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Ghost Noise 〜耳底に沈む音〜  作者: 矢崎 那央
第1幕『耳を失くし、死者の声を得る』
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7/18

Scene6:『二人分の夕食』


 村へ入って、四日目になった。


 朝は診療所で患者を診察し、昼を過ぎると、ダヴィトと向かい合って記録を照合した。同じ質問を順序だけ変えて尋ね、返答に用いられた語句を昨日のものと比べる。

 夕方になれば共同窯へ足を運び、最後のパンが火から出されるまで、ツィサナの仕事を眺めながら話を聞いた。


 そのあいだ、彼女の証言はほとんど揺れなかった。


 イリア少年は朝、彼女を起こす。窯へ向かう道では、家々の煙や道端の花について話しかけてくる。仕事中はおおむね静かにしているが、パンが焼き上がる時刻になると、昔と変わらず窯の近くへ寄ってくるらしい。夜には彼女と連れ立って家へ帰り、眠る前までそばにいる。


 ツィサナは、それらを飾ろうとしなかった。私に信じさせるための言葉を探すこともなく、昨日と同じ問いには、昨日と同じ程度の面倒くささを滲ませて答えた。

 四日も繰り返していると、調べているのが私なのか、忍耐力を試されているのが私なのか、次第に判別が難しくなってくる。


 「今日は、昨日より少し遅かったわね」


 共同窯へ入るなり、ツィサナが背中を向けたまま言った。

 長い柄の窯板を使い、焼き上がったパンをひとつずつ引き出している。窯口から熱が吐き出されるたび、束ねた黒髪の先が、汗ばんだ首筋の上で揺れた。


 「私の足音を聞き分けられるのか」


 「白衣が扉に引っかかる音なら」


 彼女は窯板を抱えたまま振り返り、私の足元を顎で示した。

 見ると、扉の下枠から突き出た木片に、白衣の裾が絡みついていた。半歩進むたびに布が引かれ、私の訪問を律儀に告げていたらしい。


 「なるほど。聴力とは無関係の、極めて高度な観察能力だ」


 裾を外しながら言うと、ツィサナは窯板の先でパンを籠へ滑らせた。


 「ええ。そういうことにしてあげる」


 「恩を着せられる理由が分からない」


 「四日も通ってきて、毎日どこかに白衣を引っかける人へ、恥をかかせないための配慮よ」


 「昨日は引っかけていない」


 「粉袋を倒したでしょう」


 「記憶力まで優れているとは」


 「学者先生が分かりやすいだけ」


 火傷の跡が残る指で、彼女は焼けた表面を軽く押した。音を聞く代わりに、指へ戻る弾力と、皮の割れ方で焼き具合を確かめている。ひとつを裏返し、底へ触れたところで、その手が止まった。


