Scene32:『ここに、ずっといる』
ツィサナの家へ着いた頃には、山の端へ日が沈みかけていた。
まだ空には薄い青が残っているのに、村の通りは一足先に夜へ向かっていた。石壁の裾から伸びた影が道の半分を埋め、どこかの家から夕餉を煮る匂いが流れてくる。昼間なら窓越しに聞こえる話し声も、この時間になると家の中へ引っ込み、代わりに薪を割る音や、戸を閉める音がよく響いた。
私は坂を上がりきったところで、手にしているものを見た。紙を数枚と、筆記具だけ。
前にこの家を訪れた時とは、ずいぶんな違いだった。あの時は受信器だの位相解析器だのを持ち込み、挙げ句には自分の身体まで装置の一部にした。だが今回は、何かを測りに来たわけではない。
戸を叩く。ほどなくして内側から足音が近づき、扉が開いた。
「いらっしゃい、学者さん。……今日はずいぶん身軽なのね。何か忘れてきた?」
ツィサナの視線が、私の両手を確認するように往復した。
「失敬な。私は自分が必要だと思ったものについては、病的なほど忘れない男だよ。今日は機械が必要ないだけだ」
「じゃあ、何をしに?」
「会話をしに来た。機械を持って人の家へ押しかける癖がつくと、いずれ普通の訪問の仕方を忘れそうなのでね」
「あら。まだ普通の訪問ができるつもりだったの?」
口元だけで笑って、ツィサナは身体を横へずらした。私は中へ入ろうとして、そこで一度だけ彼女を見た。
共同窯から戻ったあとに着替えたのか、葡萄酒色の長衣ではない。襟元も、普段より少し柔らかく開いている。髪も首の後ろで緩くまとめてある。そこからこぼれた黒髪が肩へかかり、右耳の小さな銀鈴を半分だけ隠していた。
家の中には、焼いた麦と香草の匂いが残っていた。鍋はまだ弱い火に掛けられているらしく、時折、蓋の縁から細い湯気が上がる。卓上には大人用の器が二つ、その脇には、ひと回り小さな木の器が置かれていた。
見慣れてしまった光景だった。そのことに気づいてから、少しだけ妙な気分になった。
初めてこの家へ来た時、あの小さな器は私にとって症状の一部だった。死んだ息子へ食事を用意する母親。その行動から、悲嘆や幻聴や病的な適応を分類しようとしていた。
今は、その器の向こうにいる誰かに話を訊きに来ている。
ツィサナは私の顔を一度見てから、何も言わず椅子を引いた。
「イリア。学者さんが、あなたに聞きたいことがあるんですって。今日は機械もないし、嫌なことをされたらちゃんと嫌って言っていいのよ」
私は腰を下ろしながら、思わず口を挟んだ。
「私が機械を持っているだけで、毎回嫌なことをするような言い方は訂正してほしいな」
「この前、胸にも背中にも変な器具を貼りつけてた人が何か言ってるわよ」
「科学史には、半裸で受信器を貼りつけなければいけない瞬間というものがある」
「イリア、こういう大人になっちゃだめよ」
すぐには何も起きなかった。
やがて窓枠のどこかで、乾いた木が細く軋んだ。それに重なるように、私の胸骨の裏側を微かな振動が抜ける。喉の奥に手を当てられて、外からではなく内側から小さく鳴らされたような感覚だった。
音として拾えば、ただの軋みと身体振動でしかない。だが、間の取り方だけなら、誰かが何かを言っているようにも聞こえた。
私には、それ以上にならない。
ツィサナはしばらく耳を澄ませ、それから頷いた。
「『分かった』って。それと、たぶん今ちょっと笑われたわよ」
「会話能力を得る過程で、まず人を笑うことを覚えたのだとしたら教育方針に問題がある」
「誰の真似かしらね」
それには答えず、私は持ってきた紙を卓上へ置いた。ただし、まだ筆記具は取らなかった。
「イリア少年。念のため最初に確認しておく。答えたくないことには答えなくていい。分からないなら、分からないで構わない。こちらの都合で、君の中に答えを作るつもりはない」
今度の振動は短かった。ツィサナが頷く。
「いいって」
「ありがとう。では、まず簡単なところから始めよう」
私は前日の記録を頭の中でなぞった。
白い少女。
村の子どもたちが、GNSの流行が確認される以前から見ていた可能性がある存在。そして診療所で、こちらへ明確に意味を伝えてきたもの。
「白い服を着た女性を知っているかね。私たちが以前ここで話した、髪の長い少女だ」
返事はすぐには来なかった。
窓の桟が細く震え、鍋の蓋が一度鳴る。次いで床板の下から、誰かが指先で木を撫でたような音が這ってきた。耳だけで追えば、どれもただの生活音にしか聞こえない。
だが、それらの間には妙な間合いがあった。言葉の抑揚を知らない者が、言葉の真似をしようとしているような。
私は無意識にその並びから意味を拾いかけ、すぐやめた。それを続けて発症したのが、私たちだ。
