Scene34:『彼が先に』
目を覚ますと、隣はもう空いていた。
窓から入る朝の光はまだ白く、薄い。昨夜、どこかの時点で椅子を離れて寝床へ移ったことまでは覚えている。いつ眠ったのかは曖昧だった。手を伸ばすと、隣の毛布にはまだわずかに温もりが残っている。
ツィサナはいなかった。代わりに、家の奥から朝の音がする。
薪が爆ぜる。鍋の蓋が、沸いた湯気に持ち上げられて小さく鳴る。木の匙が器の縁へ二度触れ、そのあと、食器棚の中で陶器がかすかに震えた。
少し遅れて、ツィサナの声がする。
「だめ。朝ご飯まで待ちなさい」
また、棚が鳴った。
「昨日も先に食べたでしょう。今日は待つの」
どうやらイリア少年も、とっくに起きているらしい。
私は枕へ頭を預けたまま、そのやり取りをしばらく聞いていた。
昨夜、この家で聞いた話を思い出せば、何もかも奇妙だった。六年前に死んだ少年の名を持ち、人間ではない身体を持つ何かが、朝食を待ちきれずに母親へ催促している。しかも母親の方は、正体について私より遥かによく理解した上で、先に食うなと叱っている。
文章にすれば怪談である。けれど、いまこの瞬間に耳に触れる音だけ聞けば、どこの家にもありそうな朝だった。
そして、おそらく彼女たちにとって大切なのは後者なのだろう。
私は毛布を退けた。
椅子の背に掛けられていた白衣へ腕を通す。髪を手で撫でつけたところで、指先に明らかな抵抗があったが無視した。研究者の知性は寝癖によって損なわれるものではない。少なくとも私は、査読論文で髪型を指摘された経験がない。
居間へ出ると、ツィサナはちょうど鍋から朝食を取り分けているところだった。
私に気づいて振り返る。昨夜はあれほど近くで見ていた顔なのに、朝の光の中では少し違って見えた。黒髪は仕事の時と同じように後ろでまとめられ、長衣の袖もきちんと捲られている。窯へ向かう日の、いつものツィサナだった。
ただ、私と目が合った時だけ、その手がほんの一瞬止まった。
「……おはよう」
「ああ。おはよう」
それだけだった。そのくらいでよかった。
昨夜のことを朝になった途端に説明し直す必要もなければ、この関係に何か名前をつける必要もない。少なくとも私はそう思ったし、ツィサナも何事もなかったように器を卓へ置いた。
ただ、私の前へ置かれた器は、いつも出されるものより少し多かった。
「よく眠れた?」
「十分に。椅子よりは比較にならないほど快適だったよ」
「その比較、褒められてる気がしないわね」
「私は野外でも眠れるからな。寝床としてかなり高い評価だ」
「基準が遭難者なのよ」
パンを切りながら、ツィサナが笑う。
その指には窯仕事でついた古い火傷痕がいくつもあった。昨夜、私の白衣を掴んでいたのも同じ手だった、と気づいたところで、食器棚がまた小さく鳴った。
ツィサナがそちらへ耳を向ける。何度か、ごく弱い振動が続いた。
「ん?」
彼女は聞いていたが、やがて口元を緩めた。
「イリアがね。あなたがまだ家にいて嬉しいって」
パンへ伸ばしていた手が止まった。私はゆっくり床の方を見た。
何も見えない。だが、その辺りには確かにイリア少年がいる。
「……ツィサナ」
「なに?」
「念のため、もう一度言ってくれないか」
「聞こえてたでしょう?」
「観測値に重大な異常があった場合、再測定するのは基本だ」
彼女は少し怪訝そうな顔をしたものの、
「あなたが家にいて、嬉しいって」
と、もう一度言った。
間違いない。
私は椅子へ深く腰掛け、両手を卓の上で組んだ。
長い研究生活の中では、時として予想もしなかった成果に遭遇する。既存理論を覆す測定値。誰も見つけられなかった現象。世界の理解を一段押し広げる新発見。
そして今日。
