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Ghost Noise 〜耳底に沈む音〜  作者: 矢崎 那央
第1幕『耳を失くし、死者の声を得る』
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2/14

Scene1:『見送りのない旅立ち』


 ——カン、カン、カン。


 甲高いベルの音が、朝靄の溜まった駅舎に響いた。


 シュウ、と機関車が白い蒸気を吐く。鉄輪の軋み、荷車の車輪、石床を踏む靴音。売店では新聞の束が台に落とされ、荷運び人夫が誰かの名を怒鳴っている。

 眠気の残る子供が泣き、その母親が低い声で宥めていた。


 煤と湿った石の匂いに、淹れたての珈琲の香りが混じっている。早朝の冷気は襟元から入り込み、呼吸をするたび、鼻の奥がわずかに痛んだ。


 これほど多くの音が重なっているにもかかわらず、発車を告げるベルと、車掌の張り上げる声だけは、不思議なほど明瞭に聞き分けられる。

 人は、音を大きさの順に聞いているわけではない。

 自分に必要なものを選び、それ以外を沈めながら聞いている。


 もっとも、その朝の私に限っていえば、車掌の声よりも、改札口から駆け込んでくる足音の方が重要だった。


 私は、異国で長期の調査を行うことになっていた。


 大陸の中央に近い山間の国で、奇妙な事件が報告されているという。これまでにも医師や博物学者が現地へ赴き、土壌、水質、感染症、家畜、食習慣など、考え得る原因をひと通り調べていた。


 だが、何も見つからなかった。


 正確には、見つかったもののどれもが、報告されている現象のすべてを説明できなかったのである。


 現地に残る古い伝承との関連を指摘する者もいたらしい。しかし、医学者は迷信として退け、民俗学者は病理を専門外として扱った。双方の記録は同じ現象を記しているはずなのに、まるで別々のものを見てきたように噛み合っていなかった。


 そして最終的に、科学とオカルト、医学と民間伝承を同時に扱える研究者として、私に調査依頼が届いたのである。

 実に妥当な人選だ。


 ただし、出発前に済ませておくべきことがあった。


 家族への挨拶である。


 父が長旅へ出るならば、娘へひと声掛ける。

 これは礼儀ではない。家族という営みを維持するための、ごく当たり前の習慣だ。


 幸い、私には娘が多い。

 一人として似た者はおらず、それぞれ別の土地で暮らしている。顔を合わせる頻度こそ多くはないが、家族仲は良好である。


 皆、美しく、可憐で、実に個性的な娘たちだ。そして何より、父である私を慕っている。


 本人たちがそれをどの程度自覚しているかについては、年頃ゆえの照れや反抗心を考慮する必要があるだろう。だが、父には分かる。言葉にならない愛情まで正確に読み取ってこそ、父親というものである。


 旅立つにあたり、私は娘たちのもとを一人ずつ訪ね、しばしの別れを告げた。


 皆、別れを惜しんでくれていた。


 「Huh? なら、もう帰ってこなくていいぞ」


 「……えっと、来てくれたのは嬉しいけど。でも、なんでそれ、あたしにわざわざ言いに?」


 「あらぁ、お気をつけて。じゃ、ドア閉めますねぇ」


 言葉の表面だけを見れば、いささか独創的な惜別ではあった。


 だが、年頃の娘というものは、父親への情愛を素直に口へ出せないものだ。強い言葉の裏側へ寂しさを隠し、無関心を装うことで動揺を抑えようとする。


 素直に寂しいとは言えない。


 父を『行かないで』と引き止めれば、未熟に見られるのではないか。父の胸へ飛びつき、愛しさと切なさと心強さを全身で表現すれば、姉妹たちから抜け駆けと思われるのではないか。


 そのような複雑な葛藤が、冷たい言葉や、やや早めの閉扉となって現れる。


 私は理解している。


 父だからである。


 ただ、誰も『ついていく』とは言わなかった。


 それは仕方がない。危険を伴う調査であり、私は目的地の詳細を伝えていなかった。賢明な娘たちならば、父の仕事を邪魔してはならないと考えるはずだ。


 そして出発の朝、娘たちはまだ誰も見送りには来ていなかった。


 これも予想の範囲内だった。


 私は二つの旅行鞄を足元へ置き、改札口を見つめていた。


 発車まで二十分。


 まだ早い。


 別れを惜しむ姿を長時間人目にさらすのは、彼女たちの性格に合わない。来るとすれば、もう少し後だろう。


 十五分前。


 売店の女が新聞を麻紐で束ね、軋む台車を押して私の前を通り過ぎた。改札口から入ってきたのは、杖をついた老人と、外套の襟に顔を埋めた若い兵士だけだった。


 老人の杖が、石床を一定の間隔で叩いていた。


 こつ、こつ、こつ。


 その音が遠ざかるたび、改札口の向こうが静かになっていく。


 十分前。


 私は懐中時計の蓋を閉じた。


 物語において、見送りというものは出発の直前に行われる。早々に到着し、弁当でも食べながら父の出発を待つ娘など、情緒の構造上あり得ない。


 むしろ、ここからである。


 五分前。


 乗務員がホームを歩き、開いた扉を順に確認していく。旅行客たちは見送り人と最後の言葉を交わし、抱擁を済ませ、次々と車内へ消えていった。


 私は念のため、列車に乗らずに待った。


 ここで私が先に車内へ入ってしまえば、駆け込んできた娘たちが窓越しに父を探すことになる。それはあまりにも酷である。


 やがて、発車を告げるベルが鳴った。


 ——カン、カン、カン。


 朝のあらゆる喧騒を押し退け、その音だけが耳へ飛び込んでくる。


 「発車いたします! ご乗車の方はお急ぎください!」


 車掌の声が続いた。


 私は改札口を見た。


 人影はなかった。


 「お客さん、乗らないんですか!」


 車掌が扉から身を乗り出していた。


 「もう少しだけ待っていただきたい」


 「待てませんよ!」


 汽笛が鳴った。


 腹の底まで震わせる、長い音だった。


 連結器がひとつずつ張り、重い車体が軋みながら動き出す。車掌は最後まで呆れた顔で私を見ていたが、やがて扉を閉め、その姿も流れていった。


 車輪の音が遠ざかる。


 ガタン、ゴトン。


 ガタン、ゴトン。


 やがてそれも、朝の街が発する無数の物音の底へ沈んでいった。


 なるほど。


 これは、父の帰還を信じているという意思表示に違いない。


 見送りとは、帰ってこないかもしれない者に対して行うものだ。無事に戻ると確信しているならば、わざわざ早朝の駅まで来る必要はない。


 娘たちは、私の想像を超えるほど成長している。そう結論づけ、私は足元の旅行鞄を持ち上げた。


 予定していた汽車は、すでに遠い。私は静かに帽子をかぶり直した。


 「……ふっ。仕方あるまい」


 白衣の裾を翻す。


 「父というものは、時として徒歩で国境を越える生き物なのである」


 誰へともなくそう呟き、二つの旅行鞄を提げて駅をあとにした。


 朝靄の向こうへ消えていく私の背を、見送る者は最後までいなかった。



——to be the next scene.

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