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Ghost Noise 〜耳底に沈む音〜  作者: 矢崎 那央
第4幕『同じ場所にあるもの』
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Scene30:『白いお姉ちゃん』


 翌朝、診療所の奥にある小さな机で、私はダヴィトと向かい合っていた。


 窓を少し開けているせいで、紙をめくるたび、乾いた頁の端が風に持ち上がる。机の上には診療記録とは別に、革紐で綴じられた調査記録が積まれていた。前任の民俗学者が残したものだ。


 記録は思った以上に細かかった。祭事の時期、収穫にまつわる歌、古い地名の由来、婚姻の慣習、死者を家から送り出す手順、埋葬の際に棺へ入れるものまで、一通り聞き取ってある。

 『昔から妙なことが起きる場所』を探すには都合がよかった。今から私たちが村中の老人を捕まえて、子どもの頃に怖い話を聞かなかったかと尋ねて回るより、よほど早い。


 割れ岩についての記述は、地名の項目にあった。


 私は該当する頁を開き、前後も含めて目を通した。岩そのものは古くから村人の目印として使われている。林へ薪を取りに入る者が方角を確かめたり、羊を追う者が待ち合わせに使ったりする程度で、それ以上の役割は見当たらない。


 祭祀の場所ではない。墓でもない。そこで人が死んだという話もなかった。

 子どもを近づけてはいけないという禁忌もない。夜になると声がする、岩の割れ目から死者が覗く、旅人が消える、何かを供えなければ祟られる……そういった、こちらとしては少々期待していた話も、一つとして出てこなかった。

 由来についても簡潔だ。昔から割れていた岩なので、割れ岩。以上である。


 ダヴィトは私の向かいで別の頁を確認していたが、やがて記録を閉じかけて、手を止めた。


 「何か、由緒のある場所ではなさそうですね」


 「そうだな。少なくとも、村人がそう認識していた形跡はない」


 私は頁を閉じず、そのまま少し先まで読み進めた。


 記録の精度そのものは高い。村人ごとに異なる昔話の細部まで分けて残し、本人が経験したことと親から聞いた話も混同しないよう印が振られている。死者に食事を供える家と供えない家の違いまで世帯ごとに整理してあり、私ならそこまでやるかと聞かれれば、たぶんやらない程度には熱心だった。


 やがて、ある名前が何度も出てくるようになった。


 《ツィサナ・ヴァルデリ》


 レヴァンからは、前任者は彼女の調査に時間を割きすぎたと聞いた。

 無理もない。

 死んだ息子の声を聞く母親という事例は、民俗学者なら興味を持つだろう。

 特に、今回の異変をオカルトとして解釈しようとすれば、なおさらだ。村に古くからある死生観や宗教習慣と、現在起きている現象との間に繋がりを求めるのは、調査として真っ当だった。


 最初の記述は、実際かなり真面目だ。


 《対象は亡児の声を知覚しているが、これを神託、憑依、祖霊からの託宣とは認識していない。日常的な会話として扱っており、宗教的権威を伴わない点が特徴的である》


 数頁後には、この地方に過去存在した巫者や口寄せの習慣と比較し、ツィサナの事例を安易にシャーマニズムへ含めることへの留保まで書かれている。


 《対象自身が媒介者として共同体内の役割を獲得していない以上、既存のシャーマニズム概念による説明には慎重であるべきと思われる》


 妥当だ。

 さらに頁をめくる。


 《むしろ注目すべきは母子間の情緒的結合である。対象は亡児を神聖視せず、時に叱責し、食事の時間や生活上の規則を守らせようとする。死者表象というより、母子関係そのものが継続していると考えた方が実態に近い可能性がある》


