Scene11:『村の外の患者』
二日間、私は異常が見つかるのを待っていた。
夫婦を搬送した医療院には、この村にはない設備がある。
胸部撮影装置。肺へ流れ込む空気の量を測る器具。循環動態、末梢神経伝導、聴覚誘発反応。
机に広げた検査項目を、朝から何度も読み返している。
どれでもよかった。
肺胞の一部が奇妙に震えている。血管壁に異常がある。神経のどこかで信号が混線している。
その程度の、ありふれた異常であってほしい。
患者の病変を望むとは、医療者としていささか品位を欠く願いである。だが、形のある異常は親切だ。場所を示し、境界を持ち、こちらが切り分けることを許してくれる。
肺なら肺を診ればよい。
神経なら神経を調べればよい。
名前がなければ、新しくつければよい。
未知であることと、理解不能であることは同じではない。
私はその一線を、まだ疑っていなかった。
通信器が鳴った。
筆先が紙の上で止まる。
短い呼び出し音が途切れ、間を置かずにもう一度鳴った。通常の定時連絡ではない。音の間隔だけで、こちらの返答を急かしている。
机の端へ手を伸ばしかけた時、廊下から靴音が近づいてきた。
一人ではない。先に軽い足音。少し遅れて、歩幅の広い硬い音。
扉が内側へ押し開かれる。レヴァンが戸枠を掴んで立っていた。走ってきたらしく、肩が浅く上下している。
その後ろにダヴィトがいる。彼は息を切らしてはいない。ただ、もう帳面を開いていた。
私へ内容を伝えてから記録するのではなく、聞く前に筆を構えている。
良い兆候ではない。
「先生。搬送先の医療院からです。緊急回線が」
「患者が悪化したか」
レヴァンの唇が動く。だが、返事は出てこなかった。
私は通信器へ向き直り、受話管を取った。金属の冷たさが耳へ触れる。
向こう側で、紙の束が乱暴に揃えられた。誰かの声。扉の開閉。足早に遠ざかる靴音。
それから、二日前にも話した医師の声が入ってくる。夫婦の精密検査を担当している男だ。声は低く、発音も明瞭だった。
それでも、話し始める前に一度ずつ息を整えている。
知らせる内容より先に、その間が耳へ残った。
「ご連絡が遅くなりました」
「構わない。搬送した二名に急変かね」
私は机の検査項目へ目を落とした。
肺機能。
循環動態。
どこに異常が出た?
問いを重ねる準備は、できている。だが、医師はすぐに答えなかった。受話管の奥で、紙が一枚めくられる。
「患者ではありません」
胸の奥に入っていた力が、わずかに抜けた。
夫婦ではない。
ひとまず、搬送そのものが二人を悪化させたわけではない。そう理解した直後、その安堵が行き場を失った。
患者ではない。
なら、誰の急変を伝えるために、緊急回線を使っている?
「ふむ」
私は椅子の背へ指を置いた。
「では、患者になったのは誰かね」
通信の向こうで、医師が息を吸った。
「当院の職員です」
指が止まる。聞き間違いではない。意味も理解できる。
ただ、その言葉を置くべき場所が見つからなかった。
この村の病気について話しているはずだった。
村から半日離れた医療院の職員が、なぜ患者になる。
「人数を」
「昨夜までに四名。内科医が一名、聴覚検査技師が一名、検査補助員が二名です」
私の背後で、筆が紙へ触れた。
ダヴィトだ。
音に振り向く必要はない。彼は職種と人数を書き留めている。
……四名。
同じ職場で働く者が、同じ時期に不調を訴えた。それだけなら、驚くには早い。
医療院内の食事。消毒薬。検査薬品。長時間勤務。あるいは、村の症状を事前に知ったことによる心因性反応。
可能性はいくつもある。いくつもあるうちは、まだ問題を解く順番がある。
「症状を、発現した順に聞こう」
「最初は、会話の聞き取りにくさです」
医師は記録を読み上げる。
「声量を上げても改善しない。耳が塞がっている感覚とも違う。近くで話している者の声が、途中から遠くなると」
私は机の上へ視線を動かした。村人の問診票が、検査計画の下から覗いている
紙を引き出す。何度も読んだ証言が並んでいた。
《近くにいるのに遠い》
《言葉の最後だけが薄くなる》
《水の底から聞いているようだ》
私は指先で一行を押さえた。
同じ表現である。
……いや。
症状についての資料は、医療院へ送っている。職員がそれを読んだのなら、言葉を借りた可能性はある。
人間は、自分の感覚へ名前を与える時、先に示された言葉へ引かれる。
まだ一致ではない。
「通常の聴力は」
「簡易検査では、大幅な低下を認めていません」
医師の答えが、私の用意した余白へ入ってくる。
