Scene13:『人的資源』
彼女の姿が見えなくなってから、私は手帳を開いた。
《夕刻、ツィサナ宅。イリア少年の応答変化を確認》
書き終えたところで、紙の上へ影が落ちた。
顔を上げる。レヴァンが、帳面を胸へ抱えて立っていた。
広場で村人の質問を受け続けていたせいか、声が少し掠れている。額には汗が浮いていた。
それでも、私の手帳へ向けた視線は逸れなかった。
「先生。少し、いいですか」
「構わない」
レヴァンは広場を振り返った。ダヴィトの前には、まだ何人もの村人が並んでいる。
子どもを抱いた母親も、列から離れずにこちらを見ていた。先ほど途中になった相談を、レヴァンが戻るまで待っているのだろう。
「長くは取りません」
彼は帳面の角を親指で押さえた。
「前任の調査員について、最初にお伝えしましたよね」
「……ツィサナの事例へ時間を割きすぎた者、という話か」
「はい」
返事は短かった。
責める言葉を探しているのではない。伝える順番を整えている顔だった。
「先生も、少し同じようになっています」
私は手帳を閉じなかった。
「根拠を聞こう」
「今のやり取りです」
レヴァンは、ツィサナが立ち去った方角へ目を向けた。
「村全体が封鎖されました。食料がいつ届くのか分からない。薬が足りるかも分からない。外に家族がいる人も、家に病人がいる人もいます」
その視線が広場を巡る。
咳をした老人。荷車の使用について相談している農夫。共同窯の前で、作業の順番を決めている女たち。
「ツィサナさんだけが不安なわけじゃありません」
「彼女だけを診ているわけでもない」
「分かっています」
レヴァンはすぐに認めた。
「でも、彼女が話しかけると、先生はその場で調査を始める。今夜も家へ行くことを決めた」
「声の状態に変化があった。安定していた現象が変化したなら、確認する価値はある」
「前任者にも、理由はありました」
言葉が重なる前に、レヴァンが続けた。
声を強くしたわけではない。それでも、その一言だけは私の返答を押し戻した。
「私とは調査手順が異なっていた」
「はい。でも、使える時間が限られていることは同じです」
広場から、レヴァンを呼ぶ声がした。先ほどの母親だった。
彼は片手を上げ、少しだけ待つよう合図を返す。
「ツィサナさんを調べるなとは言いません」
再び私へ向き直る。
「ただ、彼女に時間をかけるたび、ほかの何かへ使う時間が減っていることは、忘れないでください」
反論はできる。
ツィサナの症例が持つ特異性。言語的応答の存在。ほかの発症者にはない安定性。
どれも、調査を継続する理由として成立する。
だが、レヴァンが指摘しているのは、ツィサナに価値があるかどうかではなかった。
価値のある調査が複数ある時、私が何を優先しているか。
その話である。
「忠告は記憶しておこう」
私が答えると、レヴァンは小さく頭を下げた。
納得した顔ではない。それでも、これ以上ここで時間を使うことの方が、自分の指摘に反すると判断したのだろう。
「ありがとうございます」
彼は踵を返した。数歩進んだところで、立ち止まる。
「先生」
肩越しに振り返った。
「前任者も、最初はツィサナさんだけを調べていたわけじゃありません」
それだけ言い、母親の待つ広場へ戻っていった。
人垣がレヴァンを迎え入れる。彼はすぐに帳面を開き、母親の話を聞き始めた。
私は閉じていなかった手帳へ目を落とした。文字は、先ほど書いた時より濃く見えた。
「……おい、ずいぶん丁寧に刺されたな」
背後から、低い声がした。
振り返る。診療所の壁際に、サロメが立っていた。
黒い帽子の陰から、レヴァンが戻った広場を見ている。
彼の姿が人垣の向こうへ完全に隠れるまで待ち、帽子を脱いだ。低く束ねた黒髪の根元へ指を入れ、窮屈そうに緩める。
「聞いていたのかね」
「途中からな」
サロメは診療所の壁へ肩を預けた。
「安心しろ。あいつの前で口を挟んで、話をややこしくするほど間抜けじゃねぇ」
