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Ghost Noise 〜耳底に沈む音〜  作者: 矢崎 那央
第2幕『気づいた者から』
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13/14

Scene12:『誰も出さない』


 翌朝、私は医療院から届いた四人分の診療記録を、発症した順に並べていた。


 紙の端には、消毒薬が乾いた痕が残っている。村へ入る者を止める一方で、記録だけは街道の検問所まで運ばれ、革袋から取り出され、薬液を噴霧されてからこちらへ渡された。

 病原体が紙に付着するのかは分からない。分からない以上、行う。医療とは、正解が見つかるまで何もしない学問ではない。


 窓から入る朝の光が、四枚の経過表を照らしていた。

 内科医。聴覚検査技師。検査補助員が二名。

 昨夜の通信で聞いた名前と職種が、紙の上で人間の形を取り戻している。


 最初に症状を訴えたのは、聴覚検査技師だった。夫婦の検査を終えた日の夕刻、同僚の言葉が途中で遠のくと訴えている。翌朝には、遮音室で低い呼吸音を聞いた。

 その日の午後、獣が喉を鳴らすような音へ変化。夜には、自宅の寝室で音源を探し続け、壁紙を剥がしている。


 発症から、およそ三十時間。


 私は村人の経過表を引き寄せた。

 最も進行の早かった猟師でも、会話の聞き取りにくさを訴えてから家の壁を壊すほど精神を病むのに、十日ほどの間があると聞いている。


 ……個人差で片づけられない差ではない。だが、片づけるには大きすぎる。


 二枚目を重ねる。内科医は、最初の違和感から二日目に入っていた。

 朝の診察中、患者の呼吸音とは別に、寝台の下から吸気が聞こえると訴えた。その後、自分の聴診器を分解している。


 管の内側に何かが詰まっていると言い、金属棒を差し込み、耳へ当てる部分を床へ叩きつけた。

 午後には、自分の周囲で会話を絶やさないよう看護職員へ要求している。


 理由を尋ねられると、


 『誰かが話している間は、あれが息を吸わない』


 そう答えた。


 昨夜、隔離室の扉を内側から椅子で塞いだ。現在は、鎮静処置を受けている。

 症状は軽くない。だが、それより問題なのは速度だ。


 村と医療院で、何が違う?


 環境の変化。勤務疲労。病気を知っていることによる恐怖。検査室の静けさ。

 患者と接した時間。使用した器具。


 私は紙の余白へ項目を書き始めた。

 医療職員は、村人より症状について多くの知識を持っている。異音の存在も、経過も、重症者が耳や家屋を傷つけたことも知っている。知識が恐怖を増幅し、恐怖が知覚を歪めることはある。

