Scene33:『母親ではない夜』
しばし、静寂が続いた。室内から音が消えたわけではない。鍋はまだ静かに煮えているし、外では誰かが荷車を引いている。遠くで犬が一度吠えた。
それでも、私には部屋が急に静かになったように感じられた。ツィサナが目を伏せたからだ。返事が来る前に、彼女はもう、何かを知っている顔をしていた。
やがて食器棚の中で、一度だけ陶器が鳴った。ツィサナはそれを聞いたまま、しばらく口を開かなかった。
私は待った。急かしても仕方がない。
「……違うって」
ようやく落ちた声は、小さかった。私は紙へ視線を落とした。
質問はいくらでも続けられる。
なら、いつからイリアになった。その前は何だった。誰が名前を与えた。どこまで実子の記憶を持っている。
そんな問いが次々に浮かび、長年の癖で、頭の中ではもう順番まで並び始めていた。
けれど筆記具へ伸ばしかけた手は、途中で止まった。
ツィサナを見る。
彼女は泣いていない。取り乱しているわけでもない。ただ膝の上で両手を重ね、その指だけが、いつもより少し強く組まれている。
それを見てしまうと、続きをそのまま投げる気にはなれなかった。
ニノ医師がいれば、彼女が止めてくれただろう。だが、今日は自分で止まった。そのことを誇る気にはなれない。単に、遅かっただけだ。
「ここから先も続けていいか?」
ツィサナが顔を上げる。少しだけ驚いたようだった。私は床の方も見た。
「二人ともだ。ここから先は、少し違う話になる」
しばらくして、ツィサナが小さく息を吐いた。それからイリア少年へ何かを尋ねる。
かすかな返事があった。
「……いいって」
そこで彼女自身も頷いた。
「私も。いいわ」
私はすぐには質問しなかった。
夕暮れはいつの間にか薄くなり、卓の半分が影に入っていた。ツィサナが立ち上がり、壁際の灯りへ火を移す。
小さな炎がつく。
「では、少し質問の向きを変える。ツィサナ……キミは、気づいていたのか?」
ツィサナは、すぐに何のことか理解した。
「この子が、あの子じゃないって?」
私は頷いた。彼女はしばらく卓上の小さな器を見ていた。
「たぶん、かなり前から」
声は穏やかだった。だからこそ、その言葉が部屋へ残った。
「いつ頃かね?」
「いつって言われると、難しいわね。ある日急に分かったわけじゃないから」
彼女は灯りを見た。炎の揺れが、日焼けした頬の端をゆっくり動いていく。
「最初はね、イリアの声じゃなかったの」
私は何も言わなかった。
「みんなが話してるのと、たぶん同じ。夜になると、床のあたりで息をしてるの。濡れた犬みたいな……何かが、ずっと家の中を歩いてるみたいで」
籠編みの老人が言っていたことと、大差がない。
眠る獣。呼吸。床下を這う音。ツィサナだけに、最初から特別なものが現れたわけではなかった。
「怖くはなかったのかね?」
彼女はそこで、わずかに肩を竦めた。
「怖かったわよ。普通に」
少し笑う。
「私を何だと思ってるの、学者さん」
「少なくとも、床下から正体不明の呼吸が聞こえて喜ぶ類ではないとは思っている」
「なら、正解」
笑いはすぐに薄れた。彼女は続ける。
「それが何日か続いてね。ある夜、寝ようとしていたら急に聞こえたの」
ツィサナはそこで一度、唇を湿らせた。
「『お母さん』って」
私は何も言わなかった。
彼女も、すぐには続けなかった。
「六年よ」
やがて、少し困ったように笑った。
「六年も経ってたのに。死んだ子が急に戻ってきて、しかも声だけなんて、冷静に考えれば変でしょう?」
「冷静に考えるべきだった、と今の君が昔の君を責める必要はないと思う」
言ってから、少し迷った。慰めにならない言葉なら、黙っていた方がいい。
ツィサナは私を見ていた。私は続ける代わりに、言い直した。
