Scene8:『死者のいない墓』
翌朝、村へ一台の箱馬車が入ってきた。
夜のうちに降った雨は上がっていたが、坂道にはまだ薄い水が残り、黒い車輪が轍を踏むたび、泥水が石垣の裾へ跳ねた。湿った蹄の音が家々のあいだを登ってきて、やがて診療所の前で止まる。
御者台の男が手綱を引いた。馬が鼻から白い息を吐き、首につけた金具を小さく鳴らす。
馬車の扉が内側から開いた。
最初に姿を現したのは、細長い革鞄だった。よく使い込まれた黒革の表面に、雨粒がいくつも残っている。
続いて、黒い編み上げ靴の踵が踏み台へ降りた。
女は地面へ足をつけるより先に、革手袋をはめた片手で旅行帽の縁を押さえた。風にすくわれたロングコートの裾が、雨上がりの空気を孕んで一度だけ大きく膨らみ、その下にある細い脚の線へ沿うように、静かに落ち着く。
黒一色の装いだった。
喪服にしては実用的で、旅装にしては隙がない。襟元まで留められたコートの中央で、古びた銀時計だけが鈍く光っていた。
女は革鞄を地面へ置くと、手袋を片方だけ外した。
長い指で硬貨を数え、御者へ渡す。
「長い道を、ありがとうございました」
声は低く、よく通った。
御者は帽子を取り、代金を確かめるより先に何度も頭を下げた。女も一礼を返したが、その角度には過剰な親しみも、相手を圧する威圧もない。
礼儀だけを、寸分違わず差し出す所作だった。
御者が馬車を動かすのを見届けてから、女は診療所へ向き直った。
待っていたニノ医師とレヴァンへ、灰青色の目が静かに移る。風に触れた黒髪の一筋が頬へ掛かったが、彼女はすぐには直さなかった。
「サロメ・アシュケナと申します」
外した手袋を革鞄の上へ置き、白い指先を胸元へ添える。
「死者に由来する現象を専門に調査しております。本日は、ご依頼いただいた症例と現場を確認いたします」
穏やかではあるが、人を安心させるための笑顔はなかった。必要以上に沈黙を置いて、不安を煽ることもない。
村人が死者を扱う者へ期待する慎み深さを、必要な分だけ正確に身へまとっている。
私は診療所の軒下から、その姿を眺めていた。サロメの視線がこちらへ動く。
……目が合った。
形のよい眉が、他人には気づかれない程度にわずかに持ち上がった。歓迎というより、なぜお前がここにいる、という旧知の反応である。
「こちらが、依頼を出された先生です」
ニノ医師が私を示した。
「ええ。存じております」
サロメは革鞄を持ち上げ、こちらへ歩いてきた。
一歩ごとに、黒い裾が濡れた石畳を避けるように揺れる。背筋は真っ直ぐ伸びているが、肩へ無用な力は入っていない。長い黒髪は低い位置で結ばれ、背中の中央をほとんど乱れずに流れていた。
私の前で足を止める。
「お久しぶりです、先生」
「久しいな」
差し出された手を握る。
革手袋を外した掌は、見た目よりも乾いていた。香草と蜜蝋、古い紙を重ねたような匂いが、指先からかすかに移る。
握手は短かった。
彼女が手を引く際、長い睫毛の下から、こちらの白衣を一度だけ見下ろした。裾には昨夜の土がついたままだった。
口角が、一ミリほど上がる。
声に出して指摘しない程度の慈悲は残っているらしい。
レヴァンが調査の概要を説明し始めた。
患者数。共通して進行している聴覚障害。獣の唸りや呼吸に似た異常音。鼓膜や耳小骨、神経系に、症状を説明できる器質的異常が見つからないこと。
そして昨夜、最初に診察した籠編みの老人が、自ら両耳を傷つけ、床板を破壊したこと。
サロメは途中で言葉を挟まなかった。革鞄の上へ両手を重ね、聞き漏らさぬようレヴァンの口元を見ている。
老人が「息は一匹ではなかった」と訴えたところで、右手の人差し指が、鞄の金具を一度だけ叩いた。
乾いた、小さな音だった。
