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Ghost Noise 〜耳底に沈む音〜  作者: 矢崎 那央
第1幕『耳を失くし、死者の声を得る』
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3/19

Scene2:『街の喧騒』


 自力で向かう。

 そう宣言して駅をあとにし、私は目的地に最も近い地方都市へ到着した。


 午後の陽を浴びた街は、浅い盆地を埋めるように広がっていた。

 赤褐色の屋根が幾重にも重なり、その間を白い石壁と細い路地が縫っている。街の中央には鐘楼が立ち、背後には古い城壁が丘の稜線に沿って残っていた。

 さらに遠く、屋根の連なりの向こうには、雲を引っかけた山々が青黒く沈んでいる。


 私が向かう村は、あの山中にある。

 地図の上では、ここから北へ半日の距離だった。だが、街を見下ろす坂の上に立っていると、山は時間ではなく、別の季節に属しているように見えた。

 麓にはまだ夏の名残があった。街路樹の葉は濃く、日向では石畳が白く照り返している。それに対し、山肌には薄い霧がまとわりつき、谷の奥だけがひと足先に暮れ始めていた。


 私は旅行鞄を提げ直し、坂を下った。


 街へ入るにつれ、音が増えた。

 馬車の車輪が石畳の継ぎ目を踏み、空の樽が荷台の上で跳ねている。露店商が果物の値を張り上げ、その声へ向かいの店主がさらに大きな声を被せていた。

 金物屋の軒先では、吊るされた鍋が風に触れて鳴っている。


 教会の鐘。

 蹄鉄を打つ槌。

 荷車を避けろと叫ぶ御者。

 路地で喧嘩する犬。

 窓から窓へ飛び交う女たちの会話。


 どこかでは弦楽器が鳴り、別のどこかでは、覚えたてらしい笛が同じ箇所で何度もつかえていた。

 一つひとつを追おうとすれば、たちまち別の音に塗り替えられる。だが、耳障りではなかった。

 誰かが働き、食べ、売り、怒り、笑っている。そのすべてが、音になって街の輪郭をつくっていた。


 風にも匂いがあった。乾いた土や馬の汗、日に温められた石壁。潰した葡萄の甘さ。

 それらを押し退けるように、香辛料と焼きたてのパンの匂いが鼻先を横切った。


 私は足を止めた。


 通りの角に、小さな屋台が出ていた。

 丸い石窯の前で、腕の太い女主人が細長い生地を舟のように伸ばしている。そこへ白いチーズを詰め、窯の内壁へ貼りつける。焼き上がったところで中央へ卵を落とし、溶かした脂をひと匙垂らした。