ついに私は、そのいずれにも匹敵する偉業を達成した。
「……子どもに好かれた」
ツィサナの眉が寄った。
「なんでそんな深刻そうに言うのよ」
「深刻ではない。感動しているのだ」
私は胸元へ手を当てた。
「考えてもみたまえ。子どもという生物は、大人の肩書きにも業績にも忖度しない。気に入らなければ容赦なく避けるし、時には殺意すら向けてくる。その苛烈な審査を突破して、この私がついに『家にいて嬉しい大人』へ昇格した」
「最後の一例、あなたの娘さんたちだけじゃない?」
「細部へ拘るな。歴史が動いている」
「一晩泊まっただけで、よその家の歴史まで書き換えないで」
ツィサナは呆れながらパンを私の前へ押しやった。私はそれを受け取りつつ、なおも床へ視線を向ける。
「イリア少年。君は見る目がある。私の父性はしばしば同時代人から理解されないが、優れた思想というものは常にーー」
食器棚が、カタ、と鳴った。ツィサナが聞いて、吹き出した。
「何と言った?」
「『この人、いつもこうなの?』って」
「素晴らしい。好意から人物研究の段階へ進んだな」
「警戒に変わり始めた可能性も考えた方がいいわよ」
「それはない。私の経験上、子どもから明確な拒絶が来る場合はもっと直接的だ」
「どういう経験をしてきたのよ」
「娘たちとの愛に満ちた日々だ」
「今、一瞬だけ全部納得したわ」
床の近くで細かな振動が続いた。ツィサナはそれを聞きながら笑っている。
私も悪い気はしなかった。むしろ、非常に良い。
私は娘たちへ惜しみない愛情を注いできた。しかし、愛情とは必ずしも等価交換されるものではない。投げた愛が拳や罵声や刃物となって返ってくることもある。それはそれで父親として受け止めてきたが、こうして素直な好意が返ってくると、人間とは案外脆いものである。
たった一言で、これほど嬉しい。
「なるほど……」
「今度は何?」
「私は少々、父親という立場について再評価する必要があるかもしれない」
「お願いだから、うちの子を研究材料にして新しい父性理論を作らないでね」
「安心したまえ。理論ではない。既に実証段階へ入っている」
「もっと悪いじゃない」
ツィサナが笑いながら、自分の分のパンへ手を伸ばした。その時、棚の中で今度は少し長く陶器が鳴った。
彼女は何気なく耳を傾ける。最初の数秒は、普通だった。
やがてパンを持ち上げかけた手が途中で止まり、そのまま皿へ戻った。
「……え?」
床の方へ顔を向ける。また振動が返る。
ツィサナの頬に、じわりと赤みが差した。
「ちょっと……待って。なんで今それ聞くの?」
私は匙を持ったまま、彼女を見る。
先ほどまでの母親の顔とは明らかに違う。困っている。しかも、患者への聞き取りで見せるような困惑ではなく、もっと身近で、もっと俗っぽい種類の困り方だった。
「何か問題かね?」
「ない。何もないわ」
答えが妙に速い。床から、また何かが返ってくる。
「いや、だから……違うの。そういうんじゃなくて」
ツィサナは髪を耳へ掛けた。銀鈴の下まで赤い。
何が起きているのかは分からないが、非常に興味深い。
「イリア少年は何と?」
「これは訳さなくていい話」
「彼への聞き取りでは通訳の恣意的な省略を認めていなかったはずだが」
「今は聞き取りじゃないでしょう」
「確かに」
それは正論だった。
私は大人しく朝食へ戻ろうとした。直後、また棚が鳴る。ツィサナがとうとう額へ手を当てた。
「……大人はね、たまにそうやってくっつくこともあるの」
私の匙が止まった。
なるほど。どうやら私も無関係ではないらしい。
「何の説明をーー」
「聞かなくていい」
顔を上げたツィサナが、私に向かってきっぱり言った。
「これは私とイリアの話だから、あなたは朝ご飯を食べてて」