 だが、それだけで聴覚誘発反応と自覚聴力の乖離まで再現できるだろうか。


 筆先が紙を掻いた。分からない。だから調べる。


 四人の発症前の勤務記録、担当した検査、夫婦との接触時間、使用機材、休憩場所。

 食事、薬品、職員同士の接触。


 必要な情報を列挙し、照会項目としてまとめていく。検査補助員の一人は、まだ会話の聞き取りにくさだけだった。

 もう一人は昨夜から、自分の足音に重なる別の足音を訴えている。

 同じ病気であっても、進行の速度にも差がある。

 病原体の侵入量。曝露時間。体質。あるいは、発症の起点が申告より前だった可能性。


 四人の記録を並べ替えようとして、手を止めた。

 私は、患者を見ていない。呼吸も、瞳孔も、発語の間も、自分では確認していない。

 手元にあるのは、別の医師が観察し、選び、文章へ変えた結果である。その文章だけを材料に、病室から半日離れた場所で診断を組み立て始めている。


 ……実によろしくない。


 この国の医療制度は、まだ発展の途上にある。都市を離れれば医師も薬も不足し、診療所に検査器具が一つもない地域さえ珍しくない。

 それでも、夫婦と職員を預かっている医療院は、この国では比較的高い水準にある。


 最先端医療とはとても呼べない。だが、胸部撮影装置がある。神経伝導を測定できる。隔離病棟があり、複数の専門医が交代で患者を観察している。

 患者がそこにいる以上、彼らの病状を診るのは、彼らの役目だ。


 私が遠方から口を挟み続ければ、判断系統が増える。

 医療者が増えれば医療の質も単純に倍になる、などという都合のよい計算は成立しない。


 個人の時間にも、注意にも限界がある。何でも自分で解こうとする者は、たいてい何ひとつ十分に見られなくなる。


 私は照会書の最後に、


 〈現地医療班の判断を優先。経過と曝露歴のみ共有を求む〉


 と書き加えた。


 紙を伏せる。私が集中すべき患者は、この村にいる。


 その時、外で鐘が鳴った。一度目は長く。少し間を置いて、短く二度。火災でも葬儀でもない。村人を集める合図だ。

 窓へ目を向けると、道を歩く者たちが同じ方向へ向かっていた。共同窯の前にある広場である。

 私は四人分の記録を革紐でまとめ、机の引き出しへ入れた。


 外へ出ると、朝の冷気が白衣の袖へ入り込んだ。広場へ近づくにつれ、人の声が重なってくる。

 誰も大声を出してはいない。

 互いに事情を尋ね、聞き返し、もう一度同じ言葉を繰り返している。その小さな会話がいくつも重なり、低いざわめきになっていた。


 共同窯の煙突から、細い煙が上がっている。その下に、板を立てた簡易の台が作られていた。

 ダヴィトが台の前に立っている。片手には帳面。もう片方の手には、村の家々を区分した紙があった。


 彼の横では、レヴァンが木板へ地図を留めている。村の外周、街道、崩れた橋、検問所の位置が、色の違う線で示されていた。


 準備したのは、今朝であるはずだ。

 それでも、誰がどこに立ち、何を説明し、質問をどちらへ渡すのかまで決められている。


 ニノ医師は台から少し離れた場所にいた。


 診療所の助手とともに机を出し、症状のある者とない者が同じ列へ並ばないよう、地面へ白墨で線を引いている。


 サロメは広場の端に立っていた。

 黒い帽子の下から、集まった者たちを静かに見渡している。人ではなく、その人々が立っている間隔を見ているようだった。


 ダヴィトが片手を上げた。大声ではない。

 だが、近くの者から話すのをやめ、その静けさが後方へ広がっていく。

 最後まで話していた男が周囲に気づき、口を閉じた。


 「昨夜、村から搬送された二名を検査した医療院で、職員四名に同様の症状が確認されました」


 言葉が広場へ落ちる。

 誰かが息を呑んだ。すぐには声が上がらなかった。

 人々はまず、自分の隣に立つ者を見た。


 夫婦。親子。仕事仲間。


 昨日までと同じ距離にいる相手を、初めて測り直す視線だった。


 ダヴィトは間を置き、続けた。


 「原因は確認されていません。病原体も、感染経路も不明です。ただし、村の外で同一症状が発生した以上、医療局は感染性疾患の可能性を前提に対応します」


 ざわめきが戻った。今度は先ほどより短く、鋭い。


 「本日より、村境を越える移動は停止されます。村の外から入ることもできません。正式な隔離体制と期間については、医療局および調査ギルドから追って通達されます」


 後方から声が飛んだ。


 「期間って、いつまでだ」


 ダヴィトは声の方へ顔を向けた。答える前に、帳面へ一行書き加える。


 「現時点では決まっていません」


 逃げずに答えた。その一言で、広場の空気がわずかに荒れた。

 期限が一週間だと言われれば、一週間分の薪を数えられる。一か月なら、家畜の餌と畑の手入れを考えられる。

 決まっていないという言葉には、数えられる端がない。


 「食べ物はどうするんだ」


 別の声が重なる。


 「粉はあと何日もつ」


 「薬は」


 「街へ働きに出てる息子は帰れるの?」


 質問が一度に押し寄せた。

 レヴァンが板の地図へ手を置いた。


 「順に説明します」


 彼の声は少し掠れていたが、昨日、診療所で見せた動揺は残っていない。


 「まず物資です。村の外から運ばれた食料と薬は、街道の検問所へ置かれます。運搬人が離れたあと、村側の荷車で回収します。必要量は今日中に世帯ごとに確認します」


 地図の検問所を指で示す。


 「共同窯の粉、診療所の薬、家畜の飼料を優先します。個人の希望品は、そのあとです。水は現在の井戸を使用します。ただし、原因が確定するまでは、井戸ごとの利用者を記録します」


