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Ghost Noise 〜耳底に沈む音〜  作者: 矢崎 那央
第5幕『耳底に沈めた音』
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Scene39:『帰りたい』


 発振器へ置いた指に、少し力が入っていた。


 少女はまだ、寝室の前に立っている。床では、ニノ医師とレヴァンが動かしたばかりの配線が、白い衣の裾をかすめていた。半歩ずれれば避けられる。それでも少女は動かない。こちらが何をしようとしているのか、分かっているのかもしれない。興味すらないのかもしれない。

 だが、訊く気にはならなかった。いま確かめたいのは、ひとつだけだった。

 『イリアは、ここにいる』

 少女はそう言った。


 ツィサナが寝室へ向かって名前を呼ぶ。


 「イリア。聞こえる?」


 少し遅れて、私の耳にもざらついた音が届いた。短い雑音がいくつか、妙な間を置いて続く。

 相変わらず、私には意味にならない。ただ、ツィサナの肩がわずかに下がった。


 「うん。お母さん、いるからね」


 いる。少なくとも、返事はある。ならば、探せる。


 私はつまみを回した。低い振動が床へ入る。

 足裏を撫でて寝室へ抜けた震えが、少し遅れてダヴィトの身体へ返ってくる。胸骨と喉、手首へ貼られた受信器から拾われた信号が記録器へ集まり、画面の上を何本もの波形が走った。

 私は、イリア少年の反応を探した。

 細い四肢と、不自然に膨らんだ腹。人間とは違う場所で曲がる、小さな体。

 粗い像ではあったが、人ひとり分ほどの範囲へ収まっていた。


 ……今は、それがない。代わりに、寝室の奥で波形が妙な欠け方をしていた。


 細長い……。


 最初、私はそれをイリア少年の腕かと思った。だが、一本ではなかった。二本でもない。同じような輪郭が、少し離れた場所にいくつもある。


 私は画面へ顔を寄せた。


 「もう一度」


 ダヴィトが言った。周波数だけを少し変える。二度目の振動が床を走った。

 今度は、さっき曖昧だった細長い反応が、もう少し長く残った。途中で折れている。その隣にも、似たものがある。……さらに奥にも。

 腕か脚のように見えた。だが、数が全く合わない。


 私は少女を見た。彼女は寝室の前に立ったまま、こちらを見ている。細い身体。白い衣。長い黒髪。

 画面の中にあるものと、その姿がどうしても結びつかなかった。


 もう一度、発振する。三度目だった。

 今度は下の方に、大きく湾曲した反応が出た。

 一瞬、床か壁の形を拾ったのかと思った。だが、部屋の輪郭とは合わない。弧は壁の位置を越えて、その先まで続いている。

 

 ……それは、僅かに動いていた。

 

 膨らむ。戻る。また、膨らむ。その動きに重なるように、耳の奥で、ずる、と音がした。


 肩に力が入った。

 夕方、屋根の上を移っていった音だった。水をいっぱいに入れた大きな皮袋を、地面へ押しつけながら引きずるような音。


 ……今は、近い。


 壁の向こうなのか。床の下なのか。

 位置を決めようとすると、かえって分からなくなった。


 「先生」


 ダヴィトの声が低くなる。私は答えず、最後の記録が揃うのを待った。


 波形が止まる。


 部屋に残ったのは、記録器の小さな駆動音だけだった。

 そこで初めて、三回分の結果を重ねて見た。細長い反応は、ばらばらに存在していたのではなかった。

 何本もある。途中で折れ、異なる方向へ伸びている。その根元は、ひとつの大きな構造へ繋がっていた。


 下方に見えていた巨大な弧も、その一部だった。膨れ上がった腹部のような塊。


 部屋一つには収まりきらない。


 その周囲から、腕とも脚ともつかない細長いものが幾本も伸びている。そして、その巨大な構造の一端だけが、こちらへ細く伸びていた。

 行き着く先を目で追う。寝室の前。白い少女が立っている場所だった。

 私は画面を見る。少女を見る。もう一度、画面へ戻る。間違えている箇所を探した。だが、見つからない。


 昨夜、ツィサナが言った言葉が、遅れて浮かんだ。

 『わたしたちが見ているところが、小さい』

 あの時には、意味が分からなかった。今も、全部分かったわけではない。ただ、目の前に立っている少女の姿だけで、この存在の大きさを考えてはいけなかったことだけは分かった。


