Scene38:『同じではない』
少女は、寝室の戸口から、それ以上こちらへは出てこなかった。
卓上の灯りは、部屋の中央だけをぼんやり照らしている。そこから一歩外れた場所に立つ少女は、白い衣の裾と裸足だけを明るみに残し、長い黒髪の奥に顔を沈めていた。
それでも、笑っているのは分かった。
旅籠で見た時も、診療所で見た時も、同じだった。何かを伝えようとしているらしいのに、そこに焦りも苛立ちもない。ただこちらが理解するのを待つように、静かに笑う。
だが今夜は、待たなかった。
少女の唇が動いた。
「探していたのは、わたしか?」
声が、部屋の中へ落ちた。意味を考えるより先に、耳の方がそれを拒んだ。
……おかしい。
私は少女を見たまま、もう一度、今聞いたものを頭の中でなぞった。
ひとつの声だった。
床板の軋みが途中で言葉へ変わったのでもない。窓枠の震えや、遠くの食器の音が重なったのでもない。胸骨の内側から意味だけが浮かんできた、あの不快な聞こえ方とも違う。
少女の口から出た声が、空気を通って、耳へ届いた。
……喋ることを覚えたのか?
そう思ったところで、横からサロメが言った。
「……今のは、私にも聞こえました」
私はようやく少女から目を外した。
サロメは私を見ていなかった。壁際に立ったまま、少女へ視線を据えている。その声はいつもの落ち着いたものだったが、革鞄の持ち手へ置いた指が、少しだけ深く食い込んでいた。
彼女には聞こえないはずだった。
私たちが何度も拾ってきた呼吸も、擦過音も、イリア少年の返事も。だからこそ、ここまで未発症の対照として残してきた。
「僕にもです」
今度はレヴァンだった。少女を見る目を離さないまま、言った。
その一言で、考えかけたものが止まった。
二人にまで聞こえたのなら、今の声は何だ。
これは、ゴースト・ノイズではないのか?
いや、少女と接触したことで、今まさに二人にも何かが……。
問いはそのまま残った。私より先に、ツィサナが動いたからだ。
彼女は私の横を抜け、一歩だけ少女へ近づいた。朝から村を歩き回った服にはまだ土が残っている。結び直していない髪が頬へかかっていたが、それを払おうともしなかった。
「探してたのは、あなたじゃない」
声は少し掠れていた。
少女の顔を真っ直ぐ見たまま、ツィサナは続けた。
「イリアよ。私の息子」
少女の視線が、ゆっくり彼女へ移った。それを待っていたように、ツィサナが訊く。
「イリアを連れていったのは、あなた?」
返事はすぐには来なかった。
少女は怒らなかった。否定もしなかった。ただ、聞いた言葉をどこへ置けばいいのか考えるように、ほんの少し首を傾けた。
「連れていった、という概念がわからない」
ツィサナの眉間に皺が寄った。
「じゃあ、どこにいるの?」
今度は少女も少し長く黙った。
言葉を探しているのだと気づいたのは、唇が一度だけ動き、それでも声が出なかったからだった。
やがて、
「……帰ってきた、と言うのが一番近い」
と答えた。
「どこへ?」
「ここへ」
その言葉だけが、妙に耳に残った。
『ここ』
昨夜、イリア少年から聞き出した答えと同じだった。
私は一瞬、足元を見そうになった。この家のことなのか、この部屋のことなのか。だが、そんな問いを考えること自体が、今はひどく遠回りに思えた。
ツィサナは最初から、そこを気にしていなかった。
「イリアは、そこにいるの?」
「いる」
少女は迷わなかった。ツィサナの胸が、一度大きく上下した。
探しても、呼んでも、何時間も返ってこなかった答えが、あまりにも簡単に返ってきた。そのせいか、彼女はすぐ次の言葉を出せなかった。
「……だったら」
喉を整える。
「イリアと話させて」
少女は、また首を傾けた。今度の沈黙は短かった。
「いま、わたしと話しているだろう」
ツィサナの顔から、焦りとは違うものが消えた。
「あなたとじゃない」
静かな声だった。
「イリアと話させて」
