Scene39:『帰りたい』
発振器へ置いた指に、少し力が入っていた。
少女はまだ、寝室の前に立っている。床では、ニノ医師とレヴァンが動かしたばかりの配線が、白い衣の裾をかすめていた。半歩ずれれば避けられる。それでも少女は動かない。こちらが何をしようとしているのか、分かっているのかもしれない。興味すらないのかもしれない。
だが、訊く気にはならなかった。いま確かめたいのは、ひとつだけだった。
『イリアは、ここにいる』
少女はそう言った。
ツィサナが寝室へ向かって名前を呼ぶ。
「イリア。聞こえる?」
少し遅れて、私の耳にもざらついた音が届いた。短い雑音がいくつか、妙な間を置いて続く。
相変わらず、私には意味にならない。ただ、ツィサナの肩がわずかに下がった。
「うん。お母さん、いるからね」
いる。少なくとも、返事はある。ならば、探せる。
私はつまみを回した。低い振動が床へ入る。
足裏を撫でて寝室へ抜けた震えが、少し遅れてダヴィトの身体へ返ってくる。胸骨と喉、手首へ貼られた受信器から拾われた信号が記録器へ集まり、画面の上を何本もの波形が走った。
私は、イリア少年の反応を探した。
細い四肢と、不自然に膨らんだ腹。人間とは違う場所で曲がる、小さな体。
粗い像ではあったが、人ひとり分ほどの範囲へ収まっていた。
……今は、それがない。代わりに、寝室の奥で波形が妙な欠け方をしていた。
細長い……。
最初、私はそれをイリア少年の腕かと思った。だが、一本ではなかった。二本でもない。同じような輪郭が、少し離れた場所にいくつもある。
私は画面へ顔を寄せた。
「もう一度」
ダヴィトが言った。周波数だけを少し変える。二度目の振動が床を走った。
今度は、さっき曖昧だった細長い反応が、もう少し長く残った。途中で折れている。その隣にも、似たものがある。……さらに奥にも。
腕か脚のように見えた。だが、数が全く合わない。
私は少女を見た。彼女は寝室の前に立ったまま、こちらを見ている。細い身体。白い衣。長い黒髪。
画面の中にあるものと、その姿がどうしても結びつかなかった。
もう一度、発振する。三度目だった。
今度は下の方に、大きく湾曲した反応が出た。
一瞬、床か壁の形を拾ったのかと思った。だが、部屋の輪郭とは合わない。弧は壁の位置を越えて、その先まで続いている。
……それは、僅かに動いていた。
膨らむ。戻る。また、膨らむ。その動きに重なるように、耳の奥で、ずる、と音がした。
肩に力が入った。
夕方、屋根の上を移っていった音だった。水をいっぱいに入れた大きな皮袋を、地面へ押しつけながら引きずるような音。
……今は、近い。
壁の向こうなのか。床の下なのか。
位置を決めようとすると、かえって分からなくなった。
「先生」
ダヴィトの声が低くなる。私は答えず、最後の記録が揃うのを待った。
波形が止まる。
部屋に残ったのは、記録器の小さな駆動音だけだった。
そこで初めて、三回分の結果を重ねて見た。細長い反応は、ばらばらに存在していたのではなかった。
何本もある。途中で折れ、異なる方向へ伸びている。その根元は、ひとつの大きな構造へ繋がっていた。
下方に見えていた巨大な弧も、その一部だった。膨れ上がった腹部のような塊。
部屋一つには収まりきらない。
その周囲から、腕とも脚ともつかない細長いものが幾本も伸びている。そして、その巨大な構造の一端だけが、こちらへ細く伸びていた。
行き着く先を目で追う。寝室の前。白い少女が立っている場所だった。
私は画面を見る。少女を見る。もう一度、画面へ戻る。間違えている箇所を探した。だが、見つからない。
昨夜、ツィサナが言った言葉が、遅れて浮かんだ。
『わたしたちが見ているところが、小さい』
あの時には、意味が分からなかった。今も、全部分かったわけではない。ただ、目の前に立っている少女の姿だけで、この存在の大きさを考えてはいけなかったことだけは分かった。
喉が乾いていた。狭い家の中には、卓があり、椅子があり、寝床がある。
