Scene31:『イリアに』
聞き取りを終えて診療所へ戻った。窓の外にはまだ夕方の明るさが残っている。
もっとも、山の向こうへ日は落ちかけている。診察室を横切る光はもう赤く、机の上に広げた記録用紙の白さだけが妙に浮いて見えた。
私は今日集めた証言を時系列に並べた。
最初の少年。井戸端で話を聞いた少女。夜中、自分の寝床に「しろいおねぇちゃんがいた」と親へ話した子ども。
証言の質は揃っていない。時期が曖昧なものもあれば、顔すら見ていないものもある。同じ存在を見たという保証もない。
それでも、白い少女らしき目撃が、最初の一件だけではなくなった。
「白い少女の目撃証言は、子どもに偏っているように見えますね」
ダヴィトが記録へ目を落としたまま言った。私は首を横へ振る。
「いや。反証がある」
「反証?」
「我々だよ」
ダヴィトが顔を上げた。
「私とキミとニノ医師は、診療所でGNS-Cを見ている」
「ああ……」
ダヴィトは眉間を押さえた。
「そうでした」
「子どもだけに見える、という線は消していい」
もっとも、大人と子どもで遭遇しやすさに差がある可能性までは消えない。だが、現時点でそこへ意味を求めるには材料が足りなさすぎる。
私は、机の端を指で軽く叩く。
「発症者だけに見える、という線も怪しくなってきた」
「今日の二人ですね」
"GNS-Cは、GNS発症により視認可能になる"。昨日までは、それをかなり有力に考えていた。
だが、今日の二件が邪魔をする。どちらの子どもにも、GNSの症状がない。
「目撃者のうち二人は、少なくとも診療記録上はGNS患者ではない」
もちろん、それだけで未発症とは言えない。自覚できないほど軽かったのかもしれない。数日で自然に戻ったのかもしれない。二ヶ月前の子どもの記憶を、今になって病歴として扱うこと自体が危うい。
……まだ、どの線も切れない。
私は椅子の背へ少し体重を預けた。
診療所でGNS-Cと遭遇した時のことを思い出す。目的は変わらない。"この現象を、これ以上広げないこと"。そのためには、GNS-Cを無視できなかった。
最初の患者が症状を自覚する、その前日。既に白い少女らしきものが現れている。
そして、あの時のGNS-Cは明らかにこちらへ何かを伝えようとしていた。少なくとも、窓枠や床板や人間の身体まで使って意味を成立させる程度には、意図を持っている。
偶然そこにいる生物が、我々の知覚異常に巻き込まれて見えているだけなのか。それとも、彼女自身が人間へ接触しているのか。
後者なら、その理由を知らずに感染拡大を防ぐのは難しい。
私は紙を一枚裏返した。
「GNS-Cと、ここで意思疎通した時のことを覚えているかね」
「ええ」
「彼女は、『見えるようになった』と言った」
ダヴィトの眉がわずかに動いた。あの時、私にはそういう意味として届いた。
実際に少女が発した言語ではない。周囲の雑音と身体振動から、私の脳がそう翻訳しただけだ。
「私はその言葉を、ほとんど疑わずにこう解釈していた。"GNSを発症したことで、我々が彼女を見えるようになった"……と」
ゴーストノイズと同じく、存在していても知覚できなかったものが、こちらの知覚へ上がってきたのだ、と。
「だが」
私はそこで言葉を切った。
「逆かもしれない」
ダヴィトが記録から顔を上げた。
「逆?」
「我々が向こうを視認可能になった、という意味ではない。GNS-Cの側が、我々を見ることができるようになった、という意味だったのかもしれない」
ダヴィトはすぐには返事をしなかった。その代わり、眉間へ指を当てる。
「でも、それならGNS-Bと合いません」
「何が?」
「サロメさんです。彼女は発症していない。でもGNS-Bは、サロメさんの位置を認識していた」
……その通りだ。私たちに聞こえていなかった頃から、あの獣じみた存在は、人間側を見ていた可能性が高い。
「そうだな」
私は素直に頷き、机の上にある紙へ視線を戻す。
「だが、今の話はGNS-Cに限ったものかもしれない。もっと言えば、『人間の存在を知った』ではなく、『接触可能な対象となった』程度である可能性もある」
「会話できる相手として?」
「あくまでも可能性だ」
それ以上は、まだ何もない。
GNS-Cが人間をどう見ているのか。なぜ、あの少年の前に現れたのか。なぜ私たちへ話しかけたのか。