「しかし私が含まれる事象について、当事者への情報開示がーー」
「食べてて」
「……はい」
私は従った。
その後も、私には意味を取れない振動と、ツィサナの小声だけが続いた。
「痛かったわけじゃないの」
少し間があく。
「具合が悪かったわけでもない」
さらに間があった。
「……それは、もう少し大きくなってからでいいでしょう」
私はパンを噛んだ。
昨夜、寝床の隅から聞こえた寝返りのような振動を思い出す。
なるほど。少年というものは、親が思うよりよく見ているらしい。
いや、イリア少年の場合は「見ている」という表現が正しいのかどうかすら怪しいのだが、今そこを追究すると、ツィサナから朝食ごと追い出されそうだった。
賢明な研究者は、危険な実験を見分ける。
私は黙って食べた。
家を出た頃には、朝というには少し遅い時間になっていた。
通りにはもう人が出ている。共同窯へ向かう女たちとすれ違い、荷車の轍には朝露を吸った土が黒く残っていた。少し高くなった陽が家々の屋根を照らし、夜の間に冷えた石壁から、湿った匂いが立っている。
ツィサナは戸口まで出てきた。
「今日は診療所?」
「ああ。昨夜の話を一度、全員で整理する必要がある」
彼女の目が少しだけ細くなる。
「イリアのことも?」
「話していい範囲だけだ。昨夜、君自身について話してくれたことまで共有する必要はない」
ツィサナは私の顔を見たあと、小さく頷いた。
「分かった。必要なことがあれば言って」
「その時は頼む」
私は通りへ降りた。
数歩進んだところで、背後から声がした。
「いってらっしゃい」
振り返る。戸口に立つツィサナと目が合った。
ただの挨拶である。それ以上でも、それ以下でもない。なのに、私は一拍遅れてから返事をした。
「……ふむ、行ってくる」
昨夜までなら、おそらく「では失礼する」などと言っていた。
違いはそれだけだった。
————
宿舎へ戻ると、階段には朝の光が斜めに差し込んでいた。古い板床を上がり、自室へ向かう途中、ちょうど隣の扉が開く。
出てきたサロメが私を見るなり、足を止めた。灰青の目が、私の頭から白衣の裾まで一往復する。
そして、低い声で言った。
「……朝帰りとは、やるじゃねぇか」
「君は優秀な調査士だが、観測事実と解釈を分離する訓練が不足しているな」
私は自室の鍵を取り出した。
「事実は『私が朝に帰ってきた』。そこへ君が勝手に愉快な物語を付与している」
「その愉快な物語を否定する男は、普通もう少し慌てんだよ」
「慌てれば事実が変わるのかね?」
「変わらねぇから面白いんだろうが」
サロメは扉の枠へ肩を預けた。人前で見せる静かな霊媒師の面影は、今は綺麗に消えている。
私は鍵を回しながら、昨夜の会話を思い出した。
「そういえば礼を言っておこう。君の助言は役に立った」
サロメの口元から笑いが消えた。
「……どの助言だ」
「相手との距離を、自分の都合だけで決めるなという話だ。非常に有用だったよ。実地で確認できた」
数秒、沈黙した。
それからサロメが目を細める。
「てめぇ、感謝の体裁でとんでもねぇ報告ぶん投げてきたな」
「何の話だね?」
「よし分かった。聞かねぇ。今聞いたら、たぶん朝から人を殴る」
「霊媒師が暴力へ訴えるのは職業倫理上どうなのかね」
「元詐欺師にそこ求めんな」
私は扉を開いた。背後からサロメが言う。
「で、ツィサナは?」
手が止まった。先ほどまでとは少しだけ声が違った。
茶化しているのではない。私は振り返らずに答えた。
「今朝はいつも通りだった。イリア少年を叱りながら朝食を作っていたよ」
「そうか」
それだけ聞くと、サロメは追及しなかった。
私は部屋へ入りかけて、ふと思い出す。
「あと、イリア少年が私を気に入った」
