Scene5:『死んだ息子は、パンを待つ』
診察を終えると、ニノ医師は患者ごとの記録を束ね、壁際の書棚へ戻していった。粗い紙を麻紐で綴じただけの、薄い冊子である。背に記された名前を確かめながら、彼女はそれらを発症順に並べていく。
ただ、一冊だけは棚へ戻さなかった。ほかの記録から少し離し、机の端へ伏せて置く。
「それは?」
私が訊くと、医師は冊子へ目を落とした。答える前に、指先で表紙の角を一度なぞる。
「同じ症例として扱っていいのか、判断がつかなかったんです」
「聴覚の異常ではない?」
「始まり方は同じです。人の声や窯の音が聞こえにくくなった。診ても、耳には何の異常もありません」
「何が違うと?」
ニノ医師はすぐには答えなかった。書棚へ向き直りかけ、結局、伏せていた冊子を私の前へ滑らせる。
「ほかの人たちは、獣のような音を聞いているでしょう?」
「その患者は違うのか」
「獣の音ではなく、"人の声"を聞いています」
私は冊子を開いた。
最初の頁に、ツィサナ・ヴァルデリという名が記されている。共同窯の管理を任されているパン職人。聴覚の低下は認められるものの、通常の会話はまだ可能だという。ほかの患者と同様、耳にも神経にも器質的な異常は見つかっていない。
異なるのは、診察記録の末尾に添えられた一行だけである。
<六年前に死亡した実子と、現在も継続的に会話していると訴える>
「それで、念のため記録を分けたのか」
「病気の一部なのか、息子さんを亡くしたことによるものなのか、それとも、初めから関係のない話なのか。どれかに決めてしまえば、ほかの可能性を見落とす気がして」
「賢明だ」
分類は、理解のために行う。
だが、名前のつかないものを既知の箱へ押し込めれば、分類そのものが観察を曇らせることもある。少なくとも、ほかの患者と同じだと決めつけて扱うよりは、こうして分けておく方がよい。
「本人は、診療所には来ていないのか」
冊子から顔を上げると、ニノ医師は肩をすくめた。
「来ない、というより……来られないんでしょうね。あの人、窯を離れられないんです」
「頼めば応じる様子はある?」
「ええ、話は聞いてくれます。ただ、仕事を止めてまで来る気はないみたいで」
ニノ医師は苦笑して、窓の外へ顎をしゃくった。
「煙、見えますか。あそこです。今も焼いてるはずですよ」
診療所を出て斜面を下ると、石造りの平屋が見えてきた。
壁の上半分は長年の煙に燻され、開け放たれた扉からは、火に温められた空気が小麦と薪の匂いを連れて流れ出している。近づくにつれ、窯の中で薪が弾ける音と、作業台へ生地を打ちつける鈍い音が重なった。
室内では、数人の女が長い台を囲んで働いていた。小麦粉の広がった板の上に、丸められた生地が並び、白い布の下でゆっくり膨らんでいる。奥の石窯では炎が赤く揺れ、その光が煤けた床を低く舐めていた。
窯口の前に、黒髪をひとつに束ねた女が立っている。
長い柄の窯掻きを両手で引き、燃え残った薪を奥へ押し込んでいた。腕は細いが、重い道具を扱う手つきには迷いがない。柄を返すたび、葡萄酒色の長衣を包む青灰色の前掛けが腰の動きに沿って張り、また緩んだ。
窯の熱を逃がすためか、襟元はひとつ緩められていた。日に焼けた首筋から鎖骨へ汗が細く伝い、窯火を受けて一瞬だけ赤く光る。
「ツィサナ」
ニノ医師が声をかけると、女は窯掻きを引く手を止めた。
こちらを振り向いた拍子に、右耳の銀の鈴が黒髪の脇で揺れた。鳴ったのかどうかは分からない。薪の爆ぜる音が、その可能性をすぐに覆い隠した。
ツィサナは窯掻きを壁へ立てかけると、私たちの顔を順に見た。
「診療所へ来てってふうに、言ってなかったかしら?」
ニノ医師は軽く息を吐いた。
「言いましたよ。でも、来てくれないから、こっちが来たんです」
