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Ghost Noise 〜耳底に沈む音〜  作者: 矢崎 那央
第5幕『耳底に沈めた音』
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Scene40:『一緒に』


 「でも、違う」


 ツィサナの声が落ちたあと、少女はすぐには答えなかった。


 卓上の灯りは小さく、床を這う配線の途中で光が途切れている。その先では、音響トモグラフィの再構成像がまだ揺れていた。家の輪郭を大きくはみ出した反応。その一部から伸びる、細いもの。白い少女は、その異様な像とは何の関係もないような顔で立っている。


 私はツィサナの続きを待った。だが、彼女が先に見たのは少女ではなかった。


 ……寝室の奥だった。


 「イリア?」


 呼びかけに、ざらついた音が返る。私には意味にならない。短く上下する雑音が、いくつか重なっただけだった。


 ツィサナの顔が動いた。ほんの少し、目を見開く。それから彼女の視線が床へ落ちた。私もつられて再構成像を見る。


 ……巨大な反応の脇に、何かが増えていた。


 細い四肢と、膨らんだ腹。以前、この家で測った小さな輪郭。


 「……イリア少年」


 声に出した瞬間、その像が動いた。

 最初は画像の揺らぎかと思ったが、違う。巨大な反応の内側から、ゆっくり離れる。

 一本の細い肢が前へ出る。それに続いて腹部が移る。もう一本。


 ……ぎこちない。


 人間とは違う歩き方で、それでも明らかにこちらへ進んでくる。

 寝室を抜けて、居間へ。


 私は像の位置と、実際の床を何度も見比べた。何も見えない。床板しかない。それなのに小さな輪郭が、確かにそこを移動しているのが見えたような気がした。


 ツィサナが息を呑んだ。次の瞬間、彼女は走った。


 「イリア」


 少女の横を抜け、居間の中央まで行く。そこでしゃがみ込んだ。

 