その同じ場所に、画面の上では部屋より大きな身体が重なっている。
ゆっくり形を変える、巨大に膨らんだ腹。それを抱えるように生えた、何本もの細い腕と手。さらにその体を支えるように側面から床に伸びる長い腕。
人間の少女に見えていたものは、その身体からこちらへ伸びた、ごく小さな部分に過ぎない。
私はもう、少女の肩幅を見ても、人間ほどの大きさだとは思えなかった。
卓上の灯りが揺れた。黒髪の端が一瞬だけ明るくなる。少女の顔は、何も変わっていない。
変わったのは、こちらの見え方だった。
……何だ、これは。
しばらく、誰も口を開かなかった。
少女は、私たちが画面から自分へ視線を戻すまで待っていた。
やがて、声がした。
「少しだが、キミたちの生活を見てきた」
少女の姿から届く、小さな声だった。その大きさが、いまはひどく合わなかった。
私はまだ画面の中の腹部から目を離しきれずにいた。
「キミたちには、それぞれ大切なものがあった」
少女は言う。
「なくさないようにする。壊れないようにする。なくなれば、覚えている」
声を聞いているうちに、ようやく私は画面から顔を上げた。
少女の視線は、ツィサナへ向いていた。
「子どもも大切だと、キミたちは言う」
少し間を置く。
「だから、食い違うはずがないと思っていた」
その言葉を聞いても、さっき見たものが頭から離れなかった。巨大な腹。それを抱える多数の細い腕。目の前に伸びた少女。
彼女が言う『大切』という言葉の背後に、あの形がある。
ツィサナは画面を見なかった。少女だけを見ていた。
「ものと子どもは違うわ」
短く言った。
少女はすぐには返さなかった。反発したというより、今の言葉を自分の中に置き直しているように見えた。
「それは、おかしい」
やがて言った。ツィサナの眉が少し寄る。
「キミたちが、子どもをわたしたちほど自由にできないことは知っている」
『自由にできない』、その言葉が耳に残った。
私は一度、画面を見た。
「でも、キミたちも、できることはしている」
少女は続けた。
「危ない方へ行けば止める。間違ったことをすれば教える。正しいと思う方へ行くようにする」
違う、と口にしかけた。だが、声にはならなかった。
何が違う?
もちろん違うはずだった。
道へ飛び出す子どもの腕を掴むことと、本人の意思を自分の意のままにすることが、同じであるはずがない。
だが、それを『程度の違いではない』と、この相手にどう説明すればいいのか。
私は言葉を探しているうちに、自分自身の手を見ていた。
正しいと思う方向へ向ける。間違えれば止める。子どものためだと考えて。その行為自体は、人間もしている。
だからこそ、簡単に笑い飛ばすことができなかった。
ツィサナも反論しなかった。
納得したようには見えない。ただ、少女と言い争うより先に確かめたいことがあるらしく、寝室へ顔を向けた。
「だからって」
暗がりを見たまま言う。
「この子がどうしたいかを、あなたが決めていいことにはならない」
少女が首を傾ける。
「なぜ?」
ツィサナは、その問いには答えなかった。
代わりに、「イリア」と呼んだ。
少しして、ざらついた音が返る。私には意味がない。その音が終わるまで、ツィサナは待った。
「ひとつ、聞いていい?」
また短い雑音。ツィサナの手が胸元で一度だけ握られた。
私はその手を見ていた。朝から何時間もイリア少年を探し続けた手だった。
彼女は、その子をようやく見つけた。それでも、これから訊く。その答えによっては、失うかもしれない答えを。
「あなたは、帰りたい?」
返事はすぐにはなかった。
私は画面から目を離した。ダヴィトも動かない。ニノ医師の手も、彼の肩へ置かれたままだった。
少女も黙っている。
夜の家の中で、記録器の小さな作動音だけが続いていた。
やがて、雑音が来た。短く。少し間を置いて、長く。
ツィサナは聞いている。私は、その横顔を見るしかなかった。
返事が終わった。それでも彼女はすぐにはこちらを見なかった。