そもそも、あの少女が毎回同じ存在なのか。
問いだけなら増えた。だが、答える方法がない。
ダヴィトは今日の記録をまとめ直すと、最後に空いた欄を見た。
「出現場所にも共通点はありませんね」
「ないな」
宿舎。診療所。川沿いの道。割れ岩。民家の寝床。
目撃証言をすべて同一のGNS-Cと仮定しても、場所に規則性は見えない。
「時間帯もばらばらです」
「そうだな」
「今どこにいるのかも、呼び出す方法も分からない」
「それもそのとおりだ」
ダヴィトはペンを置いた。
「つまり、追えませんね」
実に簡潔だった。私は返事をしなかった。昨日から二日かけて調べた結果が、それだった。
少女の痕跡を追って割れ岩へ行った。何もなかった。村人へ聞き取りをした。目撃例らしきものは増えたが、出現条件は見つからなかった。
こちらから能動的に「白い少女を探す」こともできない。GNSの性質を考えれば、それ自体が新たな発症者を生む可能性がある。
目的地は見えているのに、そこへ続く道がない。
そういう研究は珍しくない。大抵の場合、正面から掘り続ける者から時間を失う。
「なら、別の方向から行こう」
ダヴィトが私を見る。
「別の方向?」
私は少し前の記録を引き寄せた。
GNS-Cとの接触記録。彼女が残した意味の中に、一つだけ、こちらが既に知っているものがある。
「GNS-Cは、イリア少年について言及した」
ダヴィトの視線が紙へ落ちる。
『あなたは、その部分をイリアと呼ぶ』
あの時は、意味の分からない返答として記録した。今も意味は分からない。
だが……。
「本人を追えないなら、本人を知っているかもしれない相手から辿る」
「イリア君ですか」
「ああ」
その時、診察室の戸が開いた。
薬瓶を載せた盆を持ったニノ医師が入ってきた。私たちの前を通りながら、机に広がったメモへ目をやる。
「イリアですか?」
「今度は本人から話を聞くそうです」
ダヴィトが答えた。ニノ医師の足が止まった。
「本人に?」
「ああ」
私は頷いた。前回の調査で、少なくとも一つ分かったことがある。
イリア少年は、こちらからの働きかけに応じる。何を理解しているのか、その範囲までは分からない。だが、自分の意思を示すことはできる。
ならば、ツィサナから「イリア少年について」情報を得るだけではなく、本人へ訊いてみる余地がある。
ニノ医師は盆の縁へ指を掛けたまま、少し考えた。
「聞き取りの必要性は認めます」
そう言ってから、薬棚ではなく私を見た。
「ただし、ツィサナへの心理的な影響は、十分に考えてください」
私は黙って続きを待った。
「前回、私たちは彼女の隣にいるものが、人間の子どもの姿ではないと確認したばかりです」
ニノ医師の声はいつも通り静かだった。
「彼女が平静に見えたからといって、何も感じていないとは限りません。その直後に今度は、『あの子は何なのか』『どこから来たのか』と掘り下げることになる」
ダヴィトも口を挟まなかった。
昨日、あの家を出る時のツィサナの顔を思い出した。取り乱してはいなかった。泣いてもいなかった。ただ、扉を閉める前に、一度だけ家の中を振り返った。
「質問する相手はイリア少年だ」
ニノ医師は頷いた。
「はい。ですが、答えを私たちに伝えるのは、ツィサナさんです」
私には、イリア少年の声を直接理解することができない。こちらから問いかけることはできても、その返事を受け取れるのはツィサナだけだ。
「本人が協力すると言っても、ツィサナが途中でつらそうなら止めてください。イリアが嫌がった場合も同じです」
「承知した」
「なら、私は反対しません」
そこで話は終わった。
ニノ医師は薬棚へ向かい、盆から瓶を一つずつ戻し始めた。
イリア少年と意思疎通するには、ツィサナの協力が必要だ。そして何より、あの家で暮らしている二人のところへ、私たちが許可なく踏み込んでよい話ではない。
私は机の上の記録を閉じた。
————
夜。
宿舎へ戻ったあとも、私は窓辺の机で質問項目を整理していた。
灯りは一つだけにした。
質問を増やしすぎれば、結局こちらが欲しい答えへ誘導することになる。最初は、イリア少年自身が何を知っているのか、その範囲を確かめる方がいい。
GNS-Cを知っているか。白い少女を見たことがあるか。どこから来たのか。