 腕を伸ばす。


 何もない空間へ。


 私は一瞬、止めるべきなのかと思った。何も見えていないはずだ。触れることもできない。

 それでもツィサナは、そこに子どもがいると知っているように両腕を回した。

 胸へ抱き寄せるように。頬を寄せるように。空っぽの場所を、強く抱いた。


 私は、画面へ目を戻した。


 言葉が出なかった。


 小さな異形の輪郭が、ツィサナの腕の中にいた。肩に相当する部分。膨らんだ腹。細い肢。その像が、彼女の胸へ身体を預けるように重なっていた。


 ツィサナには見えていないはずだ。

 どこに頭があるのかすら、本当なら分からない。それでも彼女の片手は、ちょうどその輪郭の上部へ添えられていた。

 もう片方の腕は、細い身体を囲んでいる。ずれていなかった。


 私は画面と彼女を見比べた。


 もう一度。


 やはり、重なっている。偶然だと考えるには、あまりにも正しかった。


 ツィサナが何か囁いた。その直後、細かな雑音が返った。


 長い。


 私には何を言っているのか分からない。


 ツィサナも、今度は訳さなかった。ただ抱く腕に、少しだけ力が入った。

 少女が、それを見ていた。いつもの微笑みが、消えていた。

 初めてだった。

 長い黒髪の奥で、目だけがツィサナと、その腕の中にある何もない空間を行き来している。


 「……違う」


 少女が言った。さっきツィサナが使ったのと同じ言葉だった。けれど、意味は逆だった。


 「帰りたい」


 少女は確かめるように言う。それから少し黙った。


 「でも」


 そこで言葉が止まる。ツィサナの腕の中から、また雑音が返った。

 少女の顔がさらに曇った。


 「帰りたくない……」


 誰に訊くでもなく呟いた。


 「同じ個体の中に、反対の向きがある」


 私は少女を見る。


 「帰りたいのに、帰りたくない、ということか?」


 少女は私の問いには答えなかった。分からないものを前にしているのは、今度は彼女の方だった。


 ツィサナは、イリア少年を抱いたまま顔を上げた。


 「帰りたくないんじゃない」


 声は静かだった。少女が見る。


 「帰りたい。でも、離れたくないの」


 そこで初めて、私は腕の中の雑音が何を伝えたのか知った。

 ツィサナから離れたくない。イリア少年は、そう言ったのだ。


 少女の眉が僅かに寄った。


 「それは、同じ中に置けない」


 「置けるわ」


 「無理だ。相反している」


 「反対でも、そう思うことはあるの」


 ツィサナは、それ以上説明しなかった。


 腕の中へ顔を戻す。そこには何も見えない。それでも、頬を寄せる場所を迷わなかった。


 しばらくしてから、彼女は少女へ向き直った。


 「さっき、この子が帰りたいって言ったのは本当よ」


 少女の顔が少しだけ戻る。ツィサナは続けた。


 「でも……」


 抱いている腕が、ゆっくり上下した。見えない背中でも撫でているようだった。


 「自分のための『帰りたい』と、誰かのための『帰りたい』は違う」


 少女は、また黙った。

 完全に理解したようには見えなかった。だが、さっきまでのような否定もない。

 ツィサナの腕の中と、自分自身とを交互に見ている。


 私は口を挟まなかった。今ここで、親とは何か、自我とは何かを説明できる気もしない。

 それに、少女が間違っていると一言で切ってしまえば済む話にも思えなかった。


 少女は少女なりに、子どもを失わないことを大切にしている。ツィサナは、失うかもしれなくても、子どもの望みを自分とは別のものとして聞こうとしている。

 その二つが同じ「大切」という言葉の中に入ってしまうことの方が、私には奇妙だった。


 やがて少女の表情が、少し変わった。理解した、という顔ではない。

 だが、何か一つだけ、自分の中で収まりのいい場所を見つけたような表情に見えた。


 「なら」


 少女が言う。


 「最初の目的を果たせばいい。それで、問題ない」


 私は顔を上げた。

 言葉の意味が、すぐには入ってこなかった。


 「最初の目的?」


 少女を見る。


 「何のことだ?」


 返事はなかった。その代わりに、音が来た。

 耳の奥が、一気に引き攣った。反射的に両手で耳を塞ぐ。

 遅かった。いや、そうではない。最初から意味がない。

 轟音は外から入ってきたのではなかった。頭蓋骨の内側で鳴っている。


 歯が噛み合い、眼球の奥まで震えた。胸の中で何かが膨らんだかと思うと、次の瞬間には肺を左右から潰されたように息が抜ける。


 声を出したつもりだった。だが、自分の声すら聞こえない。


 膝が床へ落ちた。横で何かが倒れる。視線を向ける余裕はなかった。床に手をつこうとして、腕が自分のものではないように震える。

 もう一度、音が身体の中を通った。腹の奥が持ち上がる。

 吐き気。視界が白く瞬く。耳を塞いだ手の内側で、鼓膜がまだ鳴っている。


 以前、診療所で受けたものを思い出した。あの時も、人間三人の身体を止めるほど強かった。

 だが違う。

 今のこれは、何かを伝えるための音ではない。

 意味が立ち上がる余地がない。ただ壊すための強さで押し込まれてくる。


 目の前でダヴィトの椅子が倒れた。

 胸元から伸びていた配線が引かれ、何本かが途中で千切れる。記録器が卓から落ち、硬い床へぶつかった。

 再構成像が乱れる。直後、巨大な弧も、小さなイリア少年の輪郭も、一瞬で消える。


 私は床へ肘をついたまま顔を上げた。ニノ医師が横倒しになっている。サロメもレヴァンも耳を押さえて身体を丸めていた。

 全員に届いている。


 そして、ツィサナ。


 彼女だけ、動き方が違った。床に横たわり、身体が細かく跳ねている。

 肩。腕。脚。自分では止められない痙攣が続いている。


 「ツィ……サナ……」


 呼んだつもりだった。音になったかどうか分からない。


 少女を見る。白い姿は、さっきと同じ場所に立っていた。

 私はそこで、ようやく繋がった。

 イリア少年は、もう戻った。少女の望みは叶っている。

 なら、彼女はわざわざ私たちの前へ姿を現した理由。


 ツィサナが自分からイリアを奪おうとしていると思っていた。その言葉。そして今、一番強く崩れているのがツィサナだった。


 胸の中が冷えた。

 『この女を消せばいい』そうすれば、イリア少年をこちら側へ留めようとするものはいなくなる。

 少女にとっては、それで全ての食い違いがなくなる。


 右手を白衣の内側へ入れた。護身具に指が触れる。

 だが、抜いてどうする?