「は?」
「家にいて嬉しいそうだ」
「……そっちの方が事件じゃねぇか」
「やはり君もそう思うか」
「朝帰りより驚いたわ」
「失礼な女だな」
扉を閉めた。
顔を洗うと、冷たい水でようやく頭が研究者の側へ戻ってきた。鏡に映った顔には多少の寝不足がある。頬に妙な痕跡が残っていないことだけ確認した。
昨夜のことを思い返そうとすると、最初に浮かぶものが記録ではないのが少々困る。ツィサナの指先や、耳元で鳴った銀鈴や、朝になって何でもない顔で差し出された朝食などが先に出てくる。
私は濡れた顔を手拭いで拭いた。
研究者としては由々しき事態だが、ひとまずそれらを頭の端へ寄せる。
手拭いを掛け直しながら、ふと今朝のやり取りを思い出した。
私がいると嬉しい、とイリア少年は言った。それはツィサナが教えた実子の記憶ではない。今ここで暮らしている彼自身が、私を見て決めたことだ。
昨日まで知らなかったことを覚え、叱られれば理由を尋ね、自分の好みを持ち、人を好きにもなる。
なら。
最初は、どうだった?
昨夜、ツィサナは確かに言った。最初に聞こえたのは、普通の患者と同じ呼吸や足音だった。
そして数日後。まだ彼女がその存在を「イリア」と呼ぶより前に……向こうから言った。
『お母さん』
私は手拭いから手を離した。
今まで、私たちはその順番をあまり問題にしていなかった。ツィサナが死んだ息子を求めた。そこへ正体不明の存在が現れた。ツィサナがそれをイリアと呼び、思い出を語り、相手がそれを学んだ。
……だから、イリア少年が生まれた。
後半は、おそらく間違っていない。だが、最初の一歩だけが違う。名前をもらうより先に、記憶をもらうより先に、彼はまず、人間との関係をひとつ選んでいる。
それが単なる模倣だった可能性はある。家の中を観察し、どこかで言葉を覚えただけかもしれない。
それでも、少なくとも。ツィサナが亡き息子として扱ったから、初めて彼の側から接触が始まった、という順番ではない。
私は机の上の記録帳を取った。これまで並べてきた出来事が、頭の中で少しずつ位置を変え始めていた。
部屋を出て階段を降りると、下から足音が近づいてきた。レヴァンだ。こちらを見つけると、ちょうど声を掛けようと口を開く。
「あ、先生、ちょうどーー」
「レヴァン。ちょうど良かった」
階段の途中で立ち止まる。
「ダヴィトを呼んでくれ。定例の打ち合わせを少し早めたい」
私の声を聞いて、彼の顔から先ほどまでの気軽さが消えた。
「何か分かったんですか?」
「分かった、とはまだ言えない。ただ、昨夜の証言を入れると、出来事の順番を組み直す必要がある」
レヴァンはそれ以上詳しく聞かなかった。
「診療所ですね?」
「ああ。ニノ医師の都合がつけば、そこで」
「分かりました。ダヴィトさんを探して、そのまま向かいます」
返事を終える頃にはもう踵を返していた。こういう時、彼は速い。私はその背中を見送り、宿舎を出た。
————
診療所へ着くと、ニノ医師はまだ診察中だった。
廊下の長椅子へ腰掛けて待っていると、診察室の中から子どもの泣き声が聞こえてくる。ほどなく扉が開き、母親らしい女が、腕へ新しい包帯を巻かれた少年の手を引いて出てきた。
ニノ医師は戸口まで見送った。少年が振り返ると、
「今日は水に濡らさないでくださいね。明日、もう一度見せに来てください」
と声を掛ける。母子が外へ出てから、ようやくこちらを見た。
「先生。お待たせしました。何かありましたか?」
「昨夜、イリア少年から得た情報を共有したい。少し予定を早めても構わないかね?」
ニノ医師は壁の時計を見た。
「次の診察まで少しあります。長くなるようでしたら、その時点で中断しますが、それでよろしければ」