「パンが私の都合に合わせて発酵を止めてくれるなら、喜んで行ったわ」
ツィサナは前掛けで手を拭った。指にも手の甲にも、小さな火傷の跡がいくつも残っている。
「昼寝を始めた生地を叩き起こすのは、病人を起こすより大変なのよ」
そう言ってから、彼女は私へ目を移した。
「その白い人が、街から来たお医者様?」
「学術調査員だ」
私が訂正すると、ツィサナは白衣の襟から裾まで、値踏みをするようにゆっくり眺めた。やがて視線を私の顔へ戻し、口元だけで笑う。
「では、学者先生ね。お医者様より、質問が長そう」
私が名乗ると、彼女は軽く頷き、すぐ作業台へ戻った。
「ここで話をしても構わないか」
「手を動かしていてもいいなら」
ツィサナは生地を掌で押し、内部の空気を抜いた。柔らかな塊が、湿った低い音を立てる。
「それと、話すときは口元を見せて。耳の悪い女へ背中から質問するのは、学者先生らしくないでしょう」
私は立つ位置を半歩ずらした。
「配慮が足りなかった」
「素直に謝れるのね。少し意外」
「そうだろうか」
「もっと、理屈を並べて絶対に謝らない人かと思ってた」
第一印象は、あまり良くなかったらしい。
もっとも、それには慣れている。
私はどうやら、社会的信頼という概念と相性が悪い。初手で胡散臭いと言われることなど珍しくない。
『詐欺師かなにかですか?』という言葉は、既に聞き飽きた。子どものいる家を訪ねれば、親が反射的に子どもを後ろへ隠す光景も何度か見た。
……あれは地味に傷つく。
私は別に誘拐犯ではない。父性に満ちた科学者である。
だが、今回は比較的順調な方だろう。まだ窯へ放り込まれてはいない。
「今、何か失礼な基準で安心しなかった?」
「いや。初対面としては上々だと思っていた」
「その”上々”って、普段はどれだけ嫌われてるの」
「石を投げられなければ成功と言える」
ツィサナは一度きょとんとしたあと、肩を震わせて吹き出した。
「ふふっ……。それ、本気で言ってる?」
「経験則だ」
「学者先生って、面白い人なのね」
「よく変人とは言われる」
「そこは否定しないのね」
「統計的事実は覆せない」
「統計に逃げる人って、だいたい本人が原因なのよ」
そう言って笑いながら、彼女は生地をくるりと返した。掌の下で、生地は生き物のように柔らかく形を変えていく。
なるほど。訂正しよう。
今回の初対面は、かなり幸先が良い。
「聞こえにくくなったのは、いつからだ」
私が尋ねると、彼女は生地を折り畳みながら答えた。
「ひと月と少し前。最初に気づいたのは、窯の扉を閉めたときね」
「そこで、音がしなかったと?」
「ええ。閉めた感触はあるのに、いつもの音だけがしないものだから、ちゃんと閉じていないと思って、三度も開け直したわ」
生地の端を内側へ畳み、手の腹で押し込む。
「後ろにいた子が笑っていた。窯の扉より先に、私の頭が壊れたんじゃないかって」
「実際には、閉まっていた」
「ええ。窯も私の頭も、今のところはね」
ツィサナは整えた生地を籠へ移した。
「そのあと、何が聞こえるようになった?」
私が尋ねると、ツィサナの指がわずかに止まった。
ほんの一瞬だったが、その間だけ、周囲の音が遠のいたように感じられた。
彼女はすぐに動きを再開する。
「息子の声です」
窯の中で薪が崩れた。乾いた音が、言葉の余韻を押し流す。
誰も反応しなかった。ニノ医師も、ダヴィトも、作業台の女たちも、ただ手を動かし続けている。音だけが、変わらずそこにあった。
「イリアが帰ってきたの」
ツィサナは言った。
その声は、特別なことを告げる調子ではなかった。むしろ、あまりにも自然で、説明を必要としない事実のように響いた。
「最初に聞こえたとき、その声は何と言った」
「お母さん、と」
ツィサナは籠を抱え上げ、窯のそばへ運ぶ。