 私はそこで少し手を止めた。これは、なかなか的確だった。


 《喪失後の親子関係が、死者の表象をどのように再構成するかについて、継続的な聞き取りが必要である》


 少し感心しながら次の頁へ進む。


 《対象女性。年齢は三十代前半とのこと。黒髪。日焼けした肌。共同窯での労働に従事》


 人物資料に移ったらしい。


 《腕は細いが、薪袋を片手で持ち上げる。作業のためか腰回りがよく締まっている》


 私は一度、瞬きをした。

 なんだか、少し方向が変わった。まあだが、生活様式と身体的特徴の関係を記録することはある。


 次の行を読む。


 《前掛けを外し、髪をほどくため腕を後ろへ伸ばすと、その豊かな胸がーー》


 そっと頁を閉じた。診療所の中に静寂が戻った。窓の外から、荷車の車輪が石を踏む音が聞こえた。


 私は表紙を見た。


 《民俗調査記録》


 間違いない。


 再び開く。一次資料というものは、都合の悪い箇所だけ除外してよいものではない。


 《ーー衣服越であっても、その柔らかな膨らみは明瞭に》


 再び頁を閉じる。これは民俗学ではないのでは?


 次。


 《亡児の死後、夫とは離別。現在は独居》


 《葡萄酒色の長衣と青灰色の前掛け。右耳に銀の小さな鈴。笑うと揺れる》


 観察が、細かい。


 《右側から話しかけると、こちらを見る時に髪が肩から落ちる》


 かなり細かい。


 私は一度、ダヴィトを見た。彼はこちらを見ず、自分の手元の頁を読んでいる。

 私は何も言わずに先へ進んだ。次の頁の表題は、《喪失後における生活共同体の欠如について》となっていた。


 よかった。学術へ戻ったらしい。


 《対象は亡児を失ったのち、夫とも離別。現在は単身で生活している。共同窯という地域共同体との結びつきは維持しているものの、家庭内に恒常的な生活者は存在しない》


 ふむ。


 《本人は寂しさを明言しない》


 ふむ。


 《しかし、寂しくないはずがない》


 私は眉を上げた。頁の下半分へ目を移す。


 《喪失経験者が気丈に振る舞うことは珍しくなく、表面上の安定をもって孤独がないと判断すべきではない》


 辛うじて学術的な顔をしている。


 《彼女には支えてくれる人間が必要なのではないか》


 論文から少し離れた。


 《ここ数日の聞き取りを通じ、私に対してはかなり心を開いているように思う》


 かなり離れた。

 次の頁をめくる。


 《私が共同窯へ行くと笑顔になる》


 客が来たからではないだろうか。


 「先生?」


 ダヴィトが顔を上げた。


 「いや。研究上の重要度が急激に低下した箇所があった」


 「そうですか」


 私は次の頁をめくった。筆圧が、明らかに強くなっている。


 《彼女はまだ若い。この先ずっと、死んだ息子の声だけを相手に暮らしていく必要はない》


 いよいよ民俗学から離陸したらしい。


 《誰かが、彼女をもう一度幸せにしなければならない。その役目を果たすのは、やはりーー》


 嫌な予感がした。次の行へ目を落とす。


 《私ではないだろうか》


 やはりキミか。


 ここまで来ると、研究記録というより決意表明だった。

 私は椅子へ深く座り直した。次の頁には、もはや項目名すらなかった。


 《研究対象と私的関係を持つことは倫理上望ましくない。しかし、調査終了後であれば研究対象ではない》


 理論武装を固め始めている。


 《そもそも人間同士が出会う契機など仕事でも旅でも構わないはずだ。重要なのは出会った後である》


 民俗学者は、自分自身の正当化についても調査熱心だった。

 私は頁の端を摘まみ、次へ送った。最後に残っていた記述は、一行だけだった。


 《オレ、明日告白するんだ》


 その先をめくった。


 白紙だった。ツィサナに関する記録は、そこで完全に途切れていた。

 私は開いたままの頁をダヴィトの方へ少し押した。

