Scene35:『返事がない』
診療所を出たのは、まだ昼を少し過ぎた時間だった。
朝から高かった雲が薄くほどけ、村の通りへ白っぽい陽が落ちている。軒先では洗った布が風を受け、共同井戸の辺りには水桶を提げた女たちが集まっていた。診療所の中で、見えない何かの呼吸に三人揃って耳を澄ませていたのが嘘のように、外へ出ればいつもの村が続いている。
その中を、私たちはツィサナの家へ向かった。
私とダヴィト、それにサロメ。荷物も昨日とは違う。ダヴィトが抱えている木箱には、簡易音響トモグラフィの受振器と記録板が収まっている。私の手にも、組み立て式の探触子と配線を詰めた鞄があった。歩くたび、中で金属同士が小さく触れる。
今朝、あの家を出た時には持っていなかった音だった。
少し前まで私は、あそこで朝食を食べていた。
鍋の音がして、パンの匂いがして、イリア少年が先に食べようとしてツィサナに叱られていた。私は子どもに好かれたという人類史的快挙について語り、彼女には朝から面倒だと言われた。
そこへ今から、受振器を並べる。
床へ印を付け、壁へ探触子を当て、時間ごとの反応を書き取る。GNS-Cが来るなら、その瞬間を逃さないために。
必要なことだ。それは分かっている。
分かっているのだが、手にした鞄が今朝より重く感じた。
「あの家には、機材を置ける場所があまり広くありません」
隣を歩くダヴィトが、前を見たまま言った。
「前回の配置をそのまま使うと、生活の邪魔になります。受振器を減らした方がいいでしょうか」
「いや。減らすより位置を変えよう。前回はイリア少年の輪郭を取ることが目的だったが、今回はGNS-Cが接近した際の変化を拾いたい。範囲は広く取りたいが解像度は粗くて良い。部屋を埋める必要はない」
答えながら、私は自分の言葉に少し救われた。
『部屋を埋める必要はない』
それなら、せめてそうしよう。
今朝まで食器の置かれていた卓を記録紙で覆い、ツィサナが毎晩整えている寝床の周りへ配線を這わせる姿を想像すると、どうにも気分が悪かった。
以前なら、おそらく気にしなかった。
測定に必要なら置く。邪魔なら退ける。生活空間というものは、観測条件の悪い実験室程度にしか考えなかっただろう。
今は、そこにパン屑が落ちていることも、毛布の端が折られていることも知っている。
知ったものは、知らなかった頃の配置には戻せないらしい。
……GNSと似ているな、と考えかけて、やめた。
何でも研究対象へ戻すなと、昨日から何度も言われている。
サロメは少し後ろを歩いていた。
人目のある通りなので、黒衣の裾を乱さず、革鞄を片手に下げている。先ほどまで診療所で見せていた静かな調査士の顔のままだ。
「サロメ。君は家へ入ったら、前回までと同じ位置で頼む」
「承知しました。具体的な知覚内容については、これまで通りお二人から伺わない形でよろしいですね?」
「ああ。何か起きても、まず君自身が見たものだけを記録してくれ」
「分かりました」
完璧な受け答えだった。今朝、宿舎で私の朝帰りを値踏みしていた女と同一人物であることを、時折こちらが忘れそうになる。
ダヴィトはそんなことには気づかず、手元の箱を持ち直した。
「まずはツィサナさんとイリアくん本人に説明ですね。長時間になるなら、交代も組みます。受信者は、先生である必要はありません」
「場合によっては数日がかりの測定だ。そうして貰えると助かる。だが、嫌だと言われたら今日の観測は中止だ」
言うと、ダヴィトが一瞬だけこちらを見た。
何も言わなかったが、なぜ見たのかは分かった。
「何かね」
「いえ」
「今の視線には明らかに意味があったぞ」
「先生が最初からそう言うようになったな、と思っただけです」
「人間は学習する生物だ」
「そうですね」
その返事に少し笑いが混じった。私は反論せず、前へ向き直った。
ツィサナの家までは、もうそれほど遠くない。通りが細くなり、石壁の間を曲がる。朝に通った道だった。角をあと二つ曲がれば、見慣れた戸口が見えてくる。
そこで、走る足音が聞こえた。最初は子どもかと思った。乾いた土を強く蹴る、速い足音だった。
正面の曲がり角から誰かが飛び出してくる。黒い髪。長衣。見覚えのある銀鈴が、走るたび右耳で激しく揺れていた。
「……ツィサナ?」
思わず足が止まった。彼女もこちらに気づいた。そのまま速度を落とさず走ってくる。
妙だ。
ツィサナの家は、私たちが向かっている先にある。なのに彼女は、そちらから来たのではなかった。今曲がってきた道は、診療所へ戻る方向だ。
そこまで考えたところで、彼女の姿がはっきり見えた。
長衣の裾に泥が跳ねている。片方の膝にも土がつき、普段は仕事の邪魔にならないようまとめている髪が半分ほど解けていた。額に張りついた髪を払う余裕すらないらしい。
何より、私を見つけた時の表情が朝とはまるで違った。
「学者さん!」
私は鞄をダヴィトへ押しつけた。
「持っていてくれ」
