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Ghost Noise 〜耳底に沈む音〜  作者: 矢崎 那央
第1幕『耳を失くし、死者の声を得る』
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10/16

Scene9:『死者ではない声』


 ツィサナの家へ着く頃には、サロメの香草巻きは半分ほどの長さになっていた。


 彼女は低い石垣の手前で足を止めると、指に挟んだ巻紙を携帯灰入れの縁へ押しつけた。赤い火が潰れ、最後に残った一筋の煙が、黒い手袋の甲を撫でるように流れていく。

 まだ使える残りを金属筒へ収め、外套の内側へ戻す。

 それから肩を一度回し、緩めていた髪の結び目を締め直した。風にほどけていた黒髪が背中の中央へ収まり、帽子の鍔も指先で正しい角度へ戻される。


 扉の前へ立ったときには、墓地を出てから私へ悪態をついていた女は、黒い衣服のどこにも見当たらなかった。


 サロメは拳の背で、扉を三度叩いた。


 「どうぞ」


 中からツィサナの声がした。


 扉を開けると、彼女は食卓で豆の筋を取っていた。指先に細い筋を絡め、一粒ずつ木の鉢へ落としている。

 私たちを認めると立ち上がり、前掛けで手を拭った。


 食卓の一角には、今日も小さな椅子が置かれていた。座面の布は昨夜と同じように折り目を揃えられ、背もたれだけが、ツィサナの席へわずかに向けられている。


 「学者先生」


 ツィサナは私へ声を掛けたあと、その隣に立つ黒衣の女へ視線を移した。


 「こちらは?」


 「サロメ・アシュケナ女史。死者に関係する現象を専門にしている」


 紹介を受け、サロメが帽子を取った。

 低い位置で結ばれた黒髪が、胸元の銀時計の後ろへ滑る。彼女は帽子を腹の前に抱え、ツィサナへ静かに頭を下げた。


 「突然の訪問をお許しください。亡くなられたイリアさんについて、調べさせていただきたいことがあります」


 ツィサナの指が、前掛けの布を軽く掴んだ。


 「霊媒師の方?」


 「死者に関係すると考えられる現象を調べています」


 サロメは、霊が見えるとも、息子と話せるとも言わなかった。

 できることを大きく語らず、できないことにも先回りして言い訳をしない。それだけで、かつて安心を商品としていた頃とは、ずいぶん遠いところまで来たのだろう。


 「お辛い質問をする場合があります。答えたくないことは、断っていただいて構いません」


 ツィサナはすぐには答えなかった。

 小さな椅子へ顔を向け、右耳をわずかに傾ける。銀の鈴が頬の横で揺れたが、音は鳴らなかった。


 しばらくして、彼女は小さく頷いた。


 「分かりました」


 誰の返事を待ったのか、サロメは訊かなかった。


 最初に案内されたのは、廊下の奥にある小さな部屋だった。扉が開くと、長く閉め切られていた木と布の匂いが、冷えた空気とともに流れてきた。

 窓際には低い寝台が置かれ、その上へ薄い毛布が畳まれている。壁には、炭で描かれた山と家の絵が残っていた。山の方が家より小さく、煙突から伸びる煙は、天井の近くまで何度も重ねて描かれている。


