第陸話「黒髪」(前)
私がよほど変な顔をしていたのか、母が「天ぷら美味しくないですか?」と首を傾げた。
祖父も食事の手を止めて、私をじっと見つめていた。
我が家の天ぷらは、サクサクしていてとても美味しい。
特性の天つゆがこれまた美味しく、全体の三分の一くらいを浸して、ふにゃっとした部分とサクッとした部分を楽しむのだ。
だから、美味しくないなどあり得ない。
そう答えると母はいつものほわっとした口調ながらも心配そうに、
「でも、あまり箸が進んでませんよ~」
と言う。
それは確かに事実だった。
ついつい別のことを考えてしまっている。
「悩み事があるのなら、話すといい」
おじい様がそう言ってくれた。
しかしこれは、人に話せるようなことではない。
きっと理解は出来ないだろうし、なによりも私自身が答えを出さねばならないことだ。
何をすべきなのか。
それは私だけの問題だ。
「明日、小テストがあるので少々気が重かっただけよ」
そう誤魔化して、私はピーマンの天ぷらを口に頬張った。
二人はまだ怪訝そうな顔をしていたけれど、その場では何も言わなかった。
ちゃんとお腹いっぱい食べて、お風呂の前に食休みと称して、自室でぼんやりとしていると足音が近づくのが聞こえた。
ここ数日、足音には悪い思い出しかないけど、これはおじい様のものだとすぐにわかった。
襖越しに「ナチノ、入っても良いか?」と訊ねられる。
「はい、おじい様」
入ってくるや否や、祖父は適当に腰を下ろして正座する。
私もそれに合わせて、崩していた足を整えた。
「どうかしましたか?」
「いや、なに……風呂が沸くまで、一局どうだ」
将棋の誘いだ。
しかし実際はさっきの私の様子を心配してきたのだろうと、察しはつく。
私はそれを受けて、押入れの中から将棋盤を引っ張り出した。
折畳式の安いものだ。
父から貰った。
ここには他にもオセロや囲碁、トランプやテーブルトークなどのアナログゲームが仕舞われているが、そのほとんどが父からの貰い物だ。
単身赴任から帰ってくるたびに、増えていくのだ。
それは、あまり友達のいない私に、少しでも作るきっかけになればと思ってのことなのかもしれない。
……いや、ただのゲームマニアかしら。
将棋は昔はよくやったものだ。
おじい様は付き合ってくれるから、友達がいなくとも問題なかった。
強くはないけれど。
オセロには自信がある。
最初の一手はおじい様からだった。
「こうして打つのは、久しいな」
どこか嬉しそうな面持ちをしている。
普段は強面だから、たまにそういう表情を見せられると私も心が黄色くなる。
「お手柔らかにお願いします。ただでさえ弱いのに、こうもやってないと余計に」
「いやいや勝負は常に本気でなければ」
「もうっ。お父さんもそうだけど、いじわるよ」
「そんなものさ、男は特にな」
あ、飛車取られた。
いやでも、こっちで角を取ればとんとんかしら?
「そうですか。男の世界はよくわかりません」
「儂も女の世界はよくわからってないそうだ。ばあさんが言っておったわ」
おばあ様は三年ほど前に亡くなってしまった。
仲の良い夫婦だったから、とても落ち込むのではないかと心配したのだけれど、意外にも普通にしていたのが印象的だった。
そういうところが、おばあ様の言う“わかってない”ところだったのかもしれない。
「フム……失礼」
そう言って、おじい様は正座からあぐらへと移行した。
珍しく長考の構えだ。
意外と年齢を経て強くなったのかしら、私。
「今日だけでなく、ここ数日、ぼうっとしていることが多いな?」
パチンッ、と小気味良い音が鳴る。
飛車が絶妙な場所に打ち込まれた。
やっぱり、やらずに強くなるわけがないわね。
私は先ほどの思い上がりを恥じた。
そして盤外の駒にも、何かを返さなくてはならない。
「少し疲れているだけですよ」
無難な一手だ。
しかしおじい様は手を緩めることはしない。
「違うことくらいわかるぞ。母もわかっている。儂以上によくな」
「人に言えない悩みの一つや二つ、私くらいの年ごろにはよくあるものですよ」
「それは本人が言う台詞ではないと思うぞ……」
ごもっとも。
「まァ、いいんだがな。お前の言うとおりだ」
おじい様は不敵な笑みを浮かべ、私に王手を指した。
それは完全なる詰みだった。
どうやら、さっきの長考で読み切られていたらしい。
「……負けました」
「ウム。そろそろ風呂も沸いただろう」
まるで時間に合わせて負けさせられたような気がして、とても悔しい。
でも仕方のないことね。
父さんにも勝てないもの。
「あぁ、そうです」
ただ折角なので、お風呂に入る前に一つだけ、訊いてみてもいいかなという気になった。
こうして心配して足を運んでくれたのは、嬉しく思ったのだし
「おじい様なら、何かに迷った時どうします?」
「抽象的だな」
「その程度の悩みですから」
「そうさな……」
