Scene1:『見送りのない旅立ち』
——カン、カン、カン。
甲高いベルの音が、朝靄の溜まった駅舎に響いた。
シュウ、と機関車が白い蒸気を吐く。鉄輪の軋み、荷車の車輪、石床を踏む靴音。売店では新聞の束が台に落とされ、荷運び人夫が誰かの名を怒鳴っている。
眠気の残る子供が泣き、その母親が低い声で宥めていた。
煤と湿った石の匂いに、淹れたての珈琲の香りが混じっている。早朝の冷気は襟元から入り込み、呼吸をするたび、鼻の奥がわずかに痛んだ。
これほど多くの音が重なっているにもかかわらず、発車を告げるベルと、車掌の張り上げる声だけは、不思議なほど明瞭に聞き分けられる。
人は、音を大きさの順に聞いているわけではない。
自分に必要なものを選び、それ以外を沈めながら聞いている。
もっとも、その朝の私に限っていえば、車掌の声よりも、改札口から駆け込んでくる足音の方が重要だった。
私は、異国で長期の調査を行うことになっていた。
大陸の中央に近い山間の国で、奇妙な事件が報告されているという。これまでにも医師や博物学者が現地へ赴き、土壌、水質、感染症、家畜、食習慣など、考え得る原因をひと通り調べていた。
だが、何も見つからなかった。
正確には、見つかったもののどれもが、報告されている現象のすべてを説明できなかったのである。
現地に残る古い伝承との関連を指摘する者もいたらしい。しかし、医学者は迷信として退け、民俗学者は病理を専門外として扱った。双方の記録は同じ現象を記しているはずなのに、まるで別々のものを見てきたように噛み合っていなかった。
そして最終的に、科学とオカルト、医学と民間伝承を同時に扱える研究者として、私に調査依頼が届いたのである。
実に妥当な人選だ。
ただし、出発前に済ませておくべきことがあった。
家族への挨拶である。
父が長旅へ出るならば、娘へひと声掛ける。
これは礼儀ではない。家族という営みを維持するための、ごく当たり前の習慣だ。
幸い、私には娘が多い。
一人として似た者はおらず、それぞれ別の土地で暮らしている。顔を合わせる頻度こそ多くはないが、家族仲は良好である。
皆、美しく、可憐で、実に個性的な娘たちだ。そして何より、父である私を慕っている。
本人たちがそれをどの程度自覚しているかについては、年頃ゆえの照れや反抗心を考慮する必要があるだろう。だが、父には分かる。言葉にならない愛情まで正確に読み取ってこそ、父親というものである。
旅立つにあたり、私は娘たちのもとを一人ずつ訪ね、しばしの別れを告げた。
皆、別れを惜しんでくれていた。
「Huh? なら、もう帰ってこなくていいぞ」
「……えっと、来てくれたのは嬉しいけど。でも、なんでそれ、あたしにわざわざ言いに?」
「あらぁ、お気をつけて。じゃ、ドア閉めますねぇ」
言葉の表面だけを見れば、いささか独創的な惜別ではあった。
だが、年頃の娘というものは、父親への情愛を素直に口へ出せないものだ。強い言葉の裏側へ寂しさを隠し、無関心を装うことで動揺を抑えようとする。
素直に寂しいとは言えない。
父を『行かないで』と引き止めれば、未熟に見られるのではないか。父の胸へ飛びつき、愛しさと切なさと心強さを全身で表現すれば、姉妹たちから抜け駆けと思われるのではないか。
そのような複雑な葛藤が、冷たい言葉や、やや早めの閉扉となって現れる。
私は理解している。
父だからである。
ただ、誰も『ついていく』とは言わなかった。
それは仕方がない。危険を伴う調査であり、私は目的地の詳細を伝えていなかった。賢明な娘たちならば、父の仕事を邪魔してはならないと考えるはずだ。
そして出発の朝、娘たちはまだ誰も見送りには来ていなかった。
これも予想の範囲内だった。
私は二つの旅行鞄を足元へ置き、改札口を見つめていた。
発車まで二十分。
まだ早い。
別れを惜しむ姿を長時間人目にさらすのは、彼女たちの性格に合わない。来るとすれば、もう少し後だろう。
十五分前。
売店の女が新聞を麻紐で束ね、軋む台車を押して私の前を通り過ぎた。改札口から入ってきたのは、杖をついた老人と、外套の襟に顔を埋めた若い兵士だけだった。
老人の杖が、石床を一定の間隔で叩いていた。
こつ、こつ、こつ。
その音が遠ざかるたび、改札口の向こうが静かになっていく。
十分前。
私は懐中時計の蓋を閉じた。
物語において、見送りというものは出発の直前に行われる。早々に到着し、弁当でも食べながら父の出発を待つ娘など、情緒の構造上あり得ない。
むしろ、ここからである。
五分前。
乗務員がホームを歩き、開いた扉を順に確認していく。旅行客たちは見送り人と最後の言葉を交わし、抱擁を済ませ、次々と車内へ消えていった。
私は念のため、列車に乗らずに待った。
ここで私が先に車内へ入ってしまえば、駆け込んできた娘たちが窓越しに父を探すことになる。それはあまりにも酷である。
やがて、発車を告げるベルが鳴った。
——カン、カン、カン。
朝のあらゆる喧騒を押し退け、その音だけが耳へ飛び込んでくる。
「発車いたします! ご乗車の方はお急ぎください!」
車掌の声が続いた。
私は改札口を見た。
人影はなかった。
「お客さん、乗らないんですか!」
車掌が扉から身を乗り出していた。
「もう少しだけ待っていただきたい」
「待てませんよ!」
汽笛が鳴った。
腹の底まで震わせる、長い音だった。
連結器がひとつずつ張り、重い車体が軋みながら動き出す。車掌は最後まで呆れた顔で私を見ていたが、やがて扉を閉め、その姿も流れていった。
車輪の音が遠ざかる。
ガタン、ゴトン。
ガタン、ゴトン。
やがてそれも、朝の街が発する無数の物音の底へ沈んでいった。
なるほど。
これは、父の帰還を信じているという意思表示に違いない。
見送りとは、帰ってこないかもしれない者に対して行うものだ。無事に戻ると確信しているならば、わざわざ早朝の駅まで来る必要はない。
娘たちは、私の想像を超えるほど成長している。そう結論づけ、私は足元の旅行鞄を持ち上げた。
予定していた汽車は、すでに遠い。私は静かに帽子をかぶり直した。
「……ふっ。仕方あるまい」
白衣の裾を翻す。
「父というものは、時として徒歩で国境を越える生き物なのである」
誰へともなくそう呟き、二つの旅行鞄を提げて駅をあとにした。
朝靄の向こうへ消えていく私の背を、見送る者は最後までいなかった。
——to be the next scene.




