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Ghost Noise 〜耳底に沈む音〜  作者: 矢崎 那央
第5幕『耳底に沈めた音』
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Scene37:『寝室の奥から』


 屋根の上を引きずる音は、止まらなかった。


 ずる……ずる……と、重いものが瓦のない屋根板を擦りながら進んでいく。速くはない。それなのに、一度こちらから離れ始めると、音の位置だけが妙にはっきり遠ざかっていった。

 私は戸口へ向かった。背後で椅子が鳴り、ニノ医師も立ち上がる。ツィサナはもう扉に手を掛けていた。


 「待って」


 ニノ医師が呼び止めたが、ツィサナは振り返らない。


 「聞こえるの。あっち」


 外へ出る。


 夜の空気は、家の中より冷えていた。

 通りへ出ると、音は二軒ほど先の屋根へ移っている。姿はない。月もまだ低く、家々の輪郭が淡い明かりの中へ沈んでいた。


 ずる……。


 また動く。


 私たちはその方向へ急いだ。


 「ダヴィトさんたちは?」


 ニノ医師が後ろから訊く。


 「ダヴィトは今、受信器を外すだけでも時間がかかる。サロメとレヴァンも機材についていてもらった方がいい」


 ツィサナはすでに先へ進んでいた。


 屋根から屋根へ渡っているのか、それとも音だけがそう聞こえているのかは分からない。角を曲がるたびに位置がずれ、先へ行く。走れば追いつけそうな距離なのに、縮まらなかった。