 視線が窯の脇へ流れる。


 そこには、口を縛った小麦粉の袋と、低い木箱が置かれているだけだった。


 「分かっているわ。焦げた端は、あとであげるから」


 ツィサナは耳を傾けるように顔を少し傾けた。右耳の銀の鈴が、熱を含んだ空気の中でわずかに揺れる。


 「先につまんだら、夕食が入らないでしょう。昨日も同じことを言ったわよ」


 返事を待ってから、彼女は籠へ布を掛けた。


 私に見せるための芝居には見えなかった。誰かが見ているときだけ行われる動作には、どこか余分な間や、相手の反応を窺う視線が混じるものだ。ツィサナには、それがない。


 一日の仕事を終える前に、窯のそばへ来た息子を嗜める。


 彼女にとっては、火を落とし、灰を均すのと変わらない習慣なのだろう。


 「学者先生」


 前掛けの紐を解きながら、ツィサナがこちらを見た。


 「夕食は?」


 「まだだ」


 「昨日も、そう言っていたわね」


 「調査には、食事を忘れるほどの集中が必要になる場合がある」


 「一昨日も聞いた言い訳だわ」


 彼女は前掛けを畳み、パンの籠を抱えた。


 「今日は、うちで食べていって」


 「聞き取り調査の続きということなら、異存はない」


 「夕食よ」


 間を置かずに訂正された。


 「調査は、食べてから。あなた、食事まで仕事の名前で呼ばないと口に入れられないの?」


 「目的を明確にしているだけだ」


 「では目的は、空腹を止めること」


 「調査対象の日常的な食生活を観察する意義もある」


 ツィサナは私の顔をしばらく眺め、それから籠の中のパンへ目を落とした。


 「焼きたての匂いに負けた人は、だいたいそういう顔をするわ」


 「私の表情に、食欲を示す兆候があったとは思えない」


 「窯へ入ってから、パンを七回見た」


 「観察だ」


 「八回目」


 思わず籠へ向けた視線を、私は彼女へ戻した。


 ツィサナの口元が、勝ちを急がない者のようにゆっくり緩む。


 「食べていくのね」


 「母親からの申し出を無下にすることは、父として望ましくない」


 「今度は父親を連れてきたの?」


 「私だ」


 「それは知っているわ」


 どうやら説明のどこかが不足していたらしい。しかし、ツィサナは笑いながら先に歩き始めてしまったため、父性の社会的意義について補足する機会は失われた。


 共同窯を出るころには、斜面を渡る風から昼の温かさが消えかけていた。

 ツィサナの家は、窯から坂を少し下ったところにある。彼女が籠を抱え直すたび、布の隙間から焼きたての香りが漏れ、私の歩調を慎重かつ合理的に速めた。


 「持とう」


 私が籠へ手を伸ばすと、ツィサナは少し驚いたように眉を上げた。


 「白衣を引っかける手で?」


 「運搬能力と衣服管理能力には、直接の相関はない」


 「では、こちらをお願い」


 渡されたのは、香草を入れた小さな袋だった。片手に収まり、ほとんど重さを感じない。


 「信用されていない気がする」


 「学者先生には、社会的信用を獲得する才能があまりないのでしょう?」


 以前の会話を覚えていたらしい。


 「否定はしない。詐欺師と呼ばれることは珍しくないし、子どものいる家を訪ねれば、親はおおむね子どもを背後へ隠す」


 「それを聞いて、どうして大きな籠を任せてもらえると思ったの」


 「今回は、比較的順調に信頼関係を築けていると判断した」


 「四日目で香草を任されたものね。大きな進歩だわ」


 「この調子なら、十日後にはパンを一個運べる」


 「焦らないことね。信頼は発酵と同じよ」


 「温度管理を誤ると腐敗する点も?」


 「そういうことを言うから、子どもを隠されるの」


 彼女は肩越しに笑い、坂を下っていった。


 低い石垣を越えると、小さな庭があり、軒下には束ねた香草が吊られていた。夕暮れの風が葉を擦り合わせ、乾いた匂いを漂わせている。


 ツィサナが扉を開けると、煮込んだ豆と薪の残り香が流れ出した。奥に台所があり、その手前に丸い食卓が置かれている。椅子は三脚だった。背の高いものが二つと、座面の低い小さなものがひとつ。


