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Ghost Noise 〜耳底に沈む音〜  作者: 矢崎 那央
第1幕『耳を失くし、死者の声を得る』
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Scene3:『聞こえない鐘』


 翌朝、空が明るくなる前に、私は調査員ギルドの支部へ戻った。

 市場にはまだ夜の湿り気が残っていた。畳まれた日除けの下で木箱が積まれ、通りの端では箒が石畳を擦っている。パン屋の煙突から細い煙が立ち始め、街のどこかで最初の鐘が鳴った。


 支部の前には、幌付きの荷馬車が停められていた。

 医療器具と食料の箱に交じって、細長い革張りのケースがいくつも積まれている。円筒式録音器の喇叭が、布の隙間から鈍く光っていた。


 荷台で固定紐を確かめていた若い男が、私に気づいて降りてきた。

 薄い外套の下から、襟の高いシャツが覗いている。眼鏡を指で押し上げると、彼は私の白衣を見てから、手を差し出した。


 「ダヴィト・ケレセリゼです。音響記録と神経反応の測定を担当しています」


 「よろしく頼む」


 握手を交わすと、ダヴィトはすぐには手を離さなかった。


 「先生の論文を読みました」


 私は彼を見た。


 「どれだ」


 「『器質的損傷を伴わない感覚欠落と、その外的要因について』です」


 「ほう」


 論文名を正確に記憶している。

 研究者として最低限の素養はあるらしい。


 「第五節の、患者が知覚できないことと、刺激が存在しないことを混同してはならない、という部分が印象に残っています」


 「そこまで読んだのなら、君は信用できる」


 「第六節以降も読みました」


 「では、少々時間を無駄にしたな。あの辺りは冗長だ」


 ダヴィトが眼鏡の奥で瞬きをした。


 「先生が書いたんですよね」


 「著者だからこそ、欠点を正確に把握している」


 彼はしばらく私の顔を見た後、小さく笑った。

 どうやら、学術的な敬意がいくらか増したようだった。間違いない。


 御者台では、レヴァンが昨日と同じ無精髭のまま待っていた。私たちが乗り込むと、短く手綱を鳴らす。

 荷馬車はまだ眠りの残る街を抜け、北へ向かう。

 家々の間を進むうちは、昨日と同じ音があった。

 荷車の車輪。開かれる戸板。水を汲む滑車。朝食を求める子供の声。

 それらは街から離れるにつれ、ひとつずつ背後へ落ちていく。

 最後まで残っていた鐘の音も、山裾へ差しかかる頃には聞こえなくなった。


 代わりに川が近づいた。

 道の脇を流れる水が岩へぶつかり、木々の間では鳥が鳴いている。風が枝を揺らすたび、葉の裏に溜まった雫が幌を叩いた。

 街ほど騒がしくはない。だが、山は静かではなかった。


 荷台の向かいで、ダヴィトは革張りの記録帳を開いていた。揺れる車上で文字を追いながら、紙の端を指で押さえている。


 「現地では、どこまで調べた」


 私が訊くと、彼は頁から顔を上げた。


 「音叉、打音、簡易聴力検査です。患者によって差はありますが、耳そのものに症状を説明できるほどの異常はありません」


 「神経反応は」


 「刺激に対する反応はあります。瞬きもするし、筋肉も動く。けれど、本人は聞こえなかったと言う」


 「嘘をついている様子は?」


 「少なくとも、私にはそう見えませんでした」


 ダヴィトは記録帳を閉じた。


 「だから先生が呼ばれたんです。耳が壊れていないのなら、次にどこを調べればいいのか。現地班では、そこから先へ進めなくなった」


 「耳が反応することと、人間が音を聞くことは同じではない」


 私は荷馬車の外へ目を向けた。川面の白い光が、木々の隙間を流れていく。


 「耳は振動を受け取る。だが、それを音として組み立てるのは脳だ。器官が正常に働いていたとしても、知覚まで正常であるとは限らない」


 「やはり、精神的な症状でしょうか」


 「まだ分からない」


 私は答えた。


