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Ghost Noise 〜耳底に沈む音〜  作者: 矢崎 那央
第1幕『耳を失くし、死者の声を得る』
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8/16

Scene7:『静かにするために』


 ツィサナの家を辞したとき、村はすでに夜の底へ沈んでいた。


 坂に沿って並ぶ家々のうち、窓に灯りを残しているものは少ない。石畳の継ぎ目を、昼間に溶けた雪の名残らしい細い水が流れ、その音だけが暗がりの中をこちらへ近づいてくる。

 振り返れば、共同窯の煙が屋根の向こうにまだ薄く滞り、冷え始めた風には焼いた小麦の匂いが残っていた。


 腹は十分に満たされている。


 調査対象の家で夕食をご馳走になることが、研究者として適切であったかは議論の余地がある。しかし、生活環境の観察もまた重要な調査であり、なにより、食事を抜いて働く父の姿を娘たちが知れば、さぞ心を痛めることだろう。


 直接、心配の言葉を受け取った記憶はない。

 むしろ、食事どころではなくなる程度の物理的干渉を受けたことなら何度もあるが、あれも表現形式が少々過激なだけで、根底には父への気遣いがある。たぶん。父には分かる。

 夕食を摂ることは、家族への責任でもあるのだ。


 そう結論し、宿舎へ続く坂を半ばまで登ったところで、正面の暗がりに灯りが揺れた。

 ランタンを掲げ、レヴァンがこちらへ走ってくる。光が上下するたび、石垣と家の壁が交互に闇から浮かび上がった。私の前まで来ると、彼は膝へ手をつき、乱れた息をどうにか言葉へ変えた。


 「先生。患者がひとり、暴れています」


 「誰だ」


 「最初の日に診た、籠編みの老人です」


 閉ざされた診察室の窓と、その下の空の椅子が脳裏に戻った。眠った獣が、息をするたびに喉を鳴らしている。男は、そう訴えていた。


 「ニノ医師は?」


 「先に向かっています」


 私は白衣の裾を片手で持ち上げ、来た坂を引き返した。先ほどまで漂っていたパンの匂いは、走り出すとすぐに薄れた。レヴァンのランタンが前方で激しく揺れ、光の輪が石畳を跳ねながら遠ざかっていく。


 男の家は、村外れに近い斜面へ建っていた。戸口から油灯の光が漏れている。扉は開け放たれ、外気に晒された蝶番が、風を受けるたびにわずかに軋んだ。

 その奥から、木を打つ音がした。


 一度。

 しばらくして、二度目。


 重い道具を床へ叩きつけるような、湿りを含んだ鈍い響きだった。戸口へ近づくにつれ、そこへ別の音が混じり始めた。

 木の表面を擦る音である。

 爪よりも柔らかいものが、ささくれだった板へ何度も押しつけられ、そのたびに皮膚を削られているような音だった。


 室内へ踏み込むと、油灯の下で二人の調査員が男を押さえ込んでいた。

 男は床へ腹這いになり、剥がれかけた板へ両腕を伸ばしている。右手には短い鉄具が握られ、その先端が床板の隙間へ深く食い込んでいた。すでに三枚ほどの板が割られ、その下から湿った黒土が覗いている。


