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Ghost Noise 〜耳底に沈む音〜  作者: 矢崎 那央
第1幕『耳を失くし、死者の声を得る』
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Scene10:『幻聴の前に』


 ラボへ戻ったときには、日付が変わっていた。


 扉を閉め、内側から錠を落とす。白衣の裾にまとわりついていた村の冷気が、そこでようやく剥がれた。

 頬を撫でる空気には湿り気がなく、代わりに金属と薬品、それから長く棚に収められた紙の匂いが薄く混じっている。


 壁一面の書架には、解剖学、神経学、音響生理学の資料が年代順に収まり、解析端末の画面には、出発前に中断した計算式がそのまま残っている。机の縁に指を触れると、削れた木の感触まで記憶のとおりだった。


 村の診療所では、患者の言葉を拾うほかなかった。

 聞こえる。聞こえない。壁のそばにいる。死んだ息子が話している。目にも秤にもかからない証言をひとつずつ並べ、どこまでが症状で、どこからが事実なのかを、その場にある器具だけで測らなければならなかった。


 だが、ここなら記録を数字へ変えられる。

 数字は返事を求めない。死んだ子どもの声を借りて、こちらの名前を呼ぶこともない。


 私は鞄を机へ置き、留め金を外す。


 問診票と診療記録は日付順に並べ、聴診盤の保存媒体を解析端末へ接続する。血液と粘膜の検体を保冷庫へ収めて戻ると、鞄の底に薄い紙束が残っていた。

 サロメの調査記録だ。椅子を引き、最初の頁から読み直す。


 《墓地に残留なし》

 《遺品への接続なし》

 《寝室に憑依、召喚、定着の痕跡なし》

 《ツィサナ・ヴァルデリ本人にも、死者の付着は確認されない》


 心霊現象の可能性が完全に消えたわけではない。サロメの扱う体系に属さない存在もあるだろうし、痕跡を残さない現象を仮定することもできる。彼女が訪れる以前に移動した、消滅した、あるいは形を変えたと考える余地も残っている。

 しかし、検出できないものへ新しい性質をひとつずつ与えていけば、どのような否定結果からでも霊を作ることができる。


 末尾までめくると、余白の隅にサロメの署名があった。

 装飾のない小さな字で、その下には追記も推測もない。見つけたものと、見つけられなかったものだけが記されている。


 私は署名の上へ指を置いた。


 サロメ・アシュケナが探して、見つけられなかった。

 ならば、同じ場所へ別の霊媒師を送り込んでも、大きく異なる結果は得られないだろう。


 彼女を絶対視しているわけではない。間違えることはある。口は悪いし、請求書の数字については死者より執念深い。

 それでも、私の知る限りでは、彼女より霊的調査に秀でた人材はいない。欲しい答えが出るまで霊媒師を取り替えるのは、検証ではない。


 記録を閉じ、ほかの資料から少し離れた場所へ置いた。

 心霊方面の分析検討は保留し、後はサロメに任せる。

 彼女が調べ尽くした事象について、ラボの椅子に座ったまま可能性の名称だけを増やしても、観測された事実はひとつも増えない。


 掘る場所を変える必要があった。


————


 自分の記録に手をつける前に、私は前任者の診療簿を開いた。

 村での診察に見落としがあったとしても、その原因が患者の身体にあるとは限らない。

 観察する側である私が採用した手順によって、初めから視野の外へ追い出されていた事実もある。


 前任者の記録は、項目の並べ方こそ統一されていなかったが、診察時の様子は細かく書き残されていた。

 診察時刻、脈拍、呼吸数、姿勢、同席者。発作が起きた場合には、患者の発言だけでなく、その直前に何をしていたか、どこへ顔を向けたかまで、頁の余白へ小さな字で記されている。


 何枚かめくったところで、紙の端を押さえていた指が止まった。


 ……夫婦で暮らしている村人の診療記録だった。


 診察を受ける予定だったのは夫だけで、妻は付き添いとして部屋にいた。問診の途中、自分にも同じ症状があると妻が申し出たため、前任者は予備の聴診盤を彼女にも装着し、二人を同席させたまま診察を続けている。


