Scene37:『寝室の奥から』
屋根の上を引きずる音は、止まらなかった。
ずる……ずる……と、重いものが瓦のない屋根板を擦りながら進んでいく。速くはない。それなのに、一度こちらから離れ始めると、音の位置だけが妙にはっきり遠ざかっていった。
私は戸口へ向かった。背後で椅子が鳴り、ニノ医師も立ち上がる。ツィサナはもう扉に手を掛けていた。
「待って」
ニノ医師が呼び止めたが、ツィサナは振り返らない。
「聞こえるの。あっち」
外へ出る。
夜の空気は、家の中より冷えていた。
通りへ出ると、音は二軒ほど先の屋根へ移っている。姿はない。月もまだ低く、家々の輪郭が淡い明かりの中へ沈んでいた。
ずる……。
また動く。
私たちはその方向へ急いだ。
「ダヴィトさんたちは?」
ニノ医師が後ろから訊く。
「ダヴィトは今、受信器を外すだけでも時間がかかる。サロメとレヴァンも機材についていてもらった方がいい」
ツィサナはすでに先へ進んでいた。
屋根から屋根へ渡っているのか、それとも音だけがそう聞こえているのかは分からない。角を曲がるたびに位置がずれ、先へ行く。走れば追いつけそうな距離なのに、縮まらなかった。
ツィサナが私の少し前を行く。銀鈴が激しく鳴っていた。
路地を一つ抜けたところで、彼女が突然止まった。私は危うく背中へぶつかりかける。
「……イリア」
ツィサナが振り返った。
その顔を見て、私は屋根から耳を離した。
「どうした?」
「今、声がしたの」
ニノ医師も足を止める。私は耳を澄ませた。
……何もない。
少なくとも、私にはイリア少年の返事らしい雑音は聞こえなかった。
「どちらからだ?」
ツィサナは答えず、ゆっくり周囲を見回した。
右を見る。振り返る。それから、さっきまで私たちが追っていた方向へ顔を向ける。
「……分からない」
声が小さくなった。
「近かった気がしたの。でも……」
彼女は一歩進んだ。
「イリア?」
返事はない。
「イリア。どこ?」
風が狭い通りを抜け、軒先に掛かった布を揺らした。私は呼吸を止めるようにして待った。何も聞こえない。ニノ医師も黙っている。
そこでようやく、もう一つの音がなくなっていることに気づいた。
屋根の上を進んでいた、あの重い擦過音。いつ止まったのか分からない。
「……消えたな」
呟くと、ツィサナがまた歩き始めた。
私たちはそのまま、音が向かった先まで進んだ。家と家の間の細い道を抜け、裏手へ回った。
誰もいない。
さらに先へ行くと道幅が少し広がったが、そこにも人影はなかった。閉じた窓から灯りが漏れ、どこかの家で皿を重ねる音がした。
ツィサナは何度もイリア少年を呼んだ。そのたび、私は返事を待った。だが、聞こえない。さっきツィサナが聞いたという声は、もうない。
屋根を引きずっていた音も、それきりだった。
あれがGNS-Cに関係するものだったのかもしれない。昼間までの話を考えれば、そう疑う理由はある。
だが、音は消えた。姿もない。
私たちはそこからさらに何本か路地を回った。
何も起こらなかった。その時間が、思いのほか長かった。
何かを聞き逃した気がして立ち止まり、また歩く。ツィサナが呼び、三人で待つ。少し先へ行き、また呼ぶ。
返事はない。
やがて、ニノ医師が足を止めた。
「ツィサナ」
ツィサナは振り返らなかった。
「戻りましょう。これ以上暗くなったら、今度はあなたが怪我をするわ」
「もう少しだけ」
「さっきもそう言ったでしょう」
責める声ではなかった。ツィサナはまだ道の先を見ていた。しばらくして、息を吸う。
「……イリア」
今までより、ずっと静かに呼んだ。私も耳を澄ませた。
夜の村には思った以上に音がある。
風。遠くの戸が閉まる音。どこかで犬が一度吠えた。人の話し声。そのどれにも、あの返事は混じらなかった。
ツィサナの肩が、少しだけ下がった。
「戻ろう」
彼女は、今度は自分から言った。帰り道では、誰も急がなかった。追っていたものがなくなると、足の疲れが急に戻ってくる。
私も何度か後ろを振り返ったが、もう屋根から音はしなかった。
結局、GNS-Cは……逃したのかもしれない。
イリア少年も見つからなかった。ただ、ツィサナが一度だけ声を聞いた。
今あるのは、それだけだった。
————
家へ近づくにつれて、灯りが見えてきた。
窓から漏れる薄い橙色の灯りを見て、私はようやく少し息を吐いた。
戸を開けた時、最初に気づいたのは静けさだった。卓の上と壁際に置かれた灯りだけが室内を照らしている。床には淡い明暗の境ができ、天井や部屋の隅は暗い。
だが、測定を続けているなら、何かしら音がしていると思っていた。
……ダヴィトは、私たちが出た時と同じ椅子に座っていた。胸から伸びた配線もそのままだ。
ただ、顔色が違う。
白い。
視線は私たちに向いていなかった。家の奥、寝室の方を見ている。