向かいでは、ツィサナが目を伏せている。彼女の場合は、音を「聞き取る」というより、その奥から立ち上がるものを待っているように見えた。
やがて、
「知ってる、って言ってる」
「では、君と彼女は同じ存在なのか。姿が違うだけ、という意味でも構わない」
今度は返答が長かった。柱が軋み、卓上の匙が小さく震える。私自身の肋骨にも、外からでは説明できない振動が触れた。
ツィサナはしばらく待ってから、ゆっくり首を横へ振った。
「違うって。そこは、かなりはっきりしてるみたい」
私はようやく一行だけ記録した。
GNS-Cはイリア少年を『その部分』と呼んだ。そこから、単純に同一個体の一部、あるいは切り離された何かとも考えた。だが、少なくとも本人の認識では同一ではない。
もっとも、「本人」という概念をどこまでそのまま使っていいのかは分からない。あの少女自身が『どこまでを自分と呼べばいいか分からない』と言ったくらいだ。
「では、彼女は何者か知っているか?」
問うと、今度は返事が途中で崩れた。
ひとつの音が終わる前に別の振動が重なり、ツィサナの眉間に少し皺が寄る。何度か聞き返しているらしい。やがて諦めたように息を吐いた。
「これは……私にも難しいわ。何か言おうとはしてるんだけど、言葉にできないみたい」
「君が翻訳できないのか、それともイリア少年自身に説明する概念がないのか、どちらだろう」
「たぶん後者。聞こえ方が変なんじゃなくて、あの子が困ってる感じがする」
「なら、無理に当てはめない方がいいな」
こちらが「同種か」「仲間か」「親個体か」などと候補を並べれば、今度はその候補に沿った答えしか出てこなくなる。
私は該当欄を空白のまま残した。分からないものを、分からないまま置いておく。研究では重要だが、しばしば最も難しい作業だ。
私は、もう少し核心に迫る質問を選んだ。
「あの少女は、何をしようとしている?」
ツィサナが私を見る。
「私たちに、という意味?」
「ああ。最初の少年の前にも現れた可能性がある。その後も、村の子どもたちらしい目撃がある。そして私たちへは、明らかに意思疎通を試みた」
私は床の方へ目を向けた。
「偶然ここにいるだけなのか。それとも、人間へ何かをしようとしているのか。君が知っている範囲だけでいい」
長い返事があった。途中、ツィサナの眉が寄る。彼女が何度か聞き返し、短い振動が二度、三度と続いた。
私は口を挟まず待った。ようやく彼女が顔を上げる。
「……分からないって」
「人間に何をしたいか、分からない?」
「うん。でも」
ツィサナが床へ目を戻した。
「でも、イリアには何かしてほしいみたい」
私は姿勢を少し直した。
「何を?」
また、音が続いた。今度は途中でツィサナの表情が止まった。
「どうした?」
「……帰ってきてほしい、って」
「誰に?」
ツィサナはすぐには答えなかった。視線は、床の一角へ向いたままだった。
「イリアに」
部屋の中で、鍋の蓋が小さく鳴った。火のせいだろう。それでも、その音だけが妙に大きく聞こえた。
「GNS-Cが、イリア少年に帰ってきてほしいと思っている?」
ツィサナは、返事を確認してから頷いた。
「たぶん。『帰る』で合ってると思う。でも……」
「でも?」
「どこへ、って聞くと、変なの」
私は少し待った。
「何と?」
「ここ、って」
ここに帰る、というのは文言として不自然だ。その意味を測りかねたまま、私は紙へ目を落とした。
「この家、という意味なのか?」
ツィサナが尋ねる。返事。
「違う」
「この村?」
また違う。
私は窓の外へ目を向けた。
夕方の通りの向こうには石壁が続き、その先で家並みが途切れている。さらに向こうには林があり、山の影が日没前の空へ重なっていた。
「この土地か?」
聞いても、答えは同じではなかったらしい。ツィサナが困ったように首を傾げる。
「違うみたい。でも、やっぱり『ここ』なの」
場所を訊いているのに、範囲を変えるほど答えから遠ざかる。
そんな感じがした。
私は質問を変えた。
「では、あの少女は今、どこにいる?」
返事は早かった。ツィサナが私を見た。
「……ここにいるって」
"ここ"。またその言葉だ。私は反射的に部屋を見回しかけて、やめた。
代わりに卓の上へ目を戻す。
「今、この家にいるという意味ではないんだな」
問い直す。違う。
「村のどこかに?」
それも違う。
「なら、『ここ』とは何なんだ?」
返ってきた音は長かった。いくつもの場所で小さな振動が立ち、それらが重なる。
私は思わず耳を澄ませそうになり、途中で止めた。それでも、何かが言葉の手前まで来ている感じはあった。
ツィサナは目を閉じて聞いていた。やがて、ゆっくり目を開く。