祖父は片手で顎を摩りながら、もう片方の手で駒を片していく。
それがあらかた仕舞い終えた頃に、もう一度口を開いた。
「その迷いのどちらかが、本物だ」
私はきょとんとした。
正直に言って、よくわからなかったからだ。
それは一目見てわかるようなものだったらしく、おじい様はばつが悪そうに頭をかいた。
「すまんな。昔、恩師に言われたのだ。進むべき道に悩んでいた時にな」
「おじい様は、それでどうしたんです?」
「そら、どちらかを選んだに決まっとる。その言葉が決定打になったわけではないが、だが、選ぶことが苦でなくなったのは、その言葉のおかげだ」
そう言う祖父の顔は昔を懐かしむような表情を浮かべていた。
それは最近、誰かさんを通して見た表情だった。
「参考になりましたわ」
なんとなくだけど、その恩師とやらが言いたいことがわかったような気がする。
「なら、良いのだがな」
「本当です。ありがとうございました」
一礼して、私は自室から立ち去った。
私が選ぶ道が本物なのだ。
どちらに進んだとしても。
きっとそういうことなのだと、思った。
ならば私も、後悔はしないのかもしれない。
……とは言えまだ、どちらを選ぶか決まりはしないのだけど。
それもおじい様と同じだ。
お昼の時間のことだ。
私たちは教室でお弁当を食べていた。
ケイコと私と、二人きりだった。
トオルは友達らと食堂に行き、委員長は気付いた時にはいなくなっていた。
あの日から、委員長との間に溝を感じるようになった。
お昼を一緒にしなくなったのも今日だけでないし、休み時間に話しかけても手早く話を打ち切られてしまう。
避けられているようにしか思えなかった。
いや事実、避けられている。
理由はわかるけど、寂しい。
「それでねー、トオルがさー」
「うんうん、彼はそういうとこあるわよね」
委員長の辛辣なツッコミがなく、私たちの会話もどこか宙ぶらりんで締りがないような気がしてならない。
だからだろうか、ケイコが割と真剣な風に、
「ねぇ、そろそろ委員長と仲直りしたら?」
と言うのだった。
「んー、別に喧嘩してるわけじゃないのよ」
本当のことだけど、彼女はいまいち信用していないみたいだ。
「なんか気分を損ねるようなこと言ったとかはー?」
「それは……」
完全にないとは言い切れないのが辛いところだ。
「でもそれなら、その場で怒るからわかるかー」
「うん……」
少し前までは委員長は何事もズバズバ言うタイプだと言えたけど、今では思っている以上に腹に抱え込むタイプだと言わずにはいられないから、私の相槌も歯切れの悪いものになってしまった。
それがまたケイコに疑惑を抱かせる。
「ねぇ、本当になんもないの?」
それもまた、完全にはないと言い切れない、厄介な質問なのよ……。
「ないない。本当に」
けど流石にこれ以上訊かれたくはなく、今まで以上に強く否定する。
彼女の訝しむような顔は変わらなかったけど、ひとまず追求は止まった。
「ところでさ」
沈黙に耐え切れず、私はそう切り出した。
「ケイコは何か悩んでる時って、どうする?」
「なぁに~? 恋の悩みでもあるの!?」
女の子ってどうしてすぐに恋愛ごとに絡めるんだろう。
彼女の食い付きっぷりに、少し引く。
「ううん、全然。何かしら悩んでる時って、どうするものなのかなって」
「ナチノちゃんて、本当に浮いた話しないね。初恋くらいはあるんでしょ?」
「えっ、うーん……よくわかんない」
ケイコが目を丸くする。
信じられない! って顔だ。
「まぁまぁ、それは置いといて、ね」
「あ、うん。悩んでる時ねぇ……鉛筆転がすかなぁ」
「それってテストの時の話でしょ」
呆れながらそう指摘すると、照れくさそうに彼女は笑う。
「あ、バレた? だってそんなに、悩む機会ってないしなー」
「貴女らしいわ」
「お、なんか馬鹿にされてる?」
「してないしてない。ネガティブなのより、いいことよ」
「そうそう! 悩みなんて適当に、蹴っ飛ばしてきゃいいんだよ!」
それも確かに、一つの答えとしてアリなのかもしれない。
深刻に頭を悩ませずに、天命に託すのも悪いことではないのだ。
その結果を運命として、受け入れる覚悟があるのならば。
覚悟、ね……。
それは今まで考えの及ばなかった概念だった。
もしかしたら、それがなによりも足らないものだったのかもしれない。
私はまだ何も選べずにいる。
この日、最後の授業は化学だった。
私は先生に頼まれて回収した、みんなのレポートを先生のいる準備室へと運んだ。
逆井先生はお礼にと、ビーカーに淹れられたコーヒーを差し出してきたが、丁重に断った。
そのコーヒーは結局先生が飲むことになった。
普段からやっているのだろう。
「先生は悩むことってありますか?」
その帰り道、廊下を歩きながら気付けば私は、そんな問いかけをしていた。
先生はやっぱり「はあ?」と少し怒った顔になった。