少女は何も遮らなかった。
黒髪の向こうからツィサナを見ている。その顔に拒絶はない。それどころか、なぜ同じ要求を繰り返されたのか、それを理解できずにいるようだった。
「どういうことだ?」
少女の方から訊いた。
「わたしと話している。イリアと話しているのと、同じ意味だ」
部屋の中が、少しだけ遠くなったように感じた。
私には、その言葉が何を意味するのか、まだ分からなかった。
だがツィサナは違った。
「同じじゃない」
返事が早かった。
それまで少女へ向けていた焦りも、探し疲れた弱さも、その一言にはなかった。
「イリアは、あなたじゃない」
言ってから、ツィサナは少女の返事を待った。少女もまた彼女を見ていた。
二人とも難しいことは言っていない。
だからこそ、その間に横たわっているものが、私にはうまく掴めなかった。
少女には、なぜ違うのか分からない。ツィサナには、なぜ分からないのか分からない。
先に視線を外したのは、ツィサナだった。少女との話を打ち切るように、寝室の暗がりへ向く。
「イリア」
呼びかけた声が、暗い部屋へ入っていった。
私は自然と息を浅くした。何もない。ツィサナも動かない。数秒が、妙に長かった。
「イリア。聞こえる?」
もう一度。
そのあとだった。
耳の奥に、ざらりと何かが触れた。
小さい。
意識していなければ、古い家のどこかが軋んだだけだと思ったかもしれない。短い雑音が二つ、その後に少し長い音が続く。言葉として拾えるものは何もない。
けれど、知っている。
何度も、ツィサナの返事と重なるのを聞いてきた音だった。
私は寝室から目を離さなかった。視界の端で、ニノ医師も顔を上げたのが分かった。ダヴィトは椅子に繋がれたまま、記録器から奥へ視線を移している。
一方で、サロメは少女だけを見ていた。レヴァンも、私たちが何に反応したのか分からないらしく、遅れて寝室へ目を向けた。
そしてツィサナだけが、私たちの聞けなかったものを聞いた。
口元が震えた。しばらく声が出なかった。
「……『お母さん』、って」
それを聞いた時、ようやく私も息を吐いた。
……いた。
少なくとも、今この瞬間、イリア少年はツィサナへ返事をした。
姿は見えない。私には意味も分からない。それでも、その返事だけは、白い少女の声とは明らかに別のところから届いていた。
「イリア」
少女が言った。
「だから、話している」
ツィサナがゆっくり振り返った。さっきまでより、むしろ落ち着いていた。
「違う」
彼女は少女を見て言った。
「今のは、あなたの声じゃない」
少女は答えなかった。その沈黙のあいだに、先ほどの雑音はもう消えていた。
普通の声で話す少女がここに立っている。そして、その少女とは別に、寝室のどこかからイリア少年が返事をした。
それでも少女は、同じだと言う。
私はそこで初めて、この会話の噛み合わなさが、単なる言葉の不足ではない気がした。
ツィサナも、同じ場所へ近づいていたのかもしれない。
「イリアは、『帰りたい』って言ったの?」
少女を見る目が変わっていた。探していた子どもの居場所を訊く顔ではない。
「あなたのところに戻りたいって、イリアがそう言ったの?」
少女は、
「帰りたい?」
と、その言葉を確かめるように繰り返した。
「そう。イリアが」
ツィサナはそこで一度区切った。
「イリア自身が、『そうしたい』って言ったの?」
少女の返事は、また少しずれた。
「帰るべきところへ、帰ってきた。それだけだ」
ツィサナが目を閉じた。ほんの一瞬だった。
怒鳴る代わりに、息を一つ飲み込んだように見えた。
「帰るべきかどうかを訊いてるんじゃないの」
目を開く。
「この子が、帰りたかったのかを訊いてるの」
今度は少女が黙った。
長い黒髪の隙間から見える目が、ツィサナの顔を見ている。
何かを隠している沈黙には見えなかった。問いそのものを、もう一度考え直している。
私はそう感じた。
やがて少女は、ゆっくり口を開いた。