 棚には木の馬が一つ。

 片方だけの手袋。

 角が潰れ、背表紙の糸が緩んだ絵本。


 六年という年月を置いてきた部屋でありながら、どれにも埃は積もっていなかった。窓枠の隅にも、寝台の脚にも、拭き跡が残っている。


 サロメは敷居の前で足を止めた。帽子を胸元へ寄せ、誰もいない部屋へ一礼する。


 「イリアさん。失礼いたします」


 ツィサナの目が、わずかに動いた。その視線は、サロメの横顔から、部屋の中へ移る。

 サロメはそれ以上の言葉を重ねず、帽子を私へ預けた。革手袋を指先まで整えると、鞄から道具を取り出し始める。


 寝台の四隅。

 窓枠の継ぎ目。

 枕の下。

 棚と壁の隙間。


 彼女は視線と手を同じ順序で動かし、一つを確かめ終えるまで、次の場所へ触れなかった。

 派手な呪文はない。目を閉じて天井の向こうへ問いかけることもなかった。

 白い糸を寝台の端から窓枠へ張り、その中央へ銀片を吊るす。蓋つきの鏡を床や壁へ向け、薬液を含ませた紙片を窓辺と寝台の下へ置いていく。


 サロメは、死者の痕跡を「残響思念」とは呼ばなかった。

 痕跡、偏り、残留。

 口にするのは、現象を指しながらも、その奥にいた人間を消し去らない言葉ばかりだった。


 棚の木馬へ手を伸ばしかけ、サロメはツィサナを振り返った。


 「こちらへ触れても?」


 「ええ」


 「生前、よく遊んでいたものですか」


 「毎日。眠るときも、一緒だったわ」


 サロメは木馬を両手で受け取った。掌の上へ載せ、横から光を当てる。片方の脚は何度も修理されたらしく、胴との継ぎ目に古い接着剤の跡があった。

 親指が、削れて丸くなった鬣を静かになぞる。


 「亡くなられたあと、動かしたことは?」


 「掃除をするときだけ」


 「声が聞こえ始めてから、位置が変わっていたことはありますか」


 「ありません」


 「イリアさんが、これについて話すことは?」


 ツィサナが答えるまで、わずかな間があった。右耳が、ほんの少しサロメとは違う方角へ向く。


 「覚えている、と言っていました」


 サロメの指は動かなかった。


 「どのような思い出か、ご本人から話しましたか」


 「私が訊いたの。いつも一緒に寝ていた馬を覚えているでしょうって」


 「イリアさんは、何と?」


 「覚えてるよ、と」


 「それ以外には?」


 ツィサナは小さく首を振った。

 サロメは木馬を棚へ戻した。蹄の位置だけでなく、頭の向きまで、最初に置かれていた角度へ揃える。


 「声の方から、生前の出来事を話すことはありますか」


 「時々」


 「ツィサナさんが、その前に話していない出来事を?」


 答えはすぐに返らなかった。銀の鈴へ伸びた指が、それを鳴らさないよう包み込む。

 ツィサナの視線は、サロメの肩越しへ向けられていた。部屋の隅には、畳まれた古い籠しか置かれていない。


 「今、イリアさんは何と?」


 サロメが静かに訊いた。


 「その人は、僕を疑っているのかって」


 「……はい」


 サロメは部屋の隅へ身体を向けた。何かを見つけた者の動きではなかった。そこに声の主がいると語る母親へ、礼を欠かさないための向き方だった。


 「疑うことが、私の仕事です。不快に思われたのであれば、申し訳ありません」


 生者へ向ける表面上の丁寧さとは、わずかに違っていた。

 死者へ話すときの彼女は、相手から何も返されない可能性を承知しながら、それでも言葉を粗末にしない。


 数秒後、ツィサナの眉間から力が抜けた。


 「怒ってはいないそうよ」


 「ありがとうございます」


 サロメは、誰もいない隅へ頭を下げた。私はその横顔を見ていた。

 灰青色の目は、何かの輪郭を追ってはいない。ただ部屋の隅へ向けられ、そこに死者の痕跡がないことを、すでに確かめた者の静けさを保っていた。

 それでも彼女は、ツィサナの聞いている返事を否定しなかった。


 否定することと、確かめることは別である。

 サロメは、その境界をよく知っていた。


————


 次に調べたのは、イリア少年が病床で使っていた毛布だった。

 続いて、最後に水を飲んだという木の杯。片方だけ残された小さな手袋。母親が右耳につけているものと対になっていた、銀の耳飾りについても尋ねた。


 「イリアが引っ張って、壊したの」


 ツィサナは耳元へ触れた。指先の下で、鈴がごく小さく震える。


 「片方は見つからなかったわ」


 「声は、そのことを覚えていますか」


 「ええ」