「少なくとも私は、その夜の君の前に立っていたわけではない。何を考えるべきだったかを、後から決める資格はないよ」
彼女の目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「……珍しく優しいこと言うのね」
「私を何だと思っているのかね」
「人を診る時だけは優しい変人」
「かなり限定的な評価だな」
「今のところ、そのくらい」
少しだけ笑ってから、ツィサナはまた器へ視線を戻した。
「でも、最初は本当にイリアだと思った。……違うわね。たぶん、思いたかったのよ。私のことを『お母さん』って呼んだから、それだけで十分だった」
そして、少しずつ違和感が積もった。
大きな破綻ではなかった。だから余計に気づいたのだという。
「昔のことを訊いてみたの。イリアが熱を出した夜に、薬が苦いって泣いて、結局お父さんまで起こしたこととか。五歳の誕生日に、自分で選んだ大きなパンを全部食べるって言い張って、半分でお腹いっぱいになったこととか」
話している間、彼女の顔には一瞬だけ、六年前の母親の表情が戻った。
「この子、知らなかったの」
「返事ができなかった?」
「ええ。それで私が話してあげた。『あの時こうだったのよ』って。そうしたら、何日かして同じ話をした時には、今度は『うん、覚えてるよ』って」
そこで、彼女は少し笑った。その笑いに私は胸を締めつけられた。
「母親って、嫌ね。そういうところだけはすぐ分かるの。思い出したんじゃない。私から聞いて、覚えたんだって」
私は紙へ目をやった。
書くべきだった。研究記録としては重要な証言だ。
けれど、筆は取らなかった。
彼女が話し終えるまで、これはまず彼女の記憶であってほしかった。記録にするのは、あとでもできる。
「それでも、君はイリアと呼び続けた」
言ってから、その問いの薄さに自分で気づいた。
六年を聞いただけの人間に、そんな言葉を置かれたくはないだろう。ただ、ひとつだけ、私にも覚えのある感覚があった。
返事が欲しい。呼んだ相手から、何か返ってくることを待つ。そのために私は、ずいぶん馬鹿なことをしてきた。
「すまない。答えにくければ……」
「ううん」
ツィサナが首を振った。
「答えにくいんじゃなくて、綺麗に答えられないのよ」
彼女は手元で指を組み直した。笑おうとしたようだったが、口元は途中で止まった。
「寂しかったの」
今度は、その言葉を自分で逃がさなかった。
「ものすごく、寂しかった」
私は黙った。それでいい気がした。
ツィサナは静かに続けた。
「イリアが死んでから、夫とも駄目になったでしょう。どっちが悪かったとか、そういう話でもないの。二人とも、同じ家にいるのがつらくなっただけ。あの子がいた場所を見れば思い出すし、相手の顔を見れば、相手も同じことを考えてるって分かるから」
窓の外は、いつの間にか青から群青へ変わっていた。
「別れて、一人になって。朝は窯があるから早く起きる。最初の頃はずっと静かに歩いてたの。イリアを起こさないようにしてた癖が残ってたのね。床を踏む場所まで覚えてるのに、起こす子はもういないの」
ツィサナの声は穏やかだった。その穏やかさの中に、長く擦れて丸くなった痛みがあった。
「ご飯も最初は作りすぎたわ。三人分作って、二人分余って。そのうち二人分になって、それでも余って、最後には一人分しか作らなくなった」
彼女は自分の家を見回した。
「帰ってきて『ただいま』って言っても、誰も返事しないでしょう。だから、そのうち言わなくなった。別に大きなことじゃないのよ。悲しくて毎晩泣いてたわけでもないし、仕事にも行ったし、友達とも話した。人って案外、普通に暮らせるの」
そこで少し間を置いた。
「普通に暮らせるまま、ずっと寂しいこともあるだけで」
