Scene9:『死者ではない声』
ツィサナの家へ着く頃には、サロメの香草巻きは半分ほどの長さになっていた。
彼女は低い石垣の手前で足を止めると、指に挟んだ巻紙を携帯灰入れの縁へ押しつけた。赤い火が潰れ、最後に残った一筋の煙が、黒い手袋の甲を撫でるように流れていく。
まだ使える残りを金属筒へ収め、外套の内側へ戻す。
それから肩を一度回し、緩めていた髪の結び目を締め直した。風にほどけていた黒髪が背中の中央へ収まり、帽子の鍔も指先で正しい角度へ戻される。
扉の前へ立ったときには、墓地を出てから私へ悪態をついていた女は、黒い衣服のどこにも見当たらなかった。
サロメは拳の背で、扉を三度叩いた。
「どうぞ」
中からツィサナの声がした。
扉を開けると、彼女は食卓で豆の筋を取っていた。指先に細い筋を絡め、一粒ずつ木の鉢へ落としている。
私たちを認めると立ち上がり、前掛けで手を拭った。
食卓の一角には、今日も小さな椅子が置かれていた。座面の布は昨夜と同じように折り目を揃えられ、背もたれだけが、ツィサナの席へわずかに向けられている。
「学者先生」
ツィサナは私へ声を掛けたあと、その隣に立つ黒衣の女へ視線を移した。
「こちらは?」
「サロメ・アシュケナ女史。死者に関係する現象を専門にしている」
紹介を受け、サロメが帽子を取った。
低い位置で結ばれた黒髪が、胸元の銀時計の後ろへ滑る。彼女は帽子を腹の前に抱え、ツィサナへ静かに頭を下げた。
「突然の訪問をお許しください。亡くなられたイリアさんについて、調べさせていただきたいことがあります」
ツィサナの指が、前掛けの布を軽く掴んだ。
「霊媒師の方?」
「死者に関係すると考えられる現象を調べています」
サロメは、霊が見えるとも、息子と話せるとも言わなかった。
できることを大きく語らず、できないことにも先回りして言い訳をしない。それだけで、かつて安心を商品としていた頃とは、ずいぶん遠いところまで来たのだろう。
「お辛い質問をする場合があります。答えたくないことは、断っていただいて構いません」
ツィサナはすぐには答えなかった。
小さな椅子へ顔を向け、右耳をわずかに傾ける。銀の鈴が頬の横で揺れたが、音は鳴らなかった。
しばらくして、彼女は小さく頷いた。
「分かりました」
誰の返事を待ったのか、サロメは訊かなかった。
最初に案内されたのは、廊下の奥にある小さな部屋だった。扉が開くと、長く閉め切られていた木と布の匂いが、冷えた空気とともに流れてきた。
窓際には低い寝台が置かれ、その上へ薄い毛布が畳まれている。壁には、炭で描かれた山と家の絵が残っていた。山の方が家より小さく、煙突から伸びる煙は、天井の近くまで何度も重ねて描かれている。
棚には木の馬が一つ。
片方だけの手袋。
角が潰れ、背表紙の糸が緩んだ絵本。
六年という年月を置いてきた部屋でありながら、どれにも埃は積もっていなかった。窓枠の隅にも、寝台の脚にも、拭き跡が残っている。
サロメは敷居の前で足を止めた。帽子を胸元へ寄せ、誰もいない部屋へ一礼する。
「イリアさん。失礼いたします」
ツィサナの目が、わずかに動いた。その視線は、サロメの横顔から、部屋の中へ移る。
サロメはそれ以上の言葉を重ねず、帽子を私へ預けた。革手袋を指先まで整えると、鞄から道具を取り出し始める。
寝台の四隅。
窓枠の継ぎ目。
枕の下。
棚と壁の隙間。
彼女は視線と手を同じ順序で動かし、一つを確かめ終えるまで、次の場所へ触れなかった。
派手な呪文はない。目を閉じて天井の向こうへ問いかけることもなかった。
白い糸を寝台の端から窓枠へ張り、その中央へ銀片を吊るす。蓋つきの鏡を床や壁へ向け、薬液を含ませた紙片を窓辺と寝台の下へ置いていく。
サロメは、死者の痕跡を「残響思念」とは呼ばなかった。
痕跡、偏り、残留。
口にするのは、現象を指しながらも、その奥にいた人間を消し去らない言葉ばかりだった。
棚の木馬へ手を伸ばしかけ、サロメはツィサナを振り返った。