 喉が乾いていた。狭い家の中には、卓があり、椅子があり、寝床がある。

 その同じ場所に、画面の上では部屋より大きな身体が重なっている。


 ゆっくり形を変える、巨大に膨らんだ腹。それを抱えるように生えた、何本もの細い腕と手。さらにその体を支えるように側面から床に伸びる長い腕。


 人間の少女に見えていたものは、その身体からこちらへ伸びた、ごく小さな部分に過ぎない。


 私はもう、少女の肩幅を見ても、人間ほどの大きさだとは思えなかった。

 卓上の灯りが揺れた。黒髪の端が一瞬だけ明るくなる。少女の顔は、何も変わっていない。

 変わったのは、こちらの見え方だった。


 ……何だ、これは。


 しばらく、誰も口を開かなかった。


 少女は、私たちが画面から自分へ視線を戻すまで待っていた。

 やがて、声がした。


 「少しだが、キミたちの生活を見てきた」


 少女の姿から届く、小さな声だった。その大きさが、いまはひどく合わなかった。


 私はまだ画面の中の腹部から目を離しきれずにいた。


 「キミたちには、それぞれ大切なものがあった」


 少女は言う。


 「なくさないようにする。壊れないようにする。なくなれば、覚えている」


 声を聞いているうちに、ようやく私は画面から顔を上げた。

 少女の視線は、ツィサナへ向いていた。


 「子どもも大切だと、キミたちは言う」


 少し間を置く。


 「だから、食い違うはずがないと思っていた」


 その言葉を聞いても、さっき見たものが頭から離れなかった。巨大な腹。それを抱える多数の細い腕。目の前に伸びた少女。

 彼女が言う『大切』という言葉の背後に、あの形がある。


 ツィサナは画面を見なかった。少女だけを見ていた。


 「ものと子どもは違うわ」


 短く言った。

 少女はすぐには返さなかった。反発したというより、今の言葉を自分の中に置き直しているように見えた。


 「それは、おかしい」


 やがて言った。ツィサナの眉が少し寄る。


 「キミたちが、子どもをわたしたちほど自由にできないことは知っている」


 『自由にできない』、その言葉が耳に残った。


 私は一度、画面を見た。


 「でも、キミたちも、できることはしている」


 少女は続けた。


 「危ない方へ行けば止める。間違ったことをすれば教える。正しいと思う方へ行くようにする」


 違う、と口にしかけた。だが、声にはならなかった。


 何が違う?


