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Ghost Noise 〜耳底に沈む音〜  作者: 矢崎 那央
第5幕『耳底に沈めた音』
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Scene36:『見えない子どもを探す』


 ツィサナの家へ戻るまで、彼女はほとんど喋らなかった。


 走り回ったせいで呼吸はまだ浅く、右耳の銀鈴も、歩調に合わせて落ち着かない音を立てている。ニノ医師が途中で膝の泥だけでも落とそうとしたが、「あとでいい」と短く断った。


 家が見えると、ツィサナは私たちより先に戸口へ向かった。鍵を開ける。扉を押し込む。

 朝と同じ家だった。卓の上には、洗った器が伏せてある。炉の火は落ちていたが、朝食の鍋は壁際に片づけられていた。椅子も、私が今朝立った時の位置から大して動いていない。

 ただ、ツィサナが戸口に立ったまま呼んでも、何も返らなかった。


 「イリア」


 声が、家の奥へ抜けていく。彼女は少し待った。


 「帰ったよ。いる?」


 窓の外で風が鳴った。梁が微かに軋む。それだけだった。

 私も耳を澄ませる。

 今朝までは、ツィサナの呼びかけのあとには何かがあった。食器の縁だったり、床板だったり、自分の胸の奥だったりする。言葉としては聞き取れない。けれど音の並びには妙な抑揚があり、彼女が返事を受け取るのとほぼ同時に、こちらにも、何か返したことだけは分かった。

 今は、それすらない。


 ツィサナは寝床へ行った。


 「イリア?」


 毛布を持ち上げる。もちろん、その下に姿があるかどうかは彼女にも見えない。しゃがんだまま、寝床の横、壁際、床の近くへ順に呼びかけた。

 返事はなかった。


 私は家の中央に立って、しばらく音を待った。

 ここにいない、と決めるのは早い。姿は誰にも見えないのだ。

 もし、ここにいるのに返せないだけなら。眠っている。意識を失っている。あるいは、何らかの理由でツィサナの呼びかけを認識できない。


 人間の子どもなら、寝床の下を覗き、戸棚を開け、倒れていれば身体を抱き起こせる。

 イリア少年には、その当たり前が使えない。


 私はダヴィトを見る。

 彼も同じことを考えていたらしい。抱えていた木箱を卓の脇へ下ろした。


 「測りますか?」


 「ああ」


 返事をすると、自分の声が思ったより早く出た。

 今朝、この家へ機材を持ち込むことを考えた時には、少し躊躇した。

 ここは実験室ではない。パン屑の落ちる卓があり、母親が子どもを叱り、夜になれば毛布を掛ける家だ。その生活の上へ配線を這わせることが、以前よりずっと嫌だった。


 今は逆だった。


 一刻も早く箱を開けたかった。

 床へエミッターを置き、壁へ固定し、家中へ試験振動を送り込みたい。毛布の下でも、卓の脇でも、どこか人間の目に映らない場所でイリア少年が倒れているなら、生活を邪魔する機械の一本や二本、どうでもよかった。