 「離せ!」


 老人が身を捩ると、押さえていた調査員の身体まで引きずられた。鉄具の先が外れ、板の上を引っ掻きながら滑っていく。


 「そこにいる! 聞こえないのか!」


 叫び声は枯れ、喉の奥で乾いた皮が擦れ合っていた。私は男の頭側へ回り、その耳を見て足を止めた。

 両方の外耳道へ、布が深く詰め込まれている。その上から溶かした蝋らしいものが塗りつけられ、さらに細い革紐が、耳を塞ぐように頭を何重にも巡っていた。

 左耳の下から血が流れ、首筋を伝って襟へ染み込んでいる。


 「何をした」


 男のそばへ膝をつくと、彼は顎を持ち上げた。

 しかし、その瞳は私を捉えなかった。私の肩を越え、背後の壁のどこかへ焦点を結んでいる。


 「静かにした」


 「耳を塞いだのか」


 「全部だ」


 唇の端が、笑みの形に歪んだ。目だけが、その表情に加わっていなかった。


 「戸を閉めた。窓も塞いだ。時計も止めた。鶏は外へ出した。水瓶から滴る水も捨てた」


 血に濡れた指が、再び床板の隙間を探り始める。爪先は裂け、一本は根元近くから浮いていた。それでも男は痛みを確かめる様子もなく、黒い隙間へ指を差し込もうとしている。


 「それでも、まだ鳴る」


 男が静かにしようとした痕跡は、部屋の随所に残されていた。

 壁時計には厚い布が巻かれ、振り子は紐で柱へ括りつけられている。窓枠の隙間には粘土が詰められ、棚の器は一つずつ布で包まれていた。椅子や卓の脚にまで古着が巻かれ、床との接触を避けるよう持ち上げられている。


 生活の音を、ひとつずつ殺していったのだ。

 その結果として、室内には割れた床板、鉄具の傷、血を吸った布、そして男自身の荒い息だけが残っている。

 静かにするために行われたすべての行為が、かえって新しい音を生んでいた。


 私はニノ医師へ目を向けた。

 彼女は壁際に薬箱を開き、鎮静剤を針筒へ吸い上げている。手の動きは正確だったが、瓶を押さえる指には普段より強く力が入っていた。


 「いつから、この状態に?」


 「夕方までは寝台にいたそうです。近所の人が食事を運んできたとき、すでに床を剥がしていたと」


 ニノ医師は針筒を立て、内部の空気を押し出した。針先から薬液が一滴こぼれ、灯りを受けて光った。


 「まず耳の布を外します」


 「近づくんじゃないっ!!」


 老人が言った。私たちの会話が聞こえたのかと思い、顔を覗き込む。しかし視線は、誰にも向けられていない。


 「……今、近くにいる」


 男を押さえていた調査員が、反射的に周囲を見た。もう一人もつられ、肩越しに暗い戸口を確かめる。

 その一瞬、男の腕が床から浮いた。


 「押さえろ」


 私が言うと、二人は慌てて体重を掛け直した。男の胸が板へ押しつけられ、喉から濁った息が漏れた。


 「何が近くにいる」


 口の動きを見せるため、私は男の正面へ顔を寄せた。

 しばらくして、彼の瞳がゆっくりこちらへ動いた。私という人間を見たというより、視界を遮る物体を認識しただけのような目だった。

 カバンから取り出した炭筆で、打ち捨てられた床板に文字を書き、油灯の灯りをかざす。


 《何が居る?》


 「一匹じゃなかった」


 掠れた声が、口の中から落ちた。

 私は、もう一度床板に書かれた文字を指差す。


 男の下唇が震えた。


 「息だ」


 その言葉のあと、部屋の中にあった呼吸が、急に一つずつ輪郭を持ち始めた。


 押さえ込む調査員の鼻息。ニノ医師が緊張を抑えるために細く吐いた息。走ってきたレヴァンの、まだ完全には整っていない呼吸。そして、男の顔へ身を寄せている私自身の呼気。