 「イリアさん自身が、先に話したのですか」


 ツィサナの指が、鈴を完全に包んだ。


 「私が訊いたのよ」


 サロメは記録用紙へ短い線を引いた。黒い筆記具の先が紙を擦り、そこで一度止まる。


 何を書いたのか、私の位置からは見えなかった。

 しかし彼女が印をつけたのは、イリア少年が覚えていたことではなく、ツィサナが先に答えを渡していたという事実だった。


 部屋に残された品を調べ終えると、私たちは食卓へ戻った。小さな椅子は、先ほどと変わらない場所にある。

 ツィサナは茶を淹れ、私とサロメの前へ杯を置いた。続いて自分の分を並べたが、空の席には何も置かなかった。


 昨夜は、そこに豆の煮込みとパンがあった。

 茶は用意されない。

 その違いが、単に子どもへ茶を飲ませない習慣なのか、それとも今そこにいるものの性質によるのか、私には判断できなかった。


 サロメは杯へ手を伸ばさず、立ち上る湯気の向こうから小さな椅子を見ていた。


 「イリアさんの声が聞こえ始めたとき、最初から息子さんだと分かりましたか」


 「最初は分かりませんでした」


 「どのくらい経ってから?」


 「何日かして、お母さんと呼ばれたの」


 「声は、生前と同じでしたか」


 「ええ」


 「話し方も?」


 ツィサナは杯の縁を指でなぞった。


 「最初は、もっと幼かった気がするわ」


 「今は違う?」


 「言葉をたくさん覚えたから」


 サロメの細い指が、革鞄の金具へ触れた。


 「亡くなったときより、成長しているのですか」


 ツィサナの目が、初めて真正面からサロメを捉えた。

 薪が炉の中で爆ぜ、赤い火の粉が短く舞った。


 「子どもは成長するものよ」


 「亡くなった子どもも?」


 ツィサナの指は、杯の縁へ添えられたままだった。

 強く握ることもなく、逃げるように離すこともない。


 「母親が、話しかけ続ければ」


 サロメは黙った。問いを失った沈黙ではなかった。

 ツィサナの言葉を、ほかの証言と混ぜず、一つの答えとして自分の中へ置いているようだった。


 私も口を挟まなかった。

 死者が成長するという考えには、検討すべき点が多い。

 記憶の蓄積を成長と呼ぶのか。新たな経験を得る機能があるのか。あるいは母親の記憶の中で、失われた六年間を補うように人格が形成されているのか。


 しかし、それらを今ここで並べれば、私は再び食卓を研究室へ変える。ツィサナに言わせれば、私は食事を調査と呼ばなければ口へ運べない男である。

 社会的信頼は、発酵と同じく扱いが難しい。


 やがて、サロメは杯を持ち上げた。唇へ運ぶ前に、湯気を一度だけ吸い込む。


 「失礼な質問をします」


 「どうぞ」


 「あなたは、本当にイリアさんが戻ってきたと考えていますか」


 私はサロメを見た。

 『まだ早い』

 その言葉が喉元まで上がったが、ツィサナは私より先に答えた。


 「私には、あの子の声で聞こえます」


 「質問への答えではありません」


 サロメの声音は柔らかいままだった。責めてもいない。急かしてもいない。

 だが、答えとは別のものを答えとして受け取る逃げ道だけを、静かに閉じた。


 ツィサナは茶へ目を落とした。湯気は先ほどより薄くなり、杯の中で揺れる自分の影が、かすかに崩れている。


 「霊媒師さんには、何も見えないのね」


 「はい」


 サロメは嘘をつかなかった。


 「墓にも、この家にも、イリアさんの霊は確認できませんでした」


 小さな椅子の向こうで、窓の薄布が持ち上がった。

 隙間から入った風が、食卓の上を撫で、サロメの記録用紙の端を震わせる。

 ツィサナは驚かなかった。泣きもしなかった。反発するように息を吸うことさえなかった。

 ただ、小さな椅子へ顔を向けた。


 右耳を傾け、返事を待つ。昨夜の食卓で待っていたときよりも、ずっと長く。


 部屋の中では、炉の火がときおり薪の内側を崩していた。壁時計の針が進む音もした。窓の外を、荷車が一台通り過ぎていった。

 ツィサナだけが、そのどれとも違う音を聞いている。


 やがて彼女は、ほんの少しだけ顎を引いた。


 「そう」


 それが、誰へ答えたのかは分からなかった。亡き息子なのか、目の前の女なのか……。


 ツィサナは杯から手を離し、椅子を引いた。


 「夕方の窯を見なければいけないので、今日はここまででも?」


 「もちろんです」


 サロメも立ち上がった。

 帽子を取り、黒髪を背へ払ってから、ツィサナへ頭を下げる。