「こちらへ触れても?」
「ええ」
「生前、よく遊んでいたものですか」
「毎日。眠るときも、一緒だったわ」
サロメは木馬を両手で受け取った。掌の上へ載せ、横から光を当てる。片方の脚は何度も修理されたらしく、胴との継ぎ目に古い接着剤の跡があった。
親指が、削れて丸くなった鬣を静かになぞる。
「亡くなられたあと、動かしたことは?」
「掃除をするときだけ」
「声が聞こえ始めてから、位置が変わっていたことはありますか」
「ありません」
「イリアさんが、これについて話すことは?」
ツィサナが答えるまで、わずかな間があった。右耳が、ほんの少しサロメとは違う方角へ向く。
「覚えている、と言っていました」
サロメの指は動かなかった。
「どのような思い出か、ご本人から話しましたか」
「私が訊いたの。いつも一緒に寝ていた馬を覚えているでしょうって」
「イリアさんは、何と?」
「覚えてるよ、と」
「それ以外には?」
ツィサナは小さく首を振った。
サロメは木馬を棚へ戻した。蹄の位置だけでなく、頭の向きまで、最初に置かれていた角度へ揃える。
「声の方から、生前の出来事を話すことはありますか」
「時々」
「ツィサナさんが、その前に話していない出来事を?」
答えはすぐに返らなかった。銀の鈴へ伸びた指が、それを鳴らさないよう包み込む。
ツィサナの視線は、サロメの肩越しへ向けられていた。部屋の隅には、畳まれた古い籠しか置かれていない。
「今、イリアさんは何と?」
サロメが静かに訊いた。
「その人は、僕を疑っているのかって」
「……はい」
サロメは部屋の隅へ身体を向けた。何かを見つけた者の動きではなかった。そこに声の主がいると語る母親へ、礼を欠かさないための向き方だった。
「疑うことが、私の仕事です。不快に思われたのであれば、申し訳ありません」
生者へ向ける表面上の丁寧さとは、わずかに違っていた。
死者へ話すときの彼女は、相手から何も返されない可能性を承知しながら、それでも言葉を粗末にしない。
数秒後、ツィサナの眉間から力が抜けた。
「怒ってはいないそうよ」
「ありがとうございます」
サロメは、誰もいない隅へ頭を下げた。私はその横顔を見ていた。
灰青色の目は、何かの輪郭を追ってはいない。ただ部屋の隅へ向けられ、そこに死者の痕跡がないことを、すでに確かめた者の静けさを保っていた。
それでも彼女は、ツィサナの聞いている返事を否定しなかった。
否定することと、確かめることは別である。
サロメは、その境界をよく知っていた。
————
次に調べたのは、イリア少年が病床で使っていた毛布だった。
続いて、最後に水を飲んだという木の杯。片方だけ残された小さな手袋。母親が右耳につけているものと対になっていた、銀の耳飾りについても尋ねた。
「イリアが引っ張って、壊したの」
ツィサナは耳元へ触れた。指先の下で、鈴がごく小さく震える。
「片方は見つからなかったわ」
「声は、そのことを覚えていますか」
「ええ」
「イリアさん自身が、先に話したのですか」
ツィサナの指が、鈴を完全に包んだ。
「私が訊いたのよ」
サロメは記録用紙へ短い線を引いた。黒い筆記具の先が紙を擦り、そこで一度止まる。
何を書いたのか、私の位置からは見えなかった。
しかし彼女が印をつけたのは、イリア少年が覚えていたことではなく、ツィサナが先に答えを渡していたという事実だった。
部屋に残された品を調べ終えると、私たちは食卓へ戻った。小さな椅子は、先ほどと変わらない場所にある。
ツィサナは茶を淹れ、私とサロメの前へ杯を置いた。続いて自分の分を並べたが、空の席には何も置かなかった。
昨夜は、そこに豆の煮込みとパンがあった。
茶は用意されない。
その違いが、単に子どもへ茶を飲ませない習慣なのか、それとも今そこにいるものの性質によるのか、私には判断できなかった。
サロメは杯へ手を伸ばさず、立ち上る湯気の向こうから小さな椅子を見ていた。