レヴァンも同じ方向を見ていた。サロメは立ったまま、革鞄の金具へ指を置いている。
その指が動いていなかった。
私は家へ入った。
「……どうした」
ダヴィトがこちらを見た。
いつもなら、先に要点を言う男だった。だが、今は一度、喉を鳴らした。
「先生たちが出て、少ししてからです」
声は低かった。
「さっきの……あの、引きずるような音が入ってきました」
私は振り返った。開いたままの戸口。外の通りには誰もいない。
「ここへ?」
「はい」
ダヴィトの視線が、また奥へ戻った。
「玄関の方から聞こえました。近づいてきて……」
彼はそこで言葉を切った。
右手だけが、椅子の縁を強く掴んでいた。指先が白くなっている。配線を外そうとした形跡はない。
その状態のまま、何かを見送ったように、目だけが寝室へ向いている。
「私の前を通り過ぎて、寝室の方へ行きました」
私は寝室を見た。入口の向こうは暗い。壁際と寝床の一部しか見えない。
……何もいない。いや、見えない。
何も動かない。
「配線は外さなかったのか」
ダヴィトはほんの少し、視線を落とした。
「装置を壊すわけにはいきませんよ。それに……」
自分の胸元から伸びる線を見る。
「途中からは、動く方が恐ろしくなりました。」
改めて、寝室の奥に目を向ける。やはり、何も見えない。そして……音もない。
「今も聞こえるか?」
ダヴィトは首を横に振った。その答えのあと、誰も口を開かなかった。
外で消えたと思っていた音が、ここへ来ていた。そして、奥へ行った。それから聞こえなくなった。
私は寝室から目を離せなかった。
「僕には、音は聞こえませんでした」
レヴァンが小さな声で言った。普段よりずっと声量が落ちている。
「でも、ダヴィトさんが急に玄関の方を見て……そのまま、何かを追うみたいに……」
それ以上は言わなかった。
サロメも寝室を見たまま、
「私にも、何も聞こえておりません」
と言った。それで十分だった。
ツィサナが私の横を抜けた。
「イリア?」
寝室へ向かって呼ぶ。返事はない。
「イリア。いるの?」
家の中は静かなままだった。ツィサナが歩き出す。私は反射的に、その腕へ手を添えた。
「待ってくれ」
彼女がこちらを見る。
「でも、イリアがいるかもしれない」
言い返せなかった。たしかに、いるかもしれない。
けれど、おそらくイリア少年だけではない。
それが問題だった。
私が手を離せずにいると、ニノ医師が卓の上へ視線を移した。
記録器。床に残したエミッター。ダヴィトの身体へつながった受信器。
「先生」
私は彼女を見る。
「測れませんか?」
すぐ意味が分かった。
測定のための準備は、ほとんど残っている。寝室は一度測り終えているが、今探したいものは、その時にはいなかったかもしれない。
「そうしよう」
私はツィサナから手を離した。
「寝室へ寄せる。範囲は狭くていい」
レヴァンがすぐ床へ膝をつき、玄関側に置いていたエミッターを外す。サロメは絡みかけた配線を持ち上げ、通路を空けた。ニノ医師はダヴィトのところへ行き、胸元の受信器を一つずつ確認していく。
「気分は?」
「悪くありません」
「眩暈は?」
「ないです」
短いやり取りの間にも、ダヴィトの目だけは時々寝室へ戻った。
私はエミッターを一つ受け取り、寝室の入口へ近づいた。ツィサナはその後ろにいる。
呼びかけはしなかった。
誰も、もう寝室から目を離していなかった。
……床へ屈もうとした時だった。
「……あの」
レヴァンの声がした。私は振り返らなかった。私も、おそらく彼が見ているであろうものを見たからだ。
寝室の奥で、白いものが動いた。最初に見えたのは、足だった。裸足の小さな足が、暗がりから床へ出る。
次に、白い裾。
その上から長い黒髪が垂れていた。
濡れているように束になった髪の間から、白い顔が見える。
少女だった。
あの少女。
彼女は寝室から、ゆっくり歩いてきた。
足音はしなかった。
私は動けなかった。
診療所で見た時と同じ姿だった。
だが、今は一つだけ確かめなければならないことがあった。
視線を横へ動かす。
ニノ医師が少女を見ている。
ダヴィトも。ツィサナも。
そこまでは不思議ではない。
さらに視線を動かした。
サロメが見ていた。灰青色の目が、まっすぐ少女を追っている。レヴァンも、床に膝をついた姿勢のまま顔を上げていた。
誰一人、私たちの顔を見てはいなかった。全員が、同じものを見ている。
少女は部屋の中央まで来ると、立ち止まった。
ツィサナが息を呑む。
「イリア?」
返事はなかった。
少女はツィサナを見る。それから、ゆっくりこちらへ顔を向けた。
口元に、あの静かな笑みが浮かんでいた。
私の手には、まだエミッターがあった。
床へ置く途中のまま。
——to be the next scene.




