Scene6:『二人分の夕食』
村へ入って、四日目になった。
朝は診療所で患者を診察し、昼を過ぎると、ダヴィトと向かい合って記録を照合した。同じ質問を順序だけ変えて尋ね、返答に用いられた語句を昨日のものと比べる。
夕方になれば共同窯へ足を運び、最後のパンが火から出されるまで、ツィサナの仕事を眺めながら話を聞いた。
そのあいだ、彼女の証言はほとんど揺れなかった。
イリア少年は朝、彼女を起こす。窯へ向かう道では、家々の煙や道端の花について話しかけてくる。仕事中はおおむね静かにしているが、パンが焼き上がる時刻になると、昔と変わらず窯の近くへ寄ってくるらしい。夜には彼女と連れ立って家へ帰り、眠る前までそばにいる。
ツィサナは、それらを飾ろうとしなかった。私に信じさせるための言葉を探すこともなく、昨日と同じ問いには、昨日と同じ程度の面倒くささを滲ませて答えた。
四日も繰り返していると、調べているのが私なのか、忍耐力を試されているのが私なのか、次第に判別が難しくなってくる。
「今日は、昨日より少し遅かったわね」
共同窯へ入るなり、ツィサナが背中を向けたまま言った。
長い柄の窯板を使い、焼き上がったパンをひとつずつ引き出している。窯口から熱が吐き出されるたび、束ねた黒髪の先が、汗ばんだ首筋の上で揺れた。
「私の足音を聞き分けられるのか」
「白衣が扉に引っかかる音なら」
彼女は窯板を抱えたまま振り返り、私の足元を顎で示した。
見ると、扉の下枠から突き出た木片に、白衣の裾が絡みついていた。半歩進むたびに布が引かれ、私の訪問を律儀に告げていたらしい。
「なるほど。聴力とは無関係の、極めて高度な観察能力だ」
裾を外しながら言うと、ツィサナは窯板の先でパンを籠へ滑らせた。
「ええ。そういうことにしてあげる」
「恩を着せられる理由が分からない」
「四日も通ってきて、毎日どこかに白衣を引っかける人へ、恥をかかせないための配慮よ」
「昨日は引っかけていない」
「粉袋を倒したでしょう」
「記憶力まで優れているとは」
「学者先生が分かりやすいだけ」
火傷の跡が残る指で、彼女は焼けた表面を軽く押した。音を聞く代わりに、指へ戻る弾力と、皮の割れ方で焼き具合を確かめている。ひとつを裏返し、底へ触れたところで、その手が止まった。
視線が窯の脇へ流れる。
そこには、口を縛った小麦粉の袋と、低い木箱が置かれているだけだった。
「分かっているわ。焦げた端は、あとであげるから」
ツィサナは耳を傾けるように顔を少し傾けた。右耳の銀の鈴が、熱を含んだ空気の中でわずかに揺れる。
「先につまんだら、夕食が入らないでしょう。昨日も同じことを言ったわよ」
返事を待ってから、彼女は籠へ布を掛けた。
私に見せるための芝居には見えなかった。誰かが見ているときだけ行われる動作には、どこか余分な間や、相手の反応を窺う視線が混じるものだ。ツィサナには、それがない。
一日の仕事を終える前に、窯のそばへ来た息子を嗜める。
彼女にとっては、火を落とし、灰を均すのと変わらない習慣なのだろう。
「学者先生」
前掛けの紐を解きながら、ツィサナがこちらを見た。
「夕食は?」
「まだだ」
「昨日も、そう言っていたわね」
「調査には、食事を忘れるほどの集中が必要になる場合がある」
「一昨日も聞いた言い訳だわ」
彼女は前掛けを畳み、パンの籠を抱えた。
「今日は、うちで食べていって」
「聞き取り調査の続きということなら、異存はない」
「夕食よ」
間を置かずに訂正された。
「調査は、食べてから。あなた、食事まで仕事の名前で呼ばないと口に入れられないの?」
「目的を明確にしているだけだ」
「では目的は、空腹を止めること」
「調査対象の日常的な食生活を観察する意義もある」
ツィサナは私の顔をしばらく眺め、それから籠の中のパンへ目を落とした。
「焼きたての匂いに負けた人は、だいたいそういう顔をするわ」
「私の表情に、食欲を示す兆候があったとは思えない」
「窯へ入ってから、パンを七回見た」
「観察だ」
「八回目」
思わず籠へ向けた視線を、私は彼女へ戻した。
ツィサナの口元が、勝ちを急がない者のようにゆっくり緩む。
「食べていくのね」
「母親からの申し出を無下にすることは、父として望ましくない」
「今度は父親を連れてきたの?」
「私だ」
「それは知っているわ」
