第肆話「夢路を駆る」(後)
「──ハッ!?」
気付くと私は誰もいない教室に、ただ一人取り残されていた。
椅子に坐したまま、机に突っ伏していたようで。
電気は消えていて、とても闇が濃い。
しかしまるで見えないわけではない。
月か星か、僅かながらの光が入り込んでいるのかしら。
けれども、窓から見える景色は絵の具で塗りたくったように漆黒だった。
ちぐはぐしている。
これは夢だ。
いつ、どこで、現実の私が眠っているのかは思い出せないが、これが夢であることは、今回ばかりはハッキリと自認できた。
いわゆる、明晰夢というやつね。
ケータイは当然ながらないし、時計に目をやると五時を指してはいるが、針に立体感がなく絵のようだった。
机の中をひっくり返す。
昨日と同じように紙があったが、書いてある言葉は同じもの。
見るなと言われて見なかったけれど、結局捕まったのだけど……。
役に立たないだろうが、なんとなく私はその紙を今日もポケットへと仕舞った。
どうやら対処法は、ただ逃げることだけと思った方がよさそうね。
正直な事を言わせてもらうと、足にはとんと自信がない。
スタミナぐらいは人並みにあるけれど、体の動かし方とでもいうものが下手っぴなのだ。
球技に比べれば、まだマシだけど。
だから前回も追いつかれてしまった。
他の人にも聞いたが、あそこまで追い詰められたのは私くらいのものだった。
人によっては出会うことすらなく、朝を迎えた者もいたようで、ほんの少しばかり期待している。
とにかく一旦、教室から出ることにした。
どこか一所にいるよりは、動き回っているほうがいいと思うのだ。
もしもアレが今この瞬間にも、背後に出現したならば、この机が群集する中を抜けて扉を出るのは私には不可能だ。
きっと廊下にいるのがいい。
廊下の窓も真っ暗、いや真っ黒だ。
蛍光灯も消えている。
にもかかわらず、視界がままならないということはない。
闇に目が慣れているといった具合だ。
よく見えている。
ふと私は左眼に手を伸ばしてみた。
そして、意を決して眼帯を取り外す。
白く濁った瞳を晒すと世界に灰色の膜が下りた。
なんだか暗視ゴーグルみたいだと思った。
何かの役に立てばいいし、立たずともまた鬱憤が溜まるだけのことだ。
そろそろと廊下を歩く。
出来るだけ足音は出したくなかった。
適当に階段があったら昇ってみたり、降りてみたりを繰り返しながら、どれほどの時間が経っただろう。
そう言えば、こうやって学校の中を散歩したことはなかった。
状況が状況でなければ、結構楽しいのかもしれない。
無事に現実に帰れたら、やってみようかしら、放課後に。
……音が聞こえる。
あの、ひたひた、という裸足で歩くような音だ。
まだとても遠い、と思う。
その気配はやはりというか“後ろ”から来るような気がする。
決して前には回らない、そういう生き物なのだと思う。確証はないけれど……。
少しづつ大きくなっていく恐怖を前に、私の足は棒のようになってしまっていた。
いや違う! それだけじゃない!
半透明な手が、それも赤ん坊のような小さな手が、二つ三つ四つと上靴に取付いているのだ。
だから逃げる為の一歩を踏み出せずにいるのだ。
左眼を開いていなかったら、気付かなかったかもしれない。
私はそれらを引っ剥がそうと、しゃごみこんで指の一つ一つに手をかける。
しかし、子供の手の形に反して、その力は恐ろしく強い。
背後からアレが近づいてくるのがわかる。
ゆっくりとしていて、昨日よりもその足音の感覚はとても長いが、間違いなく近づいてきている。
「こうなったら……っ!」
私は思いっきり、小さな手の甲をつねり上げた。
とても柔らかく、ぶよぶよとしていた。
千切れてもいいくらいに指先に力を込めると、赤ん坊の泣き声のようなものをあげて、一つの手が消え去った。
そうとなれば迷う必要はない。
次々に私は赤子の手の甲をつねり上げていった。
そうして全てが消えて、私の足が自由になると同時に走り出す。
それに呼応するようにあの足音も激しくなった。
昨日とはどこか違う。
音と音の間隔がとても短いし、ひたひた、ではなく、ばたばたって音。
それで察した。
今日こそは本気なのだと。
頭の中で「ヤバイ」という単語がぐるぐると回っている。
焦りと緊張、そして恐怖からか、いつもよりも息が上がるのが早い気がする。
あるいは既に、そうとうな距離を走って、幾つもの階段を跳んで下りたり、駆け上がったりしているのか。
今は何階だろう。
理科室を通り過ぎたから、三階だろうか。
食堂がある。
私は迷わず、そちらへと向かった。
食堂の周囲は全面ガラス張りとなっているし、中庭に通じる扉がある。
中庭らしい中庭は一階となるが、そこから各階へと伸びる階段があって、三階は踊り場となっているのだ。
そこへと出る為の扉がある。
私は食堂へと入ると、これは後ろを見る為に賭けでもあったけど、手当たり次第に椅子を寄せ集めてバリケードを形成した。
幸いにも、この間に音の主を見ることはなかった。
ここでほっと気が緩んだのが、間違いだった。
およそ対角線にある、踊り場へと抜け出れる扉をくぐった時、私は一つのミスを犯した。