「患者を押し退けてまで続けるつもりはないよ」
「でしたら、どうぞ」
診察室の奥にある卓を借りることになった。
私が記録を広げている間に、ダヴィトとレヴァンも到着する。ダヴィトは席へ着くなり記録帳を開き、昨日までの頁へ指を挟んだ。
最後に入ってきたのはサロメだった。扉の前で静かに一礼する。
「お待たせいたしました」
黒い帽子を取り、静かに一礼する。
宿舎の廊下で私の朝帰りを嬉々として嗅ぎつけていた人物とは思えないほど、今日も見事な霊媒師ぶりだった。
私はつい眺めてしまった。それに応え、サロメがこちらへ目を向ける。
「何かございましたか?」
「いや。人間は声帯ひとつで、ここまで社会へ適応できるものなのだなと思ってね」
サロメはほんのわずかに微笑んだ。
「お褒めにあずかり、光栄です」
目だけが笑っていなかった。ダヴィトが私たちを一度見比べたが、賢明にも何も聞かなかった。
ニノ医師が席へ着く。
「始める前にひとつ。ツィサナとイリアの様子はどうでしたか?」
「二人とも今朝は普段通りだった。イリア少年は朝食を待ちきれずに叱られていたし、ツィサナはそれを叱りながら私の分まで食事を作っていた」
ニノ医師の表情が少し和らぐ。
「そうですか。それならよかった」
そこで話を切り替えるように、私の前の記録へ目を落とした。
「では、昨夜分かったことをお願いします」
私は二ヶ月前の診療記録を卓の中央へ置いた。
「最初に目的を確認しておこう。今、我々が優先しているのはGNSそのものの全容解明ではない。これ以上の発症を可能な限り止めることだ」
ダヴィトが頷き、記録帳の新しい頁へ日付を書き込む。
「そのために、流行初期から関与している可能性が高いGNS-Cが、人間へ何をしようとしているのかを知る必要がある。ここまでは変わらない」
「最古の診療記録では、症状を自覚する前日に白い少女を目撃しています」
ダヴィトが手元の頁を確認しながら言った。
「少年は少女を追って割れ岩まで行き、声を聞こうとして耳を澄ませた。その後、獣のような声と呼吸を知覚。翌朝から難聴を自覚しています。父親はその話を聞いた後、自分でも音を探し始めた」
「そして父親は村内で、その経験を広く話している」
私が続きを引き取る。
「これだけなら、GNS-Cが流行を引き起こしたようにも見える。だが、昨夜得た情報を加えると、少し別の並び方ができる」
ニノ医師がすぐには答えず、続きを待った。
私は別の紙を取り出した。
「その前に呼称を一つ増やしたい。ツィサナの家にいる、現在イリア少年として振る舞っている存在だ。形態上はGNS-Bに近いが、他の個体と区別する必要がある。以後、暫定的に『GNSイリア』とする」
ダヴィトの筆先が紙へ触れる寸前で止まった。
「先生。GNS-Cの次の、Dではなくてもいいんですか?」
私は彼を見る。もっともな疑問である。
「私も検討した。しかし彼が娘であれば、迷わずGNS-Daughterを採用できたものを、残念ながら今回は条件を満たさない」
ダヴィトは数秒だけ黙った。
「では、『GNSイリア』で記録します」
とだけ言って書き始めた。
現場責任者とは、時に無益な議論を切り捨てる勇気が必要らしい。
ニノ医師は何事もなかったように話を戻した。
「そのGNSイリアから、GNS-Cについて分かったことがあるんですね?」
「ああ」
私は頷いた。
「彼はGNS-Cを知っている。少なくとも本人の認識では、自分と同一の存在ではない。そしてGNS-Cは、彼に『帰ってきてほしい』と望んでいる」
レヴァンが身を乗り出しかけた。
「帰る場所とは?」
「そこが厄介でな。尋ねても答えは『ここ』だった。この家でも村でも土地でもない。それ以上を人間語で説明できる様子もなかった」
