第弐話「図書室の怪」(中)
放課後、一緒に帰ろうと言うケイコの誘いを断って、図書室に寄ることにした。
あの日より数日が経っている。
目的はやはり、この学校の怪談について、だ。
ただあそこだけが危険ならば、それでいいのだが、もしそうでなかった場合、いわゆる七不思議と呼ばれるようなものがあった場合、それに巻き込まれたりなどしない為には、前もって知っておいた方がいい、そう考えたのだ。
……別に好奇心が疼いたというわけでは、断じて……、ない。
あくまでも、自衛の為。
図書室には三年生が五人ほどいて、各々勉強に励んでいるようだった。
ここは土足厳禁で、入り口で上履きを脱いで、蓋のない靴箱に入れることになっているので、また、上履きの靴底は学年ごとに違う色となっているので、簡単に学年が分かる。
それから、図書委員と書かれた腕章を身に着けた生徒が一人、カウンターの向こう側で読書に集中していた。
彼も三年だ。
私はその彼から聞いた、一つの本棚の前にまでやってきて、上から下まで、眺め見る。
本棚の真ん中辺りに、目的としているものが置かれている。
文芸部の冊子だ。
我が校のそれは中々に活発的なようで、三ヶ月に一冊は発行している、季刊ということになるだろうか。
私も一度読んだことがある、クラスメイトに所属している者がいて、教室内に配布スペースを作っていたものだから、一冊頂戴させてもらった。
ペンネームなので、どれがその人のなのかはわからなかったが、一つ気に入った作品を見つけたので、それが完結するまでは貰う予定だ。
ただ昔は、より盛んであったらしく、一ヶ月に一冊以上のペースで発刊していたようだ。
一月号から十二月号、更には文化祭特別号、合唱祭特別号、体育祭特別号なんてのもあり、イベントごとがある度に、特別号を発行していたようだ。
合唱祭なんて、今はやってないのだけれど……。
昔は生徒数も多くて、色々とイベントごとが盛んだったのかしらと、なんだか感傷的になってしまう。
さて、これを全て洗い出すのは、骨の折れる作業であることは確かね。
なんてったって、四十年の歴史があるのだ。
単純に考えても、およそ四百八十冊……。
一日や二日では無理な作業だろう、仕方ない。
これでどのような結果が導かれるかと言えば……、こうだろうか。
一つ、学校の怪談が昔は語られていて、文芸部がネタにたことがある。
一つ、彼らがネタにしていない。
一つ、そもそも怪談などない。
気持ちとして有難いのは、三つ目かしらね。
“教室”にさえ、気を付ければいいことになる。
でも二つ目との区別がつかないのが難点で、本当は二つ目だとすると、最悪な学校生活を送る可能性、あるいは、違う意味で送れなくなる可能性が生じる。
非常に低い可能性ではあるけれど。
それから、怪談はあったけどそれは本当にただの怪談、つまり大ホラというケースは……ないと思う。
一度学校で体験してしまうと、そこまで楽観的にはなれないし、火のない所に煙は立たないとも言うから、怪談があれば怪異はいると見る、私は。
「……にしても、多いわね」
本棚の前で、半ば茫然とした気持ちで立っていた私だが、やがて覚悟を決めて、我が校の歴史の、およそ真ん中辺りに位置する文芸誌を取り出す。
それはすっかり色褪せていて、時間の流れを感じさせてくれるのだった。
古い本は苦手だ。
何が苦手かって、読みにくいのだ。
それは文体的な意味ではなく、視覚的な意味でだ。
中古本には、たいていの場合“ほんのむし”がいる。
それは平面の中に住まう蟻のような奴で、鉛筆でつんと突いた程度の黒い点から、抜け落ちた髪の毛ほどに細く、鉛筆の先ほどの長さの線が六本伸びていて、紙の上、いや中だろうか、ともかく移動する印字のような存在なのだ。
古ければ古いほど、数も多く、読みにくいことこの上ない。
一度だけ完全にそいつに覆われた本を見たことがあるけれど、あの時立った鳥肌は、先日と並ぶかもしれない。
黒く小さな、点ほどの存在が、わしゃわしゃと紙面を蹂躙していたのだ。
ぞわぞわ、わしゃわしゃ、うぞうぞ、と蠢いて。
文字など読みようもないくらいに、びっしりとだ。
……一番残念なのは、他の人には、ただの普通の中古本にしか見えないって点だけれど。
お陰で、新品しか買うことが出来ないから、出版社と作者にはいいお客さんなのでしょうけど、財布は痛々しい有様となることもしばしばで、平面からよくも攻撃してくれるなと、地団太を踏みたい思いでいっぱいだ。
ぺらりぺらりと、冊子をめくる。これでもう四冊目になる。
とりあえず目次を見て、それらしいタイトルのものだけを流し読みする作戦だったのだが、ついつい読み耽ってしまう。