「患者の証言は、互いに共有されていますか」
説明が終わると、最初にそう訊いた。
「可能な限り、別々に聴取しています」
レヴァンが答えた。
「可能な限り、というのは?」
「村内で発生した噂までは制御できていません。調査団が来る以前から、山鳴りや獣鳴りと呼ばれていました」
「患者同士が、具体的な音の特徴を話した可能性は」
「あります。ただ、証言には一致していない部分も多くて」
「不一致も、そのまま記録してください。似ている証言だけをまとめると、実際より一つの現象に見えます」
レヴァンが頷き、手帳へ書き留める。サロメの視線がニノ医師へ移った。
「亡くなった方の声を聞くという女性は?」
「ツィサナ・ヴァルデリです。今は共同窯にいるはずです」
「亡くなった方との関係は?」
「一人息子です。六年前、五歳のときに病気で亡くなっています」
サロメの指が、鞄の金具から静かに離れた。
「お墓は村内に?」
「北側の共同墓地です」
「では、先にそちらを確認します」
ニノ医師がわずかに眉を寄せた。
「ツィサナ本人ではなく?」
「生きている方の証言に触れる前に、死者側の痕跡を見ておきたいのです」
サロメは外していた手袋を取った。
指先から順に革へ差し入れ、皺が残らないよう手首まで整える。
「先に話を聞けば、その内容に引かれて、こちらが現場を都合よく読む可能性があります」
最後に手袋の縁を軽く引き、革鞄を持ち上げた。
「人は、見たいものを見ます。死者を扱う者ほど、その誘惑には慎重であるべきです」
————
墓地は、村の北にある小さな丘の上にあった。
雨を吸った斜面を登ると、低い石垣の向こうに、背の低い墓標が並んでいる。濡れた草の匂いに、掘り返された土の冷たさが混じっていた。
雲の切れ間から薄い陽が差し、墓石のあいだを一匹の白い蝶が漂っている。
私はサロメの後ろを歩いた。
同行したのは、私とレヴァンだけである。ニノ医師は診療所へ戻り、ほかの患者の診察を続けていた。
サロメはぬかるみを避けながら、墓標の列を進んでいく。歩幅は広くないが、足を置く場所に迷いがない。黒いコートの背で、結ばれた髪が左右へ穏やかに揺れていた。
列の半ばまで来たところで、レヴァンが足を止めた。
「こちらです」
示されたのは、小さな墓石だった。
《イリア・ヴァルデリ》
刻まれた文字の下に、生年と没年がある。
六年を雨風の中で過ごしているはずだが、石の表面には苔が少なかった。足元の土も整えられ、摘まれて間もない黄色い山花が数本、茎を揃えて置かれている。
サロメは墓の前で革鞄を下ろした。帽子の縁へ指を掛け、ゆっくり脱ぐ。
まとめていた黒髪が風に押され、一筋だけ頬へ流れた。彼女はそれを耳へ掛けると、帽子を胸の前へ抱えた。
「イリアさん」
墓石へ向かい、静かに名乗る。
「サロメ・アシュケナと申します。お母さまの件で、こちらを少し調べさせていただきます」
返事を求める声ではない。
そこに死者がいると、あらかじめ決めてかかる響きもなかった。
ただ、他人の部屋へ入る前に扉を叩く。その程度には当然の礼儀とでもいうように、彼女は死者へ言葉を掛けた。
帽子を乾いた石の上へ置き、革鞄を開く。中から出てきたのは、聖印でも祈祷書でもなかった。
白い糸。小さな方位磁針。蓋のついた鏡。数本の白墨。封蝋。目盛りを刻んだ細い金属棒。布に包まれた小瓶。
サロメは膝を折り、道具を乾いた布の上へ一つずつ並べた。
黒いコートの裾が土へ触れないよう、片膝の下へ巧みに畳まれている。細い指が白い糸を解くたび、手袋の革がかすかに鳴った。
「ずいぶん現実的だな」
私が言うと、サロメは白墨で墓石の左右へ小さな印をつけた。
「現場仕事ですから」