「お前な、それだとまるで俺が、悩みもないような人間に聞こえるだろーが」
「違うんですか?」
「おま、言うじゃねーか。そういう奴だとは知らなかったぜ」
「すみません。冗談ですよ」
私が一旦立ち止まってから、丁寧に頭をさげると先生はむしろ「やめろやめろ」と戸惑うのだった。
「滅多に人に頭をさげるんじゃあない。外国だと訴訟もんだぞ」
いくらなんでもそれはないと思う。
危なっかしすぎる。
「先生、海外に行ったことないでしょう」
「まぁな」
当然だろ、って顔で認められたら、こちらは呆れ返るしかない……。
「んで、なんだ、悩んでるのか?」
「まぁ、少しだけ」
本当はかなりだけど。
私も相当な嘘つきよねぇ。
自分のことながら、辟易する。
改めるつもりはないけれど。
嘘がなければ生きていけないもの。
この眼帯がある限り。
「ふーん。まぁ、俺はこんな性格だからよ。あんまり悩んだりはしねーや。お前の言うとおりにさ」
なんだ、合ってたわ。
「けど悩む時はよく悩むぜ」
「そうなんですか?」
「普段悩まない分な。めっちゃ頭使って考える」
「それで答えは出ます?」
「出ない」
がくっと、私は廊下でずっこけた。
あまりにも、はっきりとし過ぎる答えだった。
「じゃあ、どうするんですか」
「頭を使わないで決める」
「鉛筆とか?」
ケイコ型ね。
「いや。……心で決めるんだよ」
それはもう、清々しいほどの、得意顔だった。
「いいこと言っただろ俺」とでも言いたげな顔だ。
「それじゃ、先生。ホームルーム手短にお願いしますね」
教室のある廊下に出たので、私は先生にそう告げてから、早歩きで廊下を駆けた。
後方で「あれー?」という声が聞こえたけれど、知ーらない。
ただ後で思い返してみた時に、中々に良い答えだったなと、考えを改めるかもしれないけど。
ホームルームは本当にすぐに終わった。
私がそう頼んだから、というわけではないのだろうけど、ありがたいことだ。
さて、と周囲を見回す。
真砂くんを探している。
彼は文章を書く人だ。
この問いかけをしてみて、どのような答えが返ってくるのか、個人的な興味がある。
だが、どうやらすでに教室を出てしまっているようだ。
「ナチノちゃん、かえろー」
「あ、ごめんなさい。今日はちょっと用事が」
「えー、またー?」
「また明日ね」
「しかたないなぁ。じゃ、トオルと帰りますか。明日は一緒にねー」
「ええ、さようなら」
ケイコを見送った後、私は鞄を手にして、以前部室棟へと向かった時の道を急ぐ。
思った通り、まだ彼は廊下を歩いていた。
その背に呼びかけると、彼はくるりと振り返って「あぁ、きみか」と零した。
「ごめんなさいね、私で」
ご不満かしら? と言わんばかりに私は詰め寄った。
すると真砂くんは慌てて、
「いや、誰かと思っただけだよ、ほんと」と気まずそうに笑う。
「部室に用?」
「ううん。ちょっと訊きたいことがあって」
「まぁ、聞くだけなら。実は締切が近くてね、早く書きたいんだよ」
あら、それはとんだお邪魔虫だったみたいね。
そういうことなら手短に済ませましょう。
「貴方って悩んでいる時、どうする? どう決める?」
「へえ。何か悩んでいることがあるのか。らしくないな」
失礼しちゃうわね。
顔に出ていたのか、彼はまた気まずそうに視線を逸らす。
「いや、柳田さんは即断即決タイプだと思ってたものだから」
「たまには悩むこともあるのよ。他人から見たら、つまらないことでもね」
真砂くんは、しばし考えるような素振りをしてから、
「まぁ、雑音に流されなければ、おのずと決まるかな」
「雑音?」
「僕は物を書く時は邪魔されたくなくてね。前にも言ったけど、ストーリーに口を出されたりとかさ」
「あぁ、言ってたわね」
「だから自然と、一人で考えることになるんだけど……そういう時は、自分が満足するまで考えるだけだね。特別何か、裏技があるわけじゃあないだろう?」
……そうか、だから私はこうして聞いて回っていたのか。
それが欲しかったんだ。
間違いのない、自分が納得できる、そんな答えを得る為の魔法の道具を。
でもそんなものはないのよね。
一人で決めなければならない。
そんなこと分かっていたはずなのに、それでも私は誰かにこの心の内をほんの少しだけ開けて、手助けしてほしいと願っていた……のかしら。
「そうね。裏技があったら、みんな使うわ」
「僕は使わない派だけどね。ゲームでも、攻略本すら見ないし。それじゃ」
そう言い残して、彼は立ち去っていった。
結局私は、悩むことに悩んでいたようなものだったみたいだ。
心が羽毛になったような気分だった。
本物は既に私の内にあった。
天命になど任すまでもなく、私の心が決めていた。
そしてその答えに私は、満足しているのだ。
ごめんなさい、委員長。
私は貴女の思いを裏切るわ。
私に足りなかったのは、ただその覚悟だけだった。