 「ご協力、ありがとうございました」


 「お祓いはしないの?」


 ツィサナが訊いた。

 サロメは帽子を胸の前へ持ったまま、すぐには答えなかった。

 その灰青色の目が、一度だけ小さな椅子へ向く。


 「ご希望であれば、儀式を行うことはできます」


 「意味はある?」


 「儀式を受けたことで、あなたが安心して眠れるのであれば」


 「霊を追い払えるわけではなく?」


 「追い払う霊が、ここには確認できません」


 ツィサナの口元へ、かすかな笑みが浮かんだ。


 「正直なのね」


 「以前は、違いました」


 サロメの唇も、ごくわずかに緩んだ。依頼人へ安心を与えるための笑顔ではなかった。

 自分の過去を、必要以上に飾らず差し出すための、小さな表情だった。


 「今は、嘘で安心させる仕事をやめています」


 ツィサナは小さな椅子へ目を向けた。返事を待つことはしなかった。


 「では、いらないわ」


 「承知しました」


————


 玄関まで見送られ、私たちは家を出た。石畳へ降りても、サロメは何も言わなかった。


 扉が閉まり、内側から留め金の掛かる音がする。彼女はそれを聞き届けてから、肩を落とした。

 帽子を少し後ろへ押し上げ、髪の結び目へ指を入れる。黒髪が背中へ柔らかくほどけた。


 「お祓いを提案するつもりだったのか?」


 私が尋ねると、サロメは外套の内側を探りながら答えた。


 「場合によっちゃな」


 すでに声は、私の知っている低いものへ戻っていた。


 「効かないと言っただろう」


 「儀式で安心して眠れるなら、薬と同じ働きはする。依頼人が、それ以上の効果はねぇと理解した上で望むなら、やってやる」


 「今回は不要だ」


 「だろうな」


 答えは短かった。


 サロメは香草巻きを咥え、火をつけた。帽子の影で伏せられた睫毛が、火打ち石の橙色を一瞬だけ受ける。

 煙は風に押され、ツィサナの家とは反対側へ流れていった。


 「現象が霊的なものだという認識を村へ与える。証言が変質し、患者が音へさらに意味を求める可能性がある」


 「ああ。だから、てめぇに判断させた」


 「私が止めることを見越して提案したのか」


 「他人の家で、あたしが『隣の白衣の許可待ちです』なんて言えるかよ」


 なるほど。人間同士の意思疎通には、発言された言葉だけでなく、発言しなかった意図まで考慮する必要がある。


 娘たちとの対話にも応用できる可能性はあるが、おそらくサロメに相談すれば、まず会話として成立させろと言われるだろう。


 「結論を聞こう」


 私が言うと、サロメは煙を横へ吐いた。


 「イリア・ヴァルデリは死んでる」


 「それは知っている」


 「死者としても、ここにはいねぇ」


 「断言できるか」


 「さっきも言ったとおり、断言はしねぇ。だが、墓、遺品、死んだ部屋、母親。全部見た」


 香草巻きを持つ指を開き、確認したものを一つずつ折っていく。


 「残留も、接続も、憑依も、呼び戻された跡もない。あたしが扱える死者由来の現象は、一つもねぇ」


 「集団的な霊障の可能性は?」


 「薄いな。患者が聞いてる音は、人間の死者にしては形が揃わなすぎる。

 唸り、足音、爪、呼吸。死者が生前の習慣をなぞることはあるが、村中の死者が示し合わせて獣の真似を始めたと考えるより、別の原因を疑う方が早い」


 「では、精神疾患か」


 「あたしなら、先にそっちを調べる」


 「ツィサナも?」


 サロメは答えなかった。

 香草巻きを唇から離し、閉じられた扉を見た。

 先端から立った煙が、ほどけた黒髪の上へ薄く流れていく。灰青色の目が細められ、下唇を軽く噛んだ。


 考えているときの癖である。


 「なあ、白衣」


 「何だ」


 「あの女を、息子の幻に縋ってる可哀想な母親だと思ってんだろ」


 「悲嘆性幻覚は有力な仮説だ」


 「顔を見ろ」


 「見ている」


 「見てねぇよ。アンタは症例を見てる」


 言葉は低く、声量も変わらなかった。それでも、思ったより深く入った。


 私は反論しなかった。

 サロメもこちらを見ず、家の扉へ視線を置いたまま続ける。


 「騙されてる奴は、もっと本物だって言い張る」


 風が煙を引き延ばし、彼女の頬の前で薄く裂いた。


 「疑われるのが怖ぇからな。証拠を並べる。昔の出来事を喋る。話し方も癖も同じだって、聞かれてもねぇことまで説明する。自分が信じるために、こっちまで信じさせようとする」


