Scene4:『獣のいない声』
男は、診察が始まってからずっと、部屋の隅を見ていた。
閉ざされた窓の下に、空の椅子が一脚置かれている。古い漆喰壁には雨染みが広がり、その上を窓硝子越しの午後の光が薄く這っていた。椅子の脚も、壁際に積もった埃も、私の目にはごくありふれたものとして映っている。
そこには、何もいない。
少なくとも、私には見えなかった。
先ほどから男に付き添っていた女が、寝台の脇へ椅子を寄せた。村の診療所を預かるニノ医師だと、レヴァンから紹介されている。彼女は男の正面へ回ると、視界に入るよう肩へ手を置き、口の動きを見せながらゆっくりと尋ねた。
「今日は、もう聞こえるの?」
男は一度、聞き返した。それから何もない隅へ視線を残したまま、かすかに頷いた。
「朝から」
その声は、狭い診察室には不釣り合いなほど大きかった。自分の発した声がどれほど響いているのか、本人には確かめようがないのだろう。
私は彼の正面へ腰を下ろし、声を張り上げる代わりに、ニノ医師から紙と木炭筆を借りた。
《何が近くなった》
そう書いて見せると、男は紙を顔のすぐ近くまで引き寄せ、しばらく文字を目で追った。
「分かりません」
「分からない?」
聞こえないと知りながら、私は思わず声に出していた。質問を書き改め、今度は短く示す。
《何の音か》
男は乾いた唇を舐め、木炭の跡を見つめた。答えるまでに置かれた間は、記憶を探っているというより、自分の感覚にもっとも近い言葉を慎重に選んでいるように見えた。
「獣だと思います」
両手を膝の間へ挟み込み、肩を小さくすぼめる。
「でも、犬じゃない。狼でもない。もっと大きいものです。喉を鳴らしているんです。眠っている獣が、息をするたびに、奥の方で鳴るような……低い音が」
私は次の質問を書いた。
《どこから聞こえる》
男は窓の下の椅子を指した。伸ばされた指は、そのまま壁の染みをたどるように上がり、天井近くで止まった。ところが、すぐに違うとでもいうように首を振り、手を下ろして自分の胸元へ触れた。
「さっきは、あそこでした。でも、今はもっと近い」
ニノ医師が男の名を呼んだ。彼には聞こえていないはずだった。それでも彼女の指先が腕へ届くより早く、男は肩を大きく揺らした。視線だけは、なお空の椅子の辺りから離れない。
私は耳鏡を取り出し、外耳道から順に診察した。傷はなく、鼓膜にも炎症や穿孔は見当たらない。鼻腔や咽頭にも、耳管を塞ぐほどの腫れはなかった。
音叉を鳴らして耳元へ近づけたが、男は瞬きひとつしなかった。次に骨伝導を確かめるため、振動する柄を耳の後ろへ当てる。男はこちらの手元を見たあと、ゆっくり首を振った。
聞こえない、という意味だった。
隣では、音響解析を担当するダヴィトが小型の反応記録器を調整していた。男の耳の後ろへ細い端子を当て、同じ刺激をもう一度与える。箱の内部で、細い針が静止位置からわずかに振れた。
刺激そのものは、確かに届いている。しかし男は、何も聞こえなかったと答えた。
「これまでと同じです」
ニノ医師が腕を組んだ。抑えた声の底に、疲労が滲んでいる。
「神経は反応している」
私が針を見たまま言うと、ダヴィトも記録紙へ目を落として頷いた。
「少なくとも、この検査で拾える範囲では」
「それなのに、本人の意識には上がってこない」
音叉を机へ戻すと、金属の柄が木の天板に触れて小さな音を立てた。男はそれにも反応しなかった。
「幻聴でしょうか」
ニノ医師は声を落とし、患者の様子を窺いながら続けた。
「記録には、そう書いています。耳に異常が見つからず、ほかの誰にも聞こえない音を聞いているなら」
「現状の分類として妥当だな」
私は男の顔へ視線を戻した。頬は削げ、目の下には濃い影が沈んでいる。まぶたの縁は赤く、しばらくまともに眠れていないことだけは、検査を待つまでもなかった。
「ただし、彼が聞いているものの不在を証明するものではない。現在の検査法では、その発生源を確認できていない。それだけの可能性もある」
ニノ医師は答えず、唇を薄く結んだ。
そのとき、男が突然顔を上げた。
顎がわずかに右へ動き、視線が壁際から扉へ滑っていく。床に何かがいたなら、その動きを目で追ったようにも見えただろう。やがて扉の手前で目の動きが止まり、男は長く息を吐くと、膝の間へ顔を伏せた。
「行きました」
何が、と尋ねる者はいなかった。
最初の診察を終え、男は隣室へ移された。患者同士の証言が混じらないよう、彼が廊下へ出たあとで扉を閉め、筆談に使った紙も新しいものへ取り替えた。
二人目は、村の葡萄畑で働いている女だった。
難聴を自覚したのは十二日前。初めは、家の外から名を呼ばれても気づかない程度だったという。それが数日のうちに悪化し、やがて食卓を挟んで座る夫の声さえ、遠くから届くようになった。
耳を塞いだ覚えはない。それでも周囲の物音だけが、薄い布を一枚隔てた向こうへ移ってしまった。
異常な音を聞いたのは、その三日後だった。
「夜中に、呼吸の音で目が覚めたんです。誰かが寝台の下にいると思いました」
女は指を絡め、膝の上で固く握っていた。