 用紙の下半分には、あとから書き加えられたらしい記述があった。


 《問診中、両名とも突然発語を停止。同時に右後方へ顔を向ける》

 《呼吸停止。妻、喉元へ手を添える。夫、椅子の肘掛けを強く把持》

 《約二秒後、妻が「今、また聞こえた」と発言。夫も同一の音を聴取したと証言》


 私は頁を机へ伏せず、そのままの位置で読み返した。


 二人が語った音には共通点が多い。低い獣の声で、喉の奥に何かを含んでいるように聞こえた。壁に近い場所から届いたが、壁の中からではなかったという。


 証言の一致だけなら、意味は乏しい。

 夫婦は診察を受ける前から、それぞれの症状について話していたはずである。一方が使った表現によって、他方の曖昧な記憶が整えられた可能性は高い。

 妻が「聞こえた」と口にしたのをきっかけに、夫が自分も同じ音を聞いたと思い込んだとしても、集団心因性反応の範囲を出ない。


 だが、前任者が見た身体の反応は、妻の発言より先に始まっている。


 二人は言葉を止め、ほとんど同時に右後方へ顔を向けた。妻が喉へ手をやったときには、夫の指はすでに肘掛けを掴んでいた。どちらかが異常を訴え、それを聞いたもう一方が反応したのではない。


 机の右側には、私が村で作成した診療記録が置かれている。


 私は患者を原則として一人ずつ診察していた。

 複数人を同席させれば、一人の言葉がほかの者の記憶へ入り込み、証言の独立性が失われる。幻聴の内容を比較するためには、別々に聞き取る方がよい。

 心因性の可能性を含む聞き取り調査の基本だ。


 ただし、その手順によって守られたのは証言の独立性であり、失われたのは反応の同時性だった。


 一人ずつ部屋へ入れているかぎり、同じ瞬間に何人が言葉を失い、同じ方向へ顔を向けるのかは観察できない。私は証言が混ざることを避けるため、反応が重なる可能性まで切り分けていた。


 夫婦の記録の端に印をつける。

 もっとも、二人が同時に反応したからといって、幻聴説を捨てる理由にはならなかった。

 椅子の軋みや、窓枠を押す風、遠くの家畜の声。二人が同じ小さな物音を聞き、それをきっかけとして、別々の脳内で似た幻聴を作った可能性は残る。

 前任者は部屋全体の環境音を連続して保存していない。

 聴診盤の外向き参照膜には、器具の近くへ混入した空気振動が補助的に残されているだけで、室内のすべての音源を再現できるものではなかった。


 夫婦の記録は、集団心因性反応を否定しない。ただ、その説明だけで頁を閉じるには、ごく小さな余白が残った。


 私は解析端末を起動し、村で採取した聴診記録のひとつを画面へ呼び出した。


 保存された音が、横軸の時間と縦軸の周波数へ分解されていく。心音は一定の間隔で濃い影を刻み、吸気と呼気は、その間を淡く傾斜しながら流れていた。


 聴診盤へ入るのは、患者の体内で生じた音ばかりではない。衣服が擦れた振動、診察台の軋み、器具を持ち直した指、患者の咳や声、床を伝った足音まで、接触面へ届いたものは区別なく保存される。


 私は外向き参照膜の記録を隣へ開き、双方に共通する成分を照合した。患者が身じろぎした箇所を除外し、咳払いと足音を差し引き、心拍の周期と一致しない衣擦れの筋をひとつずつ消していく。画面に残ったのは、心臓と呼吸が作る規則的な波形だった。


 ……だが、その下に細い影があった。


 低い帯域を、三度に分かれて横切っている。


 演算の残差か、除去処理によって生じた偽像だろうと思い、初期化して別の方法を試した。心音の輪郭や呼吸音の濃淡はわずかに変わったが、低い影は同じ位置に残った。


 三つの振動は等間隔ではない。最初は浅く短い。二つ目は少し長く、そのあとにわずかな空白がある。最後の一つだけが、周波数を下げながら途切れていた。


 生の記録へ戻り、該当する時間を再生する。

 心拍と呼吸のあいだに、低い濁りが混じっていた。位置を知らずに聞けば、器具と衣服が触れた音として処理していただろう。

 だが、外向き参照膜には同じ時間に対応する振動はなかった。


 次の患者の記録を開いて、同じ帯域を調べた。

 そこにも、不規則な低音が残った。

 形も持続時間も最初の患者とは異なるが、現れる位置は近い。三人目にも確認できた。四人目の記録では、ごく短い断片しかなく、同種の音だと断定するには足りなかった。


 私は背もたれから身体を起こした。

 患者たちは、存在しない獣の声を聞いているのではないのかもしれない。身体の内部に、通常の診察では副雑音とさえ判別されないほど微細な振動があり、それを内耳が拾っている可能性がある。


 報告書の余白へ、考えられる発生源を書き出していく。

 気道の一部に生じた狭窄。肺胞や胸膜の異常振動。心臓周辺の乱流。血管壁の震え。筋肉や神経の局所的な収縮。あるいは、村に固有の環境因子が、既存の分類にない病変を引き起こしているのかもしれない。


