るような視線が投げかけられているのだった。
言葉が……、出てこない。
代わりに、彼女の口が開いた。
「ダメなのよね、あなたの場合は」
しょうがないなとでも言うように、彼女は微笑んだ。
ああ、やっぱり“先輩”なのだと、そう感じた。
「アユミ先輩は……」
私が最後まで訊くまでもなく、彼女は答えてくれる。
「ご想像通りに、私って幽霊なんだよね。地縛霊ってやつ。学校が、今の私の、世界」
馬鹿馬鹿しい。
普通ならそう思うような台詞だけれど、私にとっては、これほどしっくりくるものはない。
だからなのか、安心していられるのだった。
「どうして私に?」
私はこれまでにも何度か図書室に足を運んでいる。
“むし”は実にうっとおしいものだが、どうしてもすぐには手に入らない本、絶版となってしまっている本を読みたい時には、背に腹は代えられない。
なのに、何故、今なのか。
先日の黒い影が脳裏をちらつく。
「……実はね、あの日、貴女を助けたのは私なのよ」
彼女は照れくさそうに、そう言った。
「えっ!?」
予想外な答えに、私は酷く狼狽える。
嘘だとは思わないけれど、それはまるで考えていなかった。
“教室”から逃げおおせた私に、良いか悪いかともかく、何かしらの思いがあったのかしら、そんな風に考えていた。
いやしかし、考え直してみれば、確かにあの場所から逃げ出せたのは不思議なことだった。
あんなにも強烈な悪意を持っていて“教室”そのものが脅威と言っても過言ではない程だったというのに、折角の獲物を易々と逃がすはずがない。
突然に扉が開いて、這う這うの体ではあったもの脱出出来たのは、かなり奇妙なことだった。
今でこそ、そう考えられる。
何者かの介入なくして、私は、今ここにいられないのだ。
右目から涙が一つ、零れ落ちた。
あの日流したものとは、真逆の色をした雫だった。
それを拭い去ってから、ようやく私は頭を下げる。
「そんな、礼を言われるようなことじゃ、ないってば」
今度はアユミ先輩の方が狼狽える番だった。
照れ隠しのつもりなのか、おさげの先をくるくると指で回している。
窓から入り込む光も、同様に赤くなっていた。
「でも、どうして、私を?」
彼女との接点はないのだ。
その疑問は当然のものだろう。
彼女がいい人なだけ、とは思い至らなかった。
「それは──」
突然に、すぅぅ、と彼女の姿が薄くなった。
向こう側が透けて見え、一瞬の後に、また元通りになった。
そのことには、先輩自身も気づいたみたいで、残念そうな表情を浮かべる。
「もう時間か。もう少し、もつと思ったんだけどなぁ」
「そんな、まさか、もう!?」
もう消えてしまうというの?
まだお礼も、何もかも言い足りないのに! もっと話したいのに!
「貴女を助けた時に、とても疲れちゃってね。ああ、だからって、責任を感じるのはやめてよ?」
「どうして、そんな……」
私にはわからなかった。
幽霊だとしても、幽霊だからこそ、自己を失うのは怖いはずだ。
なのにそんな無茶をしてまで、見知らぬ人を助けるだなんて。
「私はね、いい人ではないわ。今まで、五人の貴女を見殺しにしたの」
五人の私……?
それはどういう意味なのか、訊く前に彼女は答える。
焦っているようだった。
「そう、私から貴女までの間に、五人の被害者がいる──」
また先輩の姿が透けた。
「じゃあ、アユミ先輩もあの黒いのに?」
彼女は首肯し、続ける。
時間は刻一刻と迫っている。
「みな、私みたいに残ることはなかった」
私は幽霊というものに対して、一つの考えがある。
それは、幽霊になるのにも才能がいるのではないかということだ。
でなければ、この左眼のある生活で、辟易するほどに彼らを視なくてはならないはずだ。
「ある日、ふと、思ったわ。誰にも助けられず、消えるのは、どんな気分なのだろうって」
その表情は苦痛を耐えているような、そんなものだったから、私は彼女が懺悔しているのだろうと感じた。
「とっても……怖いわ。私も怖かった。なのに、どうして忘れていたんだろう」
透き通った姿はもう戻ることがなく、加速度的に、透過率が上昇していくようだった。
私に為す術はない。
ただ、聞くことだけしか。
「ごめんなさい」
小さく、小櫃川アユミ先輩は呟いた。
そのことを、私だけが知っている。
「だから貴女も、忘れちゃダメよ? 怖いって、とても大事なことだから」
私はしっかりと頷いて、出来るだけ笑顔を浮かべてみた。
最期に見るのが、私のこんな顔で申し訳ないけれど、少しでも良く見て欲しかった。
「ありがとう、柳田ナチノさん。──私の大切な、後輩ちゃん」
そして彼女は消えたのだった。
靄の様に掻き消えたのだ。
見計らったかのように、カウンター奥の小部屋から、図書委員の二人が顔を出す。
もうここで、彼女と二人きりになることはないと、思い知る。
私は彼女たちに自分の顔が見られたくなくて、逃げるように図書室から飛び出していた。
そのまま学校からも飛び出して、走って、丁度やって来たバスに飛び乗って……自分の部屋へと帰ってきて、ようやく私は自由になれた。
-とっぴんぱらりのぷう-




