第壱話「開かずの教室」
この時には既に私の左眼は、医療用の眼帯、可愛げも何もない無機質な布っきれ同然の代物に覆われることになっていた。
常々両親には、そうしなさいと言われ続けてきていたけれど、つまらない意地だけで、小中の九年という時の間ずっと、白濁とした裸眼を世に晒し続けてきていた私であったが、遂には世間の目というものに根負けしてしまったのだ。
とは言え、地元の高校、実家よりバスを用いて十五分程の距離にある私立の高校に進む者は、私だけでなく、むしろ、そこ以外に行く者の方が珍しいくらいであった為に、私の眼については瞬く間に、違う中学からの者の間にも知り渡ることになっていた。
中には、霊が視える等といった、根も葉もない嘘まで口にする人がいたわね。
……当たらずも遠からず? 確かにね。嘘から出た真というやつね。
全校生徒はおよそ三百人程だ。田舎の過疎化、少子化は深刻だ。
通っていた小中学校は一貫校も同然であった。
そんな様だから、高校の割には生徒の色というものがとてもバラバラで、既にチンピラ崩れみたいになってる人から、超優等生みたいな人まで色々だった。
ま、大抵は中道、並、だったけれど。
……私? ふふ、実はこれでも特別進学クラスに在籍していたのよ、三年間ずっとね。
その中では、まぁ、真ん中より少し上辺りかしらね。
だから、結構こっちに来るのには苦労したのよ。
そんなクラスにおいて私は、悪い意味で、注目されていたところがあった。
先の噂話なんかは、からかいの小道具には丁度良く、くすくすと意味深な笑いを向けられることが時折あった。
……とは言え、友達がまるでいなかったわけではないから、そんな顔しないでよ。
……って話が大幅にズレてるわね。つまらない話だわ、ごめんなさい。
……え、これでもいい?
……いやでも、やっぱりここは、ちゃんと怪談にするわ。
……ええ、ええ、普通の思い出話は、今度するから。約束ね。でも、貴女もするのよ?
──じゃ、続き話すわね。
* * *
ロの字形の校舎は、四階建てになっていて、一階は職員室やコンピューター室、図書室などで占められていて一般教室はない。
二階以上からは、四辺ある内の二辺が、その一般教室、生徒たちが普段過ごす為の教室として使われている。
一辺につき四部屋、一部屋に三十人くらいが収納される。当然、空き教室が多い。
まるで使われたことのない教室というのもあって、誰かはそこを“開かずの教室”なんて呼ぶのだった。
真偽は確かではないけれど、開校以来一度も誰一人として入ったことがない、なんて噂もあった。
三階の第六教室がそうだった。
私のいた当時は、空き教室のほとんどが常に開放されていたのだが、そこだけは開放されたことはなかったし、授業によっては一つのクラスを更に、二つや三つに分けて難易度別の講義を行う為、普段から存外、空き教室を使う機会というものは多いのだが、それでも、そこだけは使われることがなかった。
変な噂になった一番の原因は、徹底して中を覗くことも出来ない様からだろうけど。
これは私が、二年生の頃の話ね。
忙しなくノートを取る一日が終わったら、帰宅部一筋の私は、数少ない友人らと談笑しながら家路につく。
寄り道をして、いつものように遊んでから、バス停で別れた。
しばらくしてやって来たバスに乗り込んで、揺り籠のような振動に身を委ねて、およそ十五分。
うたたね状態だった私は運転手さんの声で目を覚まし、バスから降ろされる。
いつものこと。
彼とは最早、顔馴染みと言ってもいい。
例えぐっすり状態であっても、ちゃんと起こしてくれる。
そこから家までは、ほぼ真っ直ぐだ。
左右の田畑を眺めながら、夕陽に目を細める。
山の向こうに沈みゆく、やわらかな熱を感じていると、気持ちがすこぶる落ち着くから、好きなの。
自室でほっと一息着いて鞄の中身を吐き出したら、あることに気付いた。
宿題を、忘れたのだ。
今となっては、別に一度や二度やってこないことがあってもいいだろう、とも考えられるのだが、その当時はクラス内での立ち位置や、教師陣からの評価などが脳裏にちらついて
「この私が宿題をやってこないなんて」
と焦りを覚えた。
幸いにもバスはまだあったし、帰りは親頼みにすればいいやと思って、学校に舞い戻る。
私の教室は、三階の第五教室となっている。
あの“開かずの教室”の隣だ。
職員室で事情を説明して鍵を渡してもらった私は、近くの階段から三階へとあがった。
階段はロの字となった建物の、四つの角にそれぞれある。
いつもならば、私はあの教室の前を通るようなことはない。
あがっていったならばすぐに、自分の教室へと行きつくのだから。
しかし今回は、第八教室側の角にある階段からのぼったのだった。
もうほとんど生徒はいないようで、教室はどこもかしこも暗い。
廊下の電球だけが、白く輝いている。