 油灯の炎が、硝子筒の中でかすかに鳴った。

 屋根の端を撫でていた風が止む。


 男の目が、床の上を左へ移っていった。

 視線は、そこに何かが這っているかのようにゆっくり進み、壁際で止まった。次いで、壁を登る。染みの上をたどり、梁へ移り、天井の中央で動かなくなった。


 男の喉から、力のない空気が漏れた。


 「増えてる」


 私は、床板に新たに文字を書いた。


 《いくつ?》


 床板を一瞥すると、男は激しく首を振った。革紐が耳の傷へ食い込み、その下から新しい血が滲み出す。


 「数えたら、向こうも数える」


 その瞬間、男が息を止めた。

 胸の動きが途絶え、頬が膨らんだ。首筋の腱が硬く浮き上がる。

 押さえていた二人の調査員も、つられるように口を閉ざした。レヴァンも息を潜め、ニノ医師の手まで針筒を持ったまま止まる。

 誰も命じてはいない。

 しかし、部屋にいた全員が、自分の呼吸を音として意識してしまった。


 数秒が過ぎた。


 男の顔が赤く染まり、こめかみに血管が浮いた。それでも彼は息を吐こうとしない。

 私の肺も、いつからか吸う時機を失っていた。

 愚かな反応である。呼吸は音を聞くために止めるものではない。むしろ余計な身体雑音を減らせば、患者が訴える異常音だけを浮き立たせる可能性がある。

 そう理解しているにもかかわらず、私は息を吸う前に、ほんの一瞬だけ待った。

 その一瞬の中に、私たち以外の呼吸が残らないかを確かめたのだ。


 ……何も聞こえなかった。少なくとも、私には。


 男はついに耐えきれず、短く空気を吸い込んだ。

 その途端、床へ額を打ちつけた。骨と板のぶつかる鈍い音が、狭い室内を震わせる。


 「息をするな!」


 もう一度、頭を落とそうとした男の顎へ、私は手を差し入れた。調査員たちが肩を押さえ直し、額と床の間へ腕を滑り込ませる。


 「鎮静する」


 ニノ医師が男の腕を取り、袖を捲り上げた。

 男は針筒を認めた瞬間、身体を弓のように反らした。


 「眠らせるな!」


 「動かないで。怪我をします」


 「寝たら来る!」


 振り払われた針筒が床へ落ち、金属音を立てて転がった。男の右手が、そばにいた調査員の顔へ伸びる。裂けた爪が頬を掠め、細い血の線を残した。


 「口を閉じろ!」


 男は調査員の唇へ指を掛けようとした。


 「息が聞こえる! お前の中にもいる!」


 私はその手首を掴んだ。

 籠を編み続けてきた腕は細く、肉も落ちていた。それでも骨の奥から湧き上がるような力で、指が調査員の口元へ近づいていく。


 父というものは、時として理不尽な力へ正面から向き合わなければならない。

 我が娘たちによる実力行使であれば、そこに愛情を見出す余地もある。しかし、今この老人の指を動かしているのは、父娘間の尊い軋轢ではない。

 睡眠と理性を奪われた人間の、純粋な恐慌だった。


 「私を見ろ」


 男は見ない。

 瞳は調査員の開いた口へ縫いつけられている。


 「吐くな」


 男の声が、息の漏れる音へ近づいていった。


 「そいつが、出てくる」


 ニノ医師が新しい針筒を取り出した。レヴァンが男の脚へ体重を掛け、私は掴んだ手首を床へ押しつける。

 針が腕へ入り、薬液が静かに押し込まれた。

 男はなおもしばらく暴れ続けた。踵が床を打ち、割れた板の端へ触れて木片が飛ぶ。指は何度も開閉し、目に見えないものを掴もうとした。


 やがて、その動きが少しずつ鈍くなった。

 肩へ込められていた力が抜け、足音の間隔が広がる。床板を探っていた指だけが、最後まで何かを求めるように動いていた。


 「下にいるのか」


 私は尋ねた。

 男の瞼は半分ほど落ち、眼球だけがなお暗い隙間を見ている。


 「違う」


 「では、どこにいる」


 唇が、ゆっくりと形を作った。


 「下にいるんじゃない」


 言葉の途中で、浅い息を一つ吸う。その呼吸さえ何者かへ居場所を知らせるもののように、男は喉の奥で押し殺した。


 「下から、聞いてるんだ」


 腕から力が抜けた。

 鉄具が指の間を滑り、土の上へ落ちた。

 ニノ医師が革紐を切った。蝋に固められた布を少しずつ引き出すたび、黒ずんだ血がまとわりついてくる。

 左の外耳道は、原形が分からないほど傷ついていた。内部は腫れ、血に塞がれている。右耳も赤く膨れ、布の繊維が皮膚へ食い込んでいた。


 男は、自分の指か鉄具を用いて、何度も布を奥へ押し込んだらしい。

 それでも、聞こえ続けた。