「聴覚誘発反応もあります。音に対する身体反応は出ている。しかし本人は、その一部を認識できない」
問診票を押さえていた指に、力が入る。紙が小さく鳴った。
村人と同じだ。鼓膜は動く。神経も反応する。
届いていないのではない。届いたものの一部が、本人の知覚から落ちている。
私は指を離した。二つの症状が一致したからといって、同一疾患と決めるのは早計である。
早計であるが、次に確認すべき項目は、もう分かっていた。
唇を開く。
声が出る前に、一度だけ呼吸が止まった。実に不合理な反応だ。
質問の答えによって、事実が変わるわけではない。
「異音は」
受話管の向こうが静かになる。遠くの話し声も、紙を動かす音も消えた。
医師が位置を移したらしい。扉が閉まる音のあと、彼の呼吸だけが近くなった。
「訴えています」
背中に触れていた椅子の木が、急に冷たく感じられた。
「内容を」
「低い呼吸音です。湿っていて、すぐ近くに何かいるように聞こえると」
一語ずつ、問診票の記述へ重なっていく。
「二名は壁の向こうから聞こえると訴えました。検査補助員の一人は、検査台の下に何かがいると言っています」
医師が言葉を切った。私は続きを促さなかった。
まだあるのだろう。
沈黙のまま待つ。
「聴覚検査技師は、獣が喉を鳴らしているようだと」
レヴァンの服が擦れる。身じろぎをしたのだろう。
私はそちらを見なかった。問診票の文字から視線を離せば、いま聞いている言葉まで形を持つ気がした。
「技師は、どこでそれを聞いた」
自分の声が、妙に平らだった。
「遮音室です」
椅子を引いた。脚が床を擦り、耳障りな音を立てる。
腰を下ろす。立っていることに意味がなくなっただけだ。そう判断した。
……遮音室。
外部から入る音を減らすため、壁と扉を重ねた部屋である。
村の川音は届かない。共同窯もない。畑も、井戸も、廃坑もない。
山から吹き下ろす風が、谷を越え、街道を走り、医療院へ入り込み、遮音室の内側だけで獣の呼吸へ変わる。
その仮説を採用するには、いささか風へ多才さを求めすぎている。
「使用していた機器は」
「すべて停止しました。それでも聞こえたそうです」
私は問診票を机へ戻した。指先が紙の角を揃え始める。
一枚。
もう一枚。
ずれてはいない。それでも、揃え直す。
「四名に、この村への滞在歴はあるかね」
「ありません」
「同じ検体を扱った」
「検体へ直接触れた者は、一名だけです」
紙の角を揃える。
「同じ薬品は」
「使用していません。所属部署も異なります」
もうずれてはいない。
「食事」
「勤務時間が違います」
指を止めた。
水ではない。土でもない。空気、食物、検査薬品。
村を村たらしめている環境は、何ひとつ医療院まで続いていない。
ならば、村と四人の職員を結ぶものは何か。考えるまでもない。考えるまでもないからこそ、私は確認を続けた。
仮説とは、思いついた瞬間に信じるものではない。不都合な答えであれば、なおさらだ。
「発症した四名は、全員が夫婦のどちらかと接触しているのだね」
「はい」
即答だった。
彼はもう、同じ問いを自分で何度も確かめている。声を聞けば分かる。
私より先にその可能性へ辿り着き、別の答えを探し、それでも見つけられなかった者の返事だ。
耳へ押し当てた受話管が、ひどく重く感じられた。
「現在の措置は」
「夫婦二名を、一般病室から隔離病棟へ移しました」
隔離病棟。その言葉によって、二日前まで検査対象だった夫婦が、明確な感染源の候補へ姿を変える。
「発症した職員四名も収容しています。夫婦と接触した職員は、症状の有無にかかわらず勤務から外しました」
通信の向こうで、誰かが医師を呼んだ。
切迫した声だ。
医師は返事をしない。
「病原体は、まだ確認されていません。感染経路も特定できていない。ただ、村から搬送された二名を診た職員に、同一の症状が出ています」
彼の言葉が止まる。何を言うつもりかは分かっていた。
理解できている。それでも私は、受話管を耳から離さなかった。
「以後、この症例を感染性疾患として扱います」
たったそれだけの分類だった。未知の病気に、現時点で最も妥当な札をつけただけ。
医学としては正しい。
だが、その札が置かれた瞬間、診療所の中にあるものの意味が変わった。
窓辺に干された布は、患者へ使う清潔な布ではない。誰かが触れた可能性のある布だ。
薬草の匂いが染みた空気も、朝から何人が吸ったのか分からない。
机に並べた問診票には、村人の症状だけでなく、それを記録した私の手順まで残っている。
私は白衣の袖へ目を落とした。
何人の肩へ触れた?