今日はどこも部活をやっていないのだろうか。
こんなにも、ひっそりとした学校は初めてのことだった。
時折、放課後に友人と居残ってみたり、図書室に引きこもってみたりとする私であったが、まるで夜中に学校を訪れている気分だ。
窓ガラスには、くっきりと自分の姿が映し出されていた。
背景は既に黒々とした闇に覆われていて、左眼の眼帯がよく映える。
この時間帯になれば、少し肌寒く感じる。
ガラスに映る鏡像を見つめながら、私はその実像に触れてみた。
この白い布地の下では、白く濁った瞳が存在している。
非日常を覗き視ることの出来る、奇怪な眼が。
私はこの眼が嫌いだった。だから鏡も嫌いだ。
ぷいっと、窓にはそっぽを向いて、私は歩みを進める。
取るもの取って、とっとと帰ろう。
“開かずの教室”の前を横切って、自分の教室の前にまで来た私は、一応ドアに鍵がかかっているのかを確かめる。
ガタンという音と硬い手応え。やはりもう閉められていた。
「職員室に寄っておいて、よかったわ」
でなければ二度手間になっていた。
独りごちながら、手にしたそれを鍵穴に突っ込んで左に回す。
ガチャンという音が、静まり返った校舎に響いた。最早この引き戸に抵抗の術はない。
私の座席は教室のど真ん中だ。
我が担任は、二ヶ月に一度くらいの頻度で席替えを敢行するので、この席で過ごすのもあと数日のことだろう、と推測している。
大抵の人は、教師の眼光を激しく浴びる破目になるここを嫌うが、居眠りもせずに真面目に授業を受ける私は、むしろ優等生アピールが出来て好都合だった。
それでも今度は、理由はないけれど、一番後ろの席になりたいと願っている。
幸いなことに、右目の視力はとても良い。
机の中には、明日使う教科書類が収まっている。
宿題として渡されたプリントも、明日すぐに使うのだから、そのままになってしまったのも無理はないわ。
「……ん、これね」
ノートの間に挟まっていたそれを引っ張り出して、鞄に仕舞う。
よし……、帰りますか。
教室を出て、もう一度戸締りをすると、ふと隣の教室が気になった。
本当に“開かずの”なのかしら。
そんな疑問が、降って湧いたのだ。
「……いやいや」
頭を振って否定する。
どうせ閉まっているに違いない。
だから、こうして扉に手をかけてみたところで、こともなしだ。
一度生まれた好奇心が、そんな理屈をつけてくれた。
──ガラッ。
と、抵抗なく、戸は真横にスライドした。
「開いてるじゃない」
拍子抜けだ。全然“開かずの”じゃないじゃない。
まったく、誰も彼もが適当なことを言って、それを自分たちで真に受けてしまうんだから。
折角だからと教室内に入ってみる。
今までずぅっと“開かずの教室”だったのだ。
前人未到の地に足を踏み入れたような心持ちになる。
窓には全面に新聞紙が貼られていて、外からは中が覗けないようになっている。
それは戸にある小窓においてもそうだった。
蛍光灯は当然一本も存在していない。
だから、電気をつけようとしても無駄だ。
この漆黒の中で、外の、街灯か何かだろうか、僅かに漏れ出る光を受けてやがて室内を見通せる程に、眼が順応するのを待った。
床上には、うっすらと白い絨毯が敷かれている。
長い年月が作り上げた自然の絨毯。
とっても埃臭い。
その上を歩くごとに私の軌跡が、未使用の痕跡に上書きされていく。
椅子もなければ机もなかった。
教卓すらもなく、唯一学校らしいものと言えば、真っ新な黒板と、正方形の連なったロッカーくらいなものだろうか。
“開かずの教室”は、こうして明かされたとしても、不気味な様相を呈していた。
「……あら?」
ふと気づく。
教卓の上に、何か黒い塊のようなものがある。
闇に同化し、一見しただけでは分からなかった。
近づいて、よく見定めると、それは繭のようなものだと分かった。
楕円形の形をしており、蚕の繭を想起するが、その大きさはまるで違っていて、片手いっぱい程はある。
触れてみようか、そう思いそっと指を伸ばす、その途中で言いようの知れない不快感に苛まれた。
ようやく理解したのだ、それは髪の毛の集合体に過ぎないのだと。
「うぅ……!」
後ずさり、口元を両手で覆いながら、込み上げてくる酸性液を押し返す。
臭いがしたのだ、何日も洗っていない、油の腐ったような。
だからこそ、間一髪で、気付くことが出来た。
触れずに済んだのだった。
気持ちが悪い。
素直な感想だ。
それと同時に、不可解だとも思った。
“開かずの教室”に何故、どうやって、誰が。
どうやっては、解決している。本当は“開かずの”ではないのだ。
今私がここにいることが、その証左だ。
だから、その気になれば、誰でもおける。
誰でもいい、知りたくもない。
何故かは……分かるはずもない。
だから余計に気持ちが悪いのだ。
全身が総毛立っていた。
もう出よう……そう思い、踵を返した途端、ドアが閉められた!