 調査前に現地の食文化を把握しておくことは重要である。決して、朝からまともな食事を取っていなかったからではない。


 私は硬貨を渡し、焼き上がったばかりのパンを受け取った。

 縁をちぎり、中央の卵とチーズを混ぜて食べるらしい。女主人が身振りでそう教えてくれた。


 指先へ熱が伝わる。割った生地から湯気が上がり、濃い乳の匂いがした。

 ひと口かじると、塩気の強いチーズと卵黄が舌の上で混じった。外側は硬く香ばしいが、中は油を吸って柔らかい。

 非常に熱かった。私はしばらく、学術的な沈黙を守った。


 女主人がこちらを見て笑っていた。

 異国の食事に無作法な反応を見せるわけにはいかない。私は静かに頷き、もうひと口食べた。


 やはり熱かった。だが、美味かった。


 食べ終えて歩き出すと、指先にはまだ脂の匂いが残っていた。調査員のギルドの支部は、市場を抜けた先にあった。

 古い役所を改装したらしく、正面の石段だけが妙に広い。扉の上には、方位磁針と羽根ペンを組み合わせたギルドの紋章が掲げられていた。


 中へ入ると、市場の喧騒が厚い扉に遮られた。完全に静かになったわけではない。

 車輪の響きは床を伝い、呼び売りの声は窓硝子を薄く震わせている。それでも、外でひとつの塊だった音が、ここでは壁の向こうに分けられていた。


 受付の男へ書状を見せると、二階の会議室へ案内される。階段を上りきったところで、部屋から一人の男が出てきた。

 日に焼けた顔に、数日分の無精髭が残っている。上着の袖を肘までまくり、片手には紙束、もう片方には飲みかけの茶を持っていた。


 私の白衣へ目を止めると、男は紙束を抱え直した。


 「派遣の調査員ですか」


 「その呼称に該当する者は多いが、君が待っていた人物はおそらく私だ」


 男は一度、私の背後を見た。廊下には誰もいない。


 「聞いていたとおりですね」


 何を聞いていたのかは気になったが、彼はすでに部屋へ戻っていた。調査員ギルド所属のレヴァンと名乗った。

 今回の現地調査では、村とギルド支部の連絡役を務めているという。


 会議室の中央には、大きな地図が広げられていた。

 窓から差す西日が、紙面の山脈へ斜めに落ちている。何度も折り畳まれた地図らしく、谷に沿って深い皺が走っていた。

 私は旅行鞄を壁際へ置き、机へ近づいた。レヴァンが地図の一点を指で叩いた。


 「現在地がここです。村は北東。街道を進めるのは、この辺りまでになります」


 指先が山裾の小さな集落を通り、その先の細い線で止まった。


 「橋が落ちたのか」


 「半分だけ。馬は通せません。荷物は向こう側で積み替えます」


 地図に引かれた道は、谷へ入るほど細くなっていた。

 左右から等高線が迫り、最後には川沿いの一本へ絞られている。村はその先、山腹のわずかに開けた場所に記されていた。


 「明朝、荷馬車でここまで行きます。そこから先は徒歩です。天気が崩れなければ、夕方前には着きます」


 「宿泊場所は」


 「村の外れに街道宿の廃屋があります。今は調査隊の仮の宿舎として、簡易的な修繕をしてあります。寝台と机はありますが、湯は自分で沸かしてください」


 「日中の日除けや、仮眠でも取れる環境であれば十分だ」


 「ボロいですよ」


 「なお良い」


 レヴァンが茶を飲みかけ、やめた。何か言いたそうに見えたが、結局そのままカップを机へ置いた。


 彼は地図の上へ数冊の記録を並べた。最初の報告は、七週間前。

 村の男が、家族の声を聞き取りにくいと訴えた。耳痛も発熱もなく、鼓膜にも目立った異常はなかった。


 その後、似た訴えが少しずつ増えた。

 家族同士。近隣の家。同じ仕事場。


 ただし、全員が同時に発症したわけではない。年齢にも職業にも、明確な偏りは見つかっていなかった。


 「現地の医師は?」


 「器質性の難聴ではないと見ています。ただ、精神疾患と断定するのも早いと」


 「賢明だ」


 私は最初の診療記録を開いた。患者は音が消えたとは訴えていなかった。

 遠くなった。薄くなった。水の中にいるようだ。

 似た表現が、複数の記録に繰り返されていた。


 音そのものが届いていないのか。届いているにもかかわらず、認識できていないのか。

 この二つは、同じ難聴でも意味が異なる。


 私は頁を繰りながら訊いた。


 「聴覚検査の原記録はあるか」


 「村にあります。大型の機材は持ち込めなかったので、簡易検査だけですが」


 「水質と土壌は」


 「検査済みです。重金属、麦角、既知の細菌性毒素。今のところ、異常は出ていません」


 「家畜は」