 もちろん違うはずだった。

 道へ飛び出す子どもの腕を掴むことと、本人の意思を自分の意のままにすることが、同じであるはずがない。

 だが、それを『程度の違いではない』と、この相手にどう説明すればいいのか。


 私は言葉を探しているうちに、自分自身の手を見ていた。

 正しいと思う方向へ向ける。間違えれば止める。子どものためだと考えて。その行為自体は、人間もしている。

 だからこそ、簡単に笑い飛ばすことができなかった。


 ツィサナも反論しなかった。

 納得したようには見えない。ただ、少女と言い争うより先に確かめたいことがあるらしく、寝室へ顔を向けた。


 「だからって」


 暗がりを見たまま言う。


 「この子がどうしたいかを、あなたが決めていいことにはならない」


 少女が首を傾ける。


 「なぜ?」


 ツィサナは、その問いには答えなかった。

 代わりに、「イリア」と呼んだ。


 少しして、ざらついた音が返る。私には意味がない。その音が終わるまで、ツィサナは待った。


 「ひとつ、聞いていい?」


 また短い雑音。ツィサナの手が胸元で一度だけ握られた。

 私はその手を見ていた。朝から何時間もイリア少年を探し続けた手だった。

 彼女は、その子をようやく見つけた。それでも、これから訊く。その答えによっては、失うかもしれない答えを。


 「あなたは、帰りたい?」


 返事はすぐにはなかった。

 私は画面から目を離した。ダヴィトも動かない。ニノ医師の手も、彼の肩へ置かれたままだった。


 少女も黙っている。


 夜の家の中で、記録器の小さな作動音だけが続いていた。


 やがて、雑音が来た。短く。少し間を置いて、長く。

 ツィサナは聞いている。私は、その横顔を見るしかなかった。


 返事が終わった。それでも彼女はすぐにはこちらを見なかった。

 唇を一度だけ閉じ直す。


 「……イリアは『帰りたい』、って」


 胸の奥へ、重いものが落ちた。

 少女の肩から、わずかに力が抜けたように見えた。


 「そうだろう」


 声も少し柔らかくなった。


 「なら、同じだ」


 私は何も言えなかった。本人に訊けばいい。そう考えていた。

 ツィサナは訊いた。そしてイリア少年は、帰りたいと答えた。


 なら。


 そこから先へ考えようとした時だった。


 「どうして?」


 ツィサナが言った。

 私は彼女を見た。少女ではない。寝室へ向けている。


 「イリア。どうして帰りたいの?」


 その問いを聞いて、私は自分が答えを一つしか聞いていなかったことに気づいた。

 帰りたいか。

 帰りたい。

 そこで話を終えかけていた。


 ツィサナは終えなかった。返事が来る。今度は長かった。

 ざらついた音が、切れたり、重なったりしながら続いていく。


 私は意味を拾えない。だから、ツィサナを見る。

 最初はただ聞いていた。途中で、眉間に小さな皺が寄る口元が固くなる。それから、一度だけニノ医師へ視線が動いた。

 『何を聞いた?』

 訊きたくなったが、まだ音は続いている。私は黙って待った。

 やがて雑音が止まった。ツィサナはすぐには訳さなかった。


 寝室の暗がりを見たまま、静かに息を吸う。


 「……自分がいると」


 声が一度、途切れた。


 「病気が広がるって」


 私はツィサナを見た。ニノ医師の表情も僅かに変わった。


 「私の病気も、もっと悪くなるって」


 寝室から、また短い雑音が返る。ツィサナの目が伏せられた。


 「みんなを困らせるから、帰りたいって」


 最後だけ、声が小さくなった。

 私は寝室を見る。何もいない。少なくとも、私の目には。これまで何度そうしても、イリア少年の姿を見つけたことはない。

 それなのに今は、暗い寝室のどこかにいるものが、妙に近く感じられた。


 細い四肢でも、膨らんだ腹でもなかった。

 自分がいると母親が悪くなる。人が困る。だから、自分はいない方がいい。


 意味の分からない雑音から、ツィサナを通して届いたその理由だけが、急に小さな子どものものとして胸に残った。


 画面にはまだ、家より大きな反応がある。その前に、姿の見えない一人の子どもがいる。

 少女は、しばらく黙っていた。先ほどまでなら、すぐ返事をしたところだった。


 それでも結局、


 「だが」


 と口を開いた。


 「帰りたいのだろう?」


 ツィサナが顔を上げる。少女は少し間を置いた。言葉を選んでいる。


 「さっき、キミたちは、わたしの望みと、息子の望みを分けろと言った」


 私は少女を見る。ほんの少し前まで、「なぜ分ける」と訊いていた。

 今は、自分から二つに分けている。


 「分けて考えてた」


 少女は言った。


 「わたしは、帰ってきてほしい」


 寝室へ視線を移す。


 「イリアは、帰りたい」


 そしてツィサナへ戻る。


 「違っていない」


 私は、二つの言葉を頭に置いた。

 帰ってきてほしい。

 帰りたい。

 確かに、向きは同じだ。イリア少年が嫌だと言ったのなら、もっと単純だった。少女が望むものと、本人が望むものが衝突している。

 なら本人を選べばいい。だが、そうではない。


 イリア少年自身が、帰りたいと言った。


 少女は今度こそ、理解できる形へ辿り着いたと思っているようだった。


 「キミたちが、二つの意思が違う時、その両方を見ることは分かった」


 少し考えて、


 「今回は同じだ」


 と続ける。


 「なら、間違いはないだろう?」


 私はすぐには否定できなかった。

 さっきより、少女の言っていることはずっとこちら側の理屈に近い。

 本人の意思を別にした。訊いた。その答えも、少女と同じだった。

 それなのに。イリア少年が「なぜ帰りたいのか」を聞いてから、その二つを同じところへ置くことに、妙な抵抗が残っていた。


 まだ、それが何なのか掴めない。


 少女を見る。次に、ツィサナを見る。彼女は寝室の方へ一度目を向けてから、少女へ戻した。


 ゆっくり息を吸った。


 「でも、違うわ」



——to be the next scene.

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