 体内で生じた振動であれば、空気を経由せず、骨や組織を通じて内耳へ伝わる。耳を塞いでも消えないという証言に矛盾せず、通常の聴力検査で異常が見つからなかったことも説明できる。

 知覚した振動の輪郭が曖昧だからこそ、ある者は獣の唸りと呼び、別の者は呼吸や足音として記憶したとも考えられた。

 心因性の要素が症状を増幅していたとしても、その前に身体的な刺激がある。

 複数の症状が、一つの仮説の下へ収まり始めた。


 未知であることと、手が届かないことは同じではない。病変があるなら、探せる。

 精密な画像を撮り、血流と神経活動を測定し、肺機能を細分化して比較する。あの地域では不可能でも、より設備の整った医療機関なら可能だ。患者の一人を移送し、循環器系、呼吸器系、神経系を順に検査すればよい。


 ようやく、問いを検査項目へ変えられる。

 行き止まりに見えていた複数の結果が、未知の生体振動を仮定することで、ようやく一本の検査計画へつながり始めていた。


 私は新しい報告書を開き、暫定仮説を書き始めた。


 《患者が訴える異常音は、体内で生じた未知の振動を、骨伝導または組織伝導を介して知覚したものである可能性がある。器質的病変の精査を要する》


 続けて移送申請書を取り出し、必要な検査を記入していく。胸部断層撮影、循環動態検査、肺機能測定、末梢神経伝導評価。空欄が文字で埋まるにつれて、村で形を持たなかった訴えが、測定可能な対象へ変わっていった。


 移送する患者の名前を書こうとしたとき、手が止まる。画面に残したままの波形が、再び目に入った。


 ……筆先を紙から離す。


 あの音が患者の身体に存在していたのなら、診察を行った私は、なぜ気づかなかったのだろう……。

 記録式の聴診盤は、接触面で拾った振動を内部で分岐させる。一方は保存媒体へ送られ、もう一方は耳管を通じて診察者へ届く。記録に残っている以上、同じ振動が診察中の私の耳へも入っていたことになる。


 当時の診療記録を開いた。


 《心音正常。呼吸音に左右差なし。副雑音を認めず》


 ……私の筆跡だ。


 処理前の音声を呼び出し、診察時と同じ出力へ戻す。増幅も帯域補正も解除し、異常音が現れる少し前から再生した。

 規則的な心拍のあとに浅い吸気があり、衣服のかすかな擦れが続く。その下を、湿ったものが狭い場所で身じろぎしたような音が通った。

 低く、小さい……。しかし、聞こえないほどではない。


 再生位置を戻した。場所を知ったあとでは、心音の陰へ完全に紛れることもなかった。獣の声と呼ぶには輪郭が足りないが、単なる器具の接触音とも違っている。


 出力値を確認する。診察時の設定と同じだった。周波数も、人間の可聴域から外れていない。


 もう一度再生する。

 音は、同じ場所にあった。


 診察の際にも耳管を通っていたはずなのに、私はそれを聞いたものとして覚えていなかった。


 聴診時には、心音の周期、呼吸の左右差、胸膜摩擦音の有無へ注意を向けていた。診断に不要と判断された微細な刺激が、意識へ上る前に雑音として除かれることはある。

 医師が耳へ入ったすべての音を記憶しているわけではなく、衣擦れや指の接触を逐一診療簿へ書かないのも、そのためだった。


 ……説明としては、それで足りる。


 私は報告書の欄外へ、《診察時、選択的聴取により副次的振動を見落とした可能性》と追記した。


 書き終えた筆先が紙の上に留まり、インクが小さな点を作った。

 音は届かなかったのではない。

 確かに耳までは届いていたが、聞いたことにはならなかった。


 臨床の場では起こり得る。そう結論づけ、私は筆先のインクを吸い取った。


————


 移送に適した患者を選ぶため、診療記録を初めから見直していると、先ほど印をつけた夫婦の頁が出てきた。


 二人が同時に会話を止めた時刻には、それぞれの聴診盤が作動している。前任者の保存媒体を端末へ読み込ませ、夫の記録を画面の左へ、妻の記録を右へ置いた。


 二人の生体音は、処理を施すまでもなく異なっていた。

 夫の心拍は遅く、一拍ごとの振幅が大きい。妻の脈はそれより速く、吸気も浅い。体格も胸郭の厚みも違う以上、仮に同じ病変があったとしても、身体を通って記録される音の形まで一致するとは考えにくかった。


 前任者が書き残した時刻まで記録を進める。

 夫は問いに答えている途中で息を止めた。妻の吸気も、それからほとんど間を置かず途切れている。身体を強張らせ、右後方へ顔を向けたという記述のとおり、少なくとも呼吸の変化は、二人の記録へ同時に残されていた。