「その自己評価には検討の余地がある」
「黙れ」
革鞄から香草巻きを取り出す。火はつけず、指の間で転がした。
「レヴァンの言ってることは、時間の配分だ。前の連中と同じ穴へ落ちかけてるから、足元を見ろって話」
「理解している」
「なら、こっちは別の話だ」
香草巻きの先が、私の手帳へ向く。
「女が不安そうに来た。お前は慰める代わりに問診を始めた。そこまでは、まあ白衣だから仕方ねぇ」
「服装と免責事由に関連は乏しい」
「黙って聞け」
サロメの指が、私の閉じた手帳を示す。
「そのあと夕食へ誘われて、イリアを観察できるからって即座に予定へ入れた」
「生活環境下での観察には価値がある」
「ほら、それだ」
鼻から短く息を吐く。
「アンタは、あの家へ行く理由を見つけるのが上手すぎる」
胸元の手帳が、先ほどより重く感じられた。
「私情で調査対象を選んでいると言いたいのかね」
「そこまでは言ってねぇ」
サロメは香草巻きを、指先でクルクルと回した。
「けど、調査員じゃなく、一人の客として呼ばれたのかもしれねぇ」
彼女は香草巻きを回す指を止め、葉巻入れに戻した。
「行きたいなら、行きたいでいい。それにいちいち言い訳をつけるな」
彼女が黒い帽子を被り直したとき、診療所の扉が開いた。
紙を持ったレヴァンが出てくる。
広場で村人の質問を受け続けていたせいか、声が少し掠れている。額には汗が浮いていた。
「先生。サロメさんも、少しよろしいですか」
私の後ろにいたサロメが、静かに歩み寄る。レヴァンは近くにあった木箱へ紙を広げた。
「ダヴィトさんから、調査側の動きを先に整理してほしいと言われました」
レヴァンが筆を取り出す。
「役割を決めたいのですが、ここで叩き台を作ってもいいですか?」
「承知した」
私は紙の上へ視線を落とした。
「サロメ。キミは今後、どう動く」
サロメは革鞄の金具へ指を添えた。少し考えてから、空白の一列を指す。
「まず、搬送に使われた馬車と、ご夫婦の荷物を拝見します」
サロメは外向きの静かな顔へ戻り、わずかに頭を下げた。先ほどまでの砕けた口調は跡形もない。
「死者に由来する現象であれば、人だけが運び手とは限りません。衣類、器具、寝台、車輪。物の方が、人より長く何かを抱えていることもございます」
彼女の指が、紙の上をゆっくり移動する。
「ご夫婦の家。こちらの診療所。馬車を置いていた場所。それから、接触しても症状の出ていない方々です」
レヴァンの筆が止まった。
「症状がない人もですか」
「はい」
サロメは彼へ顔を向けた。
「何も起きなかった場所には、そこに欠けていた条件があるかもしれません」
レヴァンは一度頷き、紙へ書き込み始める。筆が止まるのを待たず、サロメが続けた。
「ただし、何も見つからなかった場合も、そのまま記録してください。見つからないことと、調べなかったことは別ですから」
「分かりました」
レヴァンが次の欄へ筆を移す。
「先生は」
「村内の発症者について、最初に違和感を覚えた時刻と、その直前の行動を洗い直す」
レヴァンが紙の端を指で押さえた。風で浮きかけていた角が、木箱へ戻る。
「医療院の職員についてもですか?」
「可能な限り同じ形式へ揃えたいな。比較するなら、質問の項目を合わせる必要がある」
レヴァンが書き留める。
「ニノ医師には、村内患者の経過観察を任せよう。感染への対策については、本職の医師が専門だ」
「診察ですね」
レヴァンは次の欄へ移った。
「ダヴィトさんには」
「医療院の職員を含めた接触表の統合。医療局とギルドへの連絡。それから、全記録の管理だ」
「外部との窓口も、ダヴィトさんへまとめますか?」
「その方がよいな。問い合わせのたびに別の者が答えれば、情報が枝分かれする。キミは村人への聞き取りと、生活記録を頼む」
「生活記録?」
「誰がどの家へ行ったか。どの井戸を使ったか。どこで働き、誰と食事をしたか。医療行為以外の接触は、診療記録には残らない」
