Prologue:『脳が沈めた音』
——『音』というものは、実に不可思議なものだ。
物理学の言葉だけで語るなら、音とは媒質を伝わる機械的な振動である。
空気の密度が押され、戻り、その揺れが隣へ渡っていく。水の中では水が、固体の中ではその組織が震える。そこに物質がなければ、音は伝わらない。
したがって、真空の宇宙空間で爆発が轟くことはない。宇宙は、映像作品の演出に対して驚くほど非協力的である。
しかし、我々が『音』として知覚するものは、そのすべてではない。人が認識するには高すぎる。あるいは低すぎる音がある。
いわゆる、超音波や低周波音と呼ばれる振動……。それらは、そこに確かに音が存在していたとしても、我々は沈黙としか感じない。
だが、聞こえない音は、可聴域の外側にだけ存在するのではない。
例えば、心臓の収縮。血管を押し広げてゆく血液の脈動。肺を満たす空気。喉が唾液を送り込む音。顎を動かすたび、骨と筋肉を伝って内耳へ届く震え……。
本来、身体はひどく騒がしい。
それらの多くは、確かに身体の中で生じ、聴覚器官へ届いている。
我々は、肉の袋に詰め込まれた無数の水音と軋みを、一日中聞き続けているはずなのだ。
それでも、我々は普段、それを意識しない。
脳が背景へ沈めているからだ。
自分の動作によって起こる、予測可能な感覚。絶えず繰り返され、外部の危険を知る妨げとなる信号。脳はそうしたものへの反応を弱め、重要ではない情報として処理する。
……当然の機能である。
自分の呼吸が常に耳元で鳴り、心臓が胸の奥で肉の壁を叩き、食事をするたび頭蓋骨の内側に砕石場が開業していては、外の物音を聞き分けるどころではない。
食卓の情緒にも、著しく不向きである。
だから脳は、音を沈める。
聞こえているものを、聞こえなかったことにする。
それは生存のための選別であり、精神を静穏に保つための慈悲でもある。
だが、ここでひとつ疑問が生じる。
脳が沈めているものは、本当にすべて、自分自身が発した音なのだろうか。
呼吸や鼓動と同じように、あまりに長く、あまりに近くで鳴り続けていたため、脳が自分の一部だと誤認している音があるとしたら。
あるいは、その音を知覚した個体が正常な生活を送れなかったため、人間の脳が何世代もの時間をかけて、聞かないことを覚えたのだとしたら。
沈黙とは、音が存在しない状態ではない。
音の存在に、誰も気づいていない状態である。
そして、沈められたものは消滅したわけではない。
意識の届かないところで、今も鳴り続けている。
……この物語は、私が異国の山間で遭遇した、ひとつの音にまつわる記録である。
その音は、録音機にも残っていた。
分析装置にも、明瞭な波形を刻んでいた。
それにもかかわらず、私は聞き取ることができなかった。
現地の者たちも、誰ひとり聞こえないと言った。
ただし、記録を再生するたび、全員が同じ場所へ顔を向けた。
音など何もしていないはずの、部屋の隅へ……。
——人間は、その音を聞けないのではない。
聞いたことを、意識まで持ち帰れないのである。
——Something has surfaced...