 ツィサナが私の少し前を行く。銀鈴が激しく鳴っていた。

 路地を一つ抜けたところで、彼女が突然止まった。私は危うく背中へぶつかりかける。


 「……イリア」


 ツィサナが振り返った。

 その顔を見て、私は屋根から耳を離した。


 「どうした?」


 「今、声がしたの」


 ニノ医師も足を止める。私は耳を澄ませた。


 ……何もない。


 少なくとも、私にはイリア少年の返事らしい雑音は聞こえなかった。


 「どちらからだ?」


 ツィサナは答えず、ゆっくり周囲を見回した。

 右を見る。振り返る。それから、さっきまで私たちが追っていた方向へ顔を向ける。


 「……分からない」


 声が小さくなった。


 「近かった気がしたの。でも……」


 彼女は一歩進んだ。


 「イリア?」


 返事はない。


 「イリア。どこ?」


 風が狭い通りを抜け、軒先に掛かった布を揺らした。私は呼吸を止めるようにして待った。何も聞こえない。ニノ医師も黙っている。

 そこでようやく、もう一つの音がなくなっていることに気づいた。

 屋根の上を進んでいた、あの重い擦過音。いつ止まったのか分からない。


 「……消えたな」


 呟くと、ツィサナがまた歩き始めた。

 私たちはそのまま、音が向かった先まで進んだ。家と家の間の細い道を抜け、裏手へ回った。

 誰もいない。

 さらに先へ行くと道幅が少し広がったが、そこにも人影はなかった。閉じた窓から灯りが漏れ、どこかの家で皿を重ねる音がした。


 ツィサナは何度もイリア少年を呼んだ。そのたび、私は返事を待った。だが、聞こえない。さっきツィサナが聞いたという声は、もうない。

 屋根を引きずっていた音も、それきりだった。

 あれがGNS-Cに関係するものだったのかもしれない。昼間までの話を考えれば、そう疑う理由はある。

 だが、音は消えた。姿もない。


 私たちはそこからさらに何本か路地を回った。

 何も起こらなかった。その時間が、思いのほか長かった。

 何かを聞き逃した気がして立ち止まり、また歩く。ツィサナが呼び、三人で待つ。少し先へ行き、また呼ぶ。


 返事はない。


 やがて、ニノ医師が足を止めた。


 「ツィサナ」


 ツィサナは振り返らなかった。


 「戻りましょう。これ以上暗くなったら、今度はあなたが怪我をするわ」


 「もう少しだけ」


 「さっきもそう言ったでしょう」


 責める声ではなかった。ツィサナはまだ道の先を見ていた。しばらくして、息を吸う。


 「……イリア」


 今までより、ずっと静かに呼んだ。私も耳を澄ませた。

 夜の村には思った以上に音がある。

 風。遠くの戸が閉まる音。どこかで犬が一度吠えた。人の話し声。そのどれにも、あの返事は混じらなかった。


 ツィサナの肩が、少しだけ下がった。


 「戻ろう」


 彼女は、今度は自分から言った。帰り道では、誰も急がなかった。追っていたものがなくなると、足の疲れが急に戻ってくる。

 私も何度か後ろを振り返ったが、もう屋根から音はしなかった。


 結局、GNS-Cは……逃したのかもしれない。


 イリア少年も見つからなかった。ただ、ツィサナが一度だけ声を聞いた。

 今あるのは、それだけだった。


————


 家へ近づくにつれて、灯りが見えてきた。

 窓から漏れる薄い橙色の灯りを見て、私はようやく少し息を吐いた。


 戸を開けた時、最初に気づいたのは静けさだった。卓の上と壁際に置かれた灯りだけが室内を照らしている。床には淡い明暗の境ができ、天井や部屋の隅は暗い。

 だが、測定を続けているなら、何かしら音がしていると思っていた。


 ……ダヴィトは、私たちが出た時と同じ椅子に座っていた。胸から伸びた配線もそのままだ。


 ただ、顔色が違う。


 白い。


 視線は私たちに向いていなかった。家の奥、寝室の方を見ている。

 レヴァンも同じ方向を見ていた。サロメは立ったまま、革鞄の金具へ指を置いている。

 その指が動いていなかった。


 私は家へ入った。


 「……どうした」


 ダヴィトがこちらを見た。

 いつもなら、先に要点を言う男だった。だが、今は一度、喉を鳴らした。


 「先生たちが出て、少ししてからです」


 声は低かった。


 「さっきの……あの、引きずるような音が入ってきました」


 私は振り返った。開いたままの戸口。外の通りには誰もいない。


 「ここへ?」


 「はい」


 ダヴィトの視線が、また奥へ戻った。


 「玄関の方から聞こえました。近づいてきて……」


 彼はそこで言葉を切った。

 右手だけが、椅子の縁を強く掴んでいた。指先が白くなっている。配線を外そうとした形跡はない。

 その状態のまま、何かを見送ったように、目だけが寝室へ向いている。


 「私の前を通り過ぎて、寝室の方へ行きました」


 私は寝室を見た。入口の向こうは暗い。壁際と寝床の一部しか見えない。


 ……何もいない。いや、見えない。


 何も動かない。


 「配線は外さなかったのか」


 ダヴィトはほんの少し、視線を落とした。


 「装置を壊すわけにはいきませんよ。それに……」


 自分の胸元から伸びる線を見る。


 「途中からは、動く方が恐ろしくなりました。」


 改めて、寝室の奥に目を向ける。やはり、何も見えない。そして……音もない。


 「今も聞こえるか?」


 ダヴィトは首を横に振った。その答えのあと、誰も口を開かなかった。


 外で消えたと思っていた音が、ここへ来ていた。そして、奥へ行った。それから聞こえなくなった。


 私は寝室から目を離せなかった。


 「僕には、音は聞こえませんでした」


 レヴァンが小さな声で言った。普段よりずっと声量が落ちている。


 「でも、ダヴィトさんが急に玄関の方を見て……そのまま、何かを追うみたいに……」


 それ以上は言わなかった。

 サロメも寝室を見たまま、


 「私にも、何も聞こえておりません」


 と言った。それで十分だった。


 ツィサナが私の横を抜けた。


 「イリア?」


 寝室へ向かって呼ぶ。返事はない。


 「イリア。いるの?」


 家の中は静かなままだった。ツィサナが歩き出す。私は反射的に、その腕へ手を添えた。


 「待ってくれ」


 彼女がこちらを見る。


 「でも、イリアがいるかもしれない」


 言い返せなかった。たしかに、いるかもしれない。

 けれど、おそらくイリア少年だけではない。


 それが問題だった。


 私が手を離せずにいると、ニノ医師が卓の上へ視線を移した。

 記録器。床に残したエミッター。ダヴィトの身体へつながった受信器。


 「先生」


 私は彼女を見る。


 「測れませんか?」


 すぐ意味が分かった。


 測定のための準備は、ほとんど残っている。寝室は一度測り終えているが、今探したいものは、その時にはいなかったかもしれない。


 「そうしよう」


 私はツィサナから手を離した。


 「寝室へ寄せる。範囲は狭くていい」


 レヴァンがすぐ床へ膝をつき、玄関側に置いていたエミッターを外す。サロメは絡みかけた配線を持ち上げ、通路を空けた。ニノ医師はダヴィトのところへ行き、胸元の受信器を一つずつ確認していく。


 「気分は?」


 「悪くありません」


 「眩暈は?」


 「ないです」


 短いやり取りの間にも、ダヴィトの目だけは時々寝室へ戻った。

 私はエミッターを一つ受け取り、寝室の入口へ近づいた。ツィサナはその後ろにいる。


 呼びかけはしなかった。

 誰も、もう寝室から目を離していなかった。


 ……床へ屈もうとした時だった。


 「……あの」


 レヴァンの声がした。私は振り返らなかった。私も、おそらく彼が見ているであろうものを見たからだ。

 

 寝室の奥で、白いものが動いた。最初に見えたのは、足だった。裸足の小さな足が、暗がりから床へ出る。


 次に、白い裾。


 その上から長い黒髪が垂れていた。

 濡れているように束になった髪の間から、白い顔が見える。


 少女だった。


 あの少女。


 彼女は寝室から、ゆっくり歩いてきた。

 足音はしなかった。

 私は動けなかった。


 診療所で見た時と同じ姿だった。

 だが、今は一つだけ確かめなければならないことがあった。


 視線を横へ動かす。

 ニノ医師が少女を見ている。

 ダヴィトも。ツィサナも。


 そこまでは不思議ではない。


 さらに視線を動かした。

 サロメが見ていた。灰青色の目が、まっすぐ少女を追っている。レヴァンも、床に膝をついた姿勢のまま顔を上げていた。


 誰一人、私たちの顔を見てはいなかった。全員が、同じものを見ている。

 少女は部屋の中央まで来ると、立ち止まった。


 ツィサナが息を呑む。


 「イリア?」


 返事はなかった。


 少女はツィサナを見る。それから、ゆっくりこちらへ顔を向けた。

 口元に、あの静かな笑みが浮かんでいた。

 

 私の手には、まだエミッターがあった。


 床へ置く途中のまま。



——to be the next scene.

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