レヴァンが近くにいるため、口調は崩れていない。しかし語尾からは、わずかに形式が抜けていた。
彼女は二本の金属棒を地面へ差し、そのあいだに白い糸を張った。糸の中央へ薄い銀片を吊るし、風を遮るよう三方へ黒布を立てる。
銀片はしばらく細かく揺れ、やがて止まった。
次に、蓋つきの鏡を開く。
掌に収まる磨かれた面を墓石へ向け、角度を少しずつ変えていく。
私の位置から見えたのは、鈍い空の色と、鏡の端へ重なる彼女の指だけだった。
サロメの灰青色の瞳が、鏡面のわずかな変化を追う。睫毛の影が頬へ落ち、薄い唇が息を止めるように閉じられている。
やがて彼女は鏡を伏せ、小瓶の栓を抜いた。透明な液体を、墓の四隅へ一滴ずつ垂らす。
土は液体を吸い込んだが、色も変わらず、煙も出なかった。方位磁針の針も北を指したままである。
「何を調べているんです?」
レヴァンが尋ねた。サロメは墓石から目を離さずに答えた。
「一つずつ説明すると、夕方まで掛かります」
「簡単にお願いします」
「死者の精神活動が、場所や物質へ残した偏りです。生前に強い執着があった場所や、死の直前に触れていた物には、通常とは異なる反応が残る場合があります」
私は銀片を見下ろした。
「死者の残響思念か」
サロメの手が止まった。鏡の蓋を閉じる直前、その灰青色の目だけがこちらへ動く。
「その呼び方は好みません」
低くなった声の底に、硬いものが混じった。
「学術上は、現象を説明しやすい」
「説明しやすいからといって、死んだ人間を音の染みのように呼ばないでください」
「残留した精神情報を指しているのであって、人格そのものを否定しているわけではない」
「当人に残っているのが人格の一部であれば、それは誰かの一部です」
サロメは鏡を閉じた。細い指が蓋を押さえ、金具を鳴らさずに留める。
「死者のすべてが残っているとは言いません。記憶が欠け、感情だけになったものもいる。名前すら失ったものもいる。それでも、最初から現象として片づける呼び方は、私は好きではありません」
レヴァンが私たちを交互に見た。
私は少し考えた。
呼称は分類のためにある。対象への敬意と、分類上の便宜は両立し得るはずだ。
しかし、ここでその議論を継続すれば、サロメは調査が終わるまで私を「無礼な白衣」と呼ぶ可能性が高い。
「では、君の前では使わないよう努力しよう」
サロメの眉が、ほんのわずかに上がった。
「努力?」
「完全な矯正には時間を要する」
「次に言ったら、墓地に埋めます」
「レヴァンがいるぞ」
「聞き間違いです」
レヴァンは何も聞かなかった顔で、墓地の入口へ視線を逸らした。
社会的信頼を獲得することに関して、彼は私より高い適性を持っているらしい。
サロメは何事もなかったように白い糸を指で弾いた。銀片が震え、細かな光を散らして、また止まる。
「霊そのものが見えるわけではないんですか?」
レヴァンが改めて訊いた。
「見える場合もあります」
サロメは糸の張りを確かめた。
「見えない場合もある。だからこそ、見えないものを見えたと言い張らずに済むよう、痕跡を調べます」
「霊媒師なら、見えたと言った方が話は早いのでは」
「話は早くなります。真実からは遠ざかります」
彼女は墓石の裏へ回った。
しゃがみ込み、手袋を片方だけ外す。濡れた土へ直接、白い指先を触れさせた。指へついた土を親指で擦り、匂いを確かめる。
黒い袖口から覗く手首は細かったが、土を扱う指にためらいはない。爪のあいだへ泥が入り込むことも気にせず、少量を紙へ包み、革鞄へ収めた。
「遺体は、確かにここへ埋葬されているのですね」
「はい」
レヴァンが答えた。
「改葬や遺骨の移動は?」
「ありません」
「死後、墓が荒らされたことは」
「聞いていません。村の人たちも、よく手入れしています」