何かを返そうとして、やめた。
その言葉の横へ、私の言葉を置く必要はなかった。
「だから、この子が『お母さん』って呼んだ時、嬉しかった。……最初は、死んだイリアの代わりにしたのかもしれない」
私は視線を上げた。ツィサナは逃げなかった。
「そう思いたかったし、そう呼んでほしかった。そこは、今さら綺麗に言い換えるつもりもないわ」
「……ああ」
自分でも意外なほど、短い返事しか出なかった。ただ、それ以上の言葉を足すと、どれも余計な評価になる気がした。
ツィサナはその「ああ」を聞いて、少しだけ肩の力を抜いた。
「でもね。途中から、変わったの」
彼女の目が、隣の空間へ向く。
「名前を呼ぶと返事をする。帰りが遅いと、戸の近くにいる。苦い野菜は嫌がるし、勝手にパンを食べようとして叱ると、しばらく返事をしない。昨日まで知らなかった言葉を、次の日には使ってる。私が怒ると、最初はただ黙ってたのに、そのうち『どうして?』って聞くようになった」
何度か、私も見ている。
大人の話を盗み聞きして叱られた。食事を先に食べようとして止められた。そのたび、何も見えない場所から何かが返ってきた。
「最初は、私の中にあるイリアをなぞってただけだったと思う。でも、少しずつ、そこからはみ出していったの」
ツィサナは笑った。今度の笑いには、母親らしい呆れが混じっていた。
「本物のイリアは、あんなに苦い葉っぱ好きじゃなかったもの」
私もつられて口元が緩んだ。
「個体差というやつだな」
「便利な言葉ね」
「科学は時々、人間関係にも使える」
「使わない方がいい時もあると思うわ」
「今、学んでいるところだ」
笑いが小さく消えたあと、ツィサナはまた静かになった。
「あの子じゃないって、はっきり分かった日に、一度だけ決めたの。もうイリアって呼ぶのをやめようって」
私の中で、何かが少し冷えた。
「その夜、返事をしなかったの」
呼ばれても。食器が鳴っても。床の近くに気配がしても。ツィサナは何も返さなかった。
「何度も『お母さん』って言ってた。最初はいつも通り。そのうち少しずつ声が変わって……最後には、今まで聞いたことのない声で呼んだの」
そこで彼女は一度、息を止めた。
「怖がってた」
その一言だけで、十分だった。
私は、何も見えない寝床の方を見る。今そこにいる存在が、その夜どんなふうに彼女を呼んだのか。
私には聞けない。そして、それでいいのだと思った。
ツィサナが目を伏せる。
「その時、やっと分かった。この子はイリアじゃない。でも、イリアじゃないからって、ここで私が返事をやめたら……」
指先が、膝の上で強く重なった。
「もう一人、手放すみたいで。できなかった」
部屋の中に、その言葉だけが残った。以前の私なら、たぶん頭の中で整理していた。
人格形成。学習。対象への愛着。喪失後の代替関係。
どれも説明の一部にはなる。
けれど、目の前の女が六年間誰もいない家へ帰り、一ヶ月余り名前のないものへ返事を続けた時間を、それらの単語だけで包んだところで、何かが分かったことにはならない。
私はようやく息を吐いた。
「……そうか」
ツィサナが顔を上げる。
「それだけ?」
責める調子ではなかった。少しだけ、いつもの彼女に戻った声だった。
「今、気の利いたことを言うと、おそらく全部嘘になる」
私は肩をすくめた。
「だから、今日はこれくらいにしておく」
ツィサナは私を見ていたが、やがて静かに笑った。
「学者さんでも、黙ることあるのね」
「私を何だと思っているんだね。口から解説が漏れ続ける装置ではない」
「半分くらいそうだと思ってた」
「評価を改めてくれたまえ。せめて三割に」
「考えておくわ」
その頃には、窓の外はもう夜だった。
ツィサナが小さく息を吐き、寝床の方へ顔を向ける。