しかし気付けば、私の眼は文章ではなく、ただ紙面を追うばかりになっていた。
ぱらぱらぱらと一気にページを捲る。
この本は二十年も昔のものだ。
なのに“ほんのむし”が一匹も、見当たらない……。
私にとって、これ以上に奇怪なことはないのだった。
「……ふむ」
見終えた冊子を、脇に置く。
続いて五冊目……ではなく、今度は先ほどとは別の、小説などが置いてある棚に向かって、適当に一つ選び、これまた適当なページが出るように、その場で開いてみる。
そこにはやはり“ほしのむし”が二十匹ほど、うぞうぞと這い回っていた。
なるほど、と独りごちてから、それを元の場所に戻し自分の陣取った席へと帰る。
そして五冊目となる文芸誌をぱらぱらとめくり見れども、こちらにはそれらしき影がちっともない。
先に見た四冊と同様に。
この図書室には“むし”がいないのかと思えば、そうではないらしい。
ともすれば、あれは実は、このような同人誌と呼べる物には住まわないのかもしれない。
まだ仮説だが、もっともらしい気がしていた。
どうせ他人には視えないのだし、ひとまずはそういうものだと思っておこう。
気付けば、図書室から人が消えていた。
三年生たちは、私がさっき“むし”を確かめた時に続々と帰り支度をしているのを横目にしたし、図書委員はカウンターの奥にある部屋へと入っていくのを、椅子に座る時に見ている。
窓から、赤い光が差し込んでくる。
もうそんな時間なのね。
もう一冊読んでから、帰ることにしよう。
そう思い、目次を検める。
この時代の文芸部は二十数人もいるらしく、タイトルを読むだけでも、個々の作風が如実に表れていて面白い。
本当ならば全部を読んでみたいところだが、選別基準はこうだ。
学校や生徒など学校にまつわる単語が含まれるもの、闇や呪いなどオカルティズムを感じさせる単語が含まれるもの、それから勘で、流し読みする作品を決めている。
自衛の為と言うわりには、雑だけれど、量が量なだけに致し方ない。
誰かに協力を頼むわけにはいかないしね、変な噂に拍車がかかってしまう、電波少女扱いはごめんよ。
それで四作ほどピックアップして、さて読もうかと、ページに指先をかけると、
「文芸部に興味あるの?」
──驚いた。
声に反応し顔をあげると、対面に一人の少女が腰かけていた。
図書室の座席は、一つの机に対して四人が座れる形になっている。
よほど集中していたのかしら。まるで、気付かなかった。
閑静な図書室に、私と彼女、二人しかいなかった。
「あぁ、ごめんね。ビックリさせちゃった?」
「はぁ……まぁ……」
曖昧な返事をすると、呆れたような表情を彼女は浮かべる。
「見かけによらず、素直なのね」
初めて見る顔だ。
そもそも、クラスメイト以外の顔など記憶にあるはずがなく、眼前の相手が一年生なのか、三年生なのかも判断がつかない。
もしも三年生ならば、今の受け答えはまずかったなぁと、漫然とした危機意識は芽生えたものの、取り立てて慌てる必要もないかとも思う。
「まぁ、よく言われます」
「本当~? ……三年の、小櫃川アユミよ」
げ、と声が漏れそうになった。
一つ上の人だったとは……。
反抗的だ、生意気だ、だの言われて、顔面に拳をお見舞いされたらどうしよう……。
人は見かけによらないと言う。
眼鏡をかけて、一房のおさげを右肩側から前方へと垂らしている、いかにも優等生っぽい人だけれど、裏ではそういう人かもしれない。
私は万が一に備えて、冊子を握る手に力を込めた。
盾にするつもりだった。
「二年の、柳田です。すみません。文芸部に興味があるわけでは、ありません」
「あら残念。私、文芸部だったのよ」
つまり、勧誘のつもりだったと言うことだろうか。
安心して、手から力を抜いた。
そりゃそうよね。いくらなんでも、考え過ぎだ。
「そう、でしたか。読むのは好きですけど……昔は盛んだったんですね、文芸部」
「今も盛んですー。部員が十人切ったことありませんー」
唇を尖らして抗議した次の瞬間には、アユミ先輩は、
「ま、幽霊部員もいるけどね」
と自虐的に微笑んだ。
黙っていると少々キツそうに見えるのだが、意外にも、表情のよく変わる人みたいだ。
話しやすい人だと思う。
「それで、うちの本はどぉ?」
鼻高々といった具合で訊ねられた。
貴女の年のではないだろうに。
帰属意識が高いのか。
「プロとは違った趣がありますね」
「ふふん、そうでしょうとも! ……ん、それって、褒めてる?」
「褒めてますよ」
プロでは書けないようなものがある、それはそれで貴重なものだ。
そう思ったのは本当だ。
アユミ先輩は、少し訝しげな視線を投げかけてきていたが「本当ですよ」と念押しすると、一応は納得したようで、私が脇に重ねて置いていた昔の冊子の、一番上のものを取っては、ぱらぱらと、流し読み始めるのだった。