 私は、その直前から直後までを切り出した。

 夫の記録から心拍に同期する成分を分離し、妻の波形から呼吸の連続音を除いていく。二台の聴診盤に残された外向き参照膜の記録も重ね、空気中から混入した振動を順に差し引いた。


 処理が終わると、夫の波形の底に、三つの低い振動が残った。

 最初の一つは短い。次はそれより長く、そこで一度、呼吸ひとつ分にも満たない間が空く。最後の振動は、何かが遠ざかるように周波数を落とし、そのまま途切れていた。


 私は椅子を引き寄せ、画面へ顔を近づけた。

 心音の除去が不十分なのかもしれない。処理範囲を狭め、振動の開始位置へ印をつける。三つ目が消えた位置にも、もうひとつ。


 それから、妻の記録へ視線を移した。最初は何も見つからなかった。

 浅い呼吸の筋が細かく重なり、その下を、夫とは異なる速さの心拍が横切っている。私は先ほどつけた印を頼りに、同じ時刻まで波形を送った。


 ……そこに、細い膨らみがある。


 指が止まる。

 一つ。少し長く、二つ。

 不均等な間を挟んで、三つ目が低い方へ沈んでいく。

 夫の記録につけた二本の印が、そのまま妻の波形の始まりと終わりを挟んでいた。


 私は画面の左右を見比べた。もう一度、夫へ戻る。

 短い振動。長い振動。間を置いて、沈みながら消える最後の一つ。


 妻へ移る。


 ……同じだった。


 形が似ているのではない。

 始まる時刻も、三つの振動の間隔も、最後に音が沈んで途切れる位置も、寸分違わず重なっていた。

 波形そのものは一致していない。妻の記録では高い成分が長く残り、夫の方では二つ目の振動が心音に押されて途中で薄くなっている。二人の身体の違いが、音の輪郭へ別々の歪みを与えていた。


 それでも、始まりの時刻と、三つの振動の間隔、最後に低い方へ沈んで途切れる位置は重なっている。


 私は処理を初期化し、異なる分離方式で最初からやり直した。除去される心音の形は変わったが、三つの振動の位置は動かなかった。


 二台の聴診盤の時刻を再校正する。誤差は、波形の一致を説明できるほど大きくない。識別番号を照合すると、夫と妻には別々の装置が使われている。保存媒体の混同や複製もなかった。


 同じ病気を持つ二人が、似た音を発することはある。室内の何らかの刺激を受け、二人の病変が同時に反応した可能性も、まだ否定はできない。


 しかし、夫婦の心拍は異なり、呼吸の周期も揃っていない。筋肉や血管、肺がそれぞれ発生源であるなら、不規則な三つの振動だけが同じ間隔で始まり、変化し、同じ時刻に終わる理由が見つからなかった。


 室内で鳴った音がそのまま混入したのであれば、二つの聴診盤にはほぼ同じ波形として入るはずである。ところが夫側では心拍の振動によって一部が削られ、妻側では呼吸の成分に沿ってわずかに引き延ばされている。


 ……二つの記録にあるのは、同じ形の音ではなかった。

 同じ何かが、別々の身体を通ったあとの形だった……。


 私は処理前の音声へ戻し、二つの記録を同時に再生した。

 異なる周期の心拍と呼吸が重なり、最初は濁った一続きの音にしか聞こえない。画面上で三つの振動を追いながら、再び耳を傾ける。それが始まるのは、二人が呼吸を止めるより前だった。


 前任者の記述では、妻が「今、また聞こえた」と言ったのは、さらにその二秒後である。

 音が先にあり、身体が反応し、最後に言葉が続いていた。


 私は再生を止めた。

 画面の隣では、未知の生体振動について書いた報告書が開かれている。患者を移送して精密検査を行うべきだという判断に、変更はない。病変が見つかれば、症状の多くは説明できるだろう。


 移送申請書の患者名には、比較可能な記録が揃っている夫婦を選んだ。二名分の欄を埋め、検査内容を確認し、末尾へ署名する。


 そのあとで、処理した波形を印刷した。


 夫の記録と妻の記録を並べ、報告書の最後へ綴じる。所見欄には、《異なる二個体の接触記録に、同時刻かつ同一の時間構造を持つ非周期性振動を認める。環境参照記録に対応成分なし。発生機序不明》とだけ記した。


 冷却装置の音が、先ほどと変わらない調子で導管の奥を流れていた。


 私はもう一度、二つの波形へ目を戻した。


 別々の肺と心臓が作る音の底に、同じ時刻だけを通り過ぎた、同じ音が残っていた……。



——to be the next act.

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