 数時間で、随分と都合よく変わるものだ。今は、床が配線で見えなくなっても構わなかった。


 ツィサナがこちらを見た。


 「これなら、いるかどうか分かる?」


 「前回と同じ程度の反応が取れれば、少なくとも身体に相当する構造が家の中にあるかは探せる」


 彼女は一度だけ頷いた。そして、すぐ戸口へ向かった。


 「じゃあ、準備してる間に私、もう一度探してくる」


 ニノ医師が振り返る。


 「ツィサナ。せめて脚だけ見せて」


 「帰ってから」


 「転んで打ってるでしょう。歩けないとは言ってない。一分で済むから見せて」


 昔からこうなのだろう。

 ツィサナは明らかに不満そうだったが、出しかけた脚を引っ込めはしなかった。ニノ医師は赤く擦れた膝を確かめ、布で土を払い、小さな傷だけ手早く処置した。


 「はい。行っていい。でも暗くなる前に一度戻って」


 「分かった」


 その返事を聞いて、ダヴィトが顔を上げた。


 「先生は探しに行ってください。聞こえる人間が一人でも外を回った方がいい。受信側は私がやります」


 「キミが?」


 「前回の手順は記録しています。受信器を貼る位置も分かります」


 木箱を開けながら、彼は淡々と続ける。


 「それに、胸骨から側腹部まで受信器を貼るんですよ。ニノ医師やサロメさんに受信役をお願いするわけにはいかないでしょう。ここは先生か私です」


 ニノ医師も、すでに箱の中から小型受信器を取り出していた。


 「こちらはやります。先生は行ってください」


 サロメは部屋の端へ置かれたエミッターを手に取り、以前の測定位置を確認するように床を見ている。


 「私は何をどこへ設置するかだけ、ご指示ください。知覚内容については伺いません」


 誰も私の判断を待ってはいなかった。

 私は一瞬だけ、床に広がり始めた機材を見た。それから白衣の袖を捲る。


 「分かった。ダヴィト、異常が出たら測定を止めろ。身体の方もだ」


 「先生にだけは言われたくありませんね」


 「反面教師というものは有用だぞ」


 ダヴィトは返事をせず、上着の釦を外し始めた。ツィサナが戸を開ける。外の光が床を横切った。

 私は彼女と同時に家を出た。


 最初の角で、ツィサナとは別れた。

 彼女は川の方をもう一度回ると言い、私は村の北側から共同窯の裏を通ることにした。


 「見つけたらーー」


 と言いかけて、互いに止まった。

 見つける、という言葉が妙だった。姿は見えない。手を掴むこともできない。結局、私たちにできるのは返事を待つことだけだ。


 「何か聞こえたら戻ろう」


 言い直すと、ツィサナは頷いた。それぞれ逆の方へ歩き出した。

 迷子の子どもを探すのとは、最初から条件が違った。名前を呼びながら村を歩く。その行為だけなら同じである。


 「イリア少年」


 通りの角で呼ぶ。返事はない。

 井戸の脇で立ち止まる。水桶を置く音、女たちの話し声、縄が滑車を擦る音。その下へ意識を沈めるようにして、別の音を探す。


 何もない。

 いや、正確には、ありすぎる。


 GNSを発症してから、静かな場所を探すことは難しくなった。

 壁の向こうから湿った呼吸がすることがある。人のいない路地を、爪のようなものが擦っていく。遠くにいるはずの獣が、耳のすぐ後ろで息をしたかと思えば、実際の荷車は距離を誤る。

 その中から、一人の子どもの返事だけを拾わなければならない。しかも拾えたところで、私には言葉にはならない。


 イリア少年がツィサナへ返す音は、私の耳には、いくつかの雑音が妙な間を置いて並ぶ程度にしか聞こえない。上がった。下がった。少し間を置いた。せいぜい、そのくらいだ。


 私は立ち止まった。細い路地の先には、誰もいなかった。

 正確には、そこに立っている誰かは居ない。


 「イリア少年」


 もう一度呼ぶ。

 反射的に顔を向ける。低い呼吸が、石一枚隔てた向こう側をゆっくり移動していた。距離の取りにくい、あの音だ。

 一歩だけそちらへ足が出かけ、やめた。

 欲しい音ではない。イリア少年の返事には、もっと細かな切れ目がある。意味を聞き取れなくても、誰かが何かを返しているのだと分かる程度には、音の並びに癖があった。

 これはただ呼吸している。これまで何度も聞いたGNS-Bの気配に近い。


 私は壁へ向けていた身体を戻した。

 普段なら気になっただろう。どこへ動いているのか、ダヴィトの記録と一致するか、距離感にまた異常が出ていないか。

 今日は、どうでもよかった。


 川沿いまで歩き、橋の下で呼んだ。

 水音に耳を取られないよう少し離れて待ったが、あの不規則な雑音は混じらなかった。


————


 共同窯の裏へ回る頃には、昼の明るさが少しずつ傾き始めていた。窯の壁から返る乾いた熱が頬に触れる。ツィサナが仕事をしている時、イリア少年が待っていたことがあるという場所だった。