 「平常どおり。少なくとも、村人よりは元気です」


 「周辺の鉱山、軍施設、工場」


 「ありません。谷の上流に廃坑がひとつありますが、三十年以上前に閉じています」


 私は手帳を取り出した。


 現地へ入った後の調査順序を組み立てる。

 まず、発症者と非発症者の生活圏を地図上で分ける。井戸、共同窯、礼拝所、学校、市場、畑。人が集まる場所と、発症の時期を重ねる。

 次に、聴覚検査の再実施。外耳、中耳、内耳、聴覚神経。それぞれを分けて確認する。


 同時に、患者自身の表現を記録する。ただし、質問で答えを誘導してはならない。

 『音は遠く感じますか』と訊けば、患者は遠さについて考える。『水中にいるようですか』と訊けば、以後の証言に水の印象が混じる。

 こちらが与えた言葉と、患者自身の感覚を混同すれば、調査記録は簡単に汚染される。


 「聞き取りは、一人ずつ行う」


 私が言うと、レヴァンは頷いた。


 「家族も別に?」


 「可能な限り。患者同士で症状の表現を共有している可能性がある。集団性の症状では、事実だけでなく、事実の語り方まで伝染する」


 「集団ヒステリーを疑っているんですか」


 「除外はしていない。ただし、ヒステリーという言葉は便利すぎる。原因が見つからない現象へ貼る蓋として使えば、何も調べなくて済んでしまう」


 窓の外で、鐘が鳴った。低い音が一度。少し間を置いて、もう一度。レヴァンが無意識に窓へ目を向けたので、私もそちらを見た。

 市場は店じまいを始めていた。

 布の日除けが畳まれ、木箱が荷車へ積まれている。屋台の火が消されるたび、煙が細く立ち上った。


 それでも街は、まだ騒がしかった。酔客の笑い声があり、帰宅を急かす母親の声があり、車軸へ油を差す音があった。

 レヴァンは窓を閉じ、最後の書類を私の前へ置いた。ほかの記録よりも薄い綴じ冊子だった。

 表紙には患者名も症状名もなく、日付だけが書かれている。


 「これは?」


 「例外です」


 「どういう意味だ」


 「ほかの患者と同じものとして扱っていいのか、現地班でも意見が割れています」


 私は冊子へ手を伸ばした。だが、レヴァンがその上へ指を置いた。


 「先に、通常の症例を見てください」


 「理由を聞こう」


 「これを読んだ後では、ほかの証言まで同じものに見えるかもしれない」


 私は彼の顔を見た。冗談を言っている様子ではなかった。


 「認知的な先入観を避けたい、ということか」


 「私は医者ではありません。ただ、前の調査員は、この一件に時間を使いすぎました」


 それ以上、レヴァンは説明しなかった。私は冊子から手を離し、通常症例の束の一番下へ置いた。

 例外から調べ始めれば、例外を基準に全体を見ることになる。調査としては正しくない。

 何より、謎めいた書類へ即座に飛びつくのは、冷静な研究者の態度ではない。

 私には豊富な自制心がある。少なくとも、今すぐ表紙をめくるのを我慢できる程度には。


————


 打ち合わせを終える頃には、窓の外は濃い藍色に変わっていた。翌朝は日の出前に支部へ集合。

 荷物は医療器具、録音装置、採取容器、防寒具を優先する。大型機材は街へ残し、必要になった時点で追加輸送すればよい。


 私は宿へ移る前に、器具の点検を済ませた。

 音叉。耳鏡。聴診器。神経反射を調べる槌。円筒式の録音器。

 温度計、気圧計、方位磁針。水と土を採取する硝子瓶。

 念のため、銀粉と清め塩、細い銅線も鞄の底へ入れた。医学と民間伝承を同時に扱う以上、片方だけを鼻で笑うのは怠慢である。

 祈祷が効かなければ、それも結果だ。祈祷を試さなければ、結果にすらならない。


 支部を出ると、市場の店はほとんど閉じていた。

 昼間より人影は減っていたが、街は眠っていなかった。酒場から歌が漏れ、石畳では誰かの踵が鳴っている。裏通りの窓から皿を洗う音がし、屋根の上では猫が瓦を踏んだ。


 宿の部屋へ入った後も、それらは窓硝子を通して耳へ届いた。私は机に地図を広げた。

 都市を示す大きな点から、一本の街道が山へ向かって伸びている。街道は次第に細くなり、谷へ入り、最後には小さな黒点で終わっていた。

 明日、私たちはそこへ向かう。記録の末尾に、現地班が残した短い備考があった。


 村では、日が沈むと急に音が減る。山間の集落ならば、珍しいことではない。

 私はそう判断して資料を閉じた。


 窓の外では、夜更けまで街の喧騒が続いていた……。



——to be the next scene.

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