灯りをつけても、寝台の下には何もいなかった。隣で寝ていた夫は目を覚まさず、翌朝になって床板を外して調べても、鼠の巣ひとつ見つからなかったという。
《それから毎晩?》
紙へ書いて見せると、女は首を振った。
「昼にも聞こえます」
《同じ音か》
「たぶん。濡れた鼻で、ゆっくり息を吸っているような音です」
そこまで話したところで、彼女の口元が硬くなった。絡めていた指に力が入り、節が白く浮かび上がる。
「匂いを、嗅がれている気がするんです」
木炭筆を走らせていた手を止めた。
音そのものと、音によって生じた印象は分けて記録しなければならない。彼女が知覚したのは、呼吸に似た音である。何者かに匂いを嗅がれているという感覚は、その音へ彼女自身が与えた意味だ。
本来、この二つは同じではない。
しかし、怯えたまま胸元を押さえる女を見ていると、すでに本人の中では切り離せないものになっているらしかった。
耳の診察結果は、最初の男と変わらない。外見上の異常はなく、刺激に対する神経反応も認められる。それでも本人の意識には、こちらが与えた音が届いていなかった。
その一方で、診察の途中、彼女は二度にわたって背後を振り返った。一度目は耳鏡を戻したとき、二度目はダヴィトが記録器の針を確認していたときだった。
どちらのときも、私には何も聞こえなかった。
三人目は、村の学校で文字を教えている男だった。
彼の症状はまだ軽く、正面から大きな声で話しかければ、言葉を聞き取ることができた。そのため、筆談は使わず、互いの口元が見える位置に椅子を置いた。
「異常な音を聞き始めたのは、いつだ」
「五日前です」
「どのような音だ」
男は眼鏡を外し、懐から取り出した布で硝子を拭いた。曇りも汚れも見当たらなかったが、彼は同じところを何度も擦った。
「最初は、子どもたちが壁を引っ掻いているのだと思いました」
「爪で?」
「爪というか……。少なくとも、人間の爪ではありません」
眼鏡を掛け直してから、男は自分の指先へ目を落とした。
「もっと硬いものです。獣の爪か、角の先か。そういうものが、石壁をゆっくり擦っている。そんな音がします」
「場所は特定できるか」
「できません」
答えは早かった。しかし、すぐに眉間へ皺が寄る。
「いえ……そのときには、できるんです」
「そのときには?」
「確かに、そこから聞こえる。でも、振り向くと、別の場所へ移っている」
言い終えた男は、何かを聞き損ねまいとするように口を閉ざした。
診療所の壁時計が、乾いた音を立てて針を進めた。男の目が動く。時計を見たのではない。私の肩越しに、背後の壁へ視線を据えている。
「今も聞こえているのか」
問いかけると、男は唇の前へ指を立てた。
私は口を閉じた。ニノ医師もダヴィトも、衣擦れすら立てないよう動きを止める。
薬缶の中で湯が細く鳴っていた。閉じた窓の向こうからは、荷車の軋みが遠く届いている。廊下のどこかで床板が一度鳴り、それきり静かになった。
男は息を止め、私の背後へ顔を傾けていた。数秒が過ぎたあと、ようやく肩から力が抜ける。
「違いました」
「何がだ」
「今のは、壁の向こうです」
男は眼鏡の位置を指で直し、声をさらに潜めた。
「私が聞くものは、もっと近い」
彼の耳にも、目立った異常は見つからなかった。
その日のうちに、私はさらに数人を診察し、すでに聞き取りを終えていた患者の記録にも目を通した。
証言の細部は、患者ごとに異なっている。ある者は、眠った大型獣が低く喉を鳴らすような音を聞いた。ある者は、耳元に湿った呼吸を感じた。石や木の表面を、硬い器官がゆっくり擦っていく音を訴える者もいた。遠くで短い鳴き声が上がり、それへ応じるように別の場所から声が返された、と証言した者もいる。
音の位置にも、聞こえる時刻にも規則性はない。山から聞こえたという者もいれば、屋根裏、床下、壁の内側を指す者もいた。同じ患者でさえ、聞こえる方角はそのたびに変わる。
ただし、症状の始まり方だけは、奇妙なほど似通っていた。最初に、周囲の音が遠ざかる。家族の声、仕事道具の音、家畜の鳴き声。これまで意識せずに聞いていた日常の一部が、ひとつずつ薄くなっていく。
そして、そこに空いた場所へ入り込むように、別の音が聞こえ始める。
患者同士には、互いの証言を聞かせていない。年齢も職業も生活圏も異なっている。それでも異常な音について尋ねると、誰もが、それを語るために動物の姿を借りた。
獣。大型の犬。山にいる何か。見たことのない生き物。
私は診察記録を日付順に並べ、机の上に広げた。
彼らの聴覚器官は、少なくとも確認できる範囲では壊れていない。音による刺激は神経へ届いており、反応も記録されている。にもかかわらず、彼らの意識からは人の声や生活音が失われ、その代わりに、存在しないはずの生き物の気配が入り込んでいた。
単なる難聴ではない。
一人の妄想として片づけることもできない。
診療所の外で、犬が吠えた。
短く乾いた、ごく普通の鳴き声だった。
私は顔を上げ、しばらくその余韻を待った。
記録に残されたどの音にも、それは似ていなかった。
——to be the next scene.