 彼は黙って最後の数行を読み、やがて記録から顔を上げた。


 「熱心な研究者だったようです」


 「途中から、研究より彼自身の行く末の方が気になってくるな」


 結局、結果がどうなったのかは書かれていなかった。


 私は記録を閉じた。

 少なくとも、割れ岩について分かったことは一つ。

 "調べても何も分からなかった"、以上だ。


————


 午後は実際に割れ岩へ出て、それを確かめることにした。


 林の手前に据わった灰白色の岩を中心に、位置と周波数を変えながら測定を繰り返した。エミッターを移し、受信器を据え直し、同じ箇所を角度を変えて何度も拾う。

 だが、返ってくるのは岩盤と土、木の根、それらで説明できる反応ばかりだった。GNS-Bを測定した時のような不自然な遅延も、表層の地形と噛み合わない輪郭も出ない。

 日が林の向こうへ傾く頃には、私もダヴィトも同じ結論になっていた。


 私は岩の根元から発信器を剥がし、付着した土を指で払った。


 「空振りだな。割れ岩の調査はここまでにしよう」


 ダヴィトが記録板へ最後の数値を書き込み、頷いた。

 少年があそこで何かを経験したことと、この岩そのものに何かがあることは同じではない。場所から拾えるものがない以上、次に確認できるのは、少年が見たものの方だった。


————


 翌朝から、村人への聞き取りを始めた。


 ただし、こちらから白い服や長い髪といった特徴を教えることはしなかった。少年の時と同じだ。見知らぬ子どもを見なかったか、この二ヶ月ほどで普段見かけない人間が村にいなかったか。最初はそれだけを訊く。GNSについて知らない者へ、わざわざ探す対象を与える理由もない。


 午前中だけで十数人に話を聞いた。

 行商人なら見た。隣村から親戚が来た。見慣れない男が荷車を引いていたが、あれは塩商人だったはずだ。子どもについては、親戚の家へ遊びに来ていた子が何人かいる。


 少女の話は出なかった。

 昼を過ぎても同じだった。畑帰りの老人、共同窯へ粉を持ってきた女、家の前で籠を編んでいた男。誰に訊いても、少年の証言へ繋がるものはない。


 私は少し考え方を改めた。

 そもそも、知らない人間を一度見ただけで、二ヶ月近く覚えている方が珍しい。相手が何もしてこなければ、なおさらだ。少年の場合は追いかけた。割れ岩まで行き、声を聞こうとし、その直後に獣らしき音まで聞いた。だから一連の出来事として記憶に残った。

 そうでない者には、ただ「知らない子を見た」だけで終わる。


 午後、井戸のそばで一人の女性から話を聞いていた時だった。

 彼女はこのところ村の外から来た人間について思い出せる限り挙げてくれたが、やはり子どもには心当たりがないという。

 私は礼を言い、ダヴィトが記録を閉じかけた。

 その時、女性の後ろにいた小さな女の子が、母親の長衣を引いた。


 「……白い子なら、見たかも」


 私は手を止めた。母親も振り返る。


 「白い子?」


 女の子は自分が急に話の中心になったことが恥ずかしくなったらしく、母親の腰へ半分隠れた。

 私はその場に膝を折った。


 「知らない子だった?」


 「たぶん」


 「どこで見たのか、覚えているかね」


 女の子は少し考え、通りの先を指した。


 「そっち」


 家と家の間を抜けた先だった。特別な場所には見えない。


 「何をしていた?」


 「立ってた」


 「誰かと一緒だった?」


 首を横へ振る。


 「その子と話した?」


 また首を振った。


 女の子はそこで、なぜこんなことを何度も訊かれるのか分からないという顔をした。


 「あんまり気にしなかったけど」


 「気にしなかった?」


 「うん。知らない子いるなって思っただけ」


 それから先は、ほとんど出なかった。服が白っぽかったこと。髪が長かったような気がすること。それ以上を訊くと、女の子自身がこちらの質問に合わせて考え始める様子があったので、そこで止めた。