 「イリア少年」


 薪の爆ぜる音がして、しばらくして奥で何かが崩れた。

 それきりだった。


 市場へ続く坂を上がり、人の少ない路地へ入った。

 頭上を、小さな足音のようなものがいくつも駆け抜けた。

 鼠かと思って顔を上げる。屋根には何も見えない。そのまま見ているうちに足音は遠ざかり、また別の家の向こうで始まった。

 以前の私なら、この異音に記録帳を出していたと思う。

 今日は、腹が立った。

 聞こえるはずのなかったものばかりが、嫌になるほどよく聞こえる。

 壁の向こうの呼吸も、誰もいない屋根を走る足音も、頼んでもいないのにこちらへ入ってくる。それなのに、今ひとつだけ聞きたい音が、どこにもない。


 そう思ったところで、自分がしていることに気づいた。立ち止まり、しばらくその場で動けなかった。

 私はずっと、耳を澄ませている。

 異音の詳細を探すこと自体が、GNSを深める可能性がある。患者には探させない。未発症者には聞き方を教えない。同じ音を複数人で追わない。自分たちで決めたことだった。

 なのに今は、村中を歩きながら、その逆をやっている。そこまで分かっても、耳を閉じようとは思えなかった。


 「イリア少年」


 もう一度、呼んだ。声が遠ざかるのを最後まで聞いた。


 いつから同じ道を歩いていたのか、途中で分からなくなった。

 石壁に干された赤い布が目に入った時、さっきもここを通ったことに気づいた。風を受けて端がめくれ、そのたび白い裏地が覗く。妙に目につく布だった。


 次は別の道を選んだつもりだった。しばらくして、またその赤が見えた。

 疲れているらしい。

 普段ならそこで道順を整理しただろう。歩いた場所を記録し、重複を除き、まだ見ていない区域へ移る。


 三度目に同じ布を見た時には、もう立ち止まらなかった。

 見落としようのないものを探しているのなら、同じ道を歩くのは無駄だ。

 だが、イリア少年は最初から見えない。さっき通った時に、私のすぐ横にいたとしても分からない。今、同じ場所を通ったことで初めて返事をするかもしれない。

 そんな理屈を頭の中で作った。

 正しいのかどうかは分からなかった。ただ、歩くのをやめずに済んだ。


 最も厄介なのは、彼自身が黙っている場合だ。もしイリア少年が自分の意思で返事をしないと決めているなら、私には本当に何もできない。

 肩が触れるほど近くを通り過ぎても。足元にいても。私には、その違いすら分からない。

 その考えだけが、どうしても頭から離れなかった。


————


 やがて通りへ灯りが点き始めた。そこでようやく、私はツィサナの家へ戻った。

 戸を開けると、朝とはまるで違う部屋になっていた。

 床際には骨伝導型のエミッターが一定の間隔で置かれ、細い配線が壁沿いを這っている。卓の片側には多チャンネルの記録器と位相差解析器。再構成端末の淡い表示だけが、薄暗くなった室内で妙に白く見えた。


 そして卓の横には、上着を脱いだダヴィトが座っていた。

 胸骨、鎖骨の下、喉元。手首から伸びた配線が記録器へ集まり、背中側にも受信器が貼られているらしい。前回、私がやった格好である。

 あまり他人に見られたい姿ではなかったな、と今さら思った。


 レヴァンが床に膝をつき、一本の配線を壁際へ寄せている。私に気づいて顔を上げた。


 「先生。お帰りなさい」


 「いつ来た?」


 「昼過ぎです。ダヴィトさんから人手がいるって」


 部屋の奥では、ニノ医師とサロメが寝床の周囲のエミッターを付け替えていた。

 サロメは測定画面を見ない。ニノ医師から指示された位置へ装置を固定し、配線だけを確認している。


 ツィサナも戻っていた。

 卓の端に立ち、再構成端末を見ている。髪も長衣も、出ていった時よりさらに乱れていた。


 私は彼女の隣へ行った。


 「いつ戻った?」


 「少し前」


 「何かあったか?」


 首が横へ動く。それだけだった。

 私も何も言わなかった。


 画面を見る。

 いくつもの波形と、その差分から作られた粗い空間像が重なっている。前回のように、幼い子どもほどの輪郭を取るための密な測定ではない。エミッター同士の間隔は広く、像も粗い。