レヴァンは広場を振り返った。村人たちは、まだダヴィトの周囲に集まっている。
彼が先ほど話を聞いていた母親も、その中にいた。
サロメが静かに頷く。
「確かに、レヴァン殿が適任でしょう」
筆を持つ指が、紙の上で動かずにいた。
「僕が、ですか」
「ええ。お話を聞くのがお上手です」
私は彼女へ顔を向けた。
「いま、比較対象として私を置いたな?」
サロメは一度、目を伏せた。考えるためではない。礼節を崩さず急所だけを刺すための、実に丁寧な間だった。
「いいえ。比較対象として先生を置くのは、レヴァン殿に失礼かと」
レヴァンの筆先が、紙の上で止まったまま揺れた。
「ふっ……キミは分かっていない。生活記録とは、すなわち父性である」
レヴァンが訝しげに眉を上げた。
「父性?」
私は人差し指を立てた。
「娘は朝食を残していないか。友達と喧嘩していないか。帰宅が遅くないか。最近ため息が増えていないか」
私は誇らしく胸を張った。
「父たる者が、それらを把握せずして誰が把握するというのだね。私は、娘へ根気強く聞き取りをすることにかけては、比類なき実績を持つ父親である」
レヴァンが、わずかに首を傾ける。
「娘さんがいらっしゃるのですか?」
「生物学的な細部は、この際どうでもよい」
「最もどうでもよくしてはいけない部分に聞こえますが」
「重要なのは父性だ」
私は木箱へ片手を置き、二人へ身体を向けた。
「たとえ娘が返事の代わりに私の肋骨を粉砕しようとも、私は問いかける。今日はどうだった。食事は足りているか。悩みがあるなら父へ話してみたまえ、と」
レヴァンが、ゆっくり私の胸元を見た。現在、肋骨に異常はない。確認する必要はないはずだ。
「腹部を蹴り抜かれ、屋根から投げ落とされ、頭蓋へ鈍器を振り下ろされようとも、返答を急かしはしない。娘が自ら心を開くその瞬間まで、私は血溜まりの中で静かに待とう」
「先生」
サロメが穏やかに遮った。
「聞き上手は、生活記録をとるだけで流血沙汰にはなりません」
静かな声だった。刃だけが、よく研がれていた。
レヴァンが俯いた。肩が一度、小さく揺れる。
「ぷっ……」
咳払いで隠そうとしたが、息の方が先に漏れた。
「……すみません」
「謝罪は不要だ。父性への理解は、常に笑顔から始まる。これは確かな経験則だ」
「先生が笑われているだけかと」
「結果として笑顔を生んだのなら、父として本望である」
「ずいぶん丈夫な本望でございますね」
サロメが答える。レヴァンはもう一度だけ口元を押さえたが、息が漏れるのは止められなかったようだ。
顔を上げた時には、眉間に入っていた力が消えていた。帳面を胸へ抱え込むのをやめ、木箱の上へ置く。
先ほどまで紙へ触れるだけだった筆が、迷わず動き始めた。
「では、僕が村人への聞き取りと、生活上の接触記録を担当します」
自分の名前を書き込む文字は、前の欄よりも滑らかだった。
硬くなりすぎた頭は、慎重になるのではない。選べるはずの手順まで見失う。
笑いが病気を治すなどとは思わないが、次の一手を拾い上げる程度の隙間なら、作ることがあるらしい。
つまり、父性には調査効率を改善する作用もある。
「やはり、私の父性は実務にも有効か」
「その結論だけは、記録から除外いたしましょう」
サロメは微笑を崩さない。レヴァンは書いた項目を、上から指で追った。
「整理します」
サロメがそこへ視線を落とした。
「五つの方向から調べて、重なる点を探しましょう。重なれば手掛かりになります」
サロメの指が、空白だった中央へ触れた。
「重ならなくても、五本の道を閉じられます。迷路では、行き止まりにも役目がございますから」
レヴァンが最後の項目を書き終える。我々の役割は概ね決まった。
私は今日の予定を組み立て、手帳に落とす。夕食の予定は消さなかった。ただし、症例記録とは別の頁へ書き直す必要があるかもしれない。
……そう思った。
——to be the next scene.