 私は手近な椅子を引いた。


 「そちらではなくて」


 ツィサナの声に、手を止める。


 私が引きかけたのは、小さな椅子だった。座面には、色の褪せた布が一枚、角を揃えて畳まれている。


 「そこはイリアの席よ」


 「ああ。失礼した」


 椅子を戻し、隣の席へ移る。ツィサナは小さな椅子の背へ手を添えた。


 「今日はお客さまがいるから、少し詰めてね」


 そのまま、椅子をわずかに横へずらす。私の膝が当たらないだけの空間をつくりながらも、食卓から離れすぎない位置だった。


 誰も座っていない席を退けるのではなく、そこにいる子どもへ、客のために少し身体を寄せるよう頼んだのだ。


 食卓には、三つの器が並べられた。私とツィサナの前には深い皿が置かれ、小さな椅子の前には浅い木の器が置かれる。


 彼女は鍋から豆の煮込みをよそい、まず私の皿を満たした。


 「多くないか」


 「四日間、夕食を抜いた人の言葉とは思えないわ」


 「毎日抜いたわけではない」


 「食べた日は?」


 「記憶にない」


 「では、多くないわね」


 反論する間に、私の皿にはさらに半匙が足された。


 自分の分をよそったあと、ツィサナは小さな器にも一匙だけ落とした。湯気が細く立ち上り、誰もいない席の前で揺れる。


 「イリア少年も食事を?」


 「いいえ。匂いが好きなの」


 ツィサナはパンを切り分け、そのうちの小さな一片を空の器の横へ置いた。


 「生きていた頃から?」


 「ええ。焼き上がる時間になると、窯の前へ来て、いつまでも座っていた。急かすくせに、焼けたばかりのパンは熱くて持てないの」


 小さな椅子へ向けた彼女の目元が、わずかに和らいだ。


 「今も待つのは下手だけれど、手を火傷する心配だけはなくなったわね」


 悲しみを誘う言い方ではなかった。嘆きへ傾きそうな事実を、長く使い込んだ布で包むような、静かな声音だった。


 私も椅子へ目を向けた。


 座面の布には皺ひとつない。木の器から立つ湯気だけが、そこに置かれた時間を示している。


 「イリア少年について、いくつか確認したい」


 「食べてからと言ったでしょう」


 「食事中の自然な会話は、記憶の想起に有効だ」


 ツィサナは私の皿へ視線を落とした。


 「では、まず自然に食べて」


 正論だった。


 私はパンをちぎった。表面は薄く硬く焼け、中にはまだ窯の熱が残っている。豆の煮込みへ浸すと、香草と肉の脂を吸い、指先へ柔らかな重さが伝わった。


 口へ運ぶ。


 香ばしい皮が歯の下で割れ、煮崩れた豆の甘さに、香草のほのかな苦みが重なった。


 「非常に優れた仕上がりだ。皮と内部の水分量に適切な差があり、煮込みとの親和性も高い」


 ツィサナは匙を持ったまま、私を見た。


 「美味しい、でいいのよ」


 「今の説明に、それ以上の情報が含まれている」


 「作った人が聞きたい情報は、ひとつだけ」


 私はもう一口食べた。


 「美味い」


 「よくできました」


 「子どもに言うような褒め方はやめてもらいたい」


 「では、次からは学術的に褒めるわ。発声は明瞭で、感想としての有用性も高かったです」


 「からかっているな」


 「観察よ」


 ツィサナは涼しい顔で煮込みを口へ運んだ。


 窯場で会う彼女は、常に火と時間を相手にしていた。家の食卓では動きが少しゆるみ、髪を束ねていた紐も幾分ほどけている。頬のそばへ落ちた黒髪を指で戻しながら、彼女は私の皿が空きかけていることを見逃さず、鍋へ手を伸ばした。


