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Ghost Noise 〜耳底に沈む音〜  作者: 矢崎 那央
第5幕『耳底に沈めた音』
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Scene38:『同じではない』


 少女は、寝室の戸口から、それ以上こちらへは出てこなかった。

 卓上の灯りは、部屋の中央だけをぼんやり照らしている。そこから一歩外れた場所に立つ少女は、白い衣の裾と裸足だけを明るみに残し、長い黒髪の奥に顔を沈めていた。

 それでも、笑っているのは分かった。


 旅籠で見た時も、診療所で見た時も、同じだった。何かを伝えようとしているらしいのに、そこに焦りも苛立ちもない。ただこちらが理解するのを待つように、静かに笑う。

 だが今夜は、待たなかった。


 少女の唇が動いた。


 「探していたのは、わたしか?」


 声が、部屋の中へ落ちた。意味を考えるより先に、耳の方がそれを拒んだ。


 ……おかしい。


 私は少女を見たまま、もう一度、今聞いたものを頭の中でなぞった。


 ひとつの声だった。


 床板の軋みが途中で言葉へ変わったのでもない。窓枠の震えや、遠くの食器の音が重なったのでもない。胸骨の内側から意味だけが浮かんできた、あの不快な聞こえ方とも違う。

 少女の口から出た声が、空気を通って、耳へ届いた。


 ……喋ることを覚えたのか?


 そう思ったところで、横からサロメが言った。


 「……今のは、私にも聞こえました」


 私はようやく少女から目を外した。

 サロメは私を見ていなかった。壁際に立ったまま、少女へ視線を据えている。その声はいつもの落ち着いたものだったが、革鞄の持ち手へ置いた指が、少しだけ深く食い込んでいた。

 彼女には聞こえないはずだった。

 私たちが何度も拾ってきた呼吸も、擦過音も、イリア少年の返事も。だからこそ、ここまで未発症の対照として残してきた。


 「僕にもです」


 今度はレヴァンだった。少女を見る目を離さないまま、言った。

 その一言で、考えかけたものが止まった。

 二人にまで聞こえたのなら、今の声は何だ。


 これは、ゴースト・ノイズではないのか?