サロメは問いを重ねながら墓標の周囲を一周した。
石の継ぎ目へ白墨を当て、雨水の流れを確認し、花を避けて土を採る。ひとつの動作が終わるまで次の質問へ移らず、レヴァンの答えにも最後まで耳を傾けた。
やがて、彼女は墓の正面へ戻った。土のついた手袋を布で拭い、帽子を胸元へ抱える。
「失礼いたしました」
墓石へ短く頭を下げた。
風に揺れた髪が、黒い衣服の上を滑って胸元へ落ちる。頭を上げると、彼女はその髪を背へ払い、先ほどまでの道具を一つずつ鞄へ戻し始めた。
「どうだ」
私が訊いた。サロメは白い糸を指へ巻き取りながら答えた。
「ここにはいません」
「イリア少年の霊は?」
「少なくとも、この墓には残っていない」
糸を最後まで巻き終え、銀片を布へ包む。
「別の場所へ移動している可能性は」
「もちろん、あります」
反応がないことは即答したが、可能性については切り捨てなかった。
「墓にいない死者は珍しくない。墓は、生きている側が死者を思うための場所です。死者自身が留まる場所とは限りません」
「では、次はツィサナの家か」
「家と遺品。それから本人です」
革鞄の蓋が閉じられた。
サロメは立ち上がり、帽子を被り直した。
黒い鍔の下へ顔が半分ほど隠れると、再び彼女は村人が期待する静かな調査士の姿へ戻った。
————
共同窯へ向かう途中、レヴァンは村役場へ立ち寄ることになった。
ツィサナの留守中に家屋と遺品を確認するため、正式な許可を記録へ残しておく必要があるらしい。
石垣の角を曲がり、彼の背中が見えなくなる。
サロメは、そのまま三歩ほど歩き、四歩目で、深く息を吐いた。
伸びていた背筋がわずかに緩み、肩の位置が落ちる。彼女は帽子の鍔を指で持ち上げ、後頭部の結び目へ手を差し入れた。
紐を少し緩める。腰まである黒髪が締めつけから解かれ、背中へ柔らかく広がった。
端正な黒衣も、長い手足も、物静かな横顔も変わっていない。
ただ、そこに収まっていた人間だけが、別の座り方を始めた。
「よぉ、白衣」
先ほどまで死者へ向けていた静かな声が、低く掠れた。
「面倒くせぇの拾ってきやがったな」
「私が拾ったわけではない」
「あたしを呼んだのは、てめぇだろ」
「専門家への敬意ある招聘だ」
「報酬の書類、同じ場所に三回も署名させやがって。あれのどこに敬意があるんだよ」
サロメは革鞄の持ち手を肩へ掛けた。
そのまま片手をコートのポケットへ突っ込み、先ほどより明らかに大きな歩幅で坂を下る。
外見だけを見れば、葬列の先頭を歩く女である。
しかし口から出てくる言葉は、酒場の裏口で料金に文句をつける運び屋に近い。
……この著しい不一致には、一定の鑑賞価値がある。
「一番面倒を起こした奴が、一番書かねぇ制度のどこが公平なんだよ」
私はそれには答えず、目線だけを彼女に向ける。
「しかし、前回の件でキミは私に借りがあるはずだ」
サロメの歩幅が、わずかに狭くなった。
「あれは、てめぇのせいで引き込まれたんだよ」
「原因と救助者が同一であることは、救助の価値を損なわない」
「消防士が放火してから消しに来たら、まず捕まるだろ」
サロメは革鞄を背へ回した。
帽子の影から向けられた灰青色の目には、墓前では見せなかった剣呑な光が戻っている。
「だいたい、その倍は貸してるね。その前の件じゃ、千切れたてめぇの右手を、夜明けまで探してやった」
「最終的に発見したのは私だ。あれは見事な共同作業だった。君が可能性を削り、私が真実へ右手を伸ばした」
「腕がねぇ方の手で、どうやって伸ばしたんだよ」
「比喩だ」
「都合が悪くなったときだけ文学へ逃げんな」
「ともあれ、あの一件によって、我々のあいだには困難を共に乗り越えた者だけが得られる、特別な絆が生まれた」