どうやら説明のどこかが不足していたらしい。しかし、ツィサナは笑いながら先に歩き始めてしまったため、父性の社会的意義について補足する機会は失われた。
共同窯を出るころには、斜面を渡る風から昼の温かさが消えかけていた。
ツィサナの家は、窯から坂を少し下ったところにある。彼女が籠を抱え直すたび、布の隙間から焼きたての香りが漏れ、私の歩調を慎重かつ合理的に速めた。
「持とう」
私が籠へ手を伸ばすと、ツィサナは少し驚いたように眉を上げた。
「白衣を引っかける手で?」
「運搬能力と衣服管理能力には、直接の相関はない」
「では、こちらをお願い」
渡されたのは、香草を入れた小さな袋だった。片手に収まり、ほとんど重さを感じない。
「信用されていない気がする」
「学者先生には、社会的信用を獲得する才能があまりないのでしょう?」
以前の会話を覚えていたらしい。
「否定はしない。詐欺師と呼ばれることは珍しくないし、子どものいる家を訪ねれば、親はおおむね子どもを背後へ隠す」
「それを聞いて、どうして大きな籠を任せてもらえると思ったの」
「今回は、比較的順調に信頼関係を築けていると判断した」
「四日目で香草を任されたものね。大きな進歩だわ」
「この調子なら、十日後にはパンを一個運べる」
「焦らないことね。信頼は発酵と同じよ」
「温度管理を誤ると腐敗する点も?」
「そういうことを言うから、子どもを隠されるの」
彼女は肩越しに笑い、坂を下っていった。
低い石垣を越えると、小さな庭があり、軒下には束ねた香草が吊られていた。夕暮れの風が葉を擦り合わせ、乾いた匂いを漂わせている。
ツィサナが扉を開けると、煮込んだ豆と薪の残り香が流れ出した。奥に台所があり、その手前に丸い食卓が置かれている。椅子は三脚だった。背の高いものが二つと、座面の低い小さなものがひとつ。
私は手近な椅子を引いた。
「そちらではなくて」
ツィサナの声に、手を止める。
私が引きかけたのは、小さな椅子だった。座面には、色の褪せた布が一枚、角を揃えて畳まれている。
「そこはイリアの席よ」
「ああ。失礼した」
椅子を戻し、隣の席へ移る。ツィサナは小さな椅子の背へ手を添えた。
「今日はお客さまがいるから、少し詰めてね」
そのまま、椅子をわずかに横へずらす。私の膝が当たらないだけの空間をつくりながらも、食卓から離れすぎない位置だった。
誰も座っていない席を退けるのではなく、そこにいる子どもへ、客のために少し身体を寄せるよう頼んだのだ。
食卓には、三つの器が並べられた。私とツィサナの前には深い皿が置かれ、小さな椅子の前には浅い木の器が置かれる。
彼女は鍋から豆の煮込みをよそい、まず私の皿を満たした。
「多くないか」
「四日間、夕食を抜いた人の言葉とは思えないわ」
「毎日抜いたわけではない」
「食べた日は?」
「記憶にない」
「では、多くないわね」
反論する間に、私の皿にはさらに半匙が足された。
自分の分をよそったあと、ツィサナは小さな器にも一匙だけ落とした。湯気が細く立ち上り、誰もいない席の前で揺れる。
「イリア少年も食事を?」
「いいえ。匂いが好きなの」
ツィサナはパンを切り分け、そのうちの小さな一片を空の器の横へ置いた。
「生きていた頃から?」
「ええ。焼き上がる時間になると、窯の前へ来て、いつまでも座っていた。急かすくせに、焼けたばかりのパンは熱くて持てないの」
小さな椅子へ向けた彼女の目元が、わずかに和らいだ。
「今も待つのは下手だけれど、手を火傷する心配だけはなくなったわね」
悲しみを誘う言い方ではなかった。嘆きへ傾きそうな事実を、長く使い込んだ布で包むような、静かな声音だった。
私も椅子へ目を向けた。
座面の布には皺ひとつない。木の器から立つ湯気だけが、そこに置かれた時間を示している。
「イリア少年について、いくつか確認したい」
「食べてからと言ったでしょう」
「食事中の自然な会話は、記憶の想起に有効だ」
ツィサナは私の皿へ視線を落とした。
「では、まず自然に食べて」
正論だった。
私はパンをちぎった。表面は薄く硬く焼け、中にはまだ窯の熱が残っている。豆の煮込みへ浸すと、香草と肉の脂を吸い、指先へ柔らかな重さが伝わった。
口へ運ぶ。
香ばしい皮が歯の下で割れ、煮崩れた豆の甘さに、香草のほのかな苦みが重なった。