「イリアさんの声が聞こえ始めたとき、最初から息子さんだと分かりましたか」
「最初は分かりませんでした」
「どのくらい経ってから?」
「何日かして、お母さんと呼ばれたの」
「声は、生前と同じでしたか」
「ええ」
「話し方も?」
ツィサナは杯の縁を指でなぞった。
「最初は、もっと幼かった気がするわ」
「今は違う?」
「言葉をたくさん覚えたから」
サロメの細い指が、革鞄の金具へ触れた。
「亡くなったときより、成長しているのですか」
ツィサナの目が、初めて真正面からサロメを捉えた。
薪が炉の中で爆ぜ、赤い火の粉が短く舞った。
「子どもは成長するものよ」
「亡くなった子どもも?」
ツィサナの指は、杯の縁へ添えられたままだった。
強く握ることもなく、逃げるように離すこともない。
「母親が、話しかけ続ければ」
サロメは黙った。問いを失った沈黙ではなかった。
ツィサナの言葉を、ほかの証言と混ぜず、一つの答えとして自分の中へ置いているようだった。
私も口を挟まなかった。
死者が成長するという考えには、検討すべき点が多い。
記憶の蓄積を成長と呼ぶのか。新たな経験を得る機能があるのか。あるいは母親の記憶の中で、失われた六年間を補うように人格が形成されているのか。
しかし、それらを今ここで並べれば、私は再び食卓を研究室へ変える。ツィサナに言わせれば、私は食事を調査と呼ばなければ口へ運べない男である。
社会的信頼は、発酵と同じく扱いが難しい。
やがて、サロメは杯を持ち上げた。唇へ運ぶ前に、湯気を一度だけ吸い込む。
「失礼な質問をします」
「どうぞ」
「あなたは、本当にイリアさんが戻ってきたと考えていますか」
私はサロメを見た。
『まだ早い』
その言葉が喉元まで上がったが、ツィサナは私より先に答えた。
「私には、あの子の声で聞こえます」
「質問への答えではありません」
サロメの声音は柔らかいままだった。責めてもいない。急かしてもいない。
だが、答えとは別のものを答えとして受け取る逃げ道だけを、静かに閉じた。
ツィサナは茶へ目を落とした。湯気は先ほどより薄くなり、杯の中で揺れる自分の影が、かすかに崩れている。
「霊媒師さんには、何も見えないのね」
「はい」
サロメは嘘をつかなかった。
「墓にも、この家にも、イリアさんの霊は確認できませんでした」
小さな椅子の向こうで、窓の薄布が持ち上がった。
隙間から入った風が、食卓の上を撫で、サロメの記録用紙の端を震わせる。
ツィサナは驚かなかった。泣きもしなかった。反発するように息を吸うことさえなかった。
ただ、小さな椅子へ顔を向けた。
右耳を傾け、返事を待つ。昨夜の食卓で待っていたときよりも、ずっと長く。
部屋の中では、炉の火がときおり薪の内側を崩していた。壁時計の針が進む音もした。窓の外を、荷車が一台通り過ぎていった。
ツィサナだけが、そのどれとも違う音を聞いている。
やがて彼女は、ほんの少しだけ顎を引いた。
「そう」
それが、誰へ答えたのかは分からなかった。亡き息子なのか、目の前の女なのか……。
ツィサナは杯から手を離し、椅子を引いた。
「夕方の窯を見なければいけないので、今日はここまででも?」
「もちろんです」
サロメも立ち上がった。
帽子を取り、黒髪を背へ払ってから、ツィサナへ頭を下げる。
「ご協力、ありがとうございました」
「お祓いはしないの?」
ツィサナが訊いた。
サロメは帽子を胸の前へ持ったまま、すぐには答えなかった。
その灰青色の目が、一度だけ小さな椅子へ向く。
「ご希望であれば、儀式を行うことはできます」
「意味はある?」
「儀式を受けたことで、あなたが安心して眠れるのであれば」
「霊を追い払えるわけではなく?」
「追い払う霊が、ここには確認できません」
ツィサナの口元へ、かすかな笑みが浮かんだ。
「正直なのね」
「以前は、違いました」
サロメの唇も、ごくわずかに緩んだ。依頼人へ安心を与えるための笑顔ではなかった。