唇を一度だけ閉じ直す。
「……イリアは『帰りたい』、って」
胸の奥へ、重いものが落ちた。
少女の肩から、わずかに力が抜けたように見えた。
「そうだろう」
声も少し柔らかくなった。
「なら、同じだ」
私は何も言えなかった。本人に訊けばいい。そう考えていた。
ツィサナは訊いた。そしてイリア少年は、帰りたいと答えた。
なら。
そこから先へ考えようとした時だった。
「どうして?」
ツィサナが言った。
私は彼女を見た。少女ではない。寝室へ向けている。
「イリア。どうして帰りたいの?」
その問いを聞いて、私は自分が答えを一つしか聞いていなかったことに気づいた。
帰りたいか。
帰りたい。
そこで話を終えかけていた。
ツィサナは終えなかった。返事が来る。今度は長かった。
ざらついた音が、切れたり、重なったりしながら続いていく。
私は意味を拾えない。だから、ツィサナを見る。
最初はただ聞いていた。途中で、眉間に小さな皺が寄る口元が固くなる。それから、一度だけニノ医師へ視線が動いた。
『何を聞いた?』
訊きたくなったが、まだ音は続いている。私は黙って待った。
やがて雑音が止まった。ツィサナはすぐには訳さなかった。
寝室の暗がりを見たまま、静かに息を吸う。
「……自分がいると」
声が一度、途切れた。
「病気が広がるって」
私はツィサナを見た。ニノ医師の表情も僅かに変わった。
「私の病気も、もっと悪くなるって」
寝室から、また短い雑音が返る。ツィサナの目が伏せられた。
「みんなを困らせるから、帰りたいって」
最後だけ、声が小さくなった。
私は寝室を見る。何もいない。少なくとも、私の目には。これまで何度そうしても、イリア少年の姿を見つけたことはない。
それなのに今は、暗い寝室のどこかにいるものが、妙に近く感じられた。
細い四肢でも、膨らんだ腹でもなかった。
自分がいると母親が悪くなる。人が困る。だから、自分はいない方がいい。
意味の分からない雑音から、ツィサナを通して届いたその理由だけが、急に小さな子どものものとして胸に残った。
画面にはまだ、家より大きな反応がある。その前に、姿の見えない一人の子どもがいる。
少女は、しばらく黙っていた。先ほどまでなら、すぐ返事をしたところだった。
それでも結局、
「だが」
と口を開いた。
「帰りたいのだろう?」
ツィサナが顔を上げる。少女は少し間を置いた。言葉を選んでいる。
「さっき、キミたちは、わたしの望みと、息子の望みを分けろと言った」
私は少女を見る。ほんの少し前まで、「なぜ分ける」と訊いていた。
今は、自分から二つに分けている。
「分けて考えてた」
少女は言った。
「わたしは、帰ってきてほしい」
寝室へ視線を移す。
「イリアは、帰りたい」
そしてツィサナへ戻る。
「違っていない」
私は、二つの言葉を頭に置いた。
帰ってきてほしい。
帰りたい。
確かに、向きは同じだ。イリア少年が嫌だと言ったのなら、もっと単純だった。少女が望むものと、本人が望むものが衝突している。
なら本人を選べばいい。だが、そうではない。
イリア少年自身が、帰りたいと言った。
少女は今度こそ、理解できる形へ辿り着いたと思っているようだった。
「キミたちが、二つの意思が違う時、その両方を見ることは分かった」
少し考えて、
「今回は同じだ」
と続ける。
「なら、間違いはないだろう?」
私はすぐには否定できなかった。
さっきより、少女の言っていることはずっとこちら側の理屈に近い。
本人の意思を別にした。訊いた。その答えも、少女と同じだった。
それなのに。イリア少年が「なぜ帰りたいのか」を聞いてから、その二つを同じところへ置くことに、妙な抵抗が残っていた。
まだ、それが何なのか掴めない。
少女を見る。次に、ツィサナを見る。彼女は寝室の方へ一度目を向けてから、少女へ戻した。
ゆっくり息を吸った。
「でも、違うわ」
——to be the next scene.