 「もう十分だ」


 「さっきから、皿を九回見ていたわ」


 「それは観察ではない。視界に入っただけだ」


 「十回目」


 匙が再び私の皿へ沈んだ。


 どうやら彼女の家では、学術的反論より給仕権限の方が強い。


 「声が聞こえ始めたのは、ひと月ほど前だったな」


 二杯目を受け入れながら尋ねると、ツィサナは頷いた。


 「ええ」


 「最初から、イリア少年の声として聞こえた?」


 彼女は匙を口へ運び、ゆっくり飲み込んでから答えた。


 「最初は、よく分からなかったわ。遠くで、何かが鳴いているような気がしただけ」


 「言葉ではなかった?」


 「ええ。何日か経ってから、お母さんって」


 そこで言葉が途切れた。


 ツィサナの視線が、小さな椅子へ向く。耳を澄ませていたかと思うと、やがて眉を寄せた。


 「人のお話を盗み聞きしないの」


 私は匙を止めた。


 「イリア少年が何か言ったのか」


 「学者先生は、自分の娘の話をするときだけ声が大きくなるって」


 「ふむ」


 私は小さな椅子を見た。当然ながら、何も聞こえない。


 「正確な観察だ。父親とは娘について語る際、意識せずとも声に力が宿るものだからな」


 ツィサナが、少し身を乗り出した。


 「何人いるの?」


 「娘たちか」


 「それ以外に、声が大きくなる話題があるなら聞いてみたいけれど」


 私は姿勢を正した。


 この問いは、単純な数値だけを答えれば済むものではない。それぞれの出生事情や分類、現在の関係性を抜きに人数のみを提示すれば、実態を著しく損なう。


 「定義による」


 「人数を訊いて、定義から返されたのは初めてだわ」


 「生物学的な親子関係に限定するか、創造者としての責任を含めるか、本人の同意を必要条件とするかによって変動する」


 「本人の同意がない娘もいるの?」


 「呼称については、現在も協議中だ」


 「向こうは協議していることを知っている?」


 「私から一方的に議題を提示している」


 ツィサナは、しばらく私を見つめた。


 「それは協議とは言わないわ」


 「では、長期的交渉だ」


 「相手が席についていない交渉も、たぶん交渉とは言わない」


 「父は待つことにも長けている」


 「さっきまでパンを待てなかった人が?」


 論理的に不利な指摘だった。


 小さな椅子の方から、何か返事があったらしい。ツィサナがそちらへ目をやり、口元を押さえる。


 「笑わないの」


 「何と言った?」


 「お母さんの方が正しいって」


 「イリア少年には、情報源の偏りを考慮するよう伝えてくれ」


 ツィサナが椅子へ顔を向けた。


 「学者先生が、負けを認めたくないそうよ」


 「そのようには言っていない」


 「でも、そういう意味でしょう?」


 「翻訳に恣意性がある」


 「異議は受け付けません」


 彼女の口元にも、隠しきれない笑みが浮かんでいた。


 「結局、何人なの?」


 「多い」


 ひとまずそう答えると、ツィサナは声を立てて笑った。


 「ずいぶん便利な答えに戻ったわね」


 「全員について正確に説明すれば、煮込みが冷める」


 「なら、食べ終わってから聞くわ」


 「夜が明けるぞ」


 笑いが一度止まり、彼女はまじまじと私を見た。


 「本当に多いのね」


 そして、私の皿へさらに煮込みを足そうとした。


 「待て。話題と給仕量に因果関係がない」


 「子どもが多いなら、元気でいないと」


 「その理屈で、なぜ私の皿が満たされる」


 「母親の申し出は無下にできないのでしょう?」


 先ほどの私の言葉を、そのまま返された。


 反論は可能だったが、受け取った煮込みを鍋へ戻すほど無作法ではない。私は父として、また調査員として、黙って匙を取った。


 「娘たちは、学者先生が食事を忘れることを知っているの?」


 「当然だ。皆、私の健康を深く案じている」


 「叱られた?」


 「直接、心配の言葉を受け取ったことはない」


 ツィサナは匙を止めた。


 「それは本当に案じているのかしら」


 「父には分かる」


 「便利ね、父親って」


 「高度な感受性が必要だ」


 「都合のいい解釈をする感受性?」