自分の過去を、必要以上に飾らず差し出すための、小さな表情だった。
「今は、嘘で安心させる仕事をやめています」
ツィサナは小さな椅子へ目を向けた。返事を待つことはしなかった。
「では、いらないわ」
「承知しました」
————
玄関まで見送られ、私たちは家を出た。石畳へ降りても、サロメは何も言わなかった。
扉が閉まり、内側から留め金の掛かる音がする。彼女はそれを聞き届けてから、肩を落とした。
帽子を少し後ろへ押し上げ、髪の結び目へ指を入れる。黒髪が背中へ柔らかくほどけた。
「お祓いを提案するつもりだったのか?」
私が尋ねると、サロメは外套の内側を探りながら答えた。
「場合によっちゃな」
すでに声は、私の知っている低いものへ戻っていた。
「効かないと言っただろう」
「儀式で安心して眠れるなら、薬と同じ働きはする。依頼人が、それ以上の効果はねぇと理解した上で望むなら、やってやる」
「今回は不要だ」
「だろうな」
答えは短かった。
サロメは香草巻きを咥え、火をつけた。帽子の影で伏せられた睫毛が、火打ち石の橙色を一瞬だけ受ける。
煙は風に押され、ツィサナの家とは反対側へ流れていった。
「現象が霊的なものだという認識を村へ与える。証言が変質し、患者が音へさらに意味を求める可能性がある」
「ああ。だから、てめぇに判断させた」
「私が止めることを見越して提案したのか」
「他人の家で、あたしが『隣の白衣の許可待ちです』なんて言えるかよ」
なるほど。人間同士の意思疎通には、発言された言葉だけでなく、発言しなかった意図まで考慮する必要がある。
娘たちとの対話にも応用できる可能性はあるが、おそらくサロメに相談すれば、まず会話として成立させろと言われるだろう。
「結論を聞こう」
私が言うと、サロメは煙を横へ吐いた。
「イリア・ヴァルデリは死んでる」
「それは知っている」
「死者としても、ここにはいねぇ」
「断言できるか」
「さっきも言ったとおり、断言はしねぇ。だが、墓、遺品、死んだ部屋、母親。全部見た」
香草巻きを持つ指を開き、確認したものを一つずつ折っていく。
「残留も、接続も、憑依も、呼び戻された跡もない。あたしが扱える死者由来の現象は、一つもねぇ」
「集団的な霊障の可能性は?」
「薄いな。患者が聞いてる音は、人間の死者にしては形が揃わなすぎる。
唸り、足音、爪、呼吸。死者が生前の習慣をなぞることはあるが、村中の死者が示し合わせて獣の真似を始めたと考えるより、別の原因を疑う方が早い」
「では、精神疾患か」
「あたしなら、先にそっちを調べる」
「ツィサナも?」
サロメは答えなかった。
香草巻きを唇から離し、閉じられた扉を見た。
先端から立った煙が、ほどけた黒髪の上へ薄く流れていく。灰青色の目が細められ、下唇を軽く噛んだ。
考えているときの癖である。
「なあ、白衣」
「何だ」
「あの女を、息子の幻に縋ってる可哀想な母親だと思ってんだろ」
「悲嘆性幻覚は有力な仮説だ」
「顔を見ろ」
「見ている」
「見てねぇよ。アンタは症例を見てる」
言葉は低く、声量も変わらなかった。それでも、思ったより深く入った。
私は反論しなかった。
サロメもこちらを見ず、家の扉へ視線を置いたまま続ける。
「騙されてる奴は、もっと本物だって言い張る」
風が煙を引き延ばし、彼女の頬の前で薄く裂いた。
「疑われるのが怖ぇからな。証拠を並べる。昔の出来事を喋る。話し方も癖も同じだって、聞かれてもねぇことまで説明する。自分が信じるために、こっちまで信じさせようとする」
「ツィサナはしなかった」
「それだけじゃねぇ。霊がいないって言われた時、驚きもしなかった」
「悲嘆性幻覚を認識している可能性もある」
「だったら、あれを息子として扱い続ける理由は何だ」
「自分の精神を守るためだ」
「それなら、あたしの答えを拒む。怒るか、泣くか、もう一度調べろと言う」
サロメは香草巻きを口元へ戻したが、吸わなかった。
「少なくとも、あんな顔はしねぇ」
「どんな顔だった」