「今日はここまでにしましょう。イリア、もう寝る時間よ。続きは明日」
返事が鳴った。ツィサナは少し眉を上げる。
「だめ。学者さんも今日はもう仕事終わり」
また何か返ってくる。私は訊いた。
「何を要求している?」
「もう少し話したいって」
「却下だ。研究者より母親の方が、この家では上位権限を持っているらしい」
「そこは素直なのね」
「家庭内の指揮系統に外部者が逆らうほど愚かではない」
「あなた、娘さんたち相手にもそれ言える?」
「……議題を変えよう」
ツィサナが声を抑えて笑った。その笑いを残したまま、彼女は部屋の隅の寝床へ向かった。
毛布を持ち上げ、誰もいないようにしか見えない場所へそっと掛ける。端を折り、ずれたところを手のひらで整える。その仕草には、儀式めいたものは何もない。ただ毎晩そうしている人間の手つきだった。
私は、あの音響トモグラフィで見た輪郭を思い出していた。
細い四肢。大きく膨らんだ腹。人間とは違う位置で折れる身体。その小さな異形へ、彼女は毛布の端を整えてやる。
「おやすみ。明日の朝、また話しましょう」
ごく小さな振動。ツィサナの口元が緩む。
「うん。おやすみ」
灯りを一つ落とした。家の中が少し暗くなる。たったそれだけで、部屋の空気が変わった。
ついさっきまで、ここには母親と子どもがいた。その間へ私が質問を持って入り込んでいた。
今はイリア少年から返事がない。寝床の方は静かで、起きているのは大人が二人だけだった。
ツィサナはすぐには戻ってこなかった。
寝床を見ながら、毛布の端を意味もなくもう一度整える。それから、背中を向けたまま言った。
「……変でしょう」
「何が?」
「あの子がいるのに、寂しいの」
私は口を閉じた。
ツィサナは振り返らない。
「前よりずっと賑やかよ。朝になれば起こすし、帰れば返事があるし、ご飯を先に食べないように見張らないといけない。家に誰かがいるって、こんなに面倒だったんだって思い出したくらい」
そこまで言って、少し笑う。
「それなのに時々、夜になるとね。まだ……誰もいないみたいなの」
その言葉を聞いた時、昨日のサロメが頭に浮かんだ。
『お前がどういうつもりか、って話じゃねぇんだよ』
あの時は、男女の機微とやらについて相変わらず面倒なことを言っている、と半分くらいしか理解していなかった。
今になって、ようやく少し分かる。
私はツィサナを「調査対象として負担が大きい」と判断した。だから休ませるべきだと思った。
その判断自体は、たぶん間違っていない。ただ、帰ることまで私一人で決める必要はなかった。
私は椅子から腰を上げかけた姿勢のまま、彼女へ訊いた。
「ひとりで考える時間が必要だろうか? もしそうなら、私は帰る。逆なら……もう少しいてもいい」
ツィサナがゆっくり振り返った。少し驚いたような顔をしたあと、こちらをしばらく見ている。
「学者さん」
「なんだね」
「今日は、いてほしい」
飾りのない言い方だった。だから、私も余計なことは言わなかった。
「そうしよう」
それだけで、彼女の肩が少し落ちた。
彼女は棚から葡萄酒を出した。濃い赤を、小さな陶杯へ二つ。向かいではなく、今度は私の隣へ座った。
卓の灯りは一つだけだった。昼間なら気にも留めない壁の凹凸が影になり、窓はもう外を映さず、部屋の中を黒く返している。
「飲める?」
「少量なら」
「学者さん、何でも『少量なら』って言いそうね」
「あらゆるものは毒であり、その量こそが、毒か薬かを決める」
「そういうところよ」
ツィサナは笑い、葡萄酒を一口飲んだ。座っているせいか、先ほどより襟元がゆるんでいた。
黒髪はまだ後ろで束ねられている。しばらくして、彼女は鬱陶しそうに結び紐へ指をやった。
「今日はもう仕事もないし」