 母親は娘の話を初めて聞いたらしい。


 「いつの話?」


 「わかんない」


 「そんな子いたかしら」


 女の子はもう興味を失い、井戸の縁に落ちていた小石を靴先で転がしていた。

 私は立ち上がり、ダヴィトの記録を覗いた。証言としては弱い。時期も曖昧で、顔も見ていない。同じ少女だと判断できる材料は、白い服と長い髪くらいしかない。

 それでも、少年以外から初めて出た。


 私たちはその日の聞き取りを続けた。次に引っかかったのは、夕方近くになってからだった。

 小さな子どものいる夫婦の家で、私は同じように、このところ見知らぬ子どもを村で見なかったかと訊いた。夫はすぐに首を振ったが、妻の方は返事をせず、卓上に置いた指をしばらく動かしていた。


 「……見たわけじゃないんですけど」


 私は待った。


 「うちの子が、前に変なことを言ったことがあります」


 隣にいた夫が妻を見る。


 「あれか?」


 「ええ」


 妻は少し困ったように笑った。


 「いつだったかしら。夜、寝かせたあとだったと思います。私たちは隣の部屋にいて、あの子はもう寝たと思っていたんですけど、起きてきて」


 そこで一度、記憶を確かめるように夫を見た。


 「『しろいおねぇちゃんが、ベッドのところにいた』って」


 私の中で、先ほどの女の子の証言が並んだ。


 「お子さんは、白い服と言ったんですか?」


 「いいえ。白いお姉ちゃん、とだけ。服なのか、何なのかまでは聞いてません」


 私はそれ以上補わなかった。


 「その時、部屋を確認しましたか?」


 「もちろん」


 夫が答えた。


 「誰もいませんでした。窓も閉まっていたし、外へ出たような跡もない。あの子も眠そうだったので、夢でも見たんだろうと思って」


 「何か、怖がっている様子は?」


 夫婦は顔を見合わせた。


 「どうだった?」


 「そんなに怖がってはいなかったと思う」


 妻は少し考えてから、苦笑した。


 「むしろ私の方が怖かったんです。夜中に子どもが急にそんなこと言うから」


 「それで?」


 「『怖いこと言わないで』って。それで寝かせました」


 その言葉で、話は終わっていた。


 翌朝、子どもは何も言わなかった。白いお姉ちゃんの話も、それきり一度もしなかったという。

 私はダヴィトが書き終えるのを待ってから訊いた。


 「その後、お子さんの聞こえ方がおかしくなったことは?」


 「ありません」


 夫が答え、妻も頷いた。


 「少なくとも、私たちが気づいたことはないです。耳が遠いと言ったこともありません」


 診療所へ来た記録もなかった。


 家を出ると、夕方の風が通りを抜けていた。どこかで夕食の支度をしているらしく、焼いた玉葱と薪の煙の匂いが混じっている。子どもたちが家へ呼び戻され、戸口の向こうへ一人ずつ消えていく時間だった。


 私は歩きながら、二つの証言を頭の中で並べ直した。一人は、知らない白い子を見た。だが気にしなかった。もう一人は、寝床のそばに白いお姉ちゃんがいたと言った。親は見ていない。翌朝には話題にもしなかった。


 どちらも、今のところGNSの患者として記録されていない。


 だからといって、発症していなかったとは言い切れない。本人が気づかない程度の知覚変化があった可能性は残るし、そもそも二ヶ月近く前の子どもの証言である。同じ少女だったという保証もない。

 それでも、最初の少年について昨日考えた問題は、消えるどころか少し厄介になった。


 私はこれまで、白い少女を見たことと、GNSによって彼女を知覚できるようになったことを、ほとんど同じ出来事として考えていた。


 だが、もしそうなら。あの子どもたちは、何だったのだろう。

 通りの先で、母親に手を引かれた小さな子が家へ入っていく。扉が閉まり、その姿が見えなくなった。


 私はしばらく、その扉を見ていた。


 少女を見たから、覚えているとは限らない。人は、自分に関係がないと思ったものを驚くほど簡単に忘れる。

 まして、親に「怖いことを言わないで」と言われ、それきり何も起こらなかったのなら。翌朝には、ただの夢になる。

 そうやって忘れられたものが、この村にあといくつあるのか。


 今の私には、まだ分からなかった。



——to be the next scene.

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