 「分からないものへ、早々に名前をつけるべきではない。名前は便利だが、便利なものほど調査を怠けさせる」


 ダヴィトは頷き、再び記録帳を開いた。それ以上、症例については話さなかった。

 書面の情報を車上で繰り返しても、村へ到着する時間が早まるわけではない。実際の患者を見る前に仮説を積み上げれば、こちらが見たいものだけを見ることになる。


————


 昼前、街道は谷に架かる古い石橋で途切れた。

 橋の中央には応急の板が渡されていたが、荷馬車を通すことはできない。荷物を橋の向こう側に待たせていた二頭の騾馬へ積み替え、そこからは徒歩になった。


 道は川を離れ、森の中を上っていく。

 湿った落ち葉が靴の下で沈んだ。枝から落ちた雫が白衣の肩を濡らし、ときおり踏み外した小石が斜面を転がっていく。

 街を出てから、数時間が経っていた。

 それでも、私たちの足音のほかには、鳥の声や葉擦れが途切れず続いていた。


 やがて森が開けた。

 斜面の上に、灰色の石造りの家々が並んでいる。屋根の間から煙が立ち、葡萄棚の下では女たちが籠を運んでいた。道端の柵には洗った布が掛けられ、山羊がその裾へ鼻を寄せている。


 記録で想像していたより、普通の村だった。

 畑には人がいる。家の前では薪が割られている。

 子供たちは坂道で金属の輪を転がし、その後ろを犬が追いかけていた。

 病に覆われた村というより、秋支度に追われる山間の集落に見える。


 村の入口には、石柱から小さな鐘が吊られていた。


 レヴァンが綱を引く。鐘は大きく揺れ、乾いた音を谷へ放った。

 子供たちが振り返った。犬が一度吠え、葡萄棚の下にいた女もこちらを見た。薪を積んでいた男が作業の手を止め、目を細めている。


 その中で、一人だけ動かない者がいた。井戸のそばに座り、籠の蔓を編んでいる老人だ。

 鐘の余韻が山へ消えても、顔を上げない。


 レヴァンがもう一度綱を引いた。今度は先ほどより強く鳴った。

 老人の指は止まらなかった。そばにいた少女が老人の肩へ手を置く。そこで初めて、老人は驚いたように顔を上げた。少女の口元を見つめ、何かを訊き返している。


 ダヴィトが足を止めた。


 「三日前までは、あの鐘を聞き分けられていました」


 老人はこちらに気づくと、帽子を取って会釈した。

 その表情に、苦痛はない。聞こえなかったことにも慣れているように見えた。


 私たちは村の中央にある診療所へ向かった。

 もとは集会所だったらしく、入口の脇に古い掲示板が残っている。扉を開けると、薬草と消毒液の匂いが流れてきた。


 中には簡素な寝台が四つ並んでいた。窓際の寝台に、痩せた男が腰掛けている。

 両耳には何もつけていなかった。包帯も、耳栓もない。ただ背を丸め、組んだ指を膝の間へ垂らしている。


 そばに立つ女が、男の顔を覗き込みながら話しかけていた。男は反応しない。

 女が肩へ触れると、ようやく顔を上げた。


 「調査の先生が来たって」


 女は、口の形を見せるようにゆっくり話した。男の視線が私へ向いた。

 私は彼の正面まで進み、少し声を張った。


 「名前を伺ってもいいか」


 返事はなかった。男は私の口元を見ていたが、質問を理解できなかったらしい。

 もう一度、今度は言葉を区切って訊こうとした。そのとき、男の視線が私の肩を越えた。


 部屋の奥には、閉じた窓と、壁へ寄せられた空の椅子しかない。男の指が、膝の上でゆっくり開いた。

 呼吸が浅くなる。女が名前を呼んだが、彼はそちらを見なかった。

 ただ、何もない部屋の隅へ耳を傾けていた。


 やがて、乾いた唇が動いた。


 「また、近くなった」


 女が男の腕を掴んだ。


 「何が?」


 男は答えなかった。私にも、何も聞こえなかった。窓は閉じている。

 室内で鳴っているのは、壁時計の針と、薬缶の中で湯が揺れる音だけだった。だが男は、そのどちらとも違う間隔で、何度も瞬きをしていた。



——to be the next scene.

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