 いや、少女と接触したことで、今まさに二人にも何かが……。


 問いはそのまま残った。私より先に、ツィサナが動いたからだ。

 彼女は私の横を抜け、一歩だけ少女へ近づいた。朝から村を歩き回った服にはまだ土が残っている。結び直していない髪が頬へかかっていたが、それを払おうともしなかった。


 「探してたのは、あなたじゃない」


 声は少し掠れていた。

 少女の顔を真っ直ぐ見たまま、ツィサナは続けた。


 「イリアよ。私の息子」


 少女の視線が、ゆっくり彼女へ移った。それを待っていたように、ツィサナが訊く。


 「イリアを連れていったのは、あなた?」


 返事はすぐには来なかった。

 少女は怒らなかった。否定もしなかった。ただ、聞いた言葉をどこへ置けばいいのか考えるように、ほんの少し首を傾けた。


 「連れていった、という概念がわからない」


 ツィサナの眉間に皺が寄った。


 「じゃあ、どこにいるの?」


 今度は少女も少し長く黙った。

 言葉を探しているのだと気づいたのは、唇が一度だけ動き、それでも声が出なかったからだった。


 やがて、


 「……帰ってきた、と言うのが一番近い」


 と答えた。


 「どこへ?」


 「ここへ」


 その言葉だけが、妙に耳に残った。


 『ここ』


 昨夜、イリア少年から聞き出した答えと同じだった。


 私は一瞬、足元を見そうになった。この家のことなのか、この部屋のことなのか。だが、そんな問いを考えること自体が、今はひどく遠回りに思えた。


 ツィサナは最初から、そこを気にしていなかった。


 「イリアは、そこにいるの?」


 「いる」


 少女は迷わなかった。ツィサナの胸が、一度大きく上下した。

 探しても、呼んでも、何時間も返ってこなかった答えが、あまりにも簡単に返ってきた。そのせいか、彼女はすぐ次の言葉を出せなかった。


 「……だったら」


 喉を整える。


 「イリアと話させて」


 少女は、また首を傾けた。今度の沈黙は短かった。


 「いま、わたしと話しているだろう」


 ツィサナの顔から、焦りとは違うものが消えた。


 「あなたとじゃない」


 静かな声だった。


 「イリアと話させて」


 少女は何も遮らなかった。

 黒髪の向こうからツィサナを見ている。その顔に拒絶はない。それどころか、なぜ同じ要求を繰り返されたのか、それを理解できずにいるようだった。


 「どういうことだ?」


 少女の方から訊いた。


 「わたしと話している。イリアと話しているのと、同じ意味だ」


 部屋の中が、少しだけ遠くなったように感じた。

 私には、その言葉が何を意味するのか、まだ分からなかった。

 だがツィサナは違った。


 「同じじゃない」


 返事が早かった。

 それまで少女へ向けていた焦りも、探し疲れた弱さも、その一言にはなかった。


 「イリアは、あなたじゃない」


 言ってから、ツィサナは少女の返事を待った。少女もまた彼女を見ていた。

 二人とも難しいことは言っていない。

 だからこそ、その間に横たわっているものが、私にはうまく掴めなかった。

 少女には、なぜ違うのか分からない。ツィサナには、なぜ分からないのか分からない。


 先に視線を外したのは、ツィサナだった。少女との話を打ち切るように、寝室の暗がりへ向く。


 「イリア」


 呼びかけた声が、暗い部屋へ入っていった。

 私は自然と息を浅くした。何もない。ツィサナも動かない。数秒が、妙に長かった。


 「イリア。聞こえる?」


 もう一度。


 そのあとだった。

 耳の奥に、ざらりと何かが触れた。


 小さい。


 意識していなければ、古い家のどこかが軋んだだけだと思ったかもしれない。短い雑音が二つ、その後に少し長い音が続く。言葉として拾えるものは何もない。

 けれど、知っている。

 何度も、ツィサナの返事と重なるのを聞いてきた音だった。

 私は寝室から目を離さなかった。視界の端で、ニノ医師も顔を上げたのが分かった。ダヴィトは椅子に繋がれたまま、記録器から奥へ視線を移している。

 一方で、サロメは少女だけを見ていた。レヴァンも、私たちが何に反応したのか分からないらしく、遅れて寝室へ目を向けた。

 そしてツィサナだけが、私たちの聞けなかったものを聞いた。


 口元が震えた。しばらく声が出なかった。


 「……『お母さん』、って」


 それを聞いた時、ようやく私も息を吐いた。


 ……いた。


 少なくとも、今この瞬間、イリア少年はツィサナへ返事をした。

 姿は見えない。私には意味も分からない。それでも、その返事だけは、白い少女の声とは明らかに別のところから届いていた。


 「イリア」


 少女が言った。


 「だから、話している」


 ツィサナがゆっくり振り返った。さっきまでより、むしろ落ち着いていた。


 「違う」


 彼女は少女を見て言った。


 「今のは、あなたの声じゃない」