 少女へ撃つのか?

 GNS-Cの体は、物理的な干渉をしない。なら、こちらから傷つけることができるとは思えない。

 よしんば、目の前の白い身体が壊せたところで、画面に映っていたものの大きさを思い出せば、何の意味もない。


 ……なら、ここから離す。


 『ポータル』


 全員を一度安全圏へ逃す。

 だが、誰から運ぶ。ツィサナ。ニノ医師。動けないダヴィト。いや、一度で……。


 考えがまとまらない。音が強すぎる。指先が震えて、内ポケットの金具すら掴めない。


 その時だった。


 轟音が消えた。あまりにも突然だった。耳鳴りだけが残る。私はしばらく、自分がまだ音を聞けているのか分からなかった。


 息を吸う。……入る。肺が痛む。もう一度吸う。

 さっきまで押し潰されていた胸が、少しずつ動き始める。


 誰かが咳をした。ニノ医師だった。すぐに身体を起こそうとして、失敗する。それでも床を這うようにツィサナの方へ向かった。


 私は少女を見る。こちらを見ていなかった。視線が下へ落ちている。

 床へ。何もない場所。さっきまで、音響トモグラフィの画面でイリア少年の像があった位置。

 少女は、そこを見ていた。


 止めたのか。

 そう考えてから、違う気がした。少女自身が止めるなら、あんな顔をする理由がない。

 困っているように見えた。

 何かを聞かされている。私は何も聞き取れなかった。


 いや。


 耳鳴りの底に、微かなざらつきがあった。

 意味にはならない。


 ツィサナが床に片手をついた。痙攣は収まっていた。


 ニノ医師が身体を支えようとする。ツィサナはそれを拒まなかった。

 息を整えるまで何度かかかった。それから、空っぽの床へ顔を向けた。


 「……『帰る』って」


 声が掠れていた。

 

 私は訊き返さなかった。彼女が誰の言葉を伝えているのかは分かった。


 ツィサナは、少女を見る。


 「私たちのために」


 そこで一度止まる。呼吸がまだ浅い。


 「それと……GNS-Cのために」


 少女が僅かに顔を上げた。ツィサナもその呼び方に引っかかったらしい。


 ほんの少し眉を寄せる。


 「……ううん」


 言い直した。


 「あの子のために」


 少女は何も答えなかった。

 私は、その言葉の意味をすぐには掴めなかった。イリア少年は、ツィサナを傷つけた少女のためにも帰ると言っている。


 怒っていないのか。

 怖くないのか。


 そう訊きたくなったが、やめた。

 今度は、こちらが先に答えを決める番ではない。


 ツィサナの表情が変わった。空っぽの場所へ耳を傾ける。

 私には、もう雑音すらほとんど拾えなかった。


 彼女だけが、長く聞いている。


 やがて、目を伏せた。


 「……そう」


 小さく答える。その声には、さっきまでとは違う揺れがあった。

 驚いたのか、迷っているのか。私にはまだ分からない。


 ツィサナは少し時間を置いてから、確かめるように訊いた。


 「お母さんにも、ついて来てほしい?」


 私は顔を上げた。

 ニノ医師の手も、ツィサナの肩の上で止まった。


 少女は黙っている。サロメも、レヴァンも。誰も、次の言葉を挟まなかった。


 ツィサナは聞いていた。見えない子どもの返事を。その顔から、少しずつ力が抜けていく。


 悲しみが消えたわけではなかった。怖くないはずもない。

 それでも最後には、ごく小さく笑った。


 朝、食卓で見たのとよく似た笑い方だった。


 「……うん」


 ツィサナは何もない空間へ、もう一度腕を伸ばした。

 抱き寄せる。


 今度は画面がない。本当にそこにいるのか、私にはもう確かめる方法がなかった。


 それでも彼女は迷わなかった。


 「分かった」


 頬を、見えない子どもの頭があるはずの場所へ寄せる。


 そして、


 「一緒に行こう」


 と言った。



——to be the next scene.

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