そう言って、髪をほどく。黒い髪が肩から落ちた。片側は胸元へ流れ、右耳の鈴を隠す。私は何となく、その動きを目で追っていた。
ツィサナが気づいた。
「……さっきから、今日はよく見るわね」
「そうか?」
「そうよ。窯で会った時より、視線が一拍長い」
「秒単位で管理されているとは思わなかった」
「パン職人は焼き時間に厳しいの」
「なるほど。それなら職業病ということで見逃してくれ」
「あなたが見る方を?」
返事に詰まった。ツィサナが笑う。
私は杯を受け取った。その時、火傷痕のある彼女の指が私の指へ触れた。
窯仕事に慣れた硬さのある指。それでも、掌の内側は温かい。触れたのは一瞬なのに、手を離したあとも、その温度だけが妙に残った。
私は葡萄酒を一口飲んだ。少し酸味が強い。視線を上げると、ツィサナは向かいの椅子へは戻らず、私の隣を引いた。
肩が触れるかどうかという距離だった。
「近くないかね」
「嫌?」
「嫌とは言っていない。距離の計測をしただけだ」
「そういうの、普通は心の中でやるのよ」
「難しい注文だな」
「学者さんなら頑張って」
彼女の肩が、私の腕へ触れた。今度は偶然ではなかった。
私は杯を置いた。近くで見るツィサナは、昼間より少し若く見えた。仕事のためにまとめていた髪が落ち、火と粉にまみれる前掛けもない。そのせいかもしれない。
あるいは、さっきまで「イリアの母親」として話していた彼女を、私の側が急に別の角度から見始めただけなのかもしれない。
長衣の襟元から、日に焼けた鎖骨が覗いている。髪を耳へ掛けると、銀鈴が小さく鳴った。その一連の動きで、私は不意に前任の民俗学者の記録を思い出した。
《腕を後ろへ伸ばすと、その豊かな胸が》
あの男は研究倫理を途中でかなり遠くへ置き忘れたが、観察自体は腹立たしいほど正確だったらしい。
「今、何を考えたの?」
ツィサナがこちらを見ていた。
「非常に答えにくい」
「じゃあ、なおさら聞きたいわ」
「前任者の記録が、ある一点において不本意ながら実証された」
「……何を書いてたの、あの人」
「彼の名誉のために、墓まで持っていこう」
ツィサナは呆れたように笑った。ただ、その笑いが消れても、距離は戻らなかった。
しばらく二人で黙って酒を飲んだ。薪が崩れて、炉の中で小さく火が弾ける。
彼女の髪から、石鹸と、まだわずかに残った小麦の匂いがした。
それを意識した途端、自分の呼吸が少し浅くなった。
診察も手術もしてきた。人体を裸で見ること自体なら珍しくない。だが、それとこれは何の関係もなかった。
隣にいる女の肩が自分の腕へ触れている。それだけのことが、解剖学の知識ではまるで処理できない。
ツィサナが杯を卓へ置いた。
「……学者さん」
「何だね」
「こういう時くらい、何かしてくれてもいいんじゃない?」
少し考えた。何を求められているか分からないふりをすることはできた。
実際、一部は分からない。けれど昨日のサロメとの会話まで思い出してしまえば、さすがに完全な無知を装うほど鈍くもない。
「具体的な行動指針が欲しいところだが、それを訊くとまた怒られそうだな」
ツィサナが目を丸くしたあと、声を殺して笑った。
「少しは進歩したのね」
「昨日、専門家から非常に雑な講習を受けたのでね」
「サロメさん?」
「君たちは裏で情報共有しているのかね?」
「女同士には、学術ギルドとは別の連絡網があるの」
「それは……恐ろしいな」
「便利でしょう?」
「科学的透明性には欠ける」
「今は研究の時間じゃないわ」
その言い方で、笑いが止まった。ツィサナは私を見たまま、ゆっくり手を伸ばした。
指先が白衣の襟へ触れる。掴んだのはほんの少し。引き寄せるほど強くない。
ただ、そこに置いた。
「嫌なら、ちゃんと言って」