どこまで訊くかは、返答を見て決める。
ペン先を止めたところで、窓の外から声がした。
「よぉ、白衣」
顔を上げる。
隣室の窓から、サロメが半身を乗り出していた。
「ずいぶん無防備な服装だな」
いつもの黒衣ではない。
生成りの薄い寝間着を一枚着ただけで、袖口から細い腕が出ている。普段まとめている黒髪も今は下ろされ、肩から胸元へ流れていた。
死者現象専門調査士も、就寝時まで葬儀屋のような格好をしているわけではないらしい。
サロメは自分の肩を見た。窓枠へ肘をついた拍子に、緩い襟がわずかにずれた。
「髪は乾かしてある。文句はねぇだろ」
「私は服装の話をしている」
「じゃあ見るな」
無茶を言う。
窓へ出てきたのは彼女のほうである。
サロメは一度部屋の中へ引っ込み、すぐに何かを持って戻った。香草巻きだった。火は点けず、指の間で転がしている。
「で」
窓枠へ肩を預ける。
「アタシは仲間外れかよ」
「何の話だね」
「明日。ツィサナんとこ行くんだろ」
耳が早い。
「イリア少年への聞き取りなら、私一人で行く」
「ほらな」
「何が不満なのかね」
「別に」
まったく別にという顔ではなかった。私は机の上の質問用紙へ目を戻した。
「多数の大人で囲む必要はない。前回は測定だったから人手が要ったが、今回は会話だ。人数を増やせば心理的な圧迫になる」
サロメは黙って聞いていた。
「君は未発症だ。可能な限り、その状態を維持したい。イリア少年の返答を具体的に聞く必要もない」
「ふぅん」
納得したようには聞こえなかった。しばらく香草巻きを指で回してから、こちらを見る。
「理由は……それだけか?」
「他に何がある」
返すと、サロメは鼻から短く息を吐いた。
「てめぇはそういう奴だったな」
「何の話だね」
「男女の機微ってもんを、どっかで落としてきただろ」
「生まれてこのかた、持っていた記憶がない」
「だろうな」
彼女は即答した。
「ツィサナの家に、夕方、一人で行くんだろ」
「ああ」
「独り身の女ん家に、男が一人で通ってんだぞ」
「調査だが」
「知ってるよ」
「なら問題ないだろう」
サロメが目を閉じた。何かに耐えているらしい。
「お前がどういうつもりか、って話じゃねぇんだよ」
「では誰のつもりの話だ」
「相手だよ」
「ツィサナか?」
「他に誰がいる」
ツィサナが私をどう認識しているか。私は少し考えた。
好意を告げられたことはない。学者先生。最近は、学者さん。研究者。変人。子煩悩が過ぎる父親。
おそらく、その辺りだろう。
「特に問題はないと思うが」
「お前が、そう思ってんのは知ってる」
サロメは窓枠から身を起こした。肩紐が少しずれ、それを片手で戻す。
「別に、ツィサナがお前に惚れてるとか言ってんじゃねぇ。そういう話じゃない。ただ、お前は他人との距離が近くなっても、全部『調査上』で処理するだろ」
「必要だから近づいているのだが」
「ほらそれだ」
実に分かりにくい苦言である。だがつまり、私が女性というものを意識しなさすぎる、と言いたいらしい。
私はしばらく彼女を見た。黒衣も帽子もなく、普段とは随分印象が違う。
夜着の薄い布は身体の線を隠すには少々心許なく、下ろした黒髪が胸元へ流れ、寝間着の布と肌との境目を、見えそうで見えないところで隠している。
昼間の、死者の家を訪ね歩く調査士ではなく、風呂を終えて、あとは眠るだけの女がそこにいる。
そう思って見れば……なるほど。
「なるほど」
「分かったか?」
「その色っぽい姿で、私に女というものの良さを伝えようとしているわけだな」
沈黙。
サロメの灰青色の目が細くなった。
「白衣」
「なんだね」
「ちょっと窓から顔出せ」
「断る」
「ワンパン入れるだけだから」
「なおさら断る」
サロメは舌打ちし、窓の内側へ引っ込んだ。と思ったら、すぐにまた顔だけ出した。
「……まあいい。明日、何かあったら呼べ」
声の調子が戻っていた。
「聞こえねぇものは手伝えねぇが、見えるもんなら見る」
「承知した」
今度こそ窓が閉じた。
私はしばらく、その暗くなった窓を見ていた。結局、男女の機微とやらについてはよく分からなかった。
ただ……相手との距離を、自分の都合だけで決めるな。
言いたかったのは、たぶんその辺りなのだろう。
私は最後に一行だけ書き加えた。