 話しながら、質問の方へ視線を配っている。


 「村の外にいる家族は入れません。村から手紙を出すことはできます。返事も検問所経由で受け取れます。急ぎの連絡は、私が通信器で取り次ぎます」


 先ほど息子について尋ねた女が口元を押さえた。レヴァンは彼女へ、ほんの少しだけ身体を向けた。

 説明を止めない。だが、その質問を数字の一つとして処理したようにも見せなかった。


 「症状が出た場合は、診療所へ直接集まらないでください。家族の一人が、家の外から知らせてください。ニノ医師が順番に確認します」


 「病気じゃない者まで、ここに置くのか」


 男が人垣を押し分けて前へ出た。畑仕事の上着に、乾いた土がついている。


 「何も聞こえていない者を先に出せばいい。病人と一緒に閉じ込めたら、それこそ全員に移るだろう」


 何人かが頷いた。頷かなかった者が、男からわずかに距離を取った。

 ダヴィトが答える。


 「症状がない者が、感染していないとは限りません」


 「なら、子どもだけでも村の外に出して」


 今度は、広場の中央からだった。

 幼い女児を抱いた母親が、子どもの頭を胸へ押しつけている。


 「親戚が町にいるの。あの子は何も聞いてない。咳も熱もない。ここに置いておく方が危ないでしょう」


 子どもが、母親の腕の中から顔を出した。大人たちを見回している。状況を理解している顔ではない。

 ただ、母親の指が耳の近くにあるため、自分も両手で耳を塞いだ。


 その動作を見た者たちの声が、一瞬だけ止まった。誰かが咳をした。乾いた、小さな咳だった。

 周囲に、人一人分の隙間ができた。咳をした老人が、自分の口元を袖で覆う。


 「これは、耳の病気じゃなかったのか」


 老人は周りへではなく、自分の袖へ向かって言った。誰も答えなかった。

 レヴァンが地図から手を離した。


 「お子さんも含め、症状のない方でも外へ出すことはできません」


 母親の顔が歪む。レヴァンは言葉を急がなかった。


 「外で発症した職員も、最初は症状がありませんでした。今ここから誰かを出せば、その人が次の町で発症する可能性があります」


 「可能性でしょう」


 「はい」


 レヴァンは認めた。


 「だから止めます。原因が分からない間に、次の村へ同じものを運ばないためです」


 母親は何かを言おうとした。唇が動き、声になる前に伏せられる。

 腕の中の子どもが窮屈そうに身じろぎした。それでも、抱く力は緩まなかった。


 別の男が、家畜を放牧地へ出せるか尋ねた。

 年配の女性が、共同窯を続けてよいのか尋ねた。

 若い男が、村内での移動まで禁じられるのか尋ねた。


 ダヴィトは、答えられるものだけを答えた。


 村境の内側での仕事は、現時点では継続できる。

 共同窯は止めない。ただし、作業者と受取人を記録する。

 家畜は村境を越えない範囲で移動させる。

 集会は今日を最後とし、以後の通達は世帯ごとに届ける。


 答えられない質問は、帳面の別の頁へ移した。


 物流支援が何日続くのか。

 隔離中の収入を誰が補償するのか。

 村外で家族が死亡した場合、葬儀へ出られるのか。


 病人が増え、診療所に入りきらなくなった場合、どの家を隔離施設として使うのか。


 彼は安心させるための嘘を一つも言わなかった。

 レヴァンは、答えのない部分を実務へ変えた。


 粉の残量を調べる者。

 薬を数える者。

 一人暮らしの老人を確認する者。

 村の入口へ交代で立つ者。


 名前が読み上げられるたび、不安に輪郭ができた。輪郭を持った不安は、消えはしない。

 それでも、次に手を動かす場所だけは分かる。


 集会が終わっても、広場のざわめきは消えなかった。

 村人たちは家族ごとに固まり、ダヴィトとレヴァンの周囲へ順番を待つ列を作っている。


 誰も、ほかの家の者へ近づこうとしない。

 子どもが走り出せば、親が腕を掴んで引き戻す。咳払いが一つ聞こえるたび、会話が途切れた。


 私は診療所へ戻ろうと、人の間を抜けた。葡萄酒色の長衣が視界の端で動く。


 ツィサナだった。


 共同窯の前掛けをつけたまま、こちらへ歩いてくる。急いできたらしく、後ろで束ねた黒髪が肩へ落ちていた。

 右耳の銀鈴は、今日はほとんど鳴らない。ツィサナは私の前で足を止める。

 いつものように笑いかけようとして、口元だけで失敗したようだった。


 「学者先生」


 「ふむ」


 声は平静だった。だが、火傷跡のある指が、前掛けの端を何度も折っている。


 「さっきのお話、本当なのね」


 「医療院で四名が発症したことかね」


 頷く。その視線が、私の肩越しへ動いた。


 広場の端では、先ほど子どもだけでも外へ出してほしいと訴えた母親が、まだレヴァンと話している。


 「村の外へ出ても、駄目だったのね」