さっき、私がイリア少年へ言った言葉とよく似ていた。そのことに気づき、少しだけ可笑しくなる。
誰かに何かを求める時、嫌なら嫌と言っていい。この家では、それが普通なのかもしれない。
「分かった」
私は答えた。それ以上、動かなかった。
ツィサナの方が少し近づく。顔が近くなり、葡萄酒の甘い匂いが息に混じった。
一度、私の目を見る。逃げないことを確かめたらしい。
唇が触れた。
最初は、確かめる程度だった。短く触れて、少し離れる。それだけなのに、次の呼吸をどうすれば自然なのか、一瞬分からなくなった。
ツィサナは近いまま、私の顔を見た。目元が少し赤い。酒のせいなのか、先ほどまでの話のせいなのかは分からない。
「……今のも調査する?」
私は少し考えた。
「残念ながら、対照群がない。再現性についても疑問が残る」
ツィサナの口元がゆるむ。
「本当に、サロメさんの言った通りなのね」
「だから、何を共有したんだ君たちは」
「そこから説明しなきゃダメ?」
彼女はもう一度、小さく笑った。
「何か悪いことを言ったかね?」
「悪くない。今はね」
今度は、さっきより長く唇が重なった。ツィサナの手が襟から首筋へ回り、黒髪が頬へ触れる。
私は遅れて、彼女の腰へ手を添えた。長衣越しでも分かるほど細い。けれど窯仕事で鍛えられた身体は、見た目ほど頼りなくない。手のひらの下で呼吸に合わせてわずかに動き、その度に体温が布越しに伝わった。
触れた瞬間、彼女の身体がほんの少し硬くなる。私は手を止めた。ツィサナが唇を離した。
「どうしたの?」
「確認している」
「何を?」
「君が本当にこれを望んでいるか」
彼女は少しだけ目を細めた。
「……さっきより、ずっといい答え」
自分の手を私の手へ重ねる。
そして、離すのではなく、自分の腰へもう一度押し当てた。
「今日はね。少しくらい、考えるのをやめたいの」
声は低かった。
「イリアの母親でも、あなたの調査対象でもなくて。ただ、誰かに触ってもらって……ああ、自分はまだここにいるんだなって思いたい」
胸の奥に、その言葉がゆっくり沈んだ。私は何か気の利いたことを返そうとしなかった。
代わりに、腰へ添えた手で、彼女の背をゆっくり撫でた。
髪の下。肩甲骨。また腰へ戻る。
ツィサナが小さく息を吐き、今度は自分から私の胸へ身体を寄せた。
耳元で銀鈴が鳴る。彼女の頬が首筋へ触れ、温かな息が肌を撫でた。
「……こういうの、久しぶり」
「それを聞くと、急に責任が重くなるな」
「安心して。採点しないわよ」
「それはありがたい。研究者は評価指標が明示されない試験に弱い」
ツィサナが肩を震わせる。笑いながら、唇を私の顎の近くへ寄せた。
「今は黙ってた方が上手かも」
「善処する」
「それも言わなくていい」
再び口づける。
今度は、笑いの残った唇が触れた。先ほどまで胸を締めつけていたものが消えたわけではない。
彼女の寂しさも、六年間の空白も、イリア少年について分かったことも、何ひとつ解決していない。
ただ、その全部を抱えたままでも、人は誰かに触れられる。
たぶん今夜、ツィサナが欲しかったのは、解決ではなかった。
彼女の手が白衣の胸元を滑った。布越しに私の鼓動を探り当てる。
「ちゃんと速くなるのね」
「当たり前だろう。君は私を何だと思っている」
「たまに心臓まで理屈で動かしてそうだから」
「そんな技術があれば研究費の申請に使う」
「ほら、また研究」
ツィサナは笑いながら私の胸へ額をつけた。笑いが収まるにつれて、呼吸だけが近くなる。私は髪を指で梳き、耳の後ろへ流した。
銀鈴の根元が見える。指先が耳の下を通ると、彼女の肩がかすかに震えた。
その反応に気づいて手を止めると、ツィサナは何も言わず、むしろ首を少し傾けた。
続けていい、ということらしい。