何人の胸へ聴診盤を当てた?
何人の息を、近くで聞いた?
数え始めた思考を切る。感染経路は不明だ。接触であると決まったわけではない。
不確かな段階で自分まで患者の側へ並べるのは、慎重さではなく想像力の浪費である。
「村からの追加搬送は停止します」
医師の声が続く。
「そちらでも、患者と接触した者を確認してください。医療局と調査ギルドへは緊急報告を上げました」
背後で、ダヴィトの筆が速くなる。
「正式な指示が届くまで、村から誰も出さないでいただきたい」
誰も出さない。その言葉だけが、ほかの音より一段近く聞こえた。
「ふむ。妥当だ」
返事は、考えるより先に出ていた。隔離は正しい。
感染経路が分からない以上、移動を止める。接触者を分ける。症状のない者も観察する。
どれも疑いようのない手順である。
正しい判断が、村へ通じる唯一の道を閉じようとしている。
「こちらでも接触記録を整理する。新たな症状が出た場合は、時刻と直前の行動を省略せず送ってくれたまえ」
「分かりました」
「それから」
口を開き、言葉が止まった。
『異音について詳しく聞け』本来なら、そう頼むべきだった。
どの高さか。どれほど続いたか。何をしている最中に聞こえたか。
情報は多いほどよい。だが、遮音室で獣の唸りを聞いた技師を思い浮かべた瞬間、その依頼が喉を通らなくなった。
理由は説明できない。説明できないことを理由に調査を止めるのは、私の流儀ではなかった。
「……いや。現時点ではよい」
自分で撤回した言葉が、耳へ残る。医師へ別れを告げ、回線を切った。
受話管の奥から声が消える。代わりに、低い回線音が続いていた。
私はそれを耳へ当てたまま、しばらく動かなかった。一定のはずの音が、わずかに揺れている。
通信器の構造上、あり得る雑音だ。そう分類し、受話管を台へ戻す。
金属が受け台へぶつかった。レヴァンの肩が跳ねる。
彼はそれを隠すように息を吸ったが、うまくいかなかった。
「医療院の職員にも……同じ症状が出たんですか」
「四名だ」
私は机の上へ手を置いた。指先が地図の端へ触れる。
「会話の一部が遠くなる。通常の聴力は大きく落ちていない。それから、呼吸音と獣の唸り」
レヴァンの顔から血の気が引いていく。
「でも……これは、この村の……」
最後まで言わなかった。
村の病気。
誰もそう断定してはいない。私は感染症も、毒物も、低周波も、集団心因性反応も候補から外していなかった。
実に公平に調べていたつもりである。
だが、目はいつも村の内側へ向いていた。
井戸。畑。共同窯。廃坑。
この土地にしかない何かが、村人の知覚を侵している。そうであれば、村を出れば安全だ。
夫婦を搬送した時、私はその前提を疑わなかった。
地図を広げる。村の印へ人差し指を置いた。
そこから、夫婦を乗せた馬車の道を辿る。
崩れた橋。谷沿いの坂。街道。医療院のある町。
紙の上では、指一本の距離だった。その間に、村の水は流れていない。畑も続いていない。共同窯の煙も届かない。
ただ一本、夫婦を運んだ道だけが繋がっている。私は医療院を示す印の上で、指を止めた。
精密な検査を受けさせれば、原因へ近づけると思った。
村の外へ出せば、少なくとも二人を危険から遠ざけられると。そのために搬送を申請したのは、私である。
窓の外から、荷車の音が聞こえてきた。
石を踏むたび、車輪が低く軋む。
坂を下りていく。村の外へ向かって。
私は音の行方を追うように顔を上げた。
夫婦を村の外へ逃がしたのではない。
あの馬車で、村の病気を外へ運んだのかもしれなかった。
——to be the next scene.