そこのドアは少々硬く、自然に閉まらなかったのだ。
それが……それがとても気になってしまった。
いや気にしないわけにはいかないでしょう。
だってドアが開いていたら、それだけ早くアレが近づいてくるじゃない。
閉めなきゃ。
そう思った私は、前へと進む足を止めて、振り返ってしまった。
ガラス張りの食堂は、とても見晴らしが良い。
もしも私が家を建てる時は絶対にしないわ。
椅子山の向こうにいるアレは、いわば肉団子のような姿をしていた。
青白い肉塊だ。
そして、それから腕が生えている。
一本や二本ではない、余すとこなく腕が生えている。
腕の集合体と言ってもいい。
それを見て、菊花シュウマイみたいねと、私は思うのだった。
あまりのおぞましさに、脳が麻痺していた。
だから、すぐには気付かなかったのだ。
──ひた。
もう一つの音に。
「……へ?」
間抜けな声だった。
でも、仕方のないことよね。
音が聞こえてつい何かしらと振り返ったら、つまり今度は扉に対して背を向けたら、そこにも菊花シュウマイがいたのだから。
そのことを認識した瞬間ドアを、バン! と叩かれた。
激しく叩かれている。
ガラスが割れてしまうかもしれない。
でも、どうでもいいことだ。
今度は振り向かなくてもわかるのだ。
もう一体、増えたのだ。
バリケードに悪戦苦闘しているアレとは別に、この目の前にいるアレとは別に、もう一体“後ろ”に。
今更ながらあのメモの、本当の意味がわかった。
見ると必然的に背中ががら空きになる。
その隙間に、この化物は入り込むのだろう。
そういう性質、生態なのだ。
だから“見てはダメ”なのだ。
私は遂に、挟み撃ちという形になってしまったのだ。
これはもう逃げられないでしょう。
諦めて、そっと目を瞑るとすぐに手が伸びてきた。
腕に、足に、手に、太ももに、首に。
無数の腕が絡みつく。
ガラス戸から引き離されて、肉塊に沈んでいく感触。
生臭い。苦しい。
混濁する意識の中で、私は母に、家族に一言だけでも残したいなと思った。
なんでもいいから。
「げほげほっ! げほっ!」
私は布団の上で咳き込んだ。
まだ首を絞められた時の感触が残っていて、手でそっと撫でることで緩和しようとする。
そうしながら、のろのろとした動作で、私は浴衣を脱ぎ捨てていく。
部屋の隅には姿見が置いてある。
普段は埃除けのために布を被せてある。
完全に下着姿となった私は、鏡の前に立つと、それを取っ払った。
映った私の姿は、お世辞にも立派なものではないけれど、少なくとも手の跡だけはなくて、綺麗なものだった。
安心した。
その場にへたりこんで、引き続き首をさすり続けると、幾分かマシになった。
どうして帰ってこれたのだろう。
その疑問だけが頭にあった。
完全に終わったと、そう思ったのに。
はたと気付く。
足首の手跡もすっかり消え去っている。
ああ、これでもう今度からゆっくりと眠れるなと、別の意味での終わりを実感するのだった。
教室に着くとケイコが「聞いて聞いて」と駆け寄ってくる。
私はそれをなだめながら、自分の席へと座った。
どうやら今日も、教室の雰囲気はおかしいらしい。
「今日もまた何かあったの?」
「あったと言えばあるし、ないと言えばないかな」
「もったいぶるわねぇ……」
にかっとケイコが笑った。
「それが昨日と同じなのよぉ」
「……楽しそうね、ケイコ」
私は結構しんどかったんだけど。
って言っても、わからないでしょうけど。
「それで、どんな夢ですって?」
我ながら白々しいものだ。
「それも同じ! 凄くない?」
「三回までなら偶然だって誰かが言ってたわ」
「ちぇー」
「正直、凄いと思うわ」
「でっしょー?」
何故か自慢げなケイコだった。
「見たのも同じ人?」
「もち! ユミちゃんと、我孫子くんと、カオリちゃん」
「あら、薄島くんは?」
「……誰それ?」
誰ってそれは……誰だったかしら。
なんでそんな名前が出てきたのかしら。
「もしかして、まだ寝ぼけてるー?」
「あー、そうかもしれないわ。ちょっとボーっとして」
「顔洗ってくる?」
「そうね。それもいいかしら」
薦められるままに、私は席を立つ。
薄島……聞いたことはあるはず。
だから口から出たのだろうし。
でも、うちのクラスにはない名前のはずだ。
とは言え、あまり友人のいない私には、いまいち確証が持てない。
でも、ケイコだって本当に覚えがなさそうな顔してたものね……。
やっぱりまだ頭がしゃんとしてないんだわ、あんなことの後だし。
「あ、委員長。おはよう」
「……おはようございます」
お手洗いへと行く途中で会った。
見たところ手ぶらだから、登校自体はとっくにしていたらしい。
ただこんなところで立ち話するのもなんだし、どうせ同じクラスなのだから、それだけで別れようとすれ違った瞬間、
「ツイてるわね」
と、きっと聞かせるつもりはなかったのだろうぐらいの声量で、彼女が呟くのを聞いた。
思わず足を止めて振り返るが、彼女の背中が人波の向こうへと消えていくのを、見送ることしか出来なかった。
-とっぴんぱらりのぷう-