 「ツィサナはしなかった」


 「それだけじゃねぇ。霊がいないって言われた時、驚きもしなかった」


 「悲嘆性幻覚を認識している可能性もある」


 「だったら、あれを息子として扱い続ける理由は何だ」


 「自分の精神を守るためだ」


 「それなら、あたしの答えを拒む。怒るか、泣くか、もう一度調べろと言う」


 サロメは香草巻きを口元へ戻したが、吸わなかった。


 「少なくとも、あんな顔はしねぇ」


 「どんな顔だった」


 彼女はようやく私を見た。帽子の影の下で、灰青色の瞳だけが鋭く光っている。


 「……気づいてる顔だ」


 「何を?」


 「イリアがいないことを」


 私は閉じた扉へ視線を戻した。石壁の向こうは見えない。

 当然、食卓も、小さな椅子も見えなかった。


 「彼女が、虚偽を述べていると?」


 「逆だ」


 サロメは鼻から短く息を吐いた。結論へ辿り着いたときの癖だった。


 「嘘をついてる顔じゃねぇ」


 「信じてはいない。だが、嘘ともいえない」


 「だから気味が悪ぃんだよ」


 サロメは香草巻きを指先で回した。


 「本人の中じゃ、あたしらが出してるのとは別の答えが、もう出来上がってる」


 風が、石垣に残った雨粒を揺らした。

 遠くで共同窯の扉が閉まり、低い音が村の斜面を渡ってくる。


 「君は、何もいないと言ったわけではないな」


 「言ってねぇよ」


 サロメは革鞄を肩へ掛け直した。


 「霊はいない。少なくとも、あたしらが死者と呼んで管轄してる現象じゃねぇ」


 「ならば、ツィサナは誰と会話している」


 「知らねぇ」


 即答だった。


 「そこを誤魔化さないために、あたしを呼んだんだろ」


 「その通りだ」


 サロメは坂の下へ歩き出した。

 二歩進んだところで、立ち止まる。振り返らないまま、香草巻きを口元へ運んだ。


 「白衣」


 「何だ」


 「死者なら、まだ簡単だったな」


 私はもう一度、ツィサナの家を見た。


 濡れた石壁。

 閉じられた窓。

 小さな煙突から昇る、料理の煙。


 村のどこにでもある家だった。

 その中で、ひとりの母親が、死んだ息子のために席を空けている。

 だが、息子はそこにいない。死者として残ったものさえ、そこにはない。


 それでもツィサナは、耳を傾け、返事を待っている。


 ……息子の霊が戻ってきていた。そんな結論なら、まだ単純だった。

 

 私はサロメの後を追った。

 彼女は歩きながら、香草巻きの先を眺めている。風を受けるたび、灰の下に隠れていた火が赤く浮かび、ひと呼吸ぶんだけ明るくなって、また沈む。


 「この村には、どの程度滞在できそうかね?」


 私が尋ねると、彼女は煙を吐きながら、露骨に面倒そうな顔をした。


 「他の仕事もある。こんな面倒くせぇ案件、今すぐ放り出して帰りたいところだが」


 サロメは肩越しに、ツィサナの家を振り返った。閉ざされた窓を一瞥し、香草巻きを指先で回す。


 「そうもいかねぇ雰囲気だな。もう少し付き合う」


 「そうか」


 思ったより早く、言葉が口から出た。

 死者ではない何かを相手に、専門の異なる観察者が一人増える。それは調査上、明らかに有益である。

 それだけの理由で、少しばかり胸の内が軽くなったのだろう。


 「助かる」


 サロメが足を止めかけた。灰青色の目が、帽子の下からこちらを窺う。


 「てめぇが素直に礼を言うと、ろくでもねぇことの前触れに聞こえるな」


 「社会的信頼の獲得を試みている」


 「もっと自然にやれ」


 彼女は再び歩き出した。

 私は隣へ並びながら、村役場から預かっていた宿泊場所の説明を思い出した。


 「滞在場所は用意されている。村外れの廃屋を、簡易的に修繕した建物だそうだ」


 「廃屋?」


 「寝台と机はある。屋根も、おそらく雨を防ぐ程度には直されている」


 「おそらく?」


 「湯は自分で沸かしてくれ、とのことだ」


 サロメは香草巻きを口から外し、しばらく私を見た。


 「ほかには?」


 「多少カビ臭いが、静かで良いぞ」


 「最後に長所みてぇに足すな。カビ臭ぇ時点で宿として失格だろうが」


 「君は死者のいる家にも泊まれる。カビ程度なら問題ない」


 「死者は肺に生えねぇ」


 もっともな指摘だった。


 「公的機関とのコネクションをつくる、いい機会では?」


 話題を変えると、サロメは足を止めかけ、心底嫌そうに眉を寄せた。


 「そんなコネはいらねぇよ。アイツら、ハコモノにはポンポン金を出すくせに、あたしらみたいな中抜きも天下りもねぇ家業には払いが渋い」


 「今回は廃屋を提供している」


 「それを支援実績に数えたら、役場ごと祓うぞ」



——to be the next scene.

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