 少女は答えなかった。その沈黙のあいだに、先ほどの雑音はもう消えていた。

 普通の声で話す少女がここに立っている。そして、その少女とは別に、寝室のどこかからイリア少年が返事をした。

 それでも少女は、同じだと言う。

 私はそこで初めて、この会話の噛み合わなさが、単なる言葉の不足ではない気がした。


 ツィサナも、同じ場所へ近づいていたのかもしれない。


 「イリアは、『帰りたい』って言ったの?」


 少女を見る目が変わっていた。探していた子どもの居場所を訊く顔ではない。


 「あなたのところに戻りたいって、イリアがそう言ったの?」


 少女は、


 「帰りたい?」


 と、その言葉を確かめるように繰り返した。


 「そう。イリアが」


 ツィサナはそこで一度区切った。


 「イリア自身が、『そうしたい』って言ったの?」


 少女の返事は、また少しずれた。


 「帰るべきところへ、帰ってきた。それだけだ」


 ツィサナが目を閉じた。ほんの一瞬だった。

 怒鳴る代わりに、息を一つ飲み込んだように見えた。


 「帰るべきかどうかを訊いてるんじゃないの」


 目を開く。


 「この子が、帰りたかったのかを訊いてるの」


 今度は少女が黙った。

 長い黒髪の隙間から見える目が、ツィサナの顔を見ている。

 何かを隠している沈黙には見えなかった。問いそのものを、もう一度考え直している。

 私はそう感じた。


 やがて少女は、ゆっくり口を開いた。


 「キミたちは、あれが望むこととわたしが望むこと。なぜ分ける?」


 ツィサナの肩が止まった。私も、すぐには意味を拾えなかった。

 言葉は簡単だった。聞き間違えるようなところもない。だから、一度理解すると、そこから先へ進むのに少し時間がかかった。


 ツィサナは少女を見つめていた。


 「……だって」


 声がさっきより小さくなった。


 「別の子でしょう」


 少女の眉が、わずかに寄った。初めて、笑み以外の表情を見た気がした。

 怒っているのではない。ツィサナの言葉の、どこを理解すればいいのか分からない。

 そんな顔だった。


 私は二人を見ながら、ようやく自分の中にも同じ引っかかりができているのを感じた。

 それを確かめたくて、口を挟む。


 「キミにとって、イリア少年は何だ?」


 少女がこちらを向いた。

 視線を受けた瞬間、旅籠で初めてこの少女を見た夜の感覚が蘇った。人の顔をしているのに、その奥にこちらと同じものがあるのか分からない、あの落ち着かなさ。


 今は、そこから人間の声が返ってくる。


 「キミたちの言葉を、少し学習した」


 少女は言った。少し間を置いて、


 「それで言えば、『息子』、がもっとも近い」


 と続けた。ツィサナの横顔が動いた。

 私はそちらを見かけたが、すぐ少女へ戻した。


 「大切なのか?」


 「大切だ」


 その答えには迷いがなかった。


 「息子は大切なものなのだろう?」


 誰に向けた問いなのか分からない言い方だった。


 ツィサナが、


 「そうね」


 と答えた。

 少女は彼女を見る。


 「なら、なぜ離しておく?」


 ツィサナは黙った。今度は、少女の方が言葉を重ねた。


 「離れていれば、なくなる。傷つく。死ぬ」


 声は静かだった。怖がらせようとしているようには聞こえない。


 「戻せば、なくならない」


 その言い方が、ひどく自然だった。

 火を消せば暗くなる。雨に濡れれば冷える。

 それと変わらないほど、少女にとっては疑う余地のない話らしかった。


 「だから、あなたがイリアをわたしから離そうとしていると思っていた」


 少女はツィサナを見たまま続ける。


 「自分の息子にしたいのなら、分かる。大切だから、自分のところに置きたいのだろうと」


 その言葉を聞いた時、昨夜のツィサナの手が浮かんだ。

 見えない子どものために、毛布の端を折っていた手。死んだイリアではないと分かってからも、名前を呼び続けた理由を、彼女は私に話した。


 もう一人、手放すようでできなかった、と。


 あの夜、私はそれを母親の執着だとは思わなかった。

 今、少女が同じ「大切」という言葉を使う。それなのに、聞いているものはまるで違った。


 「違うわ」


 ツィサナが言った。強い声ではなかった。

 むしろ、どう伝えればいいのか分からなくなった人間の声だった。


 「イリアは私の息子よ」


 そこで一度、寝室を見た。

 返事はない。

 それでも、そこにいる子どもへ聞かせるように続けた。


 「でも、私じゃない」


 少女は黙っている。


 「私の中に戻すものでもないし、私が大事だからって、ずっと私のところに置いておくものでもない」


 言いながら、ツィサナ自身も言葉を探していた。

 きれいに説明するためではない。目の前の相手に、どうにか違いを渡そうとしている。


 最後に残ったのは、とても短い言葉だった。


 「イリアは、イリアだから」