「生まれてねぇよ。あたしがてめぇの腕を拾っただけだ」
「身体の一部を拾ってもらうほどの関係だぞ」
「言い方を選べ。急に湿度が上がっただろうが」
サロメは革鞄の持ち手を肩へ掛け直した。
歩くたびに黒い裾が大きく揺れ、先ほどまでの慎ましい調査士の影が、坂道へ一枚ずつ剥がれて落ちていく。
「借りだぁ?完済どころか、利子をつけても余る。今回も貸しひとつだからな」
「記録しておこう」
「何にだよ」
「サロメ・アシュケナによる、私への献身の記録だ」
「債権台帳だ。勝手に題名を変えんな」
「長年にわたり私を支え続けた、一人の女性の軌跡とも言える」
「言えねぇよ。怪異のたびに拾ったゴミの一覧だ」
「なるほど。君にとって私は、放っておけない存在ということか」
サロメが足を止めた。
タバコも咥えていないのに、その口元から煙が出そうな顔をしている。
「白衣」
「何だ」
「次にそういう解釈したら、今度こそ棺に戻すぞ」
「照れ隠しか」
「埋葬予告だ」
「やはり、君は死者だけでなく、生者の行く末にも責任を持つ女だな」
「その行く末を今から終わらせるっつってんだよ」
サロメは再び歩き出した。
「それと、書類は一枚でいい」
「ギルドの規定だ」
「そのギルドに顔が利く学者先生なら、あたしが書く書類も一枚くらい減らせただろうが」
「制度は公平でなければならない」
「なら、てめぇも三枚書け」
「私は依頼者だ」
「一番面倒を持ち込んだ奴だろうが」
サロメは横目だけで私を睨んだ。
帽子の影から覗く灰青色の瞳は、墓地にいたときよりずっと生気がある。薄い唇の片端が不機嫌そうに歪み、ほどけた髪が風を受けて頬へ掛かっていた。
彼女はそれを直そうとせず、口元へ掛かったまま話を続ける。
見た目の慎ましさと、言葉の悪さが互いを打ち消すどころか、なぜか双方を際立たせていた。
「相変わらず、死者には丁寧だな」
「人生を最後まで終えた先輩だぞ。敬意くらい払うだろ」
「生者には?」
「生きているうちに、自分で敬意を稼げ」
「君の敬意は歩合制なのか」
「無条件で配ってたら、てめぇみたいなのが増長する」
実に明快である。
サロメは黒い革鞄を背へ回し、下唇を軽く噛んだ。考えるときの癖は昔から変わらない。
「墓には反応がなかった」
「ねぇな」
「自信は?」
「九割五分」
「残りの五分は」
「見落とし。未知の形式。あたしのやり方が通じねぇ種類。道具の不調。それと、単純に今日のあたしが鈍ってる可能性」
「正直だな」
「分からねぇことを、分かった顔で売るのは昔にやめた」
鼻から短く息を吐く。それから、コートの内側へ手を差し入れた。
指先に挟まれて出てきたのは、紙を細く巻いた香草巻きだった。
サロメはそれを薄い唇へ咥え、反対の手で小さな火打ち具を鳴らした。火が先端へ移る一瞬、伏せられた睫毛と、鼻筋の細い横顔が橙色に照らされる。
香草巻きの先が赤く灯った。彼女は頬をわずかに窄め、煙を吸い込む。
黒い衣服に包まれた胸元が静かに持ち上がり、襟の奥から覗く白い喉が一度だけ動いた。
吐き出された煙には、薬草の青い匂いと、樹皮の苦さが混じっていた。
煙草ではない。乾燥させた香草と樹皮を巻いた、霊的な偏りを測るための道具である。煙の流れ、停滞、匂いの変化、色の濁りを観察する。
本人も、そのように説明していた。
ただし今の咥え方には、検査器具を扱っているという慎みが皆無だった。
「調査は始まっているのか」
「歩きながら見てる」
サロメは香草巻きを指へ移し、流れる煙を横目で追った。
風に運ばれた煙は、彼女の黒髪へ薄く絡んでから、石垣の上へ消えていく。
「昔とは、詐欺霊媒師をしていた頃か」
灰青色の目が細くなった。
「人聞きが悪ぃな」