 耳を塞いだことで、男の世界から消えたものはあったのだろう。


 時計の音。鶏の声。戸外を歩く人の足音。誰かが名を呼ぶ声。

 彼が消したかったものではなく、彼をこちら側へつなぎ留めていた音ばかりが失われた。

 最後に残ったのは、塞いだ耳を必要としない声だった。


 私はそれを口にはしなかった。

 答えは、男の周囲へすでに散らばっていた。


 裂けた爪。血に濡れた布。割られた床。布を巻かれた時計。そして、部屋から音をなくすために、彼自身が立て続けた夥しい音。


 「ここでは管理できません」


 ニノ医師が男の額を拭いながら言った。傷口へ清潔な布を当て、その上から包帯を巻いていく。


 「ギルド付属の医療施設へ搬送します。鎮静を維持しながら耳の処置を行い、精神症状も継続して観察しないと」


 「手配しよう」


 レヴァンが立ち上がった。

 膝についた血を見て、一度だけ口元を強張らせる。そのまま戸口へ向かい、外で待機していた職員へ声をかけた。


 担架が届くまでの間、私は割れた床板の前へしゃがんだ。

 ランタンを近づけると、掘り返された土が湿った光を返した。深さは指の長さほどしかない。虫の穴も、獣の足跡も見当たらず、床下へ生き物が入り込める隙間さえなかった。


 鉄具で何度も突かれた場所だけが黒く濡れている。私は顔を近づけ、耳を澄ませた。

 土の冷たい匂いが鼻へ入った。背後ではニノ医師が布を畳み、調査員が短く息を吐いている。


 床の下からは、何も聞こえない。

 聞こえないという事実に、安堵はなかった。

 先ほどの男の言葉が、意味だけを変えて残っていたからだ。


 下にいるのではない。下から、こちらを聞いている。

 担架が運び込まれ、男の身体がその上へ移された。鎮静剤は十分に効いており、腕も脚も力なく垂れている。


 医療員たちが担架を持ち上げ、戸口から夜道へ出た。


 道の脇には、幌を張った搬送馬車が停められていた。ランタンの光に照らされた内部には、向かい合う細い長椅子が二つ見える。

 奥には、誰も座っていない。

 

 担架が馬車へ近づいたとき、男の目が開いた。身体全体が、一枚の板になったように硬くなる。


 「いやだ」


 小さな声だったが、医療員たちは足を止めた。


 「どうしました」


 「先に、降ろせ」


 男の瞳は、馬車の奥にある空の長椅子へ向いていた。


 「誰をだ」


 私が尋ねると、彼の視線が椅子の上をゆっくり滑った。奥から手前へ。座面をたどり、入口のすぐ横で止まる。

 

 ……そこには誰もいない。


 だが男の目線は、椅子の高さではなく、もっと上にあった。

 馬車の天井近く。大きな何かが幌の内側へ背を押しつけ、首を折り曲げなければ収まらないような位置だった。


 「一緒に行くつもりだ」


 男の声が震えた。


 「何がいる」


 男は答えなかった。いや、聞こえなかったのかもしれない。

 担架の端へ身体を寄せ、空いているはずの側から少しでも離れようとする。薬の効いた手が布を探り、何も掴めないまま震えていた。


 医療員たちは互いに顔を見合わせたあと、担架を馬車の中へ運び入れた。


 男は最後まで、空の長椅子から目を逸らさなかった。


 扉が閉じられる寸前、彼の視線がこちらへ戻った。


 「先生」


 掠れた呼び声が、夜気の中へ落ちる。


 「あれも、乗ってる」


 扉が閉じた。


 留め金の掛かる音がして、御者が馬を進ませる。車輪は石を踏むたびに低く軋み、ランタンの灯りとともに坂の下へ遠ざかっていった。


 私は、その音が完全に聞こえなくなるまで道端に立っていた。


 搬送馬車へ乗ったのは、患者が一人。


 医療員が二人。


 それ以外に、人影はなかった。


 私は確かに確認した。


 娘たちの姿を探すことに関して、父の目は人並み以上に鍛えられている。物陰に隠れようと、屋根の上から狙おうと、少なくとも少女ほどの大きさがあれば見落としはしない。


 馬車が坂の向こうへ消えても、男の最後の言葉だけは、しばらく耳に残っていた。


 『あれも、乗ってる』


 実際には、音は人間のように馬車へ乗り込んだりはしない。記憶もまた、そうである。

 それでも宿舎へ戻るあいだ、私は何度か足を止めた。


 自分の後ろから聞こえた呼吸が、歩いて乱れた私自身のものか、確かめるために。



——to be the next scene.

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