「『ここ』が、場所を示しているのかもわかりませんね」
ダヴィトが手元の記録帳をめくる。
「そうだ。だが、その『ここ』については一度脇へ置く。重要なのは、GNS-Cが少なくともGNSイリアに対して、明確な目的を持って動いていることだ」
サロメが革鞄の金具へ指を置いた。
「仮にあの存在の目的がGNSを広めることでないのなら、GNSは副次的に生じている現象だと?」
「そういうことだ。向こうが感染を目的としているのか、それとも別の行動の結果なのか。この二つでは、止め方がまるで違う」
私は昨夜書かなかった部分を、今朝になって記録した紙へ手を移した。
「我々はこれまで、ツィサナとGNSイリアの関係をこう考えていた。GNSが始まり、ツィサナが彼を知覚するようになった。六年前に亡くした息子と重ね、『イリア』と呼んだ。それを受けて相手が息子としての情報を学び、現在の人格が形成された」
ダヴィトが頷く。
「報告書にある、ツィサナさんの証言とも一致していますね。イリアが、こちらから伝えていない記憶を話したことはない……と」
「そこは今も変わらない」
私は言った。
「変わるのは、その一つ前だ」
昨夜のツィサナの声が、頭の中へ戻ってくる。
『六年も経っていたのに』そう言って、少し困ったように笑っていた。
「彼女が現在の存在を『イリア』と呼ぶより前。まだ実子の記憶を一つも教えていない時点で、向こうから最初に意味のある呼びかけをしている」
ニノ医師の表情が動いた。
「……『お母さん』」
「ああ」
声にしてしまうと、やはりそこだけが妙に際立った。イリアではないものが、イリアという名前を与えられる前に……まず母親を呼んだ。
ダヴィトはすぐに記録を書かず、前の頁へ戻った。何度か視線を往復させ、眉間を指で押さえる。
「そうなると……僕たちは因果を一つ、逆に見ていたかもしれません」
「私も今朝、そう思った」
彼は新しい頁へ線を引いた。
「ツィサナさんが息子として扱ったから、あの存在が初めて人間へ近づいたわけじゃない。人格形成より前に、相手の側から接触がある」
ニノ医師は考えながら、ゆっくり首を傾けた。
「ですが、いつからツィサナへ関心を向けていたかまでは分かりませんね」
「分からない。だからここから先は仮説だ」
私はダヴィトが引いた線を見る。紙の上では、まだ何も繋がっていない。
そこへ指を置いた。
「まずGNSイリアがいた。現在の人格になる前から、人間……あるいは人間の『母親』という関係へ関心を向けていた」
指を少し右へ動かす。
「そしてGNS-Cは、彼に帰ってきてほしいと考えている」
ダヴィトが続きを考えるように、線の先へ目を移した。
「だから探した」
「そう考えると、流行初期のGNS-Cの行動に初めて目的が生まれる」
私は初めての発症者である少年の記録を、その線の先へ置いた。
「白い少女は、村の中や川沿いに現れていた。少なくとも少年に対しては、何かを伝えようとしている。その内容までは分からない。だが彼女がGNSイリアを探していたのだとすれば、人間へ接触していた理由そのものは説明できる」
ニノ医師が、顎に手を添える。
「人間に興味を持ったGNSイリアの情報を、人間に接触することで得ようとした……」
レヴァンが記録を覗き込んだ。
「それで、接触した人間が音を聞くようになった?」
「そう。GNS-Cが人間へ働きかける過程で、こちらが本来なら無視していた情報へ注意を向ける。少年は実際に耳を澄ませ、その直後に別の音まで知覚した」
ダヴィトが線の横へ短く書き込む。
「GNS-Cの探索行動。その副次的な結果として、GNSが顕在化した」