 少女はしばらく動かなかった。分かったようには見えなかった。けれど反発もしない。

 ただ、今まで持っていなかった言葉を渡され、それをどこへ置けばいいのか決められずにいるようだった。


 私にも、この二人の違いを説明できたわけではない。ただ、少女の話を聞いているうちに、一つだけ妙なところが残っていた。


 少女はずっと、イリア少年について話している。

 大切だから戻した。

 戻るのが自然だから戻した。

 離れていれば失うから戻した。

 どれも、イリア少年のための話に聞こえる。


 ……なのに。


 私は、少女が一度も口にしていない言葉に気づいた。


 「キミは」


 声を出すと、少女がこちらを向いた。


 「イリア少年に訊いたのか?」


 「何を?」


 その返事で、胸の内側にあった引っかかりが少しだけ形になった。


 「戻りたいかどうかだ」


 少女は私を見た。

 すぐには答えなかった。今度の沈黙だけは、さっきまでと違って長く感じた。

 だが、私は答えを急かさなかった。

 少女の顔を見ているうちに、自分が何を期待しているのかも分からなくなってきたからだ。

 訊いたか、訊いていないか。それだけの話のはずだった。


 やがて少女が、本当に不思議そうに言った。


 「なぜ、訊く?」


 背中の皮膚が粟立った。

 恐ろしい言葉を聞いたわけではない。声も変わらない。それなのに、ここまでの会話が、一度に別の形へ見え始めた。


 少女は続けた。


 「わたしが戻りたい。あれが戻りたい」


 そこで、わずかに首を傾ける。


 「なぜ、それを二つにする?」


 誰も答えなかった。

 隣でレヴァンが小さく息を吸った。少女の言葉は聞こえている。けれど、顔にはまだ理解より戸惑いの方が強く残っている。

 サロメも口を挟まなかった。ニノ医師は少女ではなく、ツィサナの横顔を見ていた。

 卓の脇では、ダヴィトが記録板へ視線を落とした。筆を一度紙へつけ、それから動かなくなった。


 私は少女の言葉を、頭の中で一度だけ繰り返した。

 『なぜ、二つにする』

 彼女にとっては、それが問いなのだ。そこから先は、まだ分からない。


 ツィサナが先に少女から目を離した。


 「イリア」


 寝室へ呼びかける。

 私は考えるのをやめ、耳を澄ませた。すぐには返らなかった。

 ツィサナも待つ。少女は、その横で何も言わずに立っている。

 やがて、かすかな雑音が聞こえた。


 短い。


 今度も、私には意味がない。ニノ医師がほんの少し顔を上げ、ダヴィトの目も同時に寝室へ向いた。

 サロメとレヴァンは反応しない。ツィサナだけが、その音を言葉として受け取った。

 強張っていた頬が、わずかに緩む。


 「うん」


 寝室へ向けて答えた。


 「お母さん、ここにいるからね」


 その言葉が終わっても、私はしばらく奥を見ていた。

 そこにイリア少年の姿はない。少女は、すぐそばにいる。少女の声は誰にでも聞こえる。

 イリア少年の返事は、私たちには雑音で、ツィサナにだけ言葉になる。

 同じだ、と少女は言った。だが今、私の耳には二つの音が別々に届いた。


 視線を落とすと、床を這う配線が目に入った。寝室の手前まで伸びた線。その先に、置き直しかけていたエミッターがある。

 そこでようやく、さっきまで何をしようとしていたのか思い出した。

 "イリア少年を探すための測定"。


 少女は言った。『ここにいる』と。そして実際に、返事もあった。

 私は配線の先を目で追った。卓の脇で、ダヴィトと目が合った。彼はまだ受信器につながれたままだった。


 少し間を置いて、


 「先生」


 とだけ言った。それで足りた。


 「……ああ」


 私は寝室を見る。

 姿が見えないなら、別のやり方で確かめればいい。


 「測れるか?」


 ダヴィトは記録器へ視線を戻した。


 「寝室側へ戻せば。前の配置も残っています」


 それを聞いて、ニノ医師が床へ膝をついた。


 「レヴァンさん。そちら、持ってください」


 「はい」


 レヴァンがエミッターを持ち上げる。

 サロメは二人の動きを見てから、通路を空けるように壁際へ下がった。それでも少女から完全には目を離さなかった。

 少女は、動かなかった。床の上で機材が置き直され、配線が自分の足元近くを通っても、逃げようとはしない。

 理解しているのか。興味がないのか。そこはまだ分からなかった。


 ツィサナだけは、測定の準備を見ていなかった。

 寝室へ向いたまま、もう一度呼ぶ。


 「イリア。お母さん、ここにいるからね」


 少しして、また雑音が返った。私には、それ以上のものにはならない。

 その横で、白い少女は静かに立っていた。

 今度は、その二つを同じものとして聞くことができなかった。


 私は発振器へ手を掛けた。


 「始めよう」



——to be the next scene.

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