ガラララッと、戸を引きずる音の後に訪れるは静寂と闇。
パニックになった私は、手探りでドアに駆け寄ると、まるでびくともしないそれに対して、手のひらでバンバンと叩いてみたり、ガンガンと蹴りを入れたり、
「ちょっと! 誰か開けて! 開けなさい!」
果ては聞くに堪えない暴言を大きな声で放ってしまったりと、はしたない真似をしてしまった。
きっと普段の私を知る者が見れば、何かに取り憑かれたと思ったかもしれない。
それほどに、取り乱した私は無様であったと、後になって思う。
「……ぐす」
右手をさすりながら、私は鼻を啜る。
それから、右目から零れ落ちそうになった液体を乱暴に拭い去ると、幾分か気分が落ち着いてきていたので、ひとまず視界を確保しようと、制服のポケットからケータイを取り出した。
開いた画面の発する光は決して強いものではないが、前方に突き出した腕の先を見通すくらいの役目は負うことが出来る。
ようやく私は、平静を取り戻したと言ってもいい。
ばくばくと激しかった心臓も、今では、とくんとくんくらいにはなっている。
落ち着いた気分で、もう一度、扉に手をかけた。
もしかして、さっきは慌てていたから、上手く開かなかったのかもしれない。
が、希望を打ち砕く衝撃が、手の先から伝わるだけだった。
「開かないじゃないの……!」
私は右足を硬い戸にお見舞いしてやった。
気が動転していた先程とは、その一撃の意味は大きく違うものであった。
その場にへたりこみそうになって、下が埃だらけなことを思い出して止まる。
どうして、こんな目に合わなければならないのか……。
目頭がまた熱くなってしまいそうだ。
“開かずの教室”という看板に偽りはなかったから、さっさと開いてくれないかしら。
そんな矛盾した祈りまで抱く有様だった。
ケータイの画面を見る。
青い背景の真ん中に、時間が記されている。
プリインストールのそれは、既に一時間が経ったことを示すものであり、店でそれを受け取った時から何も変えていないことを示すものでもあった。
「あ、電話」すればいいんだわ。
どうやら私は、なんだかんだ言いつつも、まだ冷静でなかったらしい。
そんな簡単なことに気付かないなんて、我ながら呆れてしまう。
早速、家に掛けてみる。
……トゥルルルという電子音が、二度三度と繰り返される。
だが、誰も出ない。
家が広いから、人の位置によっては、時間が掛かるのだと言い聞かせて、はやる気持ちを抑えつけた。
……トゥルルル……トゥルルル……プツッ。
それは突如として、途切れた。
「え!? なんで!?」
思わずケータイの画面を見てみると、本来ならばアンテナマークがある場所に、真っ赤な字で“圏外”と書かれているのが目に入ったのだった。
「嘘でしょ……なんで……」
さっきまで三本ばっちり立っていたじゃない……学校で圏外なんて……。
どうしよう。
ただその言葉だけが、頭の中をぐるぐるとまわる。
ぐるぐるぐるぐる。
それを止めたのは、一つの、音だった。
かさ……かさ……。
それは何かの擦れるような音であり、複数の比較的質量の軽い物体、例えば紙が出す音のようであり、また、瞬間的に私の脳裏をよぎったのは、黒くて速いヤツの存在であったが、おそらく、そうではない。
発生源は、私の遥か後方のようで、少しずつ、近づいてきているようでもあった。
扉に向かい合ったまま、私は動かない。
目を瞑り、背中に、耳に、全神経を集中させる。
……かささ……かささ……。
それとの距離が段々狭まっていくのを感じる一方で、音が増えている。
そんな気がしてならない。
乾いた音が、幾層にも重なっていっている。
床と音が擦れあって、音と音が擦れあう。
繊細な音の集合体だ。
それが刻一刻と、迫ってきている!