「キミたちは、あれが望むこととわたしが望むこと。なぜ分ける?」
ツィサナの肩が止まった。私も、すぐには意味を拾えなかった。
言葉は簡単だった。聞き間違えるようなところもない。だから、一度理解すると、そこから先へ進むのに少し時間がかかった。
ツィサナは少女を見つめていた。
「……だって」
声がさっきより小さくなった。
「別の子でしょう」
少女の眉が、わずかに寄った。初めて、笑み以外の表情を見た気がした。
怒っているのではない。ツィサナの言葉の、どこを理解すればいいのか分からない。
そんな顔だった。
私は二人を見ながら、ようやく自分の中にも同じ引っかかりができているのを感じた。
それを確かめたくて、口を挟む。
「キミにとって、イリア少年は何だ?」
少女がこちらを向いた。
視線を受けた瞬間、旅籠で初めてこの少女を見た夜の感覚が蘇った。人の顔をしているのに、その奥にこちらと同じものがあるのか分からない、あの落ち着かなさ。
今は、そこから人間の声が返ってくる。
「キミたちの言葉を、少し学習した」
少女は言った。少し間を置いて、
「それで言えば、『息子』、がもっとも近い」
と続けた。ツィサナの横顔が動いた。
私はそちらを見かけたが、すぐ少女へ戻した。
「大切なのか?」
「大切だ」
その答えには迷いがなかった。
「息子は大切なものなのだろう?」
誰に向けた問いなのか分からない言い方だった。
ツィサナが、
「そうね」
と答えた。
少女は彼女を見る。
「なら、なぜ離しておく?」
ツィサナは黙った。今度は、少女の方が言葉を重ねた。
「離れていれば、なくなる。傷つく。死ぬ」
声は静かだった。怖がらせようとしているようには聞こえない。
「戻せば、なくならない」
その言い方が、ひどく自然だった。
火を消せば暗くなる。雨に濡れれば冷える。
それと変わらないほど、少女にとっては疑う余地のない話らしかった。
「だから、あなたがイリアをわたしから離そうとしていると思っていた」
少女はツィサナを見たまま続ける。
「自分の息子にしたいのなら、分かる。大切だから、自分のところに置きたいのだろうと」
その言葉を聞いた時、昨夜のツィサナの手が浮かんだ。
見えない子どものために、毛布の端を折っていた手。死んだイリアではないと分かってからも、名前を呼び続けた理由を、彼女は私に話した。
もう一人、手放すようでできなかった、と。
あの夜、私はそれを母親の執着だとは思わなかった。
今、少女が同じ「大切」という言葉を使う。それなのに、聞いているものはまるで違った。
「違うわ」
ツィサナが言った。強い声ではなかった。
むしろ、どう伝えればいいのか分からなくなった人間の声だった。
「イリアは私の息子よ」
そこで一度、寝室を見た。
返事はない。
それでも、そこにいる子どもへ聞かせるように続けた。
「でも、私じゃない」
少女は黙っている。
「私の中に戻すものでもないし、私が大事だからって、ずっと私のところに置いておくものでもない」
言いながら、ツィサナ自身も言葉を探していた。
きれいに説明するためではない。目の前の相手に、どうにか違いを渡そうとしている。
最後に残ったのは、とても短い言葉だった。
「イリアは、イリアだから」
少女はしばらく動かなかった。分かったようには見えなかった。けれど反発もしない。
ただ、今まで持っていなかった言葉を渡され、それをどこへ置けばいいのか決められずにいるようだった。
私にも、この二人の違いを説明できたわけではない。ただ、少女の話を聞いているうちに、一つだけ妙なところが残っていた。
少女はずっと、イリア少年について話している。
大切だから戻した。
戻るのが自然だから戻した。
離れていれば失うから戻した。
どれも、イリア少年のための話に聞こえる。
……なのに。
私は、少女が一度も口にしていない言葉に気づいた。
「キミは」
声を出すと、少女がこちらを向いた。