「事実だろう」
「霊媒は本物だった。売ってた話が嘘だっただけだ」
「より悪いのではないか?」
「ああ。悪かったよ」
あっさり認めた。
香草巻きを口元へ戻し、煙を細く吸う。
「あの頃の客は、死者が何を言ってるかなんて聞きに来てなかった。自分が聞きたい言葉を、死者の口から言わせに来てたんだ」
サロメは歩きながら、声を変えた。
柔らかく、甘く、耳の奥へそのまま溶け込むような声音だった。
「亡くなったご主人は、あなたを恨んでいません。お子さまは、光の中で笑っています。この護符が、残されたご家族をお守りします」
朝、村人へ向けていた声よりも甘い。
言葉の切れ目ごとに、ごく薄い息が混じり、相手が続きを求める間を正確につくっている。黒い帽子と慎ましい衣装のままそんな声を使われれば、疑うより先に耳を預ける者も多かっただろう。
サロメは、その声を自分で噛み潰すように鼻で笑った。
「そう言っとけば、みんな金を出した。背後で当人が『そいつに殺された』って喚いててもな」
煙を横へ吐く。
「便利だったぜ。死者は、生きてる奴の嘘を訂正するために、客の耳には話しかけられねぇから」
「今は言わない」
「言わねぇ」
香草巻きを指先で回す。
苛立っているときの癖だった。赤い先端が、白い指のあいだで小さな円を描く。
「知らねぇことは、知らねぇ。助からねぇ奴には、助からねぇ。死者が怒ってるなら、怒ってる。憑いてるかどうか分からねぇなら、分からねぇ」
歩調がわずかに落ちた。
雨水を溜めた石の窪みを避け、黒い靴が私の隣へ並ぶ。
「安心させるための嘘で、人が死ぬこともある」
その一言だけは、墓前で話していたときと同じ声だった。
私は続きを尋ねなかった。サロメも、こちらを見なかった。
しばらくは、濡れた坂を踏む二人分の足音と、香草巻きの紙が燃える微かな音だけが続いた。
やがて彼女は、再び巻紙を咥えた。
「それにな」
「何だ」
「霊が見えるからって、神や天国まである証拠にはならねぇだろ」
「霊媒師が無神論者とは、営業上の不利益が大きそうだ」
「ああ。だから昔は黙ってた」
「今は?」
「訊かれたら言う」
サロメは口から巻紙を抜いた。煙の向こうで、灰青色の目がこちらを見る。
「死者はいる。少なくとも、あたしは会った。話した。憑かれた奴も、死者に引きずられた奴も見た」
指先の煙が、彼女の頬を撫でるように上へ流れた。
「だが、神は知らねぇ。天国も地獄も知らねぇ。死んだ奴が、そのあとどこへ行くのかも保証できねぇ」
「オカルトを生業としているとは思えない、科学的な思考だな」
彼女は鼻から短く息を吐いた。結論を口にするときの癖である。
「霊媒師をなめんな。あたしらの方が、見えねぇもんを見えた顔で語る怖さを知ってんだよ」
「詐欺師としての実体験に基づく、説得力ある意見だな」
サロメは立ち止まった。香草巻きを咥えたまま、帽子の影から私を見上げる。
整った顔立ちも、静かな黒衣も、長い髪も、その瞬間ばかりは何一つ彼女の言葉を上品にはしてくれなかった。
「白衣」
「何だ」
「次に詐欺師って言ったら、死者の仲間にするぞ」
「殺害予告か」
「死者由来現象への協力依頼だ」
「その表現は学術的に不正確だ」
「てめぇの残響思念とやらに、あとで訂正させる」
どうやら先ほどの呼称を、まだ根に持っているらしい。
サロメは再び歩き出した。ほどけた黒髪を風に揺らし、香草の煙を引き連れて坂を下っていく。
遠目に見れば、死者を悼むために夜から抜け出してきた女に見えただろう。
実際には、報酬書類への不満と私の埋葬方法について考えている。
その双方が同時に成立しているのが、サロメ・アシュケナという女だった。
——to be the next scene.