 「娘の殺意の奥にある愛情を読み取る感受性だ」


 今度こそ、ツィサナの手が完全に止まった。


 「殺意?」


 「比喩的表現を含む」


 「どのくらい?」


 「おおむね実力行使を伴う程度だ」


 「それ、比喩じゃないわよ」


 彼女は額へ手を当てた。小さな椅子へ目をやると、諭すように首を振る。


 「真似をしては駄目よ。これは特殊なご家庭の話だから」


 「健全な父娘関係だ」


 「子どもに聞かせるには刺激が強いわ」


 ツィサナはそう言いながらも、肩を震わせていた。


 食事が終わるまで、彼女は何度かイリア少年へ言葉を向けた。


 パン屑を床へ落とさないこと。大人の会話へ勝手に口を挟まないこと。明日の朝も早いのだから、いつまでも起きていないこと。


 それらは、死者へ捧げる言葉には聞こえなかった。ありふれた夕食の席で、少し行儀の悪い子どもを嗜める母親の声だった。


 返事を待つ時間は、そのたびに異なった。すぐに応じることもあれば、ツィサナが二度、匙を口へ運ぶほど長く黙ることもある。決まった間隔で独り言を挟んでいるわけではなかった。


 私は会話の途中で質問の順番を変え、あえて言葉を切った。別の話題を挟んでから、先ほどと同じ問いを表現だけ変えて繰り返した。


 イリア少年が答えるとされる時機は、こちらの都合に合わせてはくれなかった。


 ある問いには返事がない。別の問いには、ツィサナが困った顔をして首を振った。


 「それは言いたくないそうよ」


 「まだ質問を口にしていない」


 「あなたの顔を見れば分かるって」


 「顔から質問内容まで推定できるなら、極めて高度な観察能力だ」


 ツィサナは皿を重ねながら、こちらを見た。


 「学者先生ほど、考えていることが顔に出る人も珍しいと思うけれど」


 「失礼な評価だ。私は常に冷静で、論理的で、感情の制御にも優れている」


 「今、少し胸を張ったでしょう」


 「姿勢を整えただけだ」


 「口元も得意そうになったわ」


 「それは元からだ」


 「そこは否定しないのね」


 ツィサナは笑い、重ねた食器を抱えて立ち上がった。


 我が娘たちが、私の姿を認めるなり身構えることがあるのも、こうした父の威厳を敏感に感じ取っているからに違いない。ツィサナへその見解を説明しようとしたが、彼女は「残りは片づけながら聞くわ」と台所へ向かってしまった。


 私は食器を運ぶために立ち上がり、食卓の脇を回ろうとした。

 小さな椅子が通路へ少し張り出している。背もたれへ手を掛け、机の下へ押し入れようとしたところで、ツィサナの声が飛んだ。


 「待って」


 彼女は皿を台所へ置き、すぐに戻ってきた。

 私が椅子を押す手へ、窯仕事で硬くなった指が重なる。袖越しにも、掌に残った温かさが伝わった。


 「まだ座っているから」


 責める声ではなかった。


 ツィサナは私の手から椅子を受け取ると、先ほどと同じ位置へ静かに引き戻した。床を擦る脚の音は、短く、やけに明瞭に聞こえた。


 「ああ。すまない」


 「今日はよく謝るのね」


 「比較的早い段階で、社会的信頼の獲得に成功しつつある」


 「香草を運んだだけで?」


 「椅子に触れても、家から追い出されていない」


 ツィサナは私の袖から手を離し、少し呆れたように笑った。


 「あなたの成功基準、ずいぶん低いのね」


 「長期的な発展には、小さな成功の認識が重要だ」


 「では、次は食器をひとつ運んでみる?」


 「重大な進展だ」


 彼女は重ねた皿の一番上から、空になった木の器を一枚取った。それを私へ渡そうとして、ふと小さな椅子の前を見た。


 「これは、まだね」


 私の手を避け、その器だけを食卓へ戻す。

 豆の煮込みは冷め始め、表面には薄い膜が張っていた。パンも置かれたときの形を保ち、欠けた部分はない。


 座面には誰もいない。


 それでも私は、椅子と食卓のあいだへ足を踏み入れることができなかった。そこへ足を置けば、見えない小さな膝へ触れてしまう。


 いつの間にか、そんなためらいが、私の中にも生まれていた。



——to be the next scene.

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