「イリア少年に訊いたのか?」
「何を?」
その返事で、胸の内側にあった引っかかりが少しだけ形になった。
「戻りたいかどうかだ」
少女は私を見た。
すぐには答えなかった。今度の沈黙だけは、さっきまでと違って長く感じた。
だが、私は答えを急かさなかった。
少女の顔を見ているうちに、自分が何を期待しているのかも分からなくなってきたからだ。
訊いたか、訊いていないか。それだけの話のはずだった。
やがて少女が、本当に不思議そうに言った。
「なぜ、訊く?」
背中の皮膚が粟立った。
恐ろしい言葉を聞いたわけではない。声も変わらない。それなのに、ここまでの会話が、一度に別の形へ見え始めた。
少女は続けた。
「わたしが戻りたい。あれが戻りたい」
そこで、わずかに首を傾ける。
「なぜ、それを二つにする?」
誰も答えなかった。
隣でレヴァンが小さく息を吸った。少女の言葉は聞こえている。けれど、顔にはまだ理解より戸惑いの方が強く残っている。
サロメも口を挟まなかった。ニノ医師は少女ではなく、ツィサナの横顔を見ていた。
卓の脇では、ダヴィトが記録板へ視線を落とした。筆を一度紙へつけ、それから動かなくなった。
私は少女の言葉を、頭の中で一度だけ繰り返した。
『なぜ、二つにする』
彼女にとっては、それが問いなのだ。そこから先は、まだ分からない。
ツィサナが先に少女から目を離した。
「イリア」
寝室へ呼びかける。
私は考えるのをやめ、耳を澄ませた。すぐには返らなかった。
ツィサナも待つ。少女は、その横で何も言わずに立っている。
やがて、かすかな雑音が聞こえた。
短い。
今度も、私には意味がない。ニノ医師がほんの少し顔を上げ、ダヴィトの目も同時に寝室へ向いた。
サロメとレヴァンは反応しない。ツィサナだけが、その音を言葉として受け取った。
強張っていた頬が、わずかに緩む。
「うん」
寝室へ向けて答えた。
「お母さん、ここにいるからね」
その言葉が終わっても、私はしばらく奥を見ていた。
そこにイリア少年の姿はない。少女は、すぐそばにいる。少女の声は誰にでも聞こえる。
イリア少年の返事は、私たちには雑音で、ツィサナにだけ言葉になる。
同じだ、と少女は言った。だが今、私の耳には二つの音が別々に届いた。
視線を落とすと、床を這う配線が目に入った。寝室の手前まで伸びた線。その先に、置き直しかけていたエミッターがある。
そこでようやく、さっきまで何をしようとしていたのか思い出した。
"イリア少年を探すための測定"。
少女は言った。『ここにいる』と。そして実際に、返事もあった。
私は配線の先を目で追った。卓の脇で、ダヴィトと目が合った。彼はまだ受信器につながれたままだった。
少し間を置いて、
「先生」
とだけ言った。それで足りた。
「……ああ」
私は寝室を見る。
姿が見えないなら、別のやり方で確かめればいい。
「測れるか?」
ダヴィトは記録器へ視線を戻した。
「寝室側へ戻せば。前の配置も残っています」
それを聞いて、ニノ医師が床へ膝をついた。
「レヴァンさん。そちら、持ってください」
「はい」
レヴァンがエミッターを持ち上げる。
サロメは二人の動きを見てから、通路を空けるように壁際へ下がった。それでも少女から完全には目を離さなかった。
少女は、動かなかった。床の上で機材が置き直され、配線が自分の足元近くを通っても、逃げようとはしない。
理解しているのか。興味がないのか。そこはまだ分からなかった。
ツィサナだけは、測定の準備を見ていなかった。
寝室へ向いたまま、もう一度呼ぶ。
「イリア。お母さん、ここにいるからね」
少しして、また雑音が返った。私には、それ以上のものにはならない。
その横で、白い少女は静かに立っていた。
今度は、その二つを同じものとして聞くことができなかった。
私は発振器へ手を掛けた。
「始めよう」
——to be the next scene.