私はもう我慢の限界だった。
何だか分からないよりは、分かった方がマシだと思った。
腹をくくって、暗闇の中振り返る。
ケータイの画面を印籠のように翳し、音を照らす。
「──ひ」
小さな悲鳴が先か、それとも、手からケータイが落ちるのが先か。
そこにいたのは、真っ黒な毛虫だった。
大人ほどの身長を持った、毛玉だ。
長い長い、細い細い、糸の如き黒髪にびっしりと覆い尽くされている。
その毛の一本一本が、蠢く音だった。
「あ……あぁ……」
その場にへたりこんだ私の手に、先ほど落としたケータイが触れて、ついそちらを見てしまう。画面はまだ明るく光っていた。
そして、照らされた床は白ではなく、黒だ。
「いやぁっ!」
指先に、髪の毛が触れる。
そこから背筋に悪寒が走った。
逃げなきゃ! 逃げなきゃ! 逃げなきゃ!
──でないと、私も髪になる!
必死の思いで掴み取ったケータイには、黒髪が巻き付いていたけれど、そんなことは些細なことで、私はただただ一心不乱に扉に縋り付く。
「開いて! お願い、開いてよぉ!」
果たして、その懇願は、聞き届けられたようで。
──ガラララッ、ガタンッ!
叩きつけられるように、戸は開かれた。
「っ!」
私はそこから、まさに這い出るようにして、うつし世へと帰還したのだ。
四つん這いのまま肩越しに見る闇黒の中で、ただ一つ、赤い瞳が見えた。
ソイツは、じっと、私を見つめていた。
恨めしそうな、そんな気配を肌に感じた。
毛の集まりが、まるで手のような動きをもってして、開かたれた戸を、静かに引いていく。
私の足や、ケータイに巻き付いていた残り滓も、名残惜しそうに、尺取虫のような動きで、教室へと帰っていった。
私はそれを、ふやけた視界で見つめるしかないのだった。
翌日の朝、まだホームルームの時間にもならない頃に私は、話しかけやすいクラスメイトの幾人かに、あの“教室”に関する話を何か知らないかと聞いていた。
勿論、昨夜のことは伏せておく。到底、信じてなど貰えないだろうから。
我がクラス委員長が曰く、
「うーん……鍵がどこにもないってこと、くらいでしょうか。だから、使えないんですわ」
高校で出来た友人の一人、鹿渡ケイコ曰く、
「んっと、人から聞いた話でもいい? なんかね、たまに行方不明になる生徒がいるらしいんだけど、その生徒たちはみんな、あの教室にいるとか。あはは、流石にないよねぇ」
ケイコの幼馴染である猫実トオル曰く、
「あー? ……まぁ、先パイから聞いた話ならあるけど。あれについて校長に聞いてみた奴が、不登校になって、そのまま転校したとか」
立ち聞きしていて、口を挟んできた薄島コウイチ曰く、
「俺も聞いたことあるぜ! 実は単なる建設ミスなんだってよ!」
担任の先生である逆井サカキ先生曰く。
「俺ァ、数年前に赴任したから、よく知らんが、気持ち悪ィよな。他のセンコー共も、あそこの話すると、あからさまに話逸らしやがるんだわ。くっそムカツク。……って、今のは内緒にな、頼むぜ」
結局、一度は誰かから聞いたような情報しか、得ることは出来なかった。
推測や妄想の膨らんだものばかりで、決して真実にはたどり着けない、掠ることもない。
とは言え、実体験したところで得られるのは、えも言われぬ恐怖心と、お風呂に入った時に体にまとわりついた髪の毛の、何百倍もの不快感だけだ。
唯一校長だけが、もしやと思うのだけれど……転校は割に合わないわね。
私は二度とあの“教室”の前を、少なくとも一人でいる時は、横切ることはしないと決めた。
-とっぴんぱらりのぷう-