返事を待たずに走った。ツィサナもこちらへ来る。数歩手前で彼女の足がもつれ、私は咄嗟に腕を取る。
「ツィサナ。どうした」
肩が大きく上下していた。
答えようとしても呼吸が先に出る。私は急かさず、腕を支えたまま待った。
近くで見ると、手まで汚れている。土だけではない。細かな枯葉が袖へつき、指先には擦ったような赤みがあった。何があったのかと訊きかけた時、ツィサナが私の白衣を掴んだ。
昨夜とは違い、指が痛いほど強かった。
「イリアが……」
そこで声が詰まった。私は彼女の顔を見る。
「イリア少年がどうした?」
「いないの」
一瞬、意味が入ってこなかった。ツィサナは息を整える間もなく続けた。
「返事がないの。家に戻ったら、いなくて……呼んでも、どこにもいない」
背後で、ダヴィトが足を止めた気配がした。私はツィサナの腕を支えたまま、頭の中で今朝の家を思い出した。何も見えない床へ向かって、ツィサナが「朝ご飯まで待ちなさい」と言っていた部屋。
私が家を出る時には、確かにいた。
「いつからだ」
「分からない」
ツィサナは首を振った。
「あなたが帰ったあと、私も窯へ行ったの。イリアには家にいるように言って……お昼前に一度戻ったら、返事がなくて」
息を吸う。まだ呼吸が追いついていない。
「最初は、また拗ねてるのかと思った。前みたいに、呼んでも返事したくないのかなって。でも、どれだけ呼んでも何もなくて。寝床にもいない。食器を鳴らしても、床を叩いても……」
言葉が速くなる。
「家の中を何度も回って呼んだ。それでも返事がないから外へ出て、窯にも戻ったし、川の方も、通りも、前にあの子が待ってたところも行った。ずっと名前を呼びながら歩いたけど……どこでも返事がなくて」
彼女の手が、まだ白衣を掴んでいる。私はその手を外さなかった。
「それで診療所へ?」
「もしかしたら、あなたのところへ行ったのかと思って」
そこで初めて、彼女の視線が私の後ろへ動いた。
ダヴィトの抱えた木箱。私が持っていたはずの機材。サロメ。ツィサナの顔に、一瞬だけ理解できないという色が浮かんだ。
「……みんな、どこへ?」
答えるまでに、一拍かかった。
今朝の暖かかった部屋へ。そこでイリア少年を待つために。その説明が、急にひどく間抜けなものに思えた。
「キミの家だ」
私は言った。
「イリア少年のところで、GNS-Cを待つつもりだった」
ツィサナが息を止めた。すぐに何かを言うかと思ったが、何も出なかった。ただ、私の白衣を掴む指がさらに強くなった。
その時、後ろからまた走る足音がした。今度は私たち全員が振り返った。診療所の方角から、ニノ医師が走ってくる。
白衣の裾を片手で押さえながら、普段の落ち着いた歩き方など完全に捨てていた。こちらを見つけると、最後の数歩をさらに速める。
「ツィサナ!」
彼女を呼ぶ声だけは、いつもの診察室とは違った。ツィサナが振り返る。ニノ医師は私たちのところまで来ると、膝へ一度手を置いて息を整えた。
「ごめんなさい、行き違ったわ。先生たちはもう出たって言ったら、あなたそのまま走って行くから……」
言いながらツィサナの腕と足元を見る。医師の目に戻った。
「転んだ?」
「途中で一回。でも平気」
「平気かどうかは私が決めます。血は?」
「ない。今はそんなことよりーー」
「分かってる」
ニノ医師はそこで初めて私を見た。呼吸はまだ少し乱れている。それでも声はもう落ち着いていた。
「先生。イリアがいなくなったそうです。私も診療所の中の音を探したり、呼びかけたりしましたが。たぶん……来ていません」
「ああ。今聞いた」
答えながら、私はもう一度ツィサナを見る。
朝……私が家を出る時、イリア少年は確かにそこにいた。少なくとも、ツィサナには返事をしていた。
その後、彼女は共同窯へ行った。そして戻った時には、いなかった。つい先ほど診療所では、GNS-Bの呼吸を聞いた。
同じ頃、私たちは一つの仮説を立てていた。
『GNS-Cは……イリアのところへ来るかもしれない』
胸の奥が冷えた。しかし、そこから先を繋ぐには何も足りない。
GNS-Cが来たのか。イリアが自分で移動したのか。あるいは、今もそこにいて、ただ返事ができないだけなのか。
分からない。
分からないまま、一つだけ確かなことがあった。
私たちは今から、彼のいる家を張るつもりだった。
その本人が、もういない。
ダヴィトが木箱を地面へ置いた。
「先生」
声が変わっていた。
「予定を変えましょう」
「ああ」
私は即答した。観測機材の金具が、箱の中で小さく鳴った。今朝までなら、その音を持ってツィサナの家へ戻るはずだった。
私は彼女の白衣を掴んだ手へ、自分の手を重ねた。
「まず、最後に返事があった時点から確認する」
ツィサナが顔を上げる。私は続けかけて、やめた。
調査の手順より先に言うことがあった。
「探そう」
それだけ言った。
ツィサナはしばらく私を見ていた。
やがて、小さく頷いた。
——to be the next scene.