「非常に優れた仕上がりだ。皮と内部の水分量に適切な差があり、煮込みとの親和性も高い」
ツィサナは匙を持ったまま、私を見た。
「美味しい、でいいのよ」
「今の説明に、それ以上の情報が含まれている」
「作った人が聞きたい情報は、ひとつだけ」
私はもう一口食べた。
「美味い」
「よくできました」
「子どもに言うような褒め方はやめてもらいたい」
「では、次からは学術的に褒めるわ。発声は明瞭で、感想としての有用性も高かったです」
「からかっているな」
「観察よ」
ツィサナは涼しい顔で煮込みを口へ運んだ。
窯場で会う彼女は、常に火と時間を相手にしていた。家の食卓では動きが少しゆるみ、髪を束ねていた紐も幾分ほどけている。頬のそばへ落ちた黒髪を指で戻しながら、彼女は私の皿が空きかけていることを見逃さず、鍋へ手を伸ばした。
「もう十分だ」
「さっきから、皿を九回見ていたわ」
「それは観察ではない。視界に入っただけだ」
「十回目」
匙が再び私の皿へ沈んだ。
どうやら彼女の家では、学術的反論より給仕権限の方が強い。
「声が聞こえ始めたのは、ひと月ほど前だったな」
二杯目を受け入れながら尋ねると、ツィサナは頷いた。
「ええ」
「最初から、イリア少年の声として聞こえた?」
彼女は匙を口へ運び、ゆっくり飲み込んでから答えた。
「最初は、よく分からなかったわ。遠くで、何かが鳴いているような気がしただけ」
「言葉ではなかった?」
「ええ。何日か経ってから、お母さんって」
そこで言葉が途切れた。
ツィサナの視線が、小さな椅子へ向く。耳を澄ませていたかと思うと、やがて眉を寄せた。
「人のお話を盗み聞きしないの」
私は匙を止めた。
「イリア少年が何か言ったのか」
「学者先生は、自分の娘の話をするときだけ声が大きくなるって」
「ふむ」
私は小さな椅子を見た。当然ながら、何も聞こえない。
「正確な観察だ。父親とは娘について語る際、意識せずとも声に力が宿るものだからな」
ツィサナが、少し身を乗り出した。
「何人いるの?」
「娘たちか」
「それ以外に、声が大きくなる話題があるなら聞いてみたいけれど」
私は姿勢を正した。
この問いは、単純な数値だけを答えれば済むものではない。それぞれの出生事情や分類、現在の関係性を抜きに人数のみを提示すれば、実態を著しく損なう。
「定義による」
「人数を訊いて、定義から返されたのは初めてだわ」
「生物学的な親子関係に限定するか、創造者としての責任を含めるか、本人の同意を必要条件とするかによって変動する」
「本人の同意がない娘もいるの?」
「呼称については、現在も協議中だ」
「向こうは協議していることを知っている?」
「私から一方的に議題を提示している」
ツィサナは、しばらく私を見つめた。
「それは協議とは言わないわ」
「では、長期的交渉だ」
「相手が席についていない交渉も、たぶん交渉とは言わない」
「父は待つことにも長けている」
「さっきまでパンを待てなかった人が?」
論理的に不利な指摘だった。
小さな椅子の方から、何か返事があったらしい。ツィサナがそちらへ目をやり、口元を押さえる。
「笑わないの」
「何と言った?」
「お母さんの方が正しいって」
「イリア少年には、情報源の偏りを考慮するよう伝えてくれ」
ツィサナが椅子へ顔を向けた。
「学者先生が、負けを認めたくないそうよ」
「そのようには言っていない」
「でも、そういう意味でしょう?」
「翻訳に恣意性がある」
「異議は受け付けません」
彼女の口元にも、隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「結局、何人なの?」
「多い」
ひとまずそう答えると、ツィサナは声を立てて笑った。
「ずいぶん便利な答えに戻ったわね」
「全員について正確に説明すれば、煮込みが冷める」
「なら、食べ終わってから聞くわ」
「夜が明けるぞ」
笑いが一度止まり、彼女はまじまじと私を見た。
「本当に多いのね」
そして、私の皿へさらに煮込みを足そうとした。
「待て。話題と給仕量に因果関係がない」
「子どもが多いなら、元気でいないと」
「その理屈で、なぜ私の皿が満たされる」
「母親の申し出は無下にできないのでしょう?」
先ほどの私の言葉を、そのまま返された。
反論は可能だったが、受け取った煮込みを鍋へ戻すほど無作法ではない。私は父として、また調査員として、黙って匙を取った。