《本人が回答を拒否した場合、その質問は打ち切る》
————
翌日。
共同窯へ着いたのは、夕刻より少し前だった。
建物へ近づくにつれて、焼いた小麦の匂いが通りへ流れてくる。中へ入ると、それに薪の煙と熱気が混じった。
ツィサナは窯の前にいた。長い木べらを差し込み、焼き上がったパンを一つずつ取り出している。
火に照らされた頬へ黒髪が一本張りつき、彼女は手の甲でそれを避けた。右耳の小さな銀鈴が、その動きに合わせて一度だけ鳴る。
私に気づいたらしいが、声は掛けてこなかった。こちらも邪魔をしない。窯仕事の途中で手を止めさせるほど急ぐ話ではない。
私は壁際へ退き、作業が終わるのを待った。
最後のパンを板へ移すと、ツィサナは木べらを立てかけた。額の汗を腕で拭い、今度は薪籠へ向かう。
空になりかけた籠を持ち上げ、窯の脇へ寄せる。細い腕に似合わず、相変わらず力がある。それから前掛けについた粉を両手で払い、ようやくこちらへ歩いてきた。
「今日は一人なのね」
「そうだ」
「珍しいわね。学者さん、最近いつも誰かに見張られてたでしょう」
「監督されていたと言ってほしい」
「同じじゃない」
確かに大差はなかった。
ツィサナは作業台の端へ腰を預けた。
「それで?」
私は用件をそのまま伝えた。
「イリア少年と、もう少し話をしてみたい」
彼女の手が止まった。ほんの一瞬だった。先ほどまで前掛けについた粉を払っていた指が、そのまま布の上に残る。
「あの子に聞くの?」
「そうだ」
ツィサナは私を見たまま、すぐには何も言わなかった。
これまで私は、イリア少年自身のことは、能動的には聞かなかった。私が話し、なんと返事をしたか。どんな反応だったか。今何をしているか。ツィサナへ尋ねた。
今回は違う。
「GNS-Cが、イリア少年について知っているらしい」
私は続けた。
「あの少女が何者なのか、まだ分からない。だが彼女は以前、イリア少年を自分の一部であるかのような表現をした」
ツィサナの眉がわずかに寄った。
「自分の……一部……」
「ああ。私は今、GNS-Cが何を目的として人間へ接触しているのか調べている。彼女自身を追う方法は、今のところ見つからない」
そこで一度言葉を切った。窯の奥で、薪が小さく爆ぜた。
「だから、イリア少年が彼女について何か知っているなら、本人に訊きたい」
ツィサナの視線が少しだけ横へ動いた。何もないはずの、窯の奥の空間へ。
私にはそこから返事らしいものは聞こえなかった。彼女も今は話しかけない。
やがて視線を戻す。
「何を聞くつもり?」
「まずは、GNS-Cを知っているか。それから、彼自身がどこから来たのか、自分で何を知っているのか」
ツィサナは黙った。私は待った。彼女の顔から答えを推測して先へ進める必要はない。
少しして、ツィサナは作業台から身体を起こした。
「いいわ」
右耳の鈴が小さく揺れた。
「でも、あの子が嫌がったらやめてね」
「もちろんだ」
答えると、彼女は私の顔をしばらく見た。それから、ほんの少しだけ口元を緩める。
「ちゃんと、あの子に聞いてね」
「何を?」
「続けてもいいかどうか」
それだけ言って、ツィサナは再び窯へ向かった。次の生地を確認する時間らしい。
私はその背中を見ながら、少し前までの自分ならどうしていただろうと考えた。
六年前に死んだ少年の霊かどうか。母親の悲嘆が生んだ幻聴か。未知の現象が、死者の声を模倣しているのか。
そうやって分類しようとしていた。
今も、それが六年前に死んだ少年そのものだとは考えていない。
測定した輪郭は、人ですらなかった。細い四肢。膨らんだ腹部。人間とは異なる位置で折れる身体。それでも、ツィサナの家にいる。
五歳の子とは似ても似つかない身体で、ツィサナの隣に立っている。
彼女に叱られれば返事をする。食事を先に食べようとして怒られる。嫌なことには、嫌だと答えられる。
……そしてツィサナは、それをイリアと呼ぶ。呼ばれた何かは、イリアとして返事をする。
だが、GNS-Cはその存在を「その部分」と呼んだ。あたかも、自分の体の一部であるかのように。
ならば。
ツィサナがイリアと呼び、イリアとして返事をしている、あの小さな何かにとって、GNS-Cはどんな存在なのか。そして……一体、何を知っているのか。
——to be the next scene.