「懐かしいわねー」
「読んだことがあるんですか?」
「え? ……うん、まぁ、参考にもなるしね」
ならば、と、私は一つの質問をしてみる。
「怪談系の作品とか、ありません?」
もしも彼女の読んだ過去の作品の中に、そういうものがあれば……そう思ったのだ。
「ホラー小説が好きなの?」
「ええ。特に、学校の怪談がいいですね」
アユミ先輩は手にしていたそれを、元の場所へと戻して、じっと私の目を見つめてくる。
眼帯に隠されていない、真っ黒な右目を。
「多分、ないよ。私はうちの部の、ほとんどの作品内容を知ってるけど、なかったと思う」
「そうですか……」
まさか全部を知ってるわけではないだろうが、どこか説得力のあるその言葉に、私は思いのほか意気消沈してしまった。
「実は、作品の概要とかジャンルとか、簡単にまとめた目録があるんだ。我が部の歴史書も同然だね。そのうち、こっちにも置くことになるだろうから見ればわかるけど、学校の怪談はない。ホラーはあるけどね、私も専門だし。……でもね」
滔々とした解説の途中で、先輩はニヤリと笑う。
イタズラっ子みたいな表情。
「学校が絡むのは、差し止め食らうんだよねぇ」
その目は私に「これって、どう思う?」と投げかけているようだった。
また、どこか探られているような、そんな気がしたのは、自意識過剰だろうか。
「……まぁ、コックリさんを禁止してるとこも、ありますしね。そんなものでは?」
自分らの通う学校を舞台に、血生臭いホラーなんて書かれて、気分の良い人はいないし、配慮が働くのも自然なことだろう。
文学だからと言っても、高校生の書くものに、多かれ少なかれ性的描写があれば、同様の措置を受けるだろう。
常識に照らし合わせると、こういう答えが、もっともらしい。
だがそれは彼女には非常に不満なものだったようで、むくれっ面で頬杖を付く。
貧乏ゆすりが如く、テーブルの上を右手の人差し指で、とんとんと叩く。
「もっと夢のある答えが欲しいわ」
「ホラー作家のサガですか」
「かもね。そうそう、貴女二年生なら“開かずの教室”のことは知ってるよね?」
「……ええ、すぐ隣の教室です」
まるで予想だにしていなかった単語が出て、身が固まる思いだった。
と同時に、いい機会だとも思った。
もしかしたら何か知っているかもしれない。
「色々と噂があるようですね、あそこには」
よく知らないし、あまり興味もない。
そんな風に聞こえてくれただろうか。
「魔術に使われてるんだって」
「はぃ?」
素っ頓狂な声が出た。
すぐにここが図書室だったことを思い出して、口元を覆ったけれど、依然として、この場には私たちしかいないようであった。
「すみません……。でも、魔術なんて」
予想の斜め上を行く発言をしてくれるわね……。
あれから何人かに訊ねてみて“教室”に関する幾つかの噂話を蒐集してはみたものの、そんなことを言う者は皆無だった。
あれは、その魔術が生み出したモノなのかしら?
……ないわね、流石に。
「そういう話もあるってだけよ。でも、そう、今は聞かないのね」
私たちの間には、たった一年の差しかない。
だがそれは、思いのほか大きいものなのか。
「ええ、まったく。鍵がどこにもないとか、校長が怪しいとか、そんな話は聞きましたけど」
「ふぅん」
彼女がまた、目を細め、口元を歪める。
先程のニヤリした笑みよりも大人びていて、どこか妖艶で、同性の私であっても魅かれる表情だった。
しかしそれは、一瞬のことで、
「あ、そろそろ帰らないと」
と席を立って、人懐っこい印象を与える、柔らかな笑顔へと転じるのだった。
「それじゃあ、またね、柳田さん」
「はい、先輩もお気を付けて」
「あはは、いい子なのね、あなた」
手をふりふりしながら、アユミ先輩は駆けて行った。
確かに彼女の取り出した上履きは青色で、三年生のものだった。
彼女と入れ替わるようにして、カウンター奥の小部屋から図書委員が戻ってくる。
もうすっかり陽は沈んでいた。
冊子を小脇に抱えて、収まっていた本棚の前へ。
持ち出し厳禁となっているから、こうして戻すほかないのだ。
「あっ!」
一冊が、脇からするりと抜け落ちて、床に落ちる。ぱさっと。
「あー……やっちゃった」絨毯の上でよかった。
それは最後に読もうとしていた一冊だ。先輩と話していて、結局読めなかったけれど。
「──ん!?」
開いた状態であったそれを拾い上げると、自然とそのページが目に入る。
そこには“小櫃川アユミ”の名が、記されていた。“亡霊”という小説の作者だった。
「……イタズラっ子」
そう独りごちた後に、本棚の空白へとそいつを押し込んだ。