「……あの女の人は、あれだけじゃない、って言ってる」
私は顔を上げた。
「あれだけではない?」
「うん」
「一体だけではないと?」
もう一度、イリア少年へ確認する。短い返事。ツィサナが頷いた。
「そうじゃなくて、見えてるところが……小さい、みたい」
「小さい?」
「ごめんなさい。うまく言えない」
彼女は少し苛立ったように髪を耳へ掛けた。
「イリアが言ってることを、そのまま言葉にできないの。『白い人が小さい』じゃなくて……私たちが見てるところが、小さい……?」
そこまで聞いたところで、記憶の中からひとつの音が戻ってきた。
宿舎で最初に少女を見た夜。少女が消えたあとも、音は残った。壁の向こう。屋根の上。ひどく大きな何かが、建物の外側を移動しているような身体音。
あの時から、おかしかった。目の前に見えていた少女の大きさと、聞こえてくる音源の規模が合わない。
そして診療所でGNS-Cが私たちへ初めて意味を送った時も、最初の入力は人間三人をまとめて苦痛で動けなくするほど強かった。
「もう一つ」
私は床の一角へ向き直った。
「こちらから、あの女性に会う方法はあるかね?」
少し間が空いた。ツィサナが、不思議そうな顔をする。
「……ここにいれば、会えるって」
「ここに?」
問い返した声が、自分で思っていたより低くなった。
「ええ」
窓の外では、夕方の通りを誰かが歩いていた。
荷車の車輪が石を踏む。遠くで犬が一度吠える。家の中には、鍋の匂いと、灯りをつける前の薄暗さがある。
それまでと何一つ変わっていない。
ただ、白い少女が見えていない今も。何かとの接触は、終わっていない。
「では、呼び出す必要もない?」
返事を聞いたツィサナが、
「たぶん」
と答える。
「向こうから来る、っていうより……ずっといるから、ここで会える……って」
私は胸の奥に残るGNSの微かな振動へ、意識を向けすぎないようにした。
音は最初からある。聞こえなくなったから消えたわけではない。
その原則を、私はGNS-Cだけ別扱いしていたらしい。
GNS-Cは、「ここ」にいる。そして、イリア少年に「帰ってきてほしい」と伝えている。
……そうだとするならば。
私は床の方へ目を向けた。
「では質問を変えよう。イリア少年……君は、どこから来た?」
今度は返事が早かった。卓上の木杯が、ごく小さく震えた。ツィサナの顔に、少し妙なものを見るような表情が浮かぶ。
「……『ここに、ずっといた』って」
また、"ここ"と言う答え。
「それは、この家か村? あるいは、この辺り一帯、」
また返事が来る。ツィサナが首を横へ振った。
「それも違うみたい」
私は一度、窓の外を見た。暮れかけた空。向かいの屋根。村の通り。場所を細かくしても仕方がないのかもしれない。
「では、どこだ?」
問い直すと、イリア少年は少し時間をかけた。
床の下から低い振動が上がり、窓枠へ移り、最後に私の胸骨へ触れる。ツィサナはその間ずっと黙っていた。
「……やっぱり、『ここ』って」
困ったように笑う。
「説明になってないわね」
「我々にとってはな」
同じ答え。
GNS-Cも、イリア少年も。どこか遠い場所から、この村へやってきたとは言わない。
ただ、ここにいた、と言う。それが何を意味するかは、まだ分からない。
私は筆記具を指で転がした。
「だが、彼にとっては十分に説明になっている可能性がある。我々の『ここ』が狭すぎるのかもしれない」
ツィサナが私を見た。
「家より大きくて、村とも違う『ここ』?」
「あるいは、広い狭いですらないのかもしれない。まあ、そこから先は今のところ想像だ。想像は便利だが、便利すぎる。気を抜くと事実の席へ勝手に座る」
「学者さんにも、そういう自覚あったのね」
「失礼だな。私は自覚のある暴走しかしていない」
「それ、胸を張るところ?」
「少なくとも無自覚よりは管理しやすい」
ツィサナが小さく笑った。
その笑いが消えるのを待って、私は次の頁へ目を落とした。
ここから先は、質問の性質が変わる。昨夜書き出した時には、もっと機械的に並べていた。
《キミはいつから存在する》
《最初に何を知っていた》
《ツィサナの実子の記憶をどこまで保持する》
だが、ここへ来て、彼の返事を聞いているうちに順番を変えたくなった。
私は何も見えない、ツィサナの隣の空間へ顔を向けた。
「イリア少年。次の質問は、少し君自身のことに踏み込む」
小さな振動。
「嫌なら止める。……君は、最初からイリア少年だったのか?」
返事は、すぐには来なかった。床も、窓枠も鳴らない。
さっきまで部屋のあちこちにあった細かな軋みが、偶然そこだけ抜け落ちたように静かになった……。
——to be the next scene.