私はダヴィトを見る。私が一人で頭の中に置いていた並びより、ずっと整った結果として言葉になった。
「そうだ。今のところ、私はその順番を考えている」
ダヴィトが記録帳へ線を引き直す。私は彼の指を見ながら、これまでの目撃記録へ考えを巡らせた。
宿舎。診療所。川沿い。民家。何の規則も見つからなかった場所の羅列。
我々はずっと、白い少女が現れた場所を追っていた。だが、追うべきものが場所ではなかったなら。
ニノ医師が私より先に口を開いた。
「先生。それなら次にGNS-Cは、ツィサナの……というより、イリアのところへ来る可能性が高い、ということですか?」
私は顔を上げた。
「ああ。私もそこへ行き着いた」
ダヴィトもすぐに記録を閉じない。むしろ別の頁を開いた。
「目撃地点を追うよりは、効率がいいですね。それに、少女を意識して探す人間を増やさずに済む」
「むしろ、そこが大きい」
私は頷いた。
これまで、我々は場所を追っていた。だが、向こうが追っていたのは場所ではない。
「よって、GNS-Cを探すのはやめる」
私はイリア少年の記録を手元へ引いた。
「こちらが待とう」
レヴァンがすぐに反応した。
「ツィサナさんの家で、ですか?」
「ああ。ただし、彼女の生活へ調査員を勝手に押し込むつもりはない。ツィサナとイリア少年、両方の許可を取る」
ニノ医師がこちらを見る。
その視線を受けてから私は気づいた。以前なら、おそらくこの一言を最後に付け足していたのは彼女だ。
だが、今回は私自身が最初からそのつもりだった。
ニノ医師は何も言わず、少しだけ頷く。ダヴィトはもう次の段階へ進んでいた。
「許可が出た場合、監視体制はこちらで組みます。発症者だけを室内へ置くと、知覚した内容の対照が取れません。ただ、未発症者を全員同じ場所へ入れる必要もない。具体的な配置は現地を見て決めましょう」
「私は外部との連絡を続けます」
レヴァンが続ける。
「必要なら家の外で待機します。呼びに走る役がいる方がいいですよね」
「その方がいいでしょう」
ニノ医師が頷いた。
「私は診療がありますので、ずっと張り付くことはできません。ただ、GNS-Cとの接触が起きた場合には……」
そこで、ニノ医師の声が途切れた。何かを考えて止まったのだと思ったが、違った。
私の耳にも、同じものが届いた。
診察室の中にはまだ薬品の匂いが残っている。窓の外を荷車が通り、その車輪が一度、石を踏んだ。廊下の奥では誰かが水を汲んでいる。
その全部の間に、湿った呼吸が混じった。
近い。
私は反射的に音の方へ顔を向けた。診察室の奥、壁と薬棚の間に狭い隙間がある。床には何もない。棚の影が薄く落ちているだけだった。
しかし、その辺りから聞こえる。ゆっくりと空気を吸い込む音。獣というには、妙に深い。呼吸というには、湿りすぎている。
私はその場所を見たまま、視界の端で動くものに気づいた。
ダヴィトだ。彼も同じ隙間を見ている。少し遅れてニノ医師へ目をやる。彼女も、こちらではなく、棚の下へ視線を固定していた。
三人。
誰も場所を示していない。それでも、私たちは同じところを見ていた。
サロメがその様子に気づき、私たちの視線を追いかけようとして、やめた。
灰青の目が、私へ向く。何も見つからないまま、静かに問いかけた。
「……どうされました?」
レヴァンが三人と同じ方向を見る。
二人には何もない。だが、私の耳には、もう一度聞こえた。
先ほどより少し近く。床のすぐ上で、大きな肺がゆっくり縮むような、低く濡れた吐息。
ダヴィトが無言のまま、記録帳から手を離した。ニノ医師の指も、卓上で止まっている。その間にも、棚の下には何も見えない。
空っぽの場所で、何かが呼吸していた。
——to be the next scene.