「娘たちは、学者先生が食事を忘れることを知っているの?」
「当然だ。皆、私の健康を深く案じている」
「叱られた?」
「直接、心配の言葉を受け取ったことはない」
ツィサナは匙を止めた。
「それは本当に案じているのかしら」
「父には分かる」
「便利ね、父親って」
「高度な感受性が必要だ」
「都合のいい解釈をする感受性?」
「娘の殺意の奥にある愛情を読み取る感受性だ」
今度こそ、ツィサナの手が完全に止まった。
「殺意?」
「比喩的表現を含む」
「どのくらい?」
「おおむね実力行使を伴う程度だ」
「それ、比喩じゃないわよ」
彼女は額へ手を当てた。小さな椅子へ目をやると、諭すように首を振る。
「真似をしては駄目よ。これは特殊なご家庭の話だから」
「健全な父娘関係だ」
「子どもに聞かせるには刺激が強いわ」
ツィサナはそう言いながらも、肩を震わせていた。
食事が終わるまで、彼女は何度かイリア少年へ言葉を向けた。
パン屑を床へ落とさないこと。大人の会話へ勝手に口を挟まないこと。明日の朝も早いのだから、いつまでも起きていないこと。
それらは、死者へ捧げる言葉には聞こえなかった。ありふれた夕食の席で、少し行儀の悪い子どもを嗜める母親の声だった。
返事を待つ時間は、そのたびに異なった。すぐに応じることもあれば、ツィサナが二度、匙を口へ運ぶほど長く黙ることもある。決まった間隔で独り言を挟んでいるわけではなかった。
私は会話の途中で質問の順番を変え、あえて言葉を切った。別の話題を挟んでから、先ほどと同じ問いを表現だけ変えて繰り返した。
イリア少年が答えるとされる時機は、こちらの都合に合わせてはくれなかった。
ある問いには返事がない。別の問いには、ツィサナが困った顔をして首を振った。
「それは言いたくないそうよ」
「まだ質問を口にしていない」
「あなたの顔を見れば分かるって」
「顔から質問内容まで推定できるなら、極めて高度な観察能力だ」
ツィサナは皿を重ねながら、こちらを見た。
「学者先生ほど、考えていることが顔に出る人も珍しいと思うけれど」
「失礼な評価だ。私は常に冷静で、論理的で、感情の制御にも優れている」
「今、少し胸を張ったでしょう」
「姿勢を整えただけだ」
「口元も得意そうになったわ」
「それは元からだ」
「そこは否定しないのね」
ツィサナは笑い、重ねた食器を抱えて立ち上がった。
我が娘たちが、私の姿を認めるなり身構えることがあるのも、こうした父の威厳を敏感に感じ取っているからに違いない。ツィサナへその見解を説明しようとしたが、彼女は「残りは片づけながら聞くわ」と台所へ向かってしまった。
私は食器を運ぶために立ち上がり、食卓の脇を回ろうとした。
小さな椅子が通路へ少し張り出している。背もたれへ手を掛け、机の下へ押し入れようとしたところで、ツィサナの声が飛んだ。
「待って」
彼女は皿を台所へ置き、すぐに戻ってきた。
私が椅子を押す手へ、窯仕事で硬くなった指が重なる。袖越しにも、掌に残った温かさが伝わった。
「まだ座っているから」
責める声ではなかった。
ツィサナは私の手から椅子を受け取ると、先ほどと同じ位置へ静かに引き戻した。床を擦る脚の音は、短く、やけに明瞭に聞こえた。
「ああ。すまない」
「今日はよく謝るのね」
「比較的早い段階で、社会的信頼の獲得に成功しつつある」
「香草を運んだだけで?」
「椅子に触れても、家から追い出されていない」
ツィサナは私の袖から手を離し、少し呆れたように笑った。
「あなたの成功基準、ずいぶん低いのね」
「長期的な発展には、小さな成功の認識が重要だ」
「では、次は食器をひとつ運んでみる?」
「重大な進展だ」
彼女は重ねた皿の一番上から、空になった木の器を一枚取った。それを私へ渡そうとして、ふと小さな椅子の前を見た。
「これは、まだね」
私の手を避け、その器だけを食卓へ戻す。
豆の煮込みは冷め始め、表面には薄い膜が張っていた。パンも置かれたときの形を保ち、欠けた部分はない。
座面には誰もいない。
それでも私は、椅子と食卓のあいだへ足を踏み入れることができなかった。そこへ足を置けば、見えない小さな膝へ触れてしまう。
いつの間にか、そんなためらいが、私の中にも生まれていた。
——to be the next scene.