 その代わり、測定範囲は部屋いっぱいに広がっていた。


 ダヴィトが記録板へ目を落とす。


 「食卓のある部屋は二配置で終わっています。イリアに相当する反応は出ませんでした。今は寝室です」


 声は普段通りだったが、長時間同じ姿勢で受信器につながれていたせいか、首を動かす時だけ少し硬い。


 「範囲優先か」


 「はい。輪郭を取る必要はありません。前回と同程度の大きさの異常領域があるかだけ見ています」


 私は再構成像へ目を戻した。

 床板や壁、家具による遅延は出ている。その中に、以前見たものはない。

 細い四肢。膨れた腹。人間ではない位置で折れる、小さな身体。

 どこにも浮かばない。


 ニノ医師が寝床側のエミッターを外した。


 「ここも終わりです」


 ツィサナがすぐに彼女を見る。


 「いない?」


 ニノ医師は、画面へ一度目をやった。それからツィサナへ向き直る。

 結果を訊くより先に、自分で画面を見たかった。

 表示を覗き込む。そこに、この家の床や壁がそのまま描かれているわけではない。薄い濃淡が重なっている。振動が遅れた場所。途中で欠けた場所。本来ならその距離では出ないはずのずれ。

 見慣れた表示だったが、前回よりずっと像が粗い。一つ一つの歪みも輪郭までは追えない。


 それでいい。


 細い腕がどう曲がっているかも、腹部がどれほど膨らんでいるかも、今はどうでもよかった。


 私は画面の端から端まで目を走らせた。欲しいのは形ではない。この家のどこかに、前と同じような『そこに何かがある』という歪みが残っていること。


 ただ、それだけだった。

 それさえ出てくれればよかった。


 横に人の気配が来た。

 ツィサナだった。何も訊かず、私と同じ画面を見ている。

 どこまで読み取れているのかは分からない。ただ、前回なら何かが出た画面に、今回はまだ何も出ていない。そのことだけは、私が見るより前に端末を見続けている彼女にも伝わっているように思えた。


 奥の部屋から低い振動が走った。足裏へ先に届き、床板を抜けて身体を上がってくる。少し遅れて、卓上の波形が動いた。

 私はそこへ意識を戻した。

 一本目。違う。

 周波数が変わる。次も違う。

 そのたびに、今度こそ何か引っかかるのではないかと思った。波形が立つたび目がその場所へ吸われ、家具や壁に由来する反応だと分かると、また次へ移る。

 『家の中にいるのなら、出てくれ』

 いつの間にか、測定結果にそんなことを求めていた。機械に願っても仕方がない。

 それでも、最後の試験振動が消えた時、すぐには画面から目を離せなかった。


 寝室の方でニノ医師が立ち上がる気配がした。ダヴィトも一度深く息を吐く。


 「どうです?」


 私は再構成された像をもう一度見た。変わらない。ツィサナがこちらを見ているのが分かった。


 「……寝室にも、前回と同じ反応は出ていない」


 それだけ答えた。


 彼女の視線が画面へ戻った。

 落胆したとも、まだ期待しているとも言わなかった。ただ、卓の縁へ置かれた指が一度だけ曲がり、そのまま離れなかった。


 その横を、ニノ医師が通り過ぎた。


 「次、外します。レヴァンさん、そちらを持ってください」


 「はい」


 返事と同時にレヴァンが動いた。ニノ医師が外した固定具を受け取り、サロメはもう空いた器材を次の配置へ移せるようまとめ始めている。


 誰も何も慰めなかった。

 その代わり、測っていない場所を一つ減らすために手を動かしていた。

 私もそちらへ行こうとしたところで、ダヴィトが記録板をめくった。


 「次は玄関側を取りましょう。そのあと浴室です。壁際は反応が重なるので、配置を少しずらします」


 窓の外はもう暗かった。

 朝、ツィサナに見送られた玄関へ目をやる。二、三歩もあれば横切れる。その先の浴室も狭い。どちらも今日だけで何度視界に入ったか分からない場所だった。

 それなのに、まだ終わっていない。


 家そのものは小さい。だが、この機械で探そうとすると、一つの部屋は一つでは済まなかった。振動を入れる位置を変えれば、別の角度から取り直す必要がある。壁が邪魔をすればずらし、家具と重なればまたやり直す。

 見えている家が、測るたびに細かくほどけていく。

 その隙間のどこかに、見えない子ども一人が残っていてくれればいい。


 私は玄関側へ運ぶエミッターに手を伸ばした。


 ……指が金具に触れたところで、何かを引きずるような音がした。


 反射的に手を止める。

 すぐ横では、レヴァンが配線をまとめていた。箱を動かしたのかと思ったが、彼の手元にあるのは細い線だけで、床の器材にも動いた形跡はない。


 では、今のは何だ?