彼女はようやく私を見た。帽子の影の下で、灰青色の瞳だけが鋭く光っている。
「……気づいてる顔だ」
「何を?」
「イリアがいないことを」
私は閉じた扉へ視線を戻した。石壁の向こうは見えない。
当然、食卓も、小さな椅子も見えなかった。
「彼女が、虚偽を述べていると?」
「逆だ」
サロメは鼻から短く息を吐いた。結論へ辿り着いたときの癖だった。
「嘘をついてる顔じゃねぇ」
「信じてはいない。だが、嘘ともいえない」
「だから気味が悪ぃんだよ」
サロメは香草巻きを指先で回した。
「本人の中じゃ、あたしらが出してるのとは別の答えが、もう出来上がってる」
風が、石垣に残った雨粒を揺らした。
遠くで共同窯の扉が閉まり、低い音が村の斜面を渡ってくる。
「君は、何もいないと言ったわけではないな」
「言ってねぇよ」
サロメは革鞄を肩へ掛け直した。
「霊はいない。少なくとも、あたしらが死者と呼んで管轄してる現象じゃねぇ」
「ならば、ツィサナは誰と会話している」
「知らねぇ」
即答だった。
「そこを誤魔化さないために、あたしを呼んだんだろ」
「その通りだ」
サロメは坂の下へ歩き出した。
二歩進んだところで、立ち止まる。振り返らないまま、香草巻きを口元へ運んだ。
「白衣」
「何だ」
「死者なら、まだ簡単だったな」
私はもう一度、ツィサナの家を見た。
濡れた石壁。
閉じられた窓。
小さな煙突から昇る、料理の煙。
村のどこにでもある家だった。
その中で、ひとりの母親が、死んだ息子のために席を空けている。
だが、息子はそこにいない。死者として残ったものさえ、そこにはない。
それでもツィサナは、耳を傾け、返事を待っている。
……息子の霊が戻ってきていた。そんな結論なら、まだ単純だった。
私はサロメの後を追った。
彼女は歩きながら、香草巻きの先を眺めている。風を受けるたび、灰の下に隠れていた火が赤く浮かび、ひと呼吸ぶんだけ明るくなって、また沈む。
「この村には、どの程度滞在できそうかね?」
私が尋ねると、彼女は煙を吐きながら、露骨に面倒そうな顔をした。
「他の仕事もある。こんな面倒くせぇ案件、今すぐ放り出して帰りたいところだが」
サロメは肩越しに、ツィサナの家を振り返った。閉ざされた窓を一瞥し、香草巻きを指先で回す。
「そうもいかねぇ雰囲気だな。もう少し付き合う」
「そうか」
思ったより早く、言葉が口から出た。
死者ではない何かを相手に、専門の異なる観察者が一人増える。それは調査上、明らかに有益である。
それだけの理由で、少しばかり胸の内が軽くなったのだろう。
「助かる」
サロメが足を止めかけた。灰青色の目が、帽子の下からこちらを窺う。
「てめぇが素直に礼を言うと、ろくでもねぇことの前触れに聞こえるな」
「社会的信頼の獲得を試みている」
「もっと自然にやれ」
彼女は再び歩き出した。
私は隣へ並びながら、村役場から預かっていた宿泊場所の説明を思い出した。
「滞在場所は用意されている。村外れの廃屋を、簡易的に修繕した建物だそうだ」
「廃屋?」
「寝台と机はある。屋根も、おそらく雨を防ぐ程度には直されている」
「おそらく?」
「湯は自分で沸かしてくれ、とのことだ」
サロメは香草巻きを口から外し、しばらく私を見た。
「ほかには?」
「多少カビ臭いが、静かで良いぞ」
「最後に長所みてぇに足すな。カビ臭ぇ時点で宿として失格だろうが」
「君は死者のいる家にも泊まれる。カビ程度なら問題ない」
「死者は肺に生えねぇ」
もっともな指摘だった。
「公的機関とのコネクションをつくる、いい機会では?」
話題を変えると、サロメは足を止めかけ、心底嫌そうに眉を寄せた。
「そんなコネはいらねぇよ。アイツら、ハコモノにはポンポン金を出すくせに、あたしらみたいな中抜きも天下りもねぇ家業には払いが渋い」
「今回は廃屋を提供している」
「それを支援実績に数えたら、役場ごと祓うぞ」
——to be the next scene.