指先で首筋をなぞる。日に焼けた肌は、見た目より柔らかい。そのまま肩へ降り、長衣の布越しに背を撫でる。
ツィサナの手も、私の肩から胸へ、胸から腹へとゆっくり動いた。
急ぐ必要はなかった。触れる場所が少しずつ増えるたび、互いの呼吸が少しずつ変わっていく。
彼女が身体を寄せると、胸元の柔らかな膨らみが白衣越しに押し当たった。前任者の記録が脳裏をよぎりかけたので、今度こそ自分で追い出した。
さすがにこの状況で民俗学者を同席させる趣味はない。
ツィサナが怪訝そうに私を見る。
「また変なこと考えた?」
「いや。今、非常に適切な判断で余計な思考を排除したところだ」
「褒めてほしい?」
「可能なら」
「あとでね」
そう言って、彼女は私の頬へ口づけた。静かな家だった。少し離れた寝床では、イリア少年が眠っている。
そのため、二人とも自然と声を落とす。
笑う時も。息が乱れる時も。それがかえって、夜の中に小さな場所を作っているようだった。
ツィサナの手が私の白衣の下へ入り、薄い服越しに胸へ触れた。
私は彼女の腰を抱き寄せる。今度は戸惑わなかった。彼女の身体が素直に寄りかかってくる。
背中から腰へ手を滑らせると、細い身体が小さく震え、ツィサナは声を抑えるように私の肩へ顔を埋めた。
しばらく、そのまま動かなかった。
抱いているというより、互いの体温が落ち着く場所を探しているようだった。
やがて彼女が顔を上げる。
目が合う。
ツィサナがもう一度口づける。今度は彼女の方から少し深く入ってきた。
唇が開き、舌先が触れる。葡萄酒の甘さが混じった。
唇が離れても距離は戻らず、額が触れる。
ツィサナは目を閉じたまま、少し笑った。
「……変ね」
「何が?」
「さっきまで、あんな話してたのに」
私は彼女の髪へ指を通した。
「だから、ではないか」
目を開ける。
「分からないものが増えて、昔のことまで掘り返して、一人で抱えていたものを全部口にした。そんな夜に、何事もなかった顔で『では失礼』と帰られたら、私なら多少腹が立つ」
ツィサナがじっと私を見た。
「……ちゃんと分かってるじゃない」
「一件だけなら、どうにかな」
「サロメさんにお礼言わないと」
「それだけは癪だな」
「じゃあ、私から言っとく」
「ますます癪だ」
ツィサナが笑ったあと、その笑いはゆっくり消えた。
代わりに、私の胸へ頬を寄せる。
「今日は帰らないで」
最初に言われた「いてほしい」より、さらに静かな声だった。
私の指が背中をゆっくり上がると、彼女の身体が僅かに近づく。
胸元が私へ押し当たる。柔らかな重みが、白衣越しでもはっきり分かった。
前任者の記録が再び頭を過った。あの男には申し訳ないが、あの記録の学術的価値は完全に失われた。
「……そうしよう」
それ以上の約束はしなかった。
明日も。その先も。この関係を何と呼ぶのかも。
今夜の彼女が求めたものへ、未来の名前まで勝手につける必要はない。
ツィサナは私の胸へ額を預けたまま、しばらく動かなかった。
灯りは一つ。炉の火も随分小さくなっている。彼女の呼吸が、次第にゆっくりになっていった。
私は灯りを落とそうと、一度だけ身体を起こしかけた。
その時、白衣の裾が引かれた。見下ろす。ツィサナは目を閉じている。それでも指先だけが布を掴み、私が動くと、その力が少しだけ強くなった。
私は灯りを見る。手を伸ばせば届く距離だった。けれど、今は別に消さなくてもいい気がした。
もう一度、椅子へ身体を戻す。ツィサナの指が緩む。私はその手を取って、自分の掌の中へ入れた。
部屋の隅から、寝返りに似た小さな振動が一度だけ伝わってきた。
何を意味する音なのか。今夜は、探さなかった。
ツィサナの手の温度だけを確かめながら、私はそのまま夜が深くなるのを待った。
——to be the next act.