 耳を澄ませようとしたところで、もう一度聞こえた。


 ずる……。


 今度は場所が分かった。


 ……上だ。


 私は顔を上げた。

 梁の向こうに天井がある。そのさらに上、屋根のあたりを、音がゆっくり横切っていた。


 足音ではなかった。


 歩いているなら、重さのかかる瞬間と抜ける瞬間がある。だが、今聞こえているものにはそれがない。何か大きく柔らかいものが、持ち上がることなく、ずっと屋根へ重みを預けたまま移動している。


 水を満たした大きな皮袋を、そのまま床の上で引いたような音。


 ず……る。


 少しずつ、音の位置が変わっていく。私は天井を見たまま、その移動を追った。


 GNS-B。


 それが、すぐに頭をよぎる。だが、これまで聞いてきたものとは違う。

 あの獣じみた気配には、まず呼吸があった。湿った息の合間に、細いものが擦れたり、身体のどこかを無理に曲げたような軋みが混じることもあった。


 今は、それがない。

 ただ、重い。


 耳から入ってくるのはそれだけなのに、その重さを支える脚も、胴も、頭も、どうしても想像できなかった。


 そこで、隣から衣擦れの音がした。

 見ると、ダヴィトも天井を仰いでいた。視線を奥へ移す。ニノ医師は外しかけていた固定具に手を残したまま、同じ方を見ている。

 ツィサナも顔を上げていた。私だけではない。

 そのことが分かった途端、さっきまで形を探していた意識が、別の方へ向いた。


 サロメはどうしている?


 彼女は天井ではなく、私たちを見ていた。

 ダヴィトを見て、ニノ医師を見て、それから私を見る。何が起きたのか、こちらの反応から読み取ろうとしている顔だった。

 レヴァンも同じだった。配線を持ったまま、私たちが急に揃って上を向いた理由を探している。


 二人には聞こえていない。

 そこでようやく、音の出所について考える必要がなくなった。


 ゴースト・ノイズだ。


 ずる……。


 また動いた。

 今度は、ほとんど頭上だった。


 ……近い。


 そう感じた途端、天井がひどく薄く思えた。実際の厚みが変わったわけでもないのに、その向こうへ手を伸ばせば、今の重たい何かに触れてしまいそうな距離に感じる。


 私は呼吸を浅くして、音の位置だけを追った。

 家の屋根は広くない。今の速度なら、もう半分ほど来ている。あと数回、この擦れる音が続けば、反対側へ抜けるはずだった。


 ずる……。


 まだ上にいる。


 次を待つ。


 ずる……。


 私は天井を見たまま、わずかに眉を寄せた。


 遅い、という感じではない。音そのものは、さっきからほぼ同じ速さで進んでいる。

 なら、もう外へ出ていなければおかしい。

 戸口から反対側の壁までを頭の中でなぞる。何度も出入りした家だ。距離を取り違えるほど広くはない。


 それでも。


 ずる……。


 まだ、真上に近い。


 私はいつの間にか、音が消える瞬間を待っていた。

 屋根の端へ届けば終わる。次で終わる。そう思うたびに、また少し先から同じ音がした。


 ずる……。


 進んでいる。確かに、ずっと同じ方向へ進んでいる。

 なのに、いつまで経っても屋根の端へ着かない。

 そこで初めて、私は音ではなく、自分の知っている家の方を疑った。


 目の前にある天井は、朝から何度も見ている。玄関から寝室まで、歩けばすぐだ。


 そのはずなのに。


 音の中だけで、屋根が終わらない。



——to be the next scene.

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