 「少なくとも、村を離れるだけでは安全を保証できない」


 ツィサナの指が止まった。


 「この村から、持っていったの?」


 何を、とは言わなかった。搬送された夫婦か。それとも、病気そのものか。


 「まだ分からない」


 私は答えた。


 「病原体は見つかっていない。人から人へ移ったと断定する段階でもない。接触以外の共通点がある可能性も残っている」


 「でも、出られないのね」


 「それは確定している」


 言葉を選んで不安を薄めることはできる。だが、薄めた分だけ事実まで見えにくくなる。


 ツィサナは広場を振り返った。

 共同窯の近くで、作業仲間の女たちが話している。いつもなら肩が触れるほど近くに集まる者たちが、今日は腕を伸ばしても届かない間隔を空けていた。


 「窯は続けていいって」


 「パンは必要だ」


 「作る人間が病気を持っていたら?」


 私は答えられなかった。

 ツィサナは、その沈黙から答えを拾ったらしい。小さく息を吐き、折っていた前掛けを伸ばした。


 「症状がある人は、粉をこねる仕事から外すわ。受け渡しも、家ごとに時間を分ける。焼いたものへ直接触れないようにもする」


 「ダヴィトとレヴァンへ伝えてくれたまえ。記録へ残す必要がある」


 「ええ」


 返事をしながらも、立ち去ろうとはしなかった。

 視線が、私の顔から右肩のあたりへずれる。誰かの声を聞く時の動きだった。

 私は周囲へ目を向けた。近くには、こちらを気にする村人が数人いる。荷車の車輪が石を踏み、共同窯では薪の爆ぜる音がした。


 それ以外に、私が聞き取れる声はない。


 「イリア少年かね」


 ツィサナの右耳で、銀鈴が一度だけ鳴った。

 彼女はすぐに答えなかった。


 「今日は、朝から静かなの」


 「聞こえない?」


 「呼べば返事はするわ。でも、いつもより遠い」


 私は一歩近づいた。ツィサナの肩越しに、村人たちが動いている。

 人の声。靴音。帳面をめくる音。

 その中から、彼女だけが聞いている声を探そうとした。


 当然、聞こえない。


 「いつからだ」


 「鐘が鳴る前から」


 私は白衣の胸元から手帳を出した。集会の最中に記録した頁をめくり、余白へ時刻を書き込む。


 「ほかに変わったことは?」


 「学者先生」


 筆先を止める。

 ツィサナは私の手帳を見ていた。


 「私、相談に来たのよ」


 「聞いている」


 「診察をしてる顔になっているわ」


 私は手帳へ視線を戻した。実際、必要な確認である。

 ツィサナの聞く声は、ほかの患者の異音と性質が異なる。六年間続き、生活を破壊せず、応答性を持つ。

 その声に変化が起きたなら、記録すべきだ。


 「君の不安を解消するためにも、状態を把握する必要がある」


 「そういうところよ」


 「どの部分かね」


 ツィサナの口元に、今度はかすかな笑みが戻った。

 不安が消えたわけではない。ただ、いつもの私を見つけた時の顔だった。


 「何でも調べれば安心すると思っているところ」


 「調べずに安心するより健全だ」


 「学者さんはね」


 右耳の鈴へ指を触れ、そのまま指先を下ろす。


 「自分が調べている間は、相手も安心していると思っているでしょう」


 否定しようとして、止めた。ツィサナは私の返事を待たなかった。


 「今夜も、うちで食事をしていかない?」


 「夕食かね」


 「朝食には遅いでしょう」


 「目的を確認しただけだ」


 「パンと煮込みを食べる以外に、食事へ立派な目的が必要?」


 必要はない。

 だが、彼女の家で食事を取れば、イリア少年の応答も自然な状態で確認できる。

 会話の距離。食卓での反応。昨夜からの変化。

 診療所へ呼び出すより、生活環境を乱さず観察できる。


 私は手帳を閉じた。


 「伺おう」


 ツィサナの眉が上がる。


 「ずいぶん素直ね」


 「隔離中の食料事情を把握することも、調査の一環である」


 「はいはい」


 「加えて、イリア少年の状態を」


 「食事中は診察禁止」


 「会話は」


 「普通の会話なら」


 「観察は」


 「学者さんが、その目を家に置いてこられるなら」


 困難な条件である。

 ツィサナはようやく、いつもの調子で笑った。笑い終えたあと、広場へ目を向ける。


 不安は、まだそこに残っている。


 「日が暮れる頃に」


 「承知した」


 「遅れないで。イリアは、冷めた煮込みにうるさいから」


 そう言って、ツィサナは共同窯へ戻っていった。葡萄酒色の裾が人の間へ消えた。



——to be the next scene.

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