「一度だけか」
「いいえ。それから毎日」
「声は、今も聞こえている?」
ツィサナは答えなかった。籠の前へ屈んだまま、わずかに顔を傾ける。右耳の鈴が頬に触れたが、やはり音は分からない。
私の耳には、薪の燃える音と、生地を扱う音しか届いていない。
ツィサナは、窯と作業台の間に置かれた腰掛けへ視線を向けた。
……そこには何もない。
ただ、彼女の視線だけが、そこに何かを置いていた。
「だめよ。まだ焼けていないでしょう」
声の調子が変わった。
誰かに向けているというより、そこにいることを疑っていない話し方だった。
彼女は少し間を置いた。
「端だけでも同じです。生のまま食べて、お腹が痛いって泣くのは誰?」
さらに間が続く。
周囲の女たちは、顔を上げない。誰もその方向を見ない。作業の音だけが、変わらず続いている。
ツィサナは小さく息を吐いた。
「そんな顔をしても駄目。六年経っても、待つのが下手ね」
その言葉に、返事はなかった。少なくとも、私には聞こえなかった。
「今、誰と話していた」
問いかけると、ツィサナは空いた腰掛けから、ゆっくり私へ目を移した。
「息子です」
迷いのない答えだった。
「御子息は、六年前に亡くなったと聞いているが」
彼女の表情は変わらない。
「帰ってきたの」
その言葉だけが、作業場に漂う熱気から切り離されたように、静かに耳へ届いた。
「亡くなった当時と同じ姿で?」
「いいえ」
ツィサナは、先ほどまで話しかけていた腰掛けへ顔を戻した。
そこには誰もいない。
「声だけ」
周囲の手は止まらない。女たちは土を練り、器の縁を整え、窯へ薪をくべている。誰ひとりとして、彼女の言葉に反応しなかった。
「御子息は、今もそこにいるのか」
ツィサナはわずかに頷いた。
「いるわ」
「私の姿も見えている?」
「ええ」
短く答えたあと、彼女はまた耳を傾けた。何かを聞いているように見える。
だが、私の耳に届くのは、土を擦る指先と、窯の中で薪が崩れる音だけだった。
「御子息は、何か言っているか」
ツィサナの眉が、ほんのわずかに動いた。
すぐには答えず、空いた腰掛けを見たまま口を開く。
「御子息ではなくて、イリアと呼んでください」
声は穏やかだったが、その言葉だけは、触れれば指を切りそうなほど硬かった。
「イリアには名前があります」
「……失礼した。イリアは、何と?」
彼女はしばらく黙っていた。
空間へ向けて視線を動かし、誰かの言葉を最後まで聞き取ろうとするように、わずかに首を傾ける。
「白い服の人は、お医者さんなのかって」
「医師ではない。学者だ」
ツィサナは腰掛けへ向き直り、幼い者にも分かるよう、言葉をひとつずつ置いていく。
「お医者様じゃなくて、学者さんですって」
そこで、彼女の口元がかすかに緩んだ。
「人の話を盗み聞きしないの。今は大人が話しているでしょう」
彼女は口を閉じた。沈黙が落ちる。
薪が爆ぜ、乾いた音が作業場の奥まで走った。私は反射的にそちらへ目を向け、それから再び、誰もいない腰掛けへ耳を澄ませた。
何も聞こえない。
「今度は、何と?」
ツィサナは、すぐにはこちらを見なかった。
聞こえない相手の言葉が終わるのを待ってから、ようやく顔を上げる。その視線は私に向けられているはずなのに、どこか私の奥を通り過ぎているように見えた。
「学者先生には、僕の声が聞こえるのかって」
「聞こえない」
私は答えた。
ツィサナは再び、何もない場所へ顔を向ける。
「聞こえないそうよ」
それから、しばらく動かなかった。何かを聞いているのか。それとも、返事が来ることを待っているのか。
私には、その違いさえ判別できない。
やがて彼女は、ゆっくりとこちらへ目を戻した。
「今は、